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今村昭秀学校長のコラム

今村昭秀学校長のコラム 2018年度

今村昭秀学校長イラスト

(イラスト:マンガ科 小日向一葉)
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2018年度

2019.3.15(New!)

草の芽が、木の芽が萌(も)え出て、いよいよ春めいてきました。この草木が、芽を吹き始めるころを言う「草木萌動」そうもくめばいずる。が浮かんできたのは、晴天に恵まれた3月8日、明治神宮会館で行われた卒業式でした。壇上から見る卒業生の姿が、これから花を咲かせるであろう、草木が芽吹き、萌え出る様子(ようす)に重なったからでした。
この「草木萌動」は、私が20代であった昭和40〜50年代、展覧会、パフォーマンスなどで知り合った同世代のイラストレーター、マンガ家、デザイナーたちと同人誌を発行することになり、「SHI戟SO」「EPOQUE」「VOL」などに参加し、交流したころを季節に例(たと)えると、そんな頃だったような気がします。
そのころのことをイラストレーターの山口マサルが、後年(こうねん)玄光社の「イラストレーション」誌にメンバーの作品と共に長文を書いているので、一部引用させてもらいます。
「1972年11月のある日、銀座の喫茶店に若いイラストレーターが集まりつつあった。急ぎ足で喫茶店に入ってくるイラストレーターたちは皆、トレーシングペーパーをかけた作品を大事そうに抱えていた。この日は「VOL」という同人誌の4冊目の会合で、リアルなもの、ユーモラスなもの、メルヘン調のものなど、色々な作品が集まり、それぞれ自分の作品と比べながらコーヒーを口に運んで談笑を続けていた。このころは同人誌がたくさん出回っていた気がする。「VOL」のメンバーも何人か参加していた「BANG」というイラストレーションのミニコミ誌があったし、古川タクをはじめとする若きマンガ家たちは「EPOQUE」を発行していた。」中略、後略。その「VOL」誌の打合せのため喫茶店に集ったのは、私、今村昭秀、山口マサル、下谷二助、宮本敬子、三浦隆雄、福与篤、今井俊展、杉田圭司でした。
1972年(昭和47年)に発行された「EPOQUE(エポック)」誌の巻末(かんまつ)に「エポックの友人・勝岡良夫氏」と題したページがあり、そこには、「エポックも8号を迎えた。この種の出版物としては奇跡ともいえる持続力の影には勝岡良夫氏の大きな協力があったことを私たちは忘れるわけにはいかない。グループ誌的な形態としては、まれな洗練さをエポックが持ち合わせているとしたら、それは氏の表紙のデザインや誌面のレイアウトのお陰なのである。編集デザインとは必ずしも報われる仕事ではない。それぞれ独立した様式や表現を持つ個々の作品を生かし、しかも1冊の本として全体の統一したイメージを要求されるわけで、デザイナーにとっては、おのれの個性的な主張を自制しつつ、しかも非凡な構成力を示さなければならない。勝岡氏はこの面倒な仕事を5年間にわたって引受けてくれたのである。エポックは中身より盛りつけ、つまり作品が悪くてもレイアウトで救われているなどという、私たちとしては、はなはだ遺憾な声も耳にするくらいです。勝岡氏はデザイナーから造形作家へと実に多面的な活動をしている。氏について、友人の今村昭秀氏は「グッドデザインからグッドバイデザインへ」と題して次のように語る。」とありますが長くなってしまいました。例によって次回へ続くとさせていただきます。救いようがない「しつこさ」ですみません。「くどい、しつこい」イコール「私」です。

2019.2.28

ひところの暖かさで、冬を越した樹木の冬芽がふくらみ、里山で最初に白い花を咲かせる春告げ花のコブシも、枯れ枝にあるネコヤナギのような花芽が大きくなり、今にも咲きそうになってきました。
平成最後の、という形容で表現されるモノやコトが多いのですが、私は平成より「昭和」の方が心身が疼(うず)きます。そうです、私の青春は「昭和」でした。若くて元気があって、希望に満ちてはいたけれど、あらゆることが未知数の、青い春であった、20代のクリエイター30人が集まって、日本橋の丸善画廊で行った「illust30回路展」は、昭和40年(1967年)でした。が、その前後に多くの出会いがありました。個展やグループ展をやりながら、二科展や日宣美展にも出品していたことで知りあった同世代と、展覧会の他に、作品集を自費出版するなどしました。
昭和40年にイラストレーターの牧朗と、デザイナーの勝岡良夫に呼びかけて、刺戟(しげき)の素(もと)であるとする「SHI戟SO」を結成し、主に展覧会活動を、牧朗とサディストのサドとクリニックのニックを組み合わせた、怪(あや)しげな「サドニック派」を結成し、主にパフォーマンスを行いました。 その頃の私の生業(なりわい)はグラフィックデザイナーで、こちらは本名で、パフォーマンスや前衛的?な作品発表は別名でした。若さゆえの反骨精神と、日常性との自己矛盾を整理すべく、名前を使い分けていました。そんなもうひとりの自分との合作ともいうべく、本名と別名の両名を名乗って行なった、個展「春の賛歌あるいは挽歌・優雅な容器」の案内状に牧朗が私のことを書いたのが次の文でした。
「常に懐美主義を否定し、既成形式化に余儀なくされることを恐れるために、装飾的であることを極力嫌う姿勢を発表し続けている彼が、ニヤリとして今度は花をつかうという。どうですこのトボケ加減を…と思ったとき、そのふてぶてしさに私は腹がたち、彼をハッタオしてさしあげようかと思ったのだが、いまだに彼は素顔をあかさない、私が知るのはスズシゲなマスクのみなのであります。ジキルとハイドを地で行く、若手前衛画家とデザイナーと二つの顔を持つ、彼の高度な自覚への思考、あるいは生理学的な格調高い分別の他に、こうした限りない不安や戦慄の世界からはなれ、恋文も書かないし書けないわけではないらしいので、念のため彼が可憐きわまる花々を、どうコネクリまわすか、諸兄諸嬢よ、彼のすましたイタズラが、なんとなく気になる話ではあるまいか」。
尖(とんが)っていたころの、もろもろを思い出せば恥ずかしいかぎりですが、その頃は青春などというきれいなひびきの言葉などとは無縁(むえん)でした。いま思えば、それこそが青春というのかもしれません。
熱くて濃かった同世代との交流、交遊は、冬芽がふくらみ、花芽がほころび始めたようなころでもありました。こうしてそのころのことを想い出していると、どんどん記憶が甦(よみがえ)ってきます。すみません。次回も続く、とさせていただきます。なにしろ私は、自分でも呆(あき)れるくらい、病的に「しつこい」のです。

2019.2.15

<冬来りなば春遠からじ>春はもう遠くない。長い冬を耐(た)えて、春を待つ、とは自然、季節だけではなく、人生にも通じる訳詩ですが、なんとも美しいひびきの日本語です。そんな気持は、北国の人々がより強いのではないでしょうか。
人間は自然の一員として生きている。という世界観は縄文時代からあるのですが、自然を征服すべき存在とした西洋近代哲学は、人間の繁栄と同時に環境破壊をもたらした。人間対自然の対立ではない、地球そのものに命がある、人間も自然も等(ひと)しく大きな輪の中にある。と、特に東日本大震災後、自然との調和をつむぐ思想の構築(こうちく)に最後の情熱を注がれた、梅原猛さんでした。そんな梅原さんとのささやかな縁(えん)とは、私が20代半(なか)ば、書評が主な「図書新聞」に、梅原さんの「日録」という連載コラムがあり、そのコラムのカットを毎回私が描いていました。一度もお会いしたことはなく、紙面上での出会いで、その頃は、梅原さんのことをよく知らなくて、内容もあまり覚えていません。そこには、梅原さんと私の名があったわけですから、いま思えば、春が来ていたのに気がつかないうちに、通りすぎていってしまったかのようです。
その仕事を紹介してくれたのは、日向あき子さんという美術評論家でした。日向さんとの出会いは、まだイラストレーションという言葉が一般的ではなかった、当時20代だったデザイナー、イラストレーター、マンガ家など30人が集まり、1967年に日本橋の丸善画廊で行なった「illust30回路展」でした。日向さんは1960年代〜70年代に活躍された女性美術評論家の草分け的な存在でした。当時はまだ長老的な美術評論家の多くが健在で、続く評論家も男性ばかりのなか、「視覚メディア論」「ポップ文化論」などで、ポップアート、デザイン、マンガ、アニメなどのサブカルチャーをとりあげていたことから、我々のイラスト展の案内状に一文(いちぶん)を寄せてもらおうと、杉並区永福町のご自宅に、私とメンバー2人が押しかけ、イラスト展の趣旨(しゅし)やどんなメンバーか、などを話して快諾(かいだく)していただいたのが、以下のものでした。
「イラストレーションとは、何であるのかイラストレーションとはどこからきたのか……それは、突然ここにあらわれた旅行者なのか……(中略)まさに今日の20世紀後半、アート多様化時代のアート、映像化(イメージ)時代のアート、グラフ時代のアート、マスコミュニケーション時代のアート。(中略)挿絵(さしえ)ではない、イラストレーションなのだという仮名文字に、とりわけアクセントをおきながら、この2つの言葉のちがいの間の白い部分に、あなたはどんな解答を描きだすのか、30人は、どんな解答を描きだすのだろうか。(中略)30人は、どういうイラスト像を、そして、ここからイラストレーションは、どっちの方向へ向かって動きだすのか、イラストレーションとは、何であるのか……」。
この時の私の作品は、顔がない人物や鳥獣人間のような、やや怪奇的なイラストだったことから、梅原さんの文章に合うのでは、と日向さんが思われたからのようです。
青春などとは気恥(きは)ずかしいのですが、まだまだ青かったそのころ、喜び、悩み、成長?していった同世代のクリエイターたちの、まぎれもない青春の日々がありました。次回も、そんな春遠からじ、だった青春群像を書かせていただきます。なにしろ私は、くどくて「しつこい」のです。

2019.1.31

大寒(だいかん)といわれる1年で最も寒いこの時期、防寒のワラ囲(かこ)いの下で咲く趣(おもむき)のある花に、寒牡丹(かんぼたん)と呼ばれる冬牡丹があります。
今年の干支(えと)は猪(いのしし)ですが、この猪の肉を牡丹(ぼたん)といゝ、寒い冬が美味(おい)しい「ぼたん鍋」があります。この「ぼたん」は赤みのいのしし肉を皿にぼたんの花のように盛り付けることからとか、盛り付けた肉がぼたんの花のようだからとか、花札の絵柄からきているともいわれますが、もともとは和歌からきたもので、花札は和歌を勉強するために作られたものだそうです。ぼたん鍋を食べられるところは各地にありますが、印象にのこっているのは、かれこれ40数年前のいまごろ、京都在住の友人に連れられて行った、川端康成の小説「古都」の舞台になった、京都郊外の北山杉の里で、雪が舞うなか、北山杉の美林を眺めながらの、その地の名物「ぼたん鍋」でした。
猪の肉は「ぼたん」の他に山鯨(やまくじら)ともいい、兎(うさぎ)を鳥になぞらえて1羽2羽と数えるなど、仏教が伝来(でんらい)したことでその教えにもとづいて、獣(四つ足)を食べることがはばかられたことから、それを隠語(いんご)に言いかえて食べるという、庶民の知恵だったようです。
日本の仏教は、聖徳太子がその仏教思想を深く受容(じゅよう)し、これを治世(じせい)に活(い)かしたともいわれます。その聖徳太子ゆかりの法隆寺は「聖徳太子の怨霊(おんりょう)を鎮(しず)めるための寺である」とする「隠された十字架―法隆寺論」を1972年に著(あらわ)し、次の年には宮廷歌人であり歌聖(かせい)として崇(あが)められた柿本人麿は、罪を得(え)て水死刑になった。そのことは、柿本人麿を祀(まつ)った神社が各地にあり、柿本人麿が非業(ひごう)の死をとげたことを暗示している。とする「水底の歌―柿本人麿論」を著し、その大胆な仮説で大論争をまきおこすなどした、哲学者の梅原猛さんが、この1月12日に93才で亡くなられた、との報がありました。
日本文化、古代史、環境問題などジャンルを超えた大胆な学説と知的好奇心で、歴史と人間の本質を探求(たんきゅう)し、解明(かいめい)する論考(ろんこう)は<梅原日本学>ともいわれ、その真理を求める厳(きび)しさと、人間味あふれるお人柄は、市川猿之助のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の台本を手がけたり、もされました。京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター所長、日本ペンクラブ会長。などを歴任し、文化功労者、文化勲章を受章するなどしましたが、若き日の梅原さんは、丸山真男や小林秀雄などに論争を挑んだりしています。それは権威をうたがわない日本の思想界に危機感をおぼえたからだ。と述懐(じゅっかい)しています。
そんな梅原さんが40代の新進気鋭の哲学者であったころ、20代で、うっとおしいほど、とはいえないまでも、まだ、そこそこ髪の毛があった私と、ほんのささやかな縁がありました。その辺(あた)りのことは次回に触(ふ)れさせていただきます。
ある編集者が梅原猛は哲学者である。奇人(きじん)である。大奇人である。と言っていました。恐(おそ)れ多いのですが、私は小奇人であることは自認(じにん)しております。奇人は変人でもあります。

2019.1.15

遅ればせながら新年おめでとうございます。「めでたさも中くらいなりおらが春」ほどほどが幸せ。という小林一茶のこの句が沁(しみ)入る年になってきました。
おめでとう。おめでたい。は、もともと「愛(め)でる」の「愛で」に「甚(はなは)だしい」という意味の「いたし」が付(つ)いた「めでたし」の変化したもので、ほめたたえることがはなはだしい。というところから、申し分なくすばらしい、喜び祝うに価(あたい)する。という意味の言葉になったのだそうです。
めでたさも中くらいの、ほどほどの幸せ感で地元湯河原の神社と、小田原の報徳二宮神社に初詣をしました。真白にお色直しされた小田原城の天守閣と、呼応(こおう)するかのように、白梅がほころびはじめ、紅梅が咲いている小田原市城内にある、二宮尊徳(幼名 金次郎)を祀(まつ)るこの神社と、川崎の稲毛神社に頼まれて今年も「有名人慈善絵馬展」へ賛助奉納しました。私は有名人ではありませんが「枯れ木も山のにぎわい」ということでしょうか。会場は、初詣の長い列がつながる参道の側(わき)にある会館で、清らかで厳粛(げんしゅく)な空気が漂うなか、200点を超える絵馬が展示されました。常連の本校卒業生の風間トオル、お世話になっている、なった服部幸應、吉村作治先生、コシノヒロコ、みのもんた、桂由美、伊東四朗、岩下志麻、松坂慶子、由紀さおり、五木ひろし、美川憲一、毒蝮三太夫、萬田久子、三遊亭円楽、林家三平、林家たい平、谷川浩二、大林素子、黒岩祐治(県知事)などなど多彩なメンバーでした。
本校の仕事始めと授業のスタートは7日からでしたが、まずは恒例の鳩森八幡神社へ祈願祭に臨(のぞ)み、学生の健康、安全、本校の発展を祈願してきました。このようにいくつかの神社や寺に初詣するのはいかがなものか。という思いがありますが、これは問題ないようです。お寺は仏教で神社は神道ですが、日本ではそれらが共存して、森羅万象(しんらばんしょう)のすべてに畏敬(いけい)の念を抱き、身の回りのあらゆるものに神が宿り、息づいていると、八百万(やおよろず)の神としてきた寛容さが育んだ多様性が、宗教心がないとか、アイデンティティーがない、とかいわれるのですが、それこそがクールジャパンと言われる表現のベースになっているのではないでしょうか。
歌人であり、僧侶であった西行が、伊勢神宮を参拝した時に詠(よ)んだとされる「何ごとのおはしますかは知らぬどもかたじけなさに涙こぼるる」何がいらっしゃるかよくわかりませんが、畏(おそ)れ多くありがたくて、ただただ涙があふれてくる…ということですが、これこれの神、これこれの仏という個別の特定の神や仏ではない、大きな不思議な働き、力を感じ取っているからで、何に向かって祈っているのかよくわからないのは、宗教以前とか無宗教とかではなく、むしろそれらをとおして、もっと大きな不思議な働きに向かって、祈り願っているのではないでしょうか。

髪(かみ)がないのに神(かみ)の話になってしまいました。髪(かみ)の神(かみ)は何処(いずこ)に御座(おわ)すのでしょうか。

2018.12.28

木枯(こが)らしが吹き、寒暖の差が多かったことから、里山のウルシやハゼノキの紅(あか)や色いろの彩りが、より濃(こ)くなって紅葉が極(きわ)まる、冬紅葉(ふゆもみじ)になりましたが、それも少しずつ色褪(いろあ)せて、薄墨色(うすずみいろ)や焙(ほう)じ茶色になっていく、その移ろいに冬の訪れが想われます。木枯らしは「凩」とも書くそうですが、風の略形と木を合わせた「凩」は、風が散らす落ち葉と枯れ木を想わせる極めつけのような字です。
12月は、師走(しわす)、年の暮れ、など、なにかとせわしない押(お)し迫(せま)った感がある、年の極まる月、極月(ごくづき)ともいゝます。そういえば、極道(ごくどう)の妻のことを「極妻(ごくつま)」といゝ、極道の先生の略の「極先(ごくせん)」もあります。これは極道の跡取(あとと)り娘が、男子高校の学級担任となって、型破りな高校教師として活躍するというマンガを、テレビドラマ化したものですが、仲間由紀恵が教師役で、生徒が赤西仁、亀梨和也、松本潤、小栗旬などで、この学園ドラマは人気を博(はく)し、シリーズ化されるほどでした。放映中だった10年ほど前、新入生が参加するフレッシュマンレクリエーションに向かうバスが、初台あたりを通りかかった時、資材置場のようなところで、このドラマの撮影をしていて、バスの中はワァーワァー、キャーキャー大騒ぎの極みでしたが、その盛り上がりで、クラスの一体感が生まれたことなど、思い出されます。
極月の原宿表参道は、すっかりクリスマスモードになっていますが、明治神宮の参道であるケヤキ並木の表参道は、本校も協賛している「表参道イルミネーション2018」が行われています。90万球のLEDによる寒色系のおだやかな光は、暖色系のような華(はな)やかさはありませんが、日本の明かりである「和ロウソク」の炎のようで明治神宮の参道にふさわしい「和のあかり」です。「和ロウソク」は、紅葉の中でもひときわ紅(あか)が美しい、ウルシ科のハゼノキの実からとる油が原料なのだそうです。この表参道は、アート、デザイン、ファッション文化情報を発信するストリートですが、日本の伝統文化と世界のラグジュアリーブランドの共存、調和する類(たぐ)い稀(まれ)な贅沢(ぜいたく)極まりないエリアです。そんなところが本校のキャンパスライフのエリアですから、贅沢の極みです。
いま、本校のギャラリー「アミ」で行われている「エコプロ2018」アンコール展は、地球の極みである北極や南極までも温暖化の影響を受けていることなど、エコへの関心を持ち、環境に優しいユニバーサルデザインをベースに、各学科がエコカリキュラムで制作し、東京ビッグサイトで開催された、環境とエネルギーの未来展「エコプロ2018」に出展したものです。
この極月、いくつかの忘年会、卒業生との飲会などありましたが、中には卒業した年から30数年、毎年続いているグループもあります。
今年も多くの方々に支えられ、助けられました。改めて感謝と御礼を申し上げます。また、性懲(しょうこ)りもない長くてくどいこのコラムに、忍耐づよくお付合い下さいまして、ありがとうございました。自省(じせい)自戒(じかい)の極みです。良いお年をお迎え下さい。

2018.12.14

原宿駅から本校1号館への道沿いの、イチョウの木々が黄色に色づいて、その黄葉が鮮やかに朝陽に映える、そんな染(し)み入るような美しさでしたが、深まる秋は短くて、その落葉が日に日に増(ふ)え、晩秋と初冬の間(はざま)のイチョウのじゅうたんをふみしめながら通勤しています。
この季節は、シャンソンの代表的な曲である「枯葉」が想い浮かびます。日本でも多くの歌手が歌っていますが、3分間のドラマといわれるシャンソンは、俳優でもあったイブ・モンタンが、出会いや別れ、愛憎(あいぞう)など、失恋の様々な感情を哀切(あいせつ)豊かに歌う「枯葉」が、感傷的なゆく秋とくる冬、似合います。
イブ・モンタンは、この「枯葉」が日本でも人気がでて、1962年に初来日公演をしています。失恋のシャンソンの代名詞が「枯葉」で、愛を歌うシャンソンの代名詞がエビット・ピアフの「愛の讃歌」ともいわれます。シャンソンはフランスの大衆歌謡の総称で、エディット・ピアフ、ジュリエット・グレコ、シルベール・ベコー、シャルル・アズナブール、イベット・ジローなどが1940、50年代に活躍し、イブ・モンタンはエディット・ピアフに出会ったことからシャンソンを歌うようになったのだそうです。日本でも1950、60年代を中心にシャンソンブームがありました。石井好子、越路吹雪、岸洋子、高英夫、芦野宏などですが、ブルースの女王といわれた淡谷のり子も、シャンソンを歌っていました。神保町、お茶の水、渋谷の「ジロー」、新宿の「ラ・セーヌ」、銀座の「銀巴里」など、シャンソンが生で聴けるシャンソン喫茶なるものもでき、「ジロー」では深緑夏代、金子由香利などが出演し、「銀巴里」では丸山明宏(美輪明宏)や直木賞作家になった戸川昌子などが出演していましたが、丸山明宏を目当てに三島由紀夫が通っていたことなど話題になっていました。戸川昌子は渋谷にシャンソンバー「青い部屋」を、深緑夏代は御茶ノ水に、シャンソン酒場「深緑の部屋」を開き、宝塚の後輩、大地真央や黒木瞳などの後進の指導にも取り組み、芦野宏は渋川市に私財を投(とう)じて日本シャンソン館を開設しています。
私はそのころ、フランスかぶれ、パリかぶれ、でしたのでシャンソンが好きで、有名歌手より無名の新人歌手の歌を聴きたくて、ときおりでかけました。その後、ポルトガルへ行く機会があり、港町であるリスボンの下町のレストランで、ギターの伴奏で歌う、その哀愁(あいしゅう)をおびた旋律(せんりつ)の、心に響(ひび)く「ファド」に魅(み)せられてしまいました。ファドは、運命とか宿命とかいう意味の言葉だそうです。このポルトガルのファド、フランスのシャンソン、スペインのフラメンコ、イタリアのカンツォーネ、アメリカのカントリー、ブラジルのサンバ、日本の民謡、演歌などは、それぞれ特有の大衆音楽文化といえそうです。
落葉の松、落葉松と書いてカラマツと読むカラマツは、秋には葉が黄色く色づき、冬芽を残して落葉するというところからその名になっているのですが、北原白秋の「落葉松」という詩に、「からまつの林を過ぎて からまつをしみじみと見き からまつはさびしかりけり たびゆくはさびしかりけり。」があります。枯葉、落葉のこの時期、枯れゆく様(さま)もそこはかとない滅(ほろ)びの美を感じます。
赤塚不二夫のマンガのキャラに、オソマツ、カラマツ、ジュウシマツ、イチマツ、チョロマツ、トドマツがあります。それがどうした、といわれそうですが、浅い意味も深い意味もありません。オソマツでした。

2018.11.30

あちこちから紅葉のたよりがとどくなか、湯河原でも里山の木々が紅(あか)や黄色の彩りを増し、山粧(やまよそお)う秋の風景になってきました。そんな山あいにある、町立湯河原美術館で開催されていた、開館20周年記念展「時代の希求−安井曾太郎と同時代の画家たち」を見に行ってきました。
安井曽太郎は昭和24年から30年、亡くなるまでの円熟期を、この美術館からほど近い旅館の離(はな)れに住み、制作に励んだそうですが、その画室から眺めて描いた風景も展示されていました。展示作家の中には梅原龍三郎、熊谷守一、里見勝蔵、中川一政、林武、東郷青児、山口薫、野口弥太郎など、二科会会員、二科展出品、受賞歴のある画家が多く、その中でも戦後の二科会を会長として率いた東郷青児、二科会の創立会員であった梅原龍三郎と会員であった安井曽太郎は日本画に対して日本の風土になじんだ独自の西洋画(洋画)で「安井・梅原時代」と呼ばれ、昭和期を代表する画家でしたが、それら二科会ゆかりの画家の作品をおだやかな陽差しの秋日和(あきびより)、湯河原でゆっくり鑑賞することができました。
芸術の秋、美術の秋。と言われるその先駆(さきが)けの二科展は、毎年9月に開催されるのですが、私はこの秋の二科展を前に、(一社)二科会デザイン部の理事長を辞し、退会したことから、心身共に解放されたのですが、長い間、関わってきたこともあり、もの愁(うれ)う気持も少しありました。そんな心を埋(う)めてくれたのが二科展と同じころ、佐賀市で開催された−2018 ASIA GRAPHIC DESIGN−「崔浩天教授退任記念佐賀展」でした。崔先生は、江南大学教授、江南大学ユニバーサルデザインセンター長、江南大学学長、大韓産業美術家協会会長、理事長を歴任されたのですが、佐賀は、2002年崔教授が、佐賀大学文化教育学部の外国人客員研究員として国際交流会館で1年間家族で過ごした地でした。その間やその後も教授に引率(いんそつ)されて佐賀にたびたびやってきた教え子たちが企画したのが、この記念展でした。教授と交友のあった日本、韓国、中国、台湾の友人たちと私も招待参加しました。崔先生とは、大韓産業美術家協会、韓国現代デザイン実験作家協会を通してもお付き合いがありましたが、私が校長になる前の年に、江南大学ユニバーサルデザインセンターが主催する公募展の国際審査委員を招請(しょうせい)され、その授賞式では講評の通訳をしていただきました。その夜はご自宅に招かれ、奥様の手料理をご馳走(ちそう)になりました。
つい先日まで、本校のギャラリー「アミ」で大韓産業美術家協会が主催し、ソウルで開催された「国際デザイン・工芸展」に招待され、私も崔先生も毎回招待出品している作品の内、アジア各国のポスター作品を「アジア現代ポスター展」として展示しました。
手許にある「崔浩天教授退任記念展」の作品集を見ながら、長い間のそんなこんなの交流、交遊、交友のその豊かさ、ありがたさが改めて思い出され、憂愁(ゆうしゅう)の秋。が、友愁(ゆうしゅう)の秋。になりました。

2018.11.15

秋らしくなりましたね。と言葉をかわす日は、さわやかな秋の青空が澄(す)んで高く見え、馬たちがのんびりと草を食べ、肥(こ)えてたくましくなる。という時候(じこう)のアイサツでつかわれる「天高く馬肥ゆる秋」がイメージされます。
食欲の秋、馬となれば馬肉が思い浮かんでしまいます。馬肉のことをサクラともいゝますから、秋に食べる馬肉は秋桜(コスモス)とも呼べます。久しぶりに深川、森下町の「みの家」に桜鍋(さくらなべ)ならぬ、秋桜鍋(コスモスなべ)を食べに行きたくなりました。
馬肉といえば牛肉という流れで、牛鍋(ぎゅうなべ)があります。これは明治時代、外国人の肉食をまねて、横浜の地で流行した鍋のことですが似ているすき焼は、農具の鋤(すき)の上に肉をのせて焼いて食べたことからその名(な)になったのだそうです。このすき焼きのことを「ひきずり」というところもありますが、これは鍋の上で、肉を引きずるように焼いてから、割下(わりした)を入れたことからのようです。
牛肉といえば、やはりステーキでしょうか。先日、西新宿の東京オペラシティタワーにある、松坂牛「よし田」でステーキを食べる機会がありました。そこは、なかなか予約がとれない人気店だそうですが、その出店にあたり、服部栄養専門学校の校長であり、メディアでも活躍されている服部幸應先生がアドバイスされたという縁(えん)で、服部先生が会長で、私は監事を務(つと)めていることからの、渋谷区専修学校各種学校協会の懇親会でした。渋谷区長も来られる総会のあとの懇親会は、先生のお知り合いのオーナーシェフのイタリアン、フレンチや中華、和食など、知る人ぞ知る、という店で行なっています。そんな中でも印象に残っているのは、神宮外苑のイチョウ並木沿いにある「キハチ青山本店」です。日本発の洋食シェフともいわれる、熊谷喜八さんがオーナーの、フレンチをベースにジャンルを超えたKIHACHI料理を楽しみました。私にとってこうした店は、普段(ふだん)は無縁(むえん)の非日常のところですが、先生とのご縁でつかのまの贅沢(ぜいたく)です。
コンビニの「悪魔のおにぎり」が話題になっていますが、食べたことはありません。天かすや天つゆ、青のりなどを混(ま)ぜこんだ味は、まろやかでクセがなく、やみつきになり、悪魔のさゝやきのように、食べ過ぎてしまうことからついた名のようです。包み紙には、たぬきのイラストが描かれているのですが、これは昔から東海地方で、天かすなどの残りものを入れてにぎった「たぬきむすび」からきているようです。おむすびは米を山型(神の形)にすることから、三角形のものを言い、おにぎりは「にぎりめし」から転じたもので、どんな形でも、おにぎりなのだそうです。
タヌキといえば、4、50年ほど前、両国の今でいう「ジビエ」獣肉(けものにく)専門店で、タヌキのステーキとタヌキ汁を食べたことがあります。猪、熊、鹿肉と並んでメニューにあったのですが、かつてそのことを学生に話したところ、ウソだ、先生のネタだ、などと相手にされませんでした。もしかして、たぬきに化(ば)かされていたのか、などとも思いつゝ、いまだに食通とか美食にはほど遠い、雑食性のゲテモノ食いです。もっとも私自身がゲテモノではありますが……。

2018.10.30

秋なのに、桜咲く。と季節外れの桜が各地で開花していることが報じられましたが、湯河原でも9月の終わりごろ見られました。本来の季節とは異(こと)なって咲かせる花を「帰り花」とか、忘れたころに咲く花を「忘れ花」とかいうのですが、どうもそれとは違うようです。台風の強風と塩害で落葉が進み、成長を抑(おさ)えるホルモンの作用が弱まったからだそうです。やゝこしいのは、冬桜も今頃から咲きはじめ、私たちは「帰り花」でも「忘れ花」でもありません。予定どおり正常に咲いているのです。と、その淡いピンクの花びらが遠慮(えんりょ)がちにつぶやいているかのようです。
秋桜はコスモスですが、このコスモスは「宇宙」を意味するギリシャ語からきていて、花びらが整(とゝの)っている美しい植物に、コスモスの名をつけたのだそうです。秋桜と書いてコスモスと読むのは、古くからあったわけではなく、1977年の秋に、山口百恵が歌って大ヒットした、当て字の曲名「秋桜(コスモス)」から広まって、今ではあたりまえのようになっていますが、「宇宙」と書いてコスモスと読む詞も歌謡曲などにあります。
秋色といえば、オレンジ色が連想されます。これはハロウィンのカボチャはオレンジ色のパンプキンをさすことからですが、先日「原宿表参道ハローハロウィンパンプキンパレード」があり、今年も本校の学生が「LOVE原宿ボランティア活動」として、パレードの先導を務(つと)めました。子供達が仮装して協力店を回り、お菓子をもらうというものですが、ハロウィンはヨーロッパが発祥(はっしょう)で、秋の収穫を祝い、カボチャをくりぬいて飾って、悪霊(あくりょう)や魔女を追い払うという民俗行事だったものが、アメリカに伝わって大衆化したのだそうです。日本では、戦後ワシントンハイツがあったことから、原宿のオモチャ店「キディランド」に買い物に来ていた米兵の家族が、そうした話をしていたことをヒントに、お菓子を配るようになり、店の近くで子供達がパレードをしたのが最初で、全国に広まったのは90年代以降のようです。クリスマスやバレンタインのように宗教的慣習からイベント化したのは、いかにも日本的といえそうです。
スクランブル交差点に仮装した若者が集まり、大混雑する渋谷ハロウィンですが、そんなにぎわいの中、西武渋谷店で使用済みの垂(た)れ幕を再利用して、アーティスティックなトートバッグをつくり、展示販売し、その売り上げの一部を、渋谷区の社会貢献活動に還元(かんげん)する。という「渋谷リメイクバッグプロジェクト」に本校の学生も参加して、そのロゴデザイン、タグデザイン、展示空間デザイン、ビジュアルデザインを担当しました。バッグのデザインは文化服装学院の学生が担当し、渋谷区と西武、専門学校2校とトートバッグ製作会社の、コラボレーションでした。(11月5日まで、渋谷西武B館1F特設会場で、開催されています。)
この再利用は、役割が終わって、もうひと花咲かせる「返(かえ)り咲き」ともいえそうです。帰り花、忘れ花、早咲き、遅咲き、返り咲き、とかは私にはいまさらですが、せめてひそかに「狂い咲き」ぐらいはしてみたいものです。

2018.10.15

このころの雨は、秋の長雨ともいわれ、梅雨のときより雨量が多く、台風もくるなど、秋の空は七度半(ななたびはん)変わる、というほど、天気が変わりやすく、「女心と秋の空」などともたとえられますが、江戸時代は「男心と秋の空」といっていたようです。どっちもどっちということでしょうか。
1号館前の宮廷ホームにあるキンモクセイが咲き匂うころ、学園祭になるのですが、列島を縦断した台風の激しい風雨でその小さな花がほとんど散ってしまった、10月5日〜7日「原宿祭」を開催しました。メインテーマは「TDA空港」で、原宿にグローバルで多様な個性が集まる、国際空港が開港しました。校舎をターミナルとし、各学科がそれぞれ航空会社の飛行機とみなし、機内には作品展示やワークショップがあり、ターミナルでは、学生主催のイベント、空フェスライブ、インスタレーション、フリーマーケットなど、学生たちのメッセージが、デザインとユーモアで多彩に展開されました。「TDA空港」にこられた方々には、それぞれの旅物語を紡(つむ)いでいただけたのでは、と思っているのですが…。
空港といえば、私が初めてヨーロッパに行った50数年前は、まだ成田空港はなく、羽田空港からでした。アメリカとソ連(ロシア)の冷戦時代で、ソ連上空を飛ぶことができず、北極上空を飛行する遠回りのルートのため、途中アラスカのアンカレッジで給油をしていました。パリもフランス最大である、シャルル・ドゴール空港はまだなく、オルリー空港での発着でした。そのころ私は「パリからのファッション便り」なるものを、日本のファッション業界誌に寄稿(きこう)していました。編集長に依頼されたことからですが、今思えばファッションのファの字もなく、オシャレ感がまったくないダサい私ごときに、頼むほうも頼むほうですが、若かったこともあり、なんとも図々しく、あつかましく、おこがましく、恥知らずもこの上なく、身のほどをわきまえず、怖(こわ)いもの知らずで引きうけてしまいました。もっと恐ろしいことに、大きなサングラスがトレードマークだった、モデル出身のファッションジャーナリストとして活躍されていた、大内順子さん(2014年没)の「パリコレ通信」と同じ誌面でした。
その後にできた、シャルル・ドゴール空港のターミナルビルで、フランスワインとそのラベルデザインの原画展示があり、招かれたことなど思い出されます。これは、フランスワインの名産地である、ボルドーやブルゴーニュの醸造元(じょうぞうもと)から依頼されたフランスの画家、デザイナーの中になぜか私も入っていたことからですが、それはサロン・ドートンヌ展(パリ)で、私の作品を見たオーナーから声がかかったからでした。
私もいまや、かつての図々しさはすっかり鳴(な)りをひそめ、道端(みちばた)の雑草や草花などに目をとめるようになり、おだやかで自(みずか)らが植物人間になったかの感もありますが、ファッションの街(まち)である原宿で、デザイン学校の校長をやっていること自体が、厚(あつ)かましく図々しいのでは、と言われれば、確(たし)かにそのとおりです。としか言いようがありません。

2018.9.30

ゆく夏を惜(お)しむかのように、虫の音(ね)がやさしくひびき、しみじみと季節のうつろいを想っていたら、いろんな虫がその音色(ねいろ)を競(きそ)うかのように、つよくひろく虫しぐれのようになり、いよいよ秋。という情緒(じょうしょ)が漂ってきました。
こうした虫の音や鳥の声などを聞き、季節の情景や風情(ふぜい)趣(おもむき)など、なんらかの意味を感じとり、味わうのは日本人が言語を理解する左脳で鳴き声を聞いているから、という説があるそうです。味わうといえば、旬(しゅん)の食材が多い実りの秋は、食欲の秋です。これは夏の暑さで落ちていた体力が回復し、食がすゝむようになることからですが、全米オープンテニスで優勝した大坂なおみ選手が記者会見で、食べたいものを聞かれ、そのひとつにカツカレーがありました。カレーではなくカツカレーとはやはりアスリートです。このカツカレーは昭和20年代のプロ野球巨人軍で活躍した青田選手が、当時行きつけだった銀座の洋食屋でカレーとカツが食べたくて、カレーにカツをのっけてくれ、といったのが始まりだと聞いたことがあります。カレーは国民食といわれるほど好まれていますが、もともとはインド料理を元(もと)にイギリスで生まれ、日本で独自に変化したもので、そのバリエーションとアレンジは限りなくあり、横須賀海軍カレー、など全国各地にご当地カレーがあります。
私がかつて住んでいた千葉県の我孫子市に、白樺派カレーなるものがあることを知りました。大正時代、自然が豊かでその環境に魅せられて、手賀沼近くに志賀直哉や柔道の嘉納治五郎、陶芸のバーナード・リーチなどが住み、その後、移り住んだ武者小路実篤、柳宗悦など白樺派の文化人が好んで食べた、というこのカレーは、隠(かく)し味(あじ)にみそを使うのが特徴だそうです。この白樺派カレーの普及を図(はか)るため、7年ほど前から小中学校の給食に出されているとのことです。
文化人が愛したカレーといえば、小説や映画、ドラマなどの舞台になった日比谷公園にある松本楼は、毎年9月25日に「10円カレー」で話題になります。これは1971年、放火により消失したとき全国から多くの励ましがあり、これにこたえて再オープンしたときに、その感謝の気持ちを表したのが始まりだそうです。美術、演劇、文学など、文化人が集(つど)い中村屋サロン、とも言われた新宿中村屋もカレーが有名ですが、こゝのメニューはカレーではなく「インドカリー」とあります。日本に亡命したインド独立運動の志士、ラス・ビバリー・ボースを中村屋が匿(かくま)ったことから、ボースの発案で始まったからだそうです。
いまではカレーライスといっていますが、かつてはライスカレーと呼ぶことがふつうで、カレーライスはご飯とは別の容器にカレーを入れて出てくるやや高級なイメージのもので、ご飯にカレーがかけてある大象的なものをライスカレーといったのですが、いまや死語なのでしょうか。私は毎日、カレー(加齢)ライスです。

2018.9.14

いつの間にか「色無き風」と呼ばれる透明感のある秋の風が吹くようになり、秋の気配を感じるようになりました。夏の入道雲(にゅうどうぐも)と、秋の鰯雲(いわしぐも)など雲の形などから、去る季節と訪れる季節が隣(となり)合い、空の上で出会い行き交(か)う、変わり目の空を「行き合いの空」というそうですが、空の下でもカンナ、グラジオラス、フヨウ、ホウセンカ、サルスベリ、キョウチクトウ、ムクゲなど、まだ夏の花が咲いていて、秋の花であるダリア、ケイトウ、コスモスなどが入り交(ま)じっていて、「行き合いの地(ち)」ともいえそうです。
夏と花といえば、8月中旬の新聞に「龍馬の花押。原本公開へ」という記事がありました。幕末の志士、坂本龍馬が「花押(かおう)」を記した書簡(しょかん)が見つかり、公開される。というもので、その花押は「龍」と「馬」の文字を組合せた図案(デザイン)で、直筆(じきひつ)の花押が入ったものは、この一通だけのようです。文書への署名(しょめい)が、次第に図案化、文様化され、それが花のように美しいと、花押と呼ばれ、署名の代(か)わりになったのだそうです。この花押は奈良時代に始まり、戦国時代までは花押を判(はん)といっていて、織田信長ら戦国武将が私印を使うようになり、それと区別するため花押というようになったようです。ちなみに織田信長の花押は14種類もあるそうです。現在でも政府の閣議における閣僚の署名は、花押で行うことが慣習(かんしゅう)になっているそうです。いまでいう「ハンコ」が用いられるようになったのは江戸時代からのようです。この花押は現代デザインとしてもインパクトがあり、カッコよく、ロゴデザインのヒントになりそうです。
花押の文字から受ける感じが似ているものに「押し花」がありますが、採取時期、場所がわかるものとしては「国内最古の押し花」が見つかった。という記事も同じころ目にしました。約300年前の江戸時代中期に諏訪高島藩の武士が作製したサクラ、ウメなど25点で、押し花はカビや虫害などで傷(いた)むことが多いのですが、諏訪地方の冷涼で乾燥(かんそう)した気候が幸いして、保存状態が良かったのだそうです。このころは、植物学の基礎となった「本草学(ほんそうがく)」が発展していたことから、植生への関心が高まっていたことを示してもいるようです。古くはこの押し花が正式な標本作成の方法とされていたのだそうです。
ガキのころ、なぜかこの押し花が好きで、夢中になって、四季折々の草花を押し花にしたものでした。押し花は、草花を平面状に乾燥させたものですが、そのうち、これは花の命の水分を吸い上げ、枯れ死させているのではないか。とガキの小さなハートが痛(いた)み、それからは、押し花のように絵に描いて「押し花図鑑」としました。そんな経験があることからか、今でも押しばなをしております。花(はな)ではなく鼻(はな)ですが…。慢性鼻炎、寒暖差アレルギー、蓄のう症であり、よく鼻を押して鼻をかみます。まさに押し鼻です。NHK大河ドラマの1作目は1963年の「花の生涯」でしたが、私はさしずめ「鼻の生涯」になりそうです。

2018.8.31

夏休みの校内は、閑散(かんさん)としていて、どこまでも静かで、セミの抜け殻(がら)の空蝉(うつせみ)のような空(むな)しさが漂っていましたが、ときおり夏休み中の高校生が参加するオープンキャンパスがあり、このときばかりは夏の賑(にぎ)わいでした。
「処暑(しょしょ)」がすぎ、28日で夏休みが終わり、30日より新学期が始まると校内は、まるでセミしぐれの如(ごと)くになりましたが、「それぞれの夏」が終わり、一抹(いちまつ)の感傷に見舞(みま)われるころでもあります。「処暑」は暑さがおさまるという意味で、「処」は止まるという意味があり、このころから朝晩の涼しさを感じる日が多くなるということらしいのですが、まだまだ残暑とは言えないような暑い日が続いています。私の夏の終わりは、例年の「原宿表参道元氣祭」スーパーよさこい2018。の審査委員を務(つと)めることでした。25日(土)26日(日)に開催され、私は25日の担当で、108チームが参加し、約6000人の踊り手が暑さをものともせず、よさこい踊りをくり広げ、原宿表参道はよさこい一色になりました。じっとしていても猛暑で汗ばむほどの審査員席でしたが、その踊る姿に元気をもらい、なんとか耐(た)えることができました。翌26日はオープンキャンパスがあり、よさこい踊りの音楽が流れている中、出校しました。
猛暑、酷暑、豪雨などで夏野菜が高騰(こうとう)したようですが、夏バテの食事に添(そ)える香味野菜といわれるショウガ、ミョウガ、シソ(大葉)などの薬味の香りは、暑さを和(やわ)らげる暑気払(しょきばら)いになります。茗荷谷(みょうがだに)にいたころ「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれた「かねやす」の場所を確(たし)かめたくて本郷に行き、このプレートがある「かねやす」をみつけました。そこはカバンなどを扱(あつか)うごく普通の商店でしたが、江戸時代「乳香散」という歯みがき粉を売り繁盛したそうです。このあたりまで耐火のため屋根を瓦(かわら)にした、土蔵造りの江戸の景観が続いていて、その先は農地であったことからそういわれたようです。本郷から近い茗荷谷は、小石川台地と小日向台地の間の浅い谷のことで、江戸時代は茗荷畑が多かったことからその名になったのだそうです。ショウガといえば谷中生姜(やなかしょうが)といわれるのは、谷中一帯がショウガの産地だったことからですが、粋(いき)な居酒屋ではお品書きにショウガを「谷中」とだけ書いてあります。夏のショウガは若いうちに収穫する新しょうがともよばれる辛(から)みが少ない葉生姜ですが、根生姜は貯蔵することで辛みが増すのだそうです。いまでは1年中出回っているミョウガですが、「みょうがの子」といわれ夏の季語にあります。自生しているミョウガは夏が旬で、花のつぼみの部分を食べているわけですが、その香りとシャキシャキとした食感は、なんとも心地よく魅力です。ミョウガの独特の香りはストレスをやわらげるなど樹木が発散する成分と同じ物が含まれているとかで、ミョウガの香りは森林浴と同じ効果があるともいわれます。
長く茗荷谷に住んでいたこともあり、あのコロンとした形の丸いミョウガはなんともかわいく、いとおしく、その愛のウラ返しで、そのまゝ味噌をつけてかじったり、ソーメンやウドンの薬味、天ぷら、漬物、酢の物などやたらと食べています。ガキのころ「ミョウガを食べるとモノ忘れする、バカになる」などとよく聞いたものですが、科学的な根拠(こんきょ)のないただの俗信だそうですが、私はこのところ物忘れが多くなり、年のせいだけではない、やはりミョウガの食べ過ぎだから、とミョウに納得(なっとく)していて、私の心は夏模様。ではなく、私の心は茗荷模様。になっています。

 

2018.8.11

かつて伊丹十三さんが暮らしていた「湯河原の家」は、もう空き家になっているのでは、とも思っていたのですが、車があり、人の気配も感じられ、息子さんが住んでいるか、別荘としているのか、いずれにしてもホッとしました。そもそも私が湯河原に移ったのは、潜在的(せんざいてき)には伊丹さんが住んでいたところ、との想いもありました。
別荘といえば、舛添前東京都知事が公用車で湯河原の別荘へ通っていたことが批判され、話題になりましたが、この別荘は熱海寄(よ)りで、伊丹さんの家は真鶴寄りでした。ちなみに私はその真ん中あたりのマンション住(ず)まいです。
伊丹十三なる人物に興味や関心をもちはじめたのは1965年に刊行された「ヨーロッパ退屈日記」というエッセイ集でした。これは、1962年にサントリーのPR誌「洋酒天国」に連載され、その後「婦人画報」にも連載したものをまとめたものでしたが、まだこのころは日本男子が食べるものや着るものにこだわるのはいかがなものか、という風潮(ふうちょう)があるなか、ヨーロッパの衣食、車、芸術などにきびしい伊丹流のイヤミったらしい講釈(こうしゃく)を垂(た)れた、その軽妙(けいみょう)な筆致(ひっち)のエッセイは面白く新鮮でした。
1960年に伊丹一三の名で俳優デビューし、67年に十三に改名したのですが、俳優になる前は、文字を手書きするレタリング、イラスト、ポスター、装幀など今でいうグラフィックデザイナー、当時は商業デザイナーでした。その後、俳優業とエッセイスト、雑誌編集、ドキュメンタリー制作、CMクリエイターなど多彩な才能を発揮していました。俳優としては、83年に「家族ゲーム」などでキネマ旬報助演男優賞を受賞。84年に監督デビューして「お葬式」、次の年に「タンポポ」その後「マルサの女」「あげまん」「ミンボーの女」「大病人」「スーパーの女」「マルタイの女」など次々に話題作を送り出し、「マルサの女」のヒットで「マルサ」という言葉が流行語になるなど社会現象になるほどでした。97年「マルタイの女」の封切の年に64才という若さで亡くなり、その死について当時は色々と憶測(おくそく)を呼んだものでした。(宮本信子さんと共に伊丹映画の常連であった津川雅彦さんが、先日、亡くなったとの報道がありました。78才でしたが、伊丹さんが生きていれば85才になります。)
カンヌ国際映画祭で最高賞に輝いた是枝裕和監督の「万引家族」は、東京の下町を舞台に家族ぐるみでさまざまな犯罪を重ねる一家の、家族を超えた絆(きずな)を描いたものですが、誰も目をつけないようなテーマを取り上げて、深く掘り下げエンターテイメントに仕上げるという、伊丹作品となにか共通する空気感が漂っていて、伊丹ファンは是枝ファンでもあります。と思っていたら、なんと是枝監督は、「伊丹十三賞」なるものを受賞していました。この賞は幅ひろく活躍した伊丹十三さんを顕彰(けんしょう)して創設されたもので、『あらゆる文化活動に興味を持ちつづけ、新しい才能にも敏感であった伊丹十三が「これはネ、たいしたもんだと唸りましたね」と呟きながらに膝を叩いたであろう人と作品に…。』とあり、第1回受賞者が糸井重里さんで、タモリ、池上彰、内田樹、リリー・フランキー、是枝裕和、森本千絵、星野源、今年は磯田道史さんが受賞していて、伊丹精神が脈々と生きているかの、その顔ぶれは、私が興味や関心のある人ばかりで、うれしく、これはもう伊丹(いたみ)さん、いたみいります。です。

 

2018.7.31

初ゼミだ、と思ったら、いきなりうるさいほどのセミ時雨(しぐれ)が降り注(そそ)ぎ、かつておだやかに移(うつ)っていた日本の季節は、最早(もはや)ズタズタになったかの豪雨や猛暑ですが、これはやはり地球変動によるものなのでしょうか。そんななか湯河原の里山からは、ときおり夏ウグイスの微笑(ほほえ)ましい鳴き声が聞こえ、その暑さを少しやわらげてくれます。
ウグイスは春の繁殖期にオスがメスを誘うためや、縄張(なわば)りを主張するときにホーホケキョとさえずるのだそうです。8月ごろから秋にかけての子育ての間は、ホーホケキョとはっきり鳴いてしまうと、ヒナが狙(ねら)われることから、チャッチャッという笹鳴(ささな)きとも呼ばれる繁殖期以外のオスとメス、若鳥が年中通して鳴いているという地鳴(じな)きになるようです。小さい鳴き声で聞こえにくいため、ウグイスは渡り鳥と思っている人も多いようです。
子育て、里山、湯河原といえば、子育ては自然豊かな場所で、と東京から湯河原に移り住んだ、伊丹十三さんが思い浮かびます。「湯河原の家」というエッセイに「周囲はみかん畑に囲まれ海が見渡せ、大地の匂いがした。」とあり、他のエッセイには「うちの近所は一面の蜜柑畑ですよね、その蜜柑畑の中の細い道を親子で散策しているとだね、あたりはしんと閑まりかえって鳥の声だけが聞こえてくる、太陽が林にふりそそいで、蜜柑の葉がピカピカと輝いている。静けさがね。こう、光って澱んでいるんだな。遠くには海が燦いている。子供の声が澄んで響く…」とあり、その家をいずれ見に行こう、などと思っていたらあっという間に数年が過ぎ、なにもこの猛暑の中を、ですが、自虐的な私はあえて散策がてらさがしました。はっきりした場所がわからず、エッセイの文章や写真にあった、海に浮かぶ熱海の初島が望める角度から、真鶴(まなづる)寄りのゆるやかな傾斜地(けいしゃち)であることがわかり、なんとなくこの辺(あた)りであろうというところを、それとなく、さりげなく、通りすがりの者を装って、行きつ、戻りつしていたら、ありました。そこは人家も増え、海は見えないほどに木々が生い茂っていましたが、ログハウス風の家と門扉や丸太の門柱や、伊丹さんが自ら敷いたという石畳のアプローチから階段を上ると、そこはベランダで、玄関はないという佇(たたず)まいは、写真のまゝであり、映画「お葬式」の場面がよみがえってきました。
俳優から映画監督へ本格的に転向したデビュー作ですが、「お葬式」というタイトルは縁起(えんぎ)が悪いと、タイアップはとれず、映画会社もためらって制作費がなく、この自宅を舞台に撮影したのだそうです。結果的には大ヒットしたのですが、この映画は奥さんで女優の宮本信子さんの父親の死から想を得たというシュールな大人のブラックコメディーでした。34年前の公開当時は、湯河原の町中に「お葬式」と大きく描かれたポスターが一斉に貼られていたそうです。観光の町としては悩ましい風景だったのではないでしょうか。
伊丹十三さんの隠(かく)れファンである(かくれる必要はないのですが)ことから、まだまだ書きたいことがあり、長くなりそうです。開き直ることにしましたので短くする努力はしません。次回に続く。とさせていただきます。

2018.7.17

早く梅雨が明けたことから、いよいよ本格的な夏だ、と思っていたら、7月2日〜6日ごろまでを「半夏生(はんげしょう)」といゝ、このころに降る雨を「半夏雨」ということを知りました。この半夏雨は大雨になることが多いのだそうです。まだ夏が半分?半分夏が生まれる?ん。ですが、これは半夏(はんげ)という薬草が生えるころ、という説や7月初旬から花を咲かせるドクダミ科の「片白草(かたしろぐさ)」の葉の半分が白くなり、それが半化粧(はんげしょう)をしているように見えることから、それが転じて「半夏生」になったなど諸説あるようです。書きたくはないのですが地方によっては、ハゲ、ハゲショウ、とも呼ばれているようです。
一年を二十四に分けたのが二十四節気(にじゅうしせっき)で、小暑(しょうしょ)大暑(たいしょ)など、それぞれ季節をあらわす名前がつけられていますが、より細(こま)やかな季節感をあらわす名前、言葉として考えられたのが七十二候(しちじゅうにこう)で、「半夏生」もその中のひとつだそうです。自然によりそって暮らしてきた日本人にとって、これらの言葉から季節の目安(めやす)や行事、生活のしきたりなどが生まれたのがうかがえます。
湿気(しっけ)を伴(ともな)って蒸(む)し暑かった風を黒南風(くろはえ)といゝ、そのあとにくる風を白南風(しろはえ)というなど、風のつく言葉だけでも2000ほどもあるそうです。そうした季節の言葉だけではなく、日本語の言葉の豊かさは「漢語」と「外来語」生粋(きっすい)の日本語である「大和(やまと)言葉」の三種類を日常的に使っていることから、とも言えそうです。まだまだ知らない言葉が限りなくあり、その出会いはたのしみでもあります。
言葉(ことば)は言の葉(ことのは)という美しい表現がありますが、言は和歌をさすことばで、万葉集は万の言の葉であり、美しい和歌には国を安泰(あんたい)にする力(ちから)があると信じられていて、いつまでも青々としている緑の葉を意味する和歌の世界を、言の葉の緑。と呼んでいたり、和歌が心を種にして生まれることから、植物の葉が種から生まれることになぞらえたともいわれます。
言葉といえば、静岡県三島市の「大岡信ことば館」を想います。詩人で評論家であった大岡信さんが昨年4月に亡くなられ、この「ことば館」も11月をもって閉館することになった。と館長から挨拶(あいさつ)状が届きました。湯河原に移ってから興味がある特別展などもあり、折(おり)にふれ出かけました。最後に行った特別展は、もっとも有名でもっとも知られていない詩人。といわれる「谷川俊太郎展」でした。「ことばの学びと遊び」をコンセプトとしたそこは、入館者も少なく静かで言葉の海を心地よく漂(ただよ)い浮遊(ふゆう)する、豊かで贅沢(ぜいたく)な時間をほぼひとり占(じ)めできた、お気に入りの空間でした。
詩歌は表現に無駄がなく、大切なことば以外を削(そ)ぎ落として、少ない言葉で最大の表現をするものですが、私のこのコラムはその真逆(まぎゃく)で、しつこくて、くどくて、あれもこれもと余分(よぶん)な言葉を加えてしまいます。とくに卒業生から長すぎると不評ですが、と言いながら読んでくれているわけですから、しめしめとほくそ笑(え)んでしまいます。「ことば館」に通いながら、まったく学習をしていない、この性格、資質(ししつ)はいまさら直(なお)りませんので、開(ひら)き直(なお)ります。
(遅ればせながら、西日本豪雨で被害に遭われた方々には、心よりお見舞い申し上げます。)

2018.6.29

このところ梅雨(つゆ)の中休みのような日が続いていたのですが、今日、関東地方の梅雨明けが発表され、6月中の梅雨明けは初めてだそうです。梅雨の季節はゆううつで、うっとうしく、これを漢字にすると「憂鬱」と「鬱陶しい」です。この字を見るだけでゆううつで、うっとうしくなります。そんな梅雨空(つゆぞら)を吹き飛ばすべく、恒例(こうれい)のスポーツ大会を「国立オリンピック記念青少年総合センター」体育館で開催しました。
その日は梅雨の晴れ間で、気温も上がったのですが、改修(かいしゅう)したらしい会場は、冷房も効(き)いていて快適でした。私は開会のアイサツで、2020年の東京オリンピック招致(しょうち)のプレゼンで、日本の「おもてなし」の心を訴(うった)えて、それが話題になり、その後もいろんな場面でつかわれていますが、これは茶道(さどう)の表(おもて)裏(うら)なし、表無(おもてな)しからきていること、今日は表裏のない正々堂々とした戦いをするように。というようなことを話しました。
目の前でくり広げられる、まばゆいばかりの若さを放(はな)つ、躍動感(やくどうかん)あふれる学生たちの姿を見て、わが身の劣化(れっか)を感じながら、茶道に由来する言葉に「一期一会(いちごいちえ)」もあることが浮かびました。茶会(ちゃかい)は毎日一生に一度だという思いをこめて、お客に誠心誠意(せいしんせいい)尽(つ)くし、その出会いを大切にするということですが、これは学生との出会いにも通じ、この精神で接(せっ)すべく、改(あらた)めて思いを強くしました。
茶道は茶(ちゃ)の湯の略(りゃく)なので茶道(ちゃどう)が正しいという説もあるようです。流派(りゅうは)によっては茶道(ちゃどう)ともいうそうです。茶道(さどう)といゝながら茶(さ)の湯とはいわず茶会(ちゃかい)も茶会(さかい)とはいゝません。お茶屋(ちゃや)もお茶屋(さや)とは言いませんが、喫茶店(きっさてん)も喫茶店(きっちゃてん)とはいわず、茶話会(さわかい)も茶話会(ちゃわかい)とはいわないなど、なんだかわからなくなります。この類(たぐい)の言葉がどんどん浮かんできて、きりがないのでこのあたりでやめます。
茶道といえば、なぜか騎手(きしゅ)を育成する中央競馬会の競馬学校に「茶道教室」があるそうです。授業のほとんどが馬の世話や騎乗訓練ですが、そこを終えた一流騎手が、もう一度受けたいと言っているのが茶道なのだそうです。騎手と茶道には共通点が少なくないようです。無駄な動きを省(はぶ)き、自然体を求められる姿勢や感情など、一流騎手ほど茶道の素養(そよう)があるそうです。そもそもは減量に苦しむ生徒たちに公然とお菓子を食べさせてあげる場を設(もう)けてあげたかったのだそうです。
最近お茶に凝(こ)っているという20数年前の卒業生が、このコラムで私のお茶好きを知り、静岡の手摘(てづ)み茶とおいしく飲めるという冷(さ)ましたお湯を入れたポットと茶碗を校長室に持参してくれ、お茶談義をしながら、うやうやしく入れてくれたそのお茶は、淡(あわ)い緑のまろやかなやさしい馥郁(ふくいく)とした香りと味で、私には上品すぎました。私は熱い濃いお茶が好きという、繊細(せんさい)さがないその雑(ざつ)な感性は、とても茶道の作法には向いていません。私は茶道ではなく、どこまでも邪道(じゃどう)のようです。

2018.6.15

梅雨入(つゆい)りしたとみられる。との気象庁の発表がありました。これは宣言ではなく、梅雨入りしたようですね。梅雨入りした。と言ってもいゝんじゃないですか的な、微妙な表現ですが、これは、走り梅雨。迎え梅雨。などと呼ばれる梅雨入り前と、線引きするのがむずかしいからのようです。このころの雨に緑葉が濡(ぬ)れ、より青みを増すことからこの雨を、緑雨(りょくう)とか青雨(せいう)とも呼ぶそうです。
見わたす緑が、ひと雨ごとに濃くなって、まさに万緑(ばんりょく)の季節ですが、緑といえば緑茶を想います。直線上に土を盛り上げた畝(うね)が続く茶畑の、緑の茶葉が陽光に映(は)えるこの時期、日本を代表する美しい風景として外国人観光客にも人気のようです。
お茶は温暖で適度な降水量のある地域で生産され、産地によってその味や香りが異(こと)なりますが、東北、北海道などの寒冷地を除いて全国に分布しています。茶どころといわれる主な産地は、静岡、鹿児島、佐賀、福岡、宮崎、三重、京都などですが、経済的に流通する栽培地の北限は、新潟県、宮城県あたりだそうです。寺院が庶民の健康や水をおいしく飲むため、茶の栽培を奨励したことから広まったともいわれています。生産量の一位は静岡県で、「駿河路(するがじ)や花たちばなも茶のかほり」と、松尾芭蕉も詠(よ)んでいて、古くからの産地であることがうかがえます。この静岡茶は鎌倉時代の高僧が中国から持ち帰ったお茶の実を、出生地に近い静岡市郊外の足久保という地に植えたのが始まりだそうです。
静岡から原宿まで通っていた卒業生の実家が、なんとその足久保の茶葉の生産農家と知り、さっそく足久保の新茶を求めました。以前、お茶のことを書いたこのコラムを読んでくれた鹿児島県霧島市に住む知人が、「きりしまみどり」という新茶を送ってくれました。そこには贅沢(ぜいたく)なまでの味わい。「極上」とありました。佐賀の知人からも、銘茶「嬉野茶(うれしのちゃ)」の新茶が届きました。それぞれ味と香りが違う産地に、想いをめぐらせながら飲む新茶は、心に染(し)みわたり、さわやかな香りと旨(うま)みに心を委(ゆだ)ねる、おだやかで豊かなくつろぎのその時間は、ぜいたく極(きわ)まりない至福(しふく)のひとときです。
この新茶に対して番茶があります。新茶は新芽を摘み取ったものですが、番茶は摘み残ったかたい葉でつくる、品質が劣(おと)る番外茶のことで、値段も安く普段づかいのお茶として親しまれています。これはこれで新茶にはない、奥深い渋(しぶ)みの味わいがあります。例(たと)えれば、学生が新茶で、私は番茶でしょうか?
茶は煩悩(ぼんのう)の数「百八」を意味していて、十を二つ並べた草かんむりに八十八を書き足して「茶」になっているのだそうです。
私は煩悩が「百八」どころか、頭の中では滅茶(めちゃ)滅茶、無茶苦茶、滅茶苦茶にうずまいていて、苦茶苦茶になっていることから、それらを静(しず)めるべくお茶をよく飲むのは、緑茶セラピーとの思いからです。

2018.5.31

私にとって夏の風物詩であり、季節の風である痛風(つうふう)が、ゴールデンウィークの後半に早くも不意打(ふいう)ちのようにやってきました。例年は6〜8月の間でしたが、今年は4月に夏日があり、5月に入ると夏日どころか真夏日もあるなど、暑い日が多く、勘違(かんちが)いしたのでしょうか。
夏の日、1年に1度の再会といえば、織姫(おりひめ)と彦星(ひこぼし)のようですが、そんなロマンチックではありません。その猛烈(もうれつ)な痛さは天罰(てんばつ)を与えられているかのようです。思い当たるふしがなくもなく、甘(あま)んじて受けています。そんな祟(たた)りがあったかの痛さのまゝ連休の最終日、松屋銀座に行ってきました。
子供たちだけではなく、ティーンから大人まで読者が広がっている絵本の世界で「バムとケロ」シリーズが大人気の、カナダ在住の絵本作家で、本校卒業生でもある島田ゆかさんが出展している「MOE 40th Anniversary 5人展」を見るためでした。島田さんの配慮で出版社から、たくさんの招待券が届き、学生の分は希望者が多く、抽選(ちゅうせん)となってしまいました。
絵本の月刊誌「MOE」が、前身の「絵本のおはなし」の創刊から数えて40年を記念して、いま最も支持されているという絵本作家5人による約200点の原画展で、その表現や作風も異なる原画は、それぞれ作家の息づかいや、絵本への想いや背景までもが伝わってくるようでした。絵本から抜け出したグッズコーナーには、本校にある、というより、いる、同じ大きさのバムとケロのぬいぐるみが、原宿から銀座に遊びに来ているかのようでした。しっかり者の優しいバムとおちゃめなケロの絶妙(ぜつみょう)なコンビが繰り広げる、たのしいストーリーの原画は明るく洗練された色使いで、痛風を和(やわ)らげてくれました。
バムとケロに別れを惜(お)しみながら、銀座のメインストリートである中央通りに出て、銀座最大級の複合施設となった松坂屋跡地の「GINZA SIX」へ向かうべく歩いていると、なんとなく風景が違って見え、それは明るい緑の街路樹でした。あっ、これが「柳消え半世紀 カツラで復活」とあった、あの記事のカツラか。とカツラにはことのほか、やたらと敏感な私は、その記事が気になっていたのでした。近よって見ると緑の葉はハート形をしているカツラ(桂)の木でした。銀座といえば「柳」が思い浮かぶのは。ガキのころラジオから流れる<昔恋しい銀座の柳・・・>。<花は上野よ 柳は銀座の柳・・・>。<花咲き花散る 宵(よい)も 銀座の柳の下で・・・>。など銀座の柳が歌詞にある歌を聞いていたからでした。
銀座のシンボルであった柳が姿を消したのは、1968年で、電線や電話線が地中化される工事で柳が抜かれ、腰の高さほどの木が植樹されたのですが、夏になるとひと休みする日陰がないなど、買物客から意見が寄せられ、柳の復活を望む声も多くあったようですが、水場が少ない銀座では育成がむずかしく、春は新緑が美しく秋は黄色に色づき、病虫害に強いことからカツラになったそうです。カツラといえば1960年代、銀座松坂屋の先のビルを曲がったところにカツラ屋があり、その看板を目印(めじるし)にその先にあった今はない、伝説のシャンソン喫茶「銀巴里」に通ったものでした。薄暗(うすぐら)い照明の退廃的(たいはいてき)なムードのそこでは、シスターボーイと呼ばれた丸山明宏(美輪明宏)が怪しい魅力で歌っていました。久しぶりの銀座は、セピア色の昭和の記憶の断片(だんぺん)を懐かしく想い出させてくれました。
休み明け、原宿の本校エントランスに、銀座に遊びに行っていたバムとケロが戻っていました。バムとケロが痛風になったらどんな動きをするのだろうか。などとふと思ってしまいました。島田さんスミマセン。私にはゴールデン(黄金)ウィークであり、シルバー(銀座)ウィークでもありました。

2018.5.15

みかんの花の香りが、あたり一面(いちめん)に漂う5月の湯河原は、まさに風薫(かぜかお)る季節です。そんな風に誘われてゴールデンウィークの半(なか)ば、伊東市の伊豆高原に出かけました。迎えてくれたのは、新緑から深緑(ふかみどり)になった草木の青葉をさわやかに吹き抜け、私の美肌、柔肌(やわはだ)??をこゝちよく撫(な)でてくれた、緑風とか薫風(くんぷう)とか呼ばれる初夏の風でした。広く歌い継がれ、日本を代表する童謡となった「みかんの花咲く丘」は終戦間もない昭和21年、伊豆・伊東市の小学校で、当時12歳の人気童謡歌手だった川田正子が歌い、NHKラジオで全国に中継放送され、その風景が浮かんでくるような明るい歌声が反響(はんきょう)を呼び、レコード化され、それが空前の大ヒットしたのだそうです。ちなみに伊東駅では、この「みかんの花咲く丘」が発車メロディーとして流れています。
伊豆高原は5月の1ヶ月間、毎年開かれているという「伊豆高原アートフェスティバル」をゆっくり散策(さんさく)しながら回ることが目的でした。今年で26回目になるというその案内チラシなどが駅にもホテルにもなく、まさか中止に、と思いつゝさがしたところ、「五月祭」と名が変わっていました。30年ほど前に伊豆高原に移住した美術作家の谷川晃一、宮迫千鶴夫妻が提唱(ていしょう)し、谷川さんが実行委員長になって始まったことは知っていて、関心がありました。それは私も出品した1963年の最後になった読売アンデパンダン展に、谷川さんも出品していて、その常連出品者であった赤瀬川原平さんとも交友があった、懐かしい作家名だったからでした。
谷川さん夫妻はともに絵画、版画、オブジェ、陶芸、絵本制作、アートディレクション、美術批評、エッセイなどその活動は広く、谷川さんは文明批評的な視点のシャープでミステリアスな作風が変わり、自分の暮らしを「再自然化しながらよりナチュラルに深くシンプルに生きること」とし、「毒曜日のギャラリー」なる単行本のタイトルも「草色のギャラリー」など変化しています。宮迫さんの画文集も「緑の午後」があり、自然が絵のイメージをどんどん与えてくれるのです。と言っていました。そんなご夫妻が考えた「アートフェスティバル」は、観光化はしないでギャラリーやアトリエだけでなく、カフェや一般の人の自宅や別荘の玄関、居間、庭先や売り場などさまざまな場所で、プロもアマも誰でも「わたくし美術館」に参加でき、暮らしと自然の中にアートをみつけよう。というものでしたが「五月祭」は実行委員長に谷川さんの名はなく、観光化せざるをえなくなった感が伝わってきました。
大室山を背にしたホテルからの眺めは、見わたすかぎりの緑のグラデーションが広がり、その先の相模灘(さがみなだ)には、大島、利島、新島、神津島などの伊豆諸島の島影がうっすらと望(のぞ)め、「伊豆諸島特産品デザインプロジェクト」が思い浮かびました。本校の学生が9年ほど前から「東京都島しょ振興公社」から依頼され、名産品のパッケージデザインを毎年提案しているものです。昨年は八丈島の特産「黄八丈サブレ」。現在進行中のものに「三宅島粉末あしたば」があります。今月末には毎年行われている、愛らんどフェア「島じまん2018」が竹芝桟橋で始まり、開会式の出席への案内をいただいています。会場では本校の学生がデザインした特産品も売られることになっています。
伊豆高原では、よりどりみどりのアートフェスめぐりのつもりでしたが、「五月祭」は東大の学園祭が連想され、高揚(こうよう)していた気持がなんとなく萎(な)えてしまいました。そういえば、一高生(東大)が淡い恋心を抱(いだ)いた名作「伊豆の踊子」の踊り子は、伊豆大島から来ていたのだった。などと想いながら、東大には何の罪(つみ)もありませんが、「五月祭」になったのは、とうだいもとくらし(灯台下暗し)に思えてなりませんでした。

2018.4.28

おだやかで清々(すがすが)しい初夏ともいえそうな、心地(こゝち)よい暖かさの原宿を、4月20日の朝9時、新入生421名、学担、職員と私も同行、合わせて452名が大型バス10台を連(つら)ねて相模湖プレジャーフォレストへ向かいました。これは、まだ学校生活に慣れないオリエンテーション期間にデーキャンプをして、クラスメイト・先生とのコミュニケーションをはかることを目的とした年中行事です。
かつてはカレーライスやパン作りなどをやっていたのですが、こゝ数年は「ダッチオーブンでピザ作りとコーンスープ&サラダ」になっています。各学科ごとに持ち寄った食材をトッピングして、バラエティー豊かなピザを焼き上げ、にぎやかに頬張(ほおば)る、青春を丸かじりにしているかの姿や、食事の後、プレイランドで遊ぶその躍動感あふれ、青春を謳歌(おうか)している新入生たちを見ていると、あたかもその青春をおすそ分(わ)け、山分(やまわ)けしてもらっているかの気分になりました。
四方(しほう)を山に囲まれたデーキャンプ場は、見わたすかぎりの新緑が春風にゆれ、透明感がある春の陽(ひ)にきらめき映(は)え、身も心も緑に染(そ)まるかのようでした。そんな新緑の木々の間(あいだ)に濃(こ)い緑の杉の木がまとまってあり、花粉が舞っているのではないか、と気になったのですが、どうやらすでに花粉は飛び散ったあとで、ほっとしました。これからは桧(ひのき)の花粉が舞うのだそうです。
この数日前、多くの新留学生を迎え、留学生懇親会を開きました。私はアイサツで、留学中はできるだけ日本の友人をつくり、日本の文化に触(ふ)れるように、などと話をしていたのですが、留学生の中に3人ほどマスクをしているのが目にとまり、思わず花粉症ですか。と聞いたところ、そうではない、と手をふられ、とっさに花粉症は日本特有のものです。日本を代表する固有種の杉の花粉が主(おも)な原因です。日本をより理解し、深く知るためには花粉症になることです。花粉症は日本固有の文化です、来週行く相模湖の周辺の山には杉の木も多く、花粉症になるチャンスです。などと言ってしまいました。なんということを、ですが話の流れでついうっかりでした。日本人の3人に1人は花粉症だといわれ、国民病ともいえ、あながち間違ってはいないとは思いますが、なにしろ気が小さいものですから、本当に花粉症になったらまずいとの思いで、このところびくびくしているのですが、幸いまだそういった話はとどいていません。
花粉症の原因であることから杉の木は、いまや嫌(きら)われものですが、先人(せんじん)の方々が杉の木を植林してくれたおかげで戦後の復興期(ふっこうき)の住宅建築に大いに役立ったことを忘れてはならないと思います。その存在感、力強さなどから森の君主(くんしゅ)ともいわれ、その花言葉は「雄大」で、他に「君のために生きる」があるそうです。
留学生に花粉症になるように勧(すす)めた以上、当然のことですが、私も花粉症にならなければ、との思いですが、症状は花粉症に似ていますが微妙(びみょう)にちがい、どうもこれは加齢症(かれいしょう)のようです。

2018.4.14

ボタン桜とも呼ばれる八重桜(やえざくら)は、いまを盛りと咲いていますが、ソメイヨシノなど一重咲(ひとえざ)きの桜の花は散り、そこはかとない、とりとめのない不思議な愁(うれ)いを感じる、そんな想いを表した言葉に「花過(はなす)ぎ」があります。花過ぎ、のようだった校内も新学期が始まり、あたかも鳥がさえずり、花々が咲き乱れる、春の美しい景色を形容するときに用(もち)いる「柳は緑 花は紅(くれない)」のまさに春爛漫(はるらんまん)になっています。
この時期の芽吹きの美しさは格別(かくべつ)です。芽吹いたばかりの萌黄色(もえぎいろ)の新緑の若葉が、春の光にかがやいている、神宮の森にかこまれた明治神宮会館で、4月9日朝10時より入学式を行いました。この萌黄色は、春先に萌え出る若葉の黄緑色のことですが、新緑の若緑が若さを象徴(しょうちょう)するとして、平安時代に若者向けの色として愛されたという伝統色です。新しい芽吹きの萌黄色の若葉がすぐに濃(こ)くなって、青葉になるであろうことを思い、新しい人生のスタートである入学式で、初々(ういうい)しい新入生と萌黄色が重なって見えてしまいました。 浅い緑色が濃くなると、「青葉」とか「青もみじ」とか、「青柳(あおやぎ)」や、緑色なのに青野菜、青物などといゝますが、昔は色の幅(はば)が広く緑色も含(ふく)めて青といったからだそうです。いまでも緑色の信号を青信号というのもその名残(なご)りのようです。春の青はやわらかく若々しい緑のイメージであり、「青春」は、こゝから生まれた言葉で、夢と希望に満ちあふれ、活力のみなぎるこの時期を、人生の春にたとえたわけですが、入学式の会場はその「青春」が充満(じゅうまん)していました。まったく、縁(えん)もゆかりもない「赤の他人」の人たちが初めて顔を合わせた青春の入学式ですが、「青の他人」とは言わないのは、この「赤」には何もない。という意味や「赤はだか」「まっ赤なうそ」「赤っ恥」など強調する意味があり、赤は明(あか)いからきていて「明らかな他人」「明らかなうそ」の、その意味を強調するため「赤」という視覚的効果を加(くわ)えて、赤という字が当てられたようです。
「赤信号みんなで渡れば怖(こわ)くない」は、1980年ごろの漫才ブームでツービートのビートたけしが、日本人の群集心理をついたネタで言ったのが流行語になりました。このころの私は、色彩の授業で、赤、黄、青の信号の色はどうしてこの色になったのか。どこから始まったのか。という説明で、発祥(はっしょう)の地は大阪で、アホウ(青)気ぃ(黄)つけんとアカン(赤)がな。といっていたことからきている。と伝(つた)えたら、熱心にメモをとっている学生がかなりいて、あわてました。もちろん、これは「まっ赤なうそ」です。ジョークと普段の表情があまり変わらないことから、わりあい信用されてしまう。という欠点があります。もう手遅(ておく)れですが、赤の他人にも誤解(ごかい)されないように、表情を豊かにする顔面(がんめん)の筋(きん)トレをしなくては、と思っているところです。

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