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今村昭秀学校長のコラム

今村昭秀学校長のコラム 2009年度

今村昭秀学校長イラスト

(イラスト:マンガ科 小日向一葉)
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2009年度

2010.3.29

桜の花も咲きはじめ、めぐる季節もすっかり春となりましたが、卒業制作展(5日~7日)卒業式(12日)は、まだ、冬と春が交錯(こうさく)するような日々でした。卒展では、展示されている1200点ほどの全作品を、時間をかけて、ゆっくり、ていねいに見させていただきました。それぞれ専門分野で学んだ集大成である卒業制作は、多くの思いのこもった力作ぞろいでした。毎年のことですが、今年もその完成度に感動し、感銘をうけました。クライアントの意向や制約からはなれ、学生だからこそできる自由な発想の作品は魅力的ですが、当然のことながら、実社会では多くの制約があり、学生時代のようにはできません。制約があるからこそ生まれる豊かな発想と面白さもあります。実社会での活躍を期待したいと思います。最終日は卒業生の交流パーティーがあり、イベントホールがいっぱいになるほどでした。中には30年前に卒業された方や、15~20年ほど前に私が教えた卒業生も大ぜいきてくれ、なつかしい旧校舎にまつわる話でもりあがりました。卒業式は明治神宮会館で多くの保護者の方々に見守られ進行したのですが、開会の辞のあと私が卒業証書を授与するとき、ノドの調子がわるく、最初に読み上げる声がうまく出ず、大きくセキばらいをしたことで笑いがおき、芸人でもないのに笑いをとってしまいスミマセンなどと、いわなくてもいいことをつい言ってしまい、厳粛(げんしゅく)な式場の空気が、いっきにゆるみ、なごみ(?)よかったのか、わるかったのか、わからないまま、(たぶん、ひんしゅくを買ったのではないかと思います。)表彰と式辞をなんとか終えることができました。式の前日には、明治神宮の神楽殿(かぐらでん)で、お祓い(はら)い、祝詞(のりと)を受け、巫女(みこ)さんによる倭舞(やまとまい)で式の無事と卒業生の健康と飛躍を祈願してきたのですが、私個人は失態(しったい)を演じてしまい、無事ではありませんでした。これも、日ごろの行いを反省し、戒(いま)しめるためにあたえられたことだったのかも知れません。今年の卒業生は入学式、フレッシュマンレクリエーション、スポーツ大会など雨の日が多く、雨にたたられた学年という印象がつよかったのですが、卒業式は春の訪れのような良い天気に恵まれ、「終わりよければ、すべて良し」で送ることができて、うれしく、ほっとしました。これからの人生を幸せで豊かに送っていってほしいと思います。 幸せとか、豊か、とかの価値観を他人と比較して惑わされないようにしてください。理想や夢も求めすぎると、いつも、どこかその落差が気になります。理想とか幸福を追い求めるのではなく、自分のなすべきことに必死で取り組めば、幸せは結果としておのずとついてくるものです。自分を信じ、自分を認め、自分を精一杯生きることです。「あなた」が「あなた」自身を生きることです。「あなた」を生きることができるのは「あなた」しかいません。「あなた」にとって大切なのは「あなた」が「あなた」であることです。これは卒業生に向けた贈る(送る)言葉の一部ですが、私自身に向けた言葉でもありました。

2010.3.10

春を告げる花といえば、日本原産の花木として木に春と書く椿ですが、いま、あちこちで咲いていて、春の気配をつよく感じるようになりました。寒さにたえ、寒中に咲いていた、近づく春を教え招いてくれる「寒椿」の凛(りん)とした姿もいいものでした。椿といえば伊豆大島が知られていますが、20数年まえに、椿が咲く、伊豆大島にチャーターした客船で、全学科の1年生全員と行ったことを思い出します。私のクラス(グラフィックデザイン科)に伊豆大島出身の男子学生がいて、よりによってなんで大島に行くんだ、と怒っていました。しかも、われわれのクラスが泊まった民宿が彼の実家のすぐ近くで、お母さんがアイサツにこられ、彼はさかんにいやがっていました。
ヨーロッパで春を告げる花として親しまれているのはミモザの花だそうです。東京でもミモザの木がふえて、いまをさかりと咲いている黄色い花が目につくようになりました。先日(5日~7日)の卒業制作展でのエントランスにも多くの花が飾られていましたが、その中にもミモザの花が見られました。ミモザは明治には日本に入ってきていたそうです。私がミモザの花を初めて見たのは、40年ほどまえのパリの花屋さんでした。ヨーロッパの静物画によくミモザの花が描かれていたのを見ていたこともあり、これがミモザの花か、と本物に感動したものでした。ミモザは、オジギソウなどマメ科ネムリグサ属の総称で、南アフリカに多いそうです。ちなみに花言葉は「豊かな感受性」で椿は「高潔な理性」だそうです。なんとなく、なるほどと思えます。3月8日は、国連が定めた「国際女性デー」でイタリアでは、この日、家族や職場などで女性に感謝をこめて、ミモザの花を贈る習慣があるそうです。日本でも「3月8日はミモザの日」として広めようと、花屋さんがさまざまなイベントを展開したようです。この日、鳩山首相が、ミモザの花束を女性記者ひとりひとりに、手渡していたのが報道されていました。ジャスミンもそうですが、ヨーロッパで初めて見て感動した花が、このごろでは、東京のあちこちで見られるようになり、あの感動が色あせていく思いです。あこがれが目の前にあるとその感動はうすれますが、そうした珍しかった花々があたりまえのように日常的に見られ、街中が植物園のような東京は、それだけでも、なにげない日常が豊かになり、幸せ感にみたされます。こう見えても(?)私は花が好きです。(東京フラワーデザインセンターの日本フローリスト養成学校で特講をしたこともありました。)こうした日常の日々に感じるモノやコトに対しての小さな幸せ感の断片をつなぎ合せて、幸福感というコラージュになるのではないでしょうか。幸せはあるものではなく、感じるもののようです。

2010.2.24

ここ原宿は、平日も週末も若い人であふれ、とくに竹下通りは道がせまく、人、人、人の流れは、まるで縁日のようです。その竹下通りからほど近い原宿署で先日、原宿防犯ポスターの表彰式をしていただきました。卒業制作の提出がせまる中、ビジュアルデザイン科グラフィックデザイン科イラストレーション科マンガ科の学生11名と共に出席しました。署長室で、最優秀賞、他の各賞が10名に授与され、1名は原宿署員が着用するTシャツのデザインが採用され、署長から感謝状を受けました。このTシャツは外国の警察からくるお客さんへのお土産にもしたいそうです。このTシャツの選考には私も立ち合いました。署長と署員30名ほどで選んだのですが、男女兼用ということで婦人警官も10名ほどいて、女性ならではの意見も参考にして採用されたものです。現在ウラハラ(裏原宿)のアパレル会社で製作中です。防犯ポスターは昨年の秋、原宿エリアで活用されました。最優秀賞は表参道ヒルズ入口にも掲示され、KDDIデザイニングスタジオ(Kスタ)の大型ビジョンでも放映されました。この大型ビジョンの画面用に万引防止をアピールするデザインを原宿署から依頼され、本校の学生がデザインしました。Kスタ近くの竹下通りの工事中の仮囲(かりかこい)にも防犯ポスター10点が掲示されています。竹下通りのシンボルともいえるアーチと街路灯のデザインを学内で募集し、昨年の原宿祭でその100点を人気投票し、竹下通り商店会の役員の方々にプレゼンをした結果がやっとディスプレイデザイン科1年の阿部玲子さんの作品に決定し、12年ぶりに新しくされることになりました。そのデザインは竹下通りにちなんで、竹取物語のかぐや姫をイメージしているものです。竹林があったわけでもないのに、竹下通りとはなぜだろうと思いますが、海軍大将竹下勇(たけしたいさむ)という人の屋敷がこの地に建てられたことからだそうです。このあたりは、1965年までは、竹下町といい、住居表示の変更で神宮前となり、この通りだけ竹下の名がのこったのだそうです。原宿という住居表示もなくなり、原宿は駅名だけがのこっています。竹下通りの名が全国に知れわたったのは、1979年に出現した<竹の子族>が多くのメディアでとりあげられ話題になったことからでした。代々木公園入口の道路で、きらびやかで不思議な衣装で踊る若者の集団でした。都内や近郊から集まってきて、その数は日に日に増えていきました。その衣装が竹下通りにある「ブティック竹の子」で売っていたものであったことからその名がついたようです。私の知人の娘さん(中学生)も船橋から土、日に通うようになり悩んでいたので、<竹の子族>に対抗して<竹の親族>を結成して、親たちがより不思議な踊りをおどり、原宿を闊歩(かっぽ)すれば子供たちがシラけてやめるのではないかと私が提案したのですが、残念ながら賛同者が少なく結成にはいたりませんでした。<竹の子料理>があるのだから<竹の親料理>があってもおかしくないだろうと竹をノコギリで切りその粉状になったものを小麦粉でねり、ダンゴにして、油で炒めたり、鍋に入れたりしたのですが、当然のことながら、食べられたものではありませんでした。そんなバカなことを考えたりやったりしていた2年後に本校の講師になりました。 ケイタイ、メール、ネットに覆(おお)われている今は、ネット上に多くの知らない人たちと回路が開かれ、誰とでもつながる、つながれるという思いがむしろ孤独を深めることがあり、一方的にすれ違うことも多く、最近では<ツイッター>といういつでも、どこでも、リアルタイムにつぶやいたり、つぶやきを受けることができるコミュニケーション環境もあり、これは形を変えたネット上の<○○○族>といえるのかも知れません。<竹の子族>のような若者の好奇心やバイタリティは、いつの時代にも欲しいものです。

2010.2.4

「コンビニのおでんが好きで星きれい」芭蕉記念館に行ってきたことで、なにかと俳句が気になるこのごろですが、新聞からこのような句が目にとびこんできました。作者は20代の女性だそうですが、冷たい夜風が身にしみるこの季節のコンビニは、温かいおでんが良く売れるそうです。そのおでんを食べながら星空を見上げている若い女性の光景が浮かんできます。ひらがなカタカナと漢字がまざる、きらきらと、つよくて、やわらかな明るさと、小さな影。メリハリのあるかろやかでリズム感のある音楽のような心地よい表現は、なにか、なつかしい言葉のひびきがあり、あっ、そうだ。これは20年ほど前に、俵万智(たわらまち)さんの短歌「<嫁さんになれよ>なんてカンチューハイ2本で言ってしまっていいの」のときに受けたあの新鮮な印象と同じであることを思いだしました。17音(文字)の俳句と31音(文字)の短歌ですが、それぞれ若い世代の日常の気分を、言葉をそぎおとして、ぎゅっとまとめてストレートにカラリと表わしていて、しかも、そぎおとした言葉を想像したくなるちからもひそんでいます。1987年に280万部のベストセラーになり、話題となった、俵万智の歌集「サラダ記念日」とそのあとに出版された「とれたての短歌です」を久しぶりに開いてみました。「<この味がいいね>と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」など、20才から24才までにつくった内の430首が、この歌集におさめらてていて、その表現は、当時のコピーライターにショックを与えました。1980年代はバブル景気に日本中が浮かれていたときでした。「大きければいよいよ豊かな気分東急ハンズの買物袋」俵万智は新人類歌人などともいわれ、俵万智ブームがおこり、俵万智風の広告コピーやテレビドラマ化されたり「男はつらいよ<寅次郎サラダ記念日>」など映画化もされました。(併映作品が釣りバカ日誌の第1作目でした。)そのころ教えていたグラフィックデザイン科の学生の中にも歌集「サラダ記念日」を買っているものもいて、教室の黒板に俵万智風の短歌を書いて、私に返歌をうながす歌もあり、けっこう楽しくやりとりをしました。「<この色がいいね>と君がいったから作品ぜんぶピンク記念日」「<この味がいいね>と僕がいってから3日つづいたカレー記念日」というように○○記念日とすればなんとかまとまることもあり、それぞれの記念日を学生と一緒に書きつらねたりしました。あのころの歌には、テレホンカード、電話、手紙、ワープロ、肩パッド、食堂車などがあり、(卒業生の結婚式に出席すると2人の似顔絵やメッセージ入りのテレホンカードをくれたものです。)現在はケイタイ、メール、コンビニなどの言葉の移り変わりがみられ、言葉は時代を映す鏡でもあり、俳句や短歌のように、多くを語らなくても伝わる、過ぎず、足りなくもない、的(まと)を射(い)た言葉。この感性、感覚がビジュアルコミュニケーションデザインにも必要なのかもしれません。

2010.1.21

年の初めの江戸情緒をともなった新鮮な気持をできるだけ続けたいと思い、成人の日、着物姿と行き交いながら、江戸情緒がただよう深川かいわいをめぐってきました。深川へは清澄白川か木場、門前仲町駅をつかうのですが、あえて大江戸線にのり、森下駅でおりました。森下は江戸の風情(ふぜい)がのこる、さくら(馬肉)鍋の「みの家」があり、久(ひさ)しく「みの家」には行ってないなあと思いつつ「芭蕉記念館」に向いました。松尾芭蕉は日本橋から、ここ深川に移り住んで、多くの名句や「おくのほそ道」などの紀行文をのこしました。館内には、芭蕉の書簡(しょかん)や句の短冊(たんざく)や芭蕉にまつわる資料などが展示されています。庭には<ふる池や蛙(かわず)飛び込む水の音>などの句碑があり、投句箱もおかれており、句のひとつも詠(よ)んで入れたいところですが、悲しいかな私には句心(くごころ)がありません。俳句には興味や関心があるのですが、このショートコラムでさえショートとはとてもいえない長い文になってしまい、感じたことを、5・7・5のたった17文字で表現することなどできません。芭蕉庵(ばしょうあん)と呼ばれていたころに想いをはせながら、すぐ近くの隅田川のほとりにある芭蕉庵史跡庭園と芭蕉稲荷神社を回り、深川七福神の深川神明宮に参拝して、深川江戸資料館に寄りました。江戸深川の人々の暮らしぶりと江戸情緒にどっぷりと浸りました。
江戸時代にいくつかの小島がある海を埋め立て、運河をつくり、材木を浮かべる貯木場(木場)をつくって、そこを又埋め立てた場所にできた東京都現代美術館にも行きました。パフォーマンスで知られているドイツの現代美術家「レベッカ・ホルン展」は、パフォーマンスの映像や、パフォーマンスで使用した装置や機械仕かけで動く立体作品などで、静けさに潜む暴力性や知的で優雅な官能が展開されていました。もうひとつの企画展「ラグジュアリー:ファッションの欲望」展では、英国のエリザベス1世時代の胴着から、ルイ・ヴィトンやバレンシアガなど現代の高級ブランドの服など100点ほどと、吹きぬけのあるアトリウムの会場にコムデ・ギャルソンの作品を透明なアクリル板に封じ込めて展示するなどで、ラグジュアリー(ぜいたく)とは何か、心のあり方を問いかけられているような空間でした。この東京都現代美術館は校外授業でグラフィックデザイン科の学生と一緒に何回か来ており、地元の学生は自転車できていたことなどを思い出しながら、江戸情緒と現代美術のコントラストにとまどい、江戸から東京へと新しい時が流れ「そこに生きる今の自分」に向き合い、見つめさせられた江戸の深川と東京の深川でした。

2010.1.7

新しい年の授業は6日から始まりました。学生の新しい年への希望と期待に応えるべく、今年も教職員が一体となってサポートするつもりです。教職員の仕事始めは5日でした。新年の参拝、祈願に地元の鳩森八幡神社に行ってきました。社殿で学生の安全と学校の繁栄を祈願しました。静かな社殿の外では、近くの会社員らしい人々が参拝に訪れ、おさい銭を投げ入れる音が聞こえてきました。お賽銭(さいせん)は、もともとは「恵みに感謝する」という意味があり、海産物や洗った米を白い紙につつんでささげていた「洗米(せんまい)」が「散米(さんまい)」と呼ばれ、室町時代にお金に変って「散銭(さんせん)」となり、その「散銭」が「賽銭(さいせん)」に変化したのだそうです。「賽(さい)」には、神仏へのお礼という意味があり、米からお金に変ると、参拝も感謝だけでなく、願いごとをするようになったようです。お寺では仏教の教えで、欲や執着を捨てることが大切なので、お参りは願いごとをするのではなく、今、生かされていることに感謝し手を合せるのだそうです。おさい銭を投げるのは神仏に失礼ではないか、という人もいますが、お金に厄(やく)をつけ、投げることで、はらい清めることができるので失礼ではないそうです。社殿での祈願では初穂(はつほ)料というものを払うのですが、初穂とはその年に最初に実った稲の穂のことで、神や朝廷にささげていたものが今では神社や寺などに初穂の代わりに出すお金のことをいうそうです。今年の干支(えと)は寅(トラ)ですが、本校の年賀状も虎(トラ)をデザインしたものです。毎年、学生から年賀状のデザインを募集しているのですが、今年はグラフィックデザイン科2年の留学生、金美令さんのデザインが採用されました。数年前までは、色づかいなどで、留学生の作品はだいたいわかったのですが、最近では審査のときにはほとんどわからなくなっています。若い世代の感性が国を越えて同じようになってきていることがわかります。年賀状や、年始のアイサツ、初詣など新年ならではの風習や恒例行事、食文化は、習慣とはいえ、面倒なことも多いのですが、江戸時代までは、神道によって清い心、自然を愛する心を教えられ、仏教では慈悲の徳、忍耐。武士は儒教で社会の義務を果たす忠義と孝行を教えられ、そうした神道、仏教、儒教の混り合ったモラルが江戸時代の日本人のバックボーンでした。江戸しぐさ、なども見直されていますが、今、私たちが忘れかけている大事な多くのものが、年末、年始の風習や行事に残って伝わっているように思われます。江戸時代に戻るわけにはいきませんが、せめて精神性の回復はしたいものです。今までは感謝することなく、お願いばかりしていましたが、これからは神社に参拝するときは、感謝をしてからお願いするように心がけるつもりです。

2009.12.25

12月に入ると東京の街は、イルミネーションや、デコレーションでクリスマス気分が高まり、クリスマスムード一色になりますが、本校の1号館、2号館のエントランスでも、ディスプレイデザイン科の学生がデコレーションしたクリスマスツリーが学生を迎えてくれています。ここ原宿表参道のケヤキ並木のイルミネーションも、11年ぶりに復活しました。イルミネーションのさきがけであり、冬の風物詩として知られていたのですが、交通渋滞や、騒音、ゴミ、ケヤキに負担をかけるなどで中断されていました。ここ数年は、ほのかに灯(とも)る、やさしく包みこむような「和」のあかりでした。明治神宮の参道としては、こちらの方が似合っていたのですが、華やかさがないため、若い人の心を灯(とも)すことはできなかったようです。今年は、LEDのイルミネーションで、省エネや、エコにも配慮され、ケヤキへの負担も少なくなっています。
訪れた人がケヤキにメッセージとベルをつけるイベントもあり、キラキラときらめくイルミネーションと風でゆれるベルが奏(かな)でる音色が、ここちよくシンクロしています。この「表参道イルミネーションベルシンフォニー」を主催している「原宿表参道ケヤキ会」の会員として、本校も清掃のお手伝いをしています。表参道から、キャッツストリートを入口としている裏原宿(ウラハラ)も、キャンドルで光の導線をつくり、ウラハラエリアを、クリスマスキャンドルで願いを灯(とも)す”優しい光の道”というテーマで表参道の華かさとは一味ちがう、別の顔をみせています。明治通りからウラハラへの入口にある、KDDIデザイニングスタジオ(Kスタ)で先日、キャリアコース(夜間講座)の、オリエンテーションを行いました。これは、毎年、本校とKスタさんのコラボレーションで、学生がKスタのアドカードをデザインするために館内を見学しているものです。今年も、館長さん自からスタッフと一緒に案内と説明をしてくださいました。Kスタの館内もクリスマスムードがただよっていました。外からも見えるエントランスには、高さ7メートルほどの全体が真赤に染ったジャンボツリーが飾られていました。赤い糸や布でつくられたハートのクッションや星、大きなリボンなどがちりばめられていて、そのすべてが赤で、テーマが「赤い糸が結ぶ、最高にハッピーなクリスマスを。”LOVER’S TREE”」となっていました。オリエンテーションに参加した学生たちも、本校との出会いや、クラスメートになった縁などを大事にしていって欲しいと思いました。
「和」より「洋」の印象がつよい12月ですが、年末とか、師走(しわす・旧暦の12月の別称)とか、年の瀬などという日本的な言葉もあり、日本人が時代を超えて育んできた情緒を、今に伝える風習や行事など、ふと心によみがえる、懐しい師走の風景にも心を寄せ、それらに触れ、その雰囲気も楽しみたいものです。師走の風景とクリスマスデコレーションが混然一体となっている東京の街も、それはそれで、不思議な魅力をかもしだしています。今年も1年間、私の人生に陰影と奥行きを与えてくれ、心豊かにしてくれた多くの、あの人、この人。に行く年を感謝して、来る年を迎えたいと思います。ありがとうございました。良いお年をお迎え下さい。

2009.12.10

12月1日は「世界エイズデー」でした。各地でエイズ問題への理解を広める啓発キャンペーン、イベントが行われ、ワシントンのホワイトハウスでも、大きなレッドリボンがかかげられ、報道されていました。都庁の窓も「レッドリボン」にちなんで、赤色にライトアップされ、幻想的な「赤い灯」が浮かびあがりました。本校のイベントホールでも、指さきからエイズ啓発キャンペーン「ネイルにレッドリボンを。」というイベントが行われました。(レッドリボンとは、エイズについて理解し、差別や偏見をもたないという、世界中で使われている、エイズ啓発のシンボルマークです。)主催は、シェア=国際保健協力市民の会、サンスター株式会社で、本校が会場を提供させていただきました。
ネイルにレッドリボンを描いて、指さきからメッセージを発信しようと呼びかけるイベントで、身近なオシャレと社会的メッセージを融合した、新しいタイプの参加型エイズ啓発キャンペーンです。イベントでは、HIVとともに生きるアジアの女性たち。を追った短編映画「DIAMONDS」が日本で初めて一般上映され、そのあと、ネイルアーティストの草野順子さんによるトーク&"レッドリボンネイル講座”とレッドリボンのネイルへの描き方の紹介があり、50人ほどの参加者が(本校の学生、職員10名が参加しました。)それぞれ、レッドリボンのネイルアートに挑みました。ほとんど女性の参加者でしたが、数人の男性もいました。楽しそうで、なごやかな雰囲気がただよい、心地よい一体感が生まれる中、私はただ、ただ眺めているだけで、参加する勇気がありませんでした。先月の6日、関連イベントとして、イラストレーション科の特別授業で、サンスター広報室の協力を得て、「ARTの視点から考えるHIV/エイズワークショップ」を行いました。HIV/エイズについて、それぞれが理解した上で、レッドリボンをテーマに、レッドリボンの普及のためのキャラクターデザインを制作しました。80点ほどの作品から40点を選び、当日のイベント会場で展示し、その中から、「レッドリボンキャラクター大賞」「シェア賞」「サンスター賞」の3名を表彰していただきました。むずかしいテーマであるため、学生がキャラクター表現できるかどうか心配していたのですが、それぞれが理解して表現したキャラクターは、メッセージが、かわいく、たのしく、わかりやすく伝わる作品が多く、若い感性は、うらやましいほどに素晴らしいものでした。伝えたいメッセージを伝えるためには、むずかしいことを、やさしく。やさしいことを、ふかく。ふかいことを、おもしろく。がコツだそうですが「ネイルにレッドリボンを」のイベントも、学生によるキャラクターデザインも、その言葉どおりのものでした。 同じ日、都庁の展望室で行われた、東京都主催のエイズ啓発ライブイベント内に「ネイルにレッドリボンを。」のコーナーがおかれ、本校でのイベントと連動したイベントになったようです。私も15年ほど前、厚生省、エイズ予防財団の「世界エイズデー」のポスター制作に関わったことがあり、ここ数年でもOAC(日本広告制作協会)のクリボラ展(クリエーターボランティア)で、ユニセフのキャンペーン「世界の子どもを守れ、HIV/エイズから守れ」をテーマに学生がポスターを制作し、私もクリエイティブディレクターとして手伝ったり、本校のギャラリーで、クリボラ展の作品展示、メキシコのデザイナーによるエイズをテーマにしたポスター展を開催したりしています。今年は、新型インフルエンザに関心があつまり、エイズへの警戒がうすれている中、エイズへの関心の高揚、啓発のためのイベントに本校が少しでもお役に立てたことは、ありがたく、イベントの最後にアイサツを求められ、感謝の気持ちをのべました。シェアのようなNGO、HIV/エイズには直接関係のない企業、さまざまな参加者が一緒にこのような有意義なイベントで、同じ時間を共有することに、新鮮な感動をおぼえました。

2009.11.26

公園の木々や、街路樹の紅葉が彩どりを増し、この季節ならではの色彩美に心誘われながらも、紅葉は細胞が病んでいくことで色づき、落葉はその死を意味する。との思いもあります。 「桐(きり)一葉(ひとは)落ちて天下の秋を知る」などの言葉もあり、一葉つながりで、樋口一葉の命日である、11月23日に一葉ゆかりの本郷菊坂にでかけました。一葉が通った旧伊勢屋質店が1年で1日だけ、一葉忌の23日に一般公開されることを知ったからでした。樋口一葉は明治23年~26年の間、菊坂に住んでいたのですが、菊坂時代は、生活が苦しく、質屋通いをしながら文学で身を立てようと決意し、文学修業をしていたところでした。一葉もつかったといわれる古井戸も路地の奥に残っています。伊勢屋質店の白い蔵と格子の美しい木造の見世(店)、座敷などを中に入って見ることができ、一葉が通ったころの面影(おもかげ)をしのぶことができました。一葉は菊坂から、下谷の竜泉寺町に転居し、1年足らずで菊坂に近い福山町に移り住んで「ゆく雲」「にごりえ」「たけくらべ」など次々と作品を発表しました。菊坂のあとに住んだ台東区竜泉の一葉記念館で「一葉祭」が開かれていると聞き、そちらにも行ってきました。菊坂時代に、一葉が小説の指導をうけ、師とも兄とも慕った半井桃水(なからいとうすい)との交流が手紙とともに展示されていました。5,000円札の一葉の顔を、ときおり見ながら、樋口一葉が生きた明治時代に、ひと時、思いをはせました。一葉が24才という若さで亡くなった同じ年の明治29年(1896)に生まれ、昭和の漫画誌の名編集者といわれた加藤謙一の「実録!”漫画少年”誌」展を見に、菊坂から歩くのにほどよい「文京ふるさと歴史館」にも行きました。加藤謙一は戦前に現在の講談社に入社して、「少年倶楽部」の編集長となり、日本一の少年雑誌にした人です。それは、附録(ふろく)を充実させたり、読みものを中心とした誌面に「漫画」を多く掲載したことにあるとされています。戦後、講談社を退社して、昭和22年(1947)に学童社を設立し、「漫画少年」誌を刊行したのですが、個人経営による資金ぐりがきびしく、苦肉の策として原稿料の安い新人漫画家を登用し、ここから、手塚治虫、寺田ヒロオ、石ノ森章太郎、藤子不二雄、松本零士、長谷川町子、つのだじろう、山根赤鬼・青鬼兄弟、などなどが育っていきました。当時、漫画家をめざす若者たちの聖地ともいえるアパート「トキワ荘」も、学童社の編集者が、手塚治虫をカンヅメ状態にして漫画を描かせるために、トキワ荘に住まわせたことが始まりで、手塚治虫を慕って藤子不二雄や、石ノ森章太郎、赤塚不二夫なども暮らすようになったことなども、この展示で知りました。1960年~80年代ごろの漫画は、低俗なもの、悪しき文化といわれ、子どもたちの健全な発育に害をもたらすなどと、悪書追放などの動きがあり、テレビで放映される漫画のアニメーションも、PTAなどから有害番組などといわれていました。今やマンガやアニメは、日本の文化の代表的な輪出コンテンツになっており、時代の変化にとまどいますが、低俗、有害などといわれた時代から、その魅力や素晴らしさを発信しつづけ、支えてきた人たちがいたことを忘れてはならないとの思いを改めて強くしました。「漫画」から「まんが」。「まんが」から「マンガ」。「マンガ」から「MANGA」。へと変化し、進化している現在。本校のマンガ科も新しいメディアを見すえて、新しいタイプのマンガ家を育成したいと思っています。

2009.11.10

これぞ秋晴れといえるような11月3日の文化の日。入学イベントの学校説明会、特待生説明会があり出校しました。貴重な祝日に参加して下さった方々に、感謝をこめてアイサツさせていただきました。役割を終えて、NHK放送センターの、NHKふれあいホールギャラリーに、本校の作品展を見に行きました。これはNHK主催の「エコール・ド・渋谷NHKアートギャラリー2009」8batonsという都内のアート・デザイン系の専門学校が一週間ごとに展示しているものです。NHKも原宿に近かいということもあり、本校は原宿をテーマにした各学科の作品と、原宿祭でのライブペインティング作品8点も展示しました。
原宿祭が終わってからも、こうして原宿のテーマが地域とつながっていることをうれしく思いながら、バラエティ豊かな作品を、見させてもらいました。NHKをあとにして、明治神宮外苑絵画館前で開催されている「TOKYO DESINER’S WEEK2009」を見に行きました。東京の秋の風景を代表するイチョウ並木はまだ黄色に染っておらず、陽あたりの良いところがわずかに色づいているていどでした。イチョウは東京のシンボルの木ですが、全国の街路樹としてもイチョウが1位で、サクラが2位だそうです。イチョウは移植しやすく、病害虫に強く、長寿でもあるため、街路樹として広く利用されてきたようです。イチョウは室町時代より前に中国から渡ってきたとされていますが、木にはオスとメスがあり、ギンナン(銀杏)は、メスの木になるのですが、若い木はオス・メスの見分け方がむずかしく、オスとして植えた街路樹にギンナンがなっていることもよく見かけます。黄色に染まったイチョウは秋そのものですが、赤ではなく、黄色なのに紅葉(こうよう)というのは不思議です。古事記や万葉集の時代は、白と黒以外の色を示す言葉は「赤」と「青」しかなかったようです。今でも青葉というくらいですから緑色が「青」といわれていたのは分かります。古代では黄色も赤に分類されていて、ミカンを赤というところも残っているそうです。
秋は誰でも詩人になる。とかいわれるのは、秋の字の入った憂愁とか哀愁とか、うれい、悲しみ、ゆうつ、などを意味する言葉が合う季節だからのようです。黄の字の入る黄昏れ(たそがれ)は夕方、夕暮れのことですが、人生のたそがれ。などという言い方もあり、私も若々しい心は消えていないと思いつつも、いつの間にか「秋」がしっくりと落ちつく年になってしまいました。神宮外苑がデザインミュージアムになる、コンテンポラリー・インテリアのトレードショーの「TOKYO DESIGNER'S WEEK」は、国内外からメーカー、デザイナー、学生が参加するハイクオリティな展示会で、本校のインテリアデザイン科ディスプレイデザイン科などの学生8名が出展していて、その作品は「Green Life」をテーマに、日常生活で気がつかなかったり、忘れかけたりしている、自然や環境への関心をたかめるキッカケになるような作品でした。Green LifeのGreenは緑で、みどりは新緑を指していて、それが色名になったようです。古代では、青が緑でもあったわけですから、青春の青は緑ともいえます。本校の20代の学生のみずみずしい感性の作品は色でいえば、正(まさ)に青春の緑でした。「秋」だからこそ、学生の作品に「春」を見てしまったのかも知れません。

2009.10.29

空の色にも季節のうつり変わりが感じられた、秋晴れの3日間(16日~18日)学園祭である「原宿祭」が開かれました。原宿という地域に根ざしたデザイン専門学校として、原宿文化について考え、デザインの視点から原宿の環境を見つめなおし、これから3年間”LOVE Design LOVE Harajuku”をテーマに本校から、原宿の魅力を発信していくことにしました。今年は”1000人の原宿カタログ”として、全学科の学生が、原宿をテーマにポストカードを制作し、その作品を1人ひとりが自ら展示するインスタレーション空間として展開しました。同じ会場で原宿をテーマにグラフィックデザイン科イラストレーション科の学生8名が会期中ライブペインティングを行い、生きいきとした楽しい空間になりました。又、原宿竹下通り商店会から依頼された、竹下通り街路灯デザインのプレゼンテーションも行いました。これは、原宿駅の竹下口を出てすぐの、竹下通り入口にあるアーチ状の街路灯と、竹下通りの街路灯のデザインを、学内で募集したものです。100点の応募があり、学内選考した40点を、竹下通り商店会の役員の方々に事前に来校して見ていただき、その中から6点が選ばれました。ピックアップされた作品の6名(ディスプレイデザイン科、ショップデザイン科)が原宿祭会場で竹下通り商店会の方々の前で緊張しながらも、元気に自分の作品をアピールしました。応募した全作品100点(インテリアデザイン科、ショップデザイン科、ディスプレイデザイン科グラフィックデザイン科ビジュアルデザイン科イラストレーション科)も展示して、来場された方に人気投票をしていただきました。皆さん、迷いながらも熱心に見てくださいました。プレゼン、人気投票などを参考に採用を決めていただくことになっています。又、本校の原宿デザインカリキュラム<デザインマインド豊かな原宿のクリエイティブな資源を活用したカリキュラムで独創性や感性を育む>で制作した各科の作品も展示しました。
原宿の街とタイムリーなコラボレーションとして、ディスプレイデザイン科がデザインした表参道「原宿クエスト」のエントランスピロティ柱巻きの「秋色のツリー」は表参道を行き交う人々に季節の訪れを演出していました。竹下通りのパレフランス跡地の工事中の仮囲いのところに本校学生が制作した原宿地区防犯ポスターが10点掲示されていたり、その先の「KDDIデザイニングスタジオ(Kスタ)の1Fから2Fへのスロープの壁面にキャリアコースの学生が制作したKスタのアドカードがパネル展示されていたりして、原宿祭期間中にも原宿の街と本校が共振、共生するシーンが見られ、本校と原宿の街が融合し、交感するコミュニケーションがあることが原宿祭を通してより強く実感できました。これからも原宿のヒト、モノ、コトとのコミュニケーション、コラボレーションをより良くしていきたいと思っています。(18日の夕方からOB・OG会があり、20年前の卒業生3人が出席してくれ、卒業以来の再会に話がはずみました。)

2009.10.6

朝夕、吹く風が涼しさを増してきたとはいえ、まだ夏のなごりがただよう先月中旬、保護者会を行いました。休日にも関わらず、多くの保護者の方々に出席していただき、うれしく、ありがたく、感謝の気持ちでアイサツをさせていただきました。皆さんの関心事である、就職部からの話や、学科別、クラス別の現状報告、学坦との個別面談や、ふだん学生が使っている、学生総合センター、図書室などの施設を見ていただきました。又、就職アナリストによる講演「親子で向き合うはじめての進路選択」や、本校カウンセラーによる「子どもの心を育み、行動を促進する言葉」などの話があり、来てよかった、と思っていただけたのではないかと勝手に思っているところです。これからも、本校への信頼、安心につながるよう、できるだけ保護者の方々とコミュニケーションをはかっていきたいと思っています。
25日の夜、キャリアコース(夜間講座)10月生の修了式がありました。6ケ月あるいは1年間、仕事を終えてから、疲れた心と体で通学された、その強い意志と情熱に、敬意を表する気持でアイサツと成績優秀者の表彰を行いまいた。学生ホールに集まった各講座の修了生と教職員の懇親パーティでは、それぞれが学校生活をふりかえって、にこやかに話がはずんでいる姿があちこちで見られ、こちらに足りないことがあったのではないか、との思いもあり、その光景に私の気持も少し休まりました。
30日の午後、この3月に新庁舎に移った原宿警察署に行ってきました。明治通り沿いの新庁舎は、地上15階、地下2階の明るく近代的な設備で、旧庁舎より大きくスケールアップしていました。某男性タレントが夜の公園で服をぬいで騒いでいたとして留置され話題になったのもこの新庁舎でした。その9階の道場もある講堂で、原宿防犯協会ポスターコンペの審査会があり出席しました。ここ数年、原宿防犯協会より依頼されて、本校の学生が制作し、応募しています。今回は、グラフィックデザイン科ビジュアルデザイン科イラストレーション科の学生が応募しました。審査は、原宿警察署長、原宿防犯協会長、原宿警察生活安全課長、本校理事長、私で行いました。80数点の中から最優秀賞、原宿防犯協会会長賞、原宿警察署長賞、本校理事長賞、学校長賞、他数点の授賞作品を選びました。最優秀賞は、やわらかな色彩と、おだやかで、やさしいほのぼのとした表現のイラストで「地域の皆んなで守る」というメッセージが、世代を超えて伝わる作品でした。作者は、ビジュアルデザイン科の深浦亜希さんで、この作品は、これから原宿地区の防犯運動に活用されることになっています。このような地域のお役に立てる機会は学校にとっても大変ありがたく、感謝の気持ちでいっぱいです。審査が終わって、生活安全課や署長室に招かれ、しばし歓談のひと時を過させていただきました。4階から7階までが留置施設とのことですが、(かなり空いているそうです。)いくら近代的で明るいとはいえ、留置場に入ることがないように生きていかねば、と心に誓いながら原宿警察署をあとにしました。

2009.9.24

六本木の国立新美術館で二科展が9月2日~14日まで開催されました。初日の10時にオープンニングのテープカットが、織田広喜絵画部、二科会理事長。小山由寿彫刻部代表。今村昭秀デザイン部代表。大竹省二写真部代表。村田英樹国立新美術館館長により行われました。本校のグラフィックデザイン科イラストレーション科キャリアコース(夜間講座)の在校生、卒業生がデザイン部門に多数、入賞・入選しました。よく、芸術の秋。といいますが、作品制作や展覧会をする人間にとっては、夏が最も忙しい季節となります。私も毎年、教室を開放して、在校生、卒業生に時間の許すかぎり、休日も、二科展出品者にアドバイスをしています。 初日の午後、絵画部に入選している歌手の工藤静香さんがお忍び?でこられ、(報道向けには3日来館)ご自分の作品を見られたあと、デザイン部に案内しました。これはデザイン部の「触って観る」ポスター、アートコーナーに、デザイン部入選作品と彫刻作品などと工藤静香さんの入選作品を立体化して展示していたからでした。このコーナーの主旨を理解していただき協力してくれたことへのお礼と説明をしてご自分の作品を手で触れて見ていただきました。今回は今までより凸凹をはっきりさせ、わかりやすくしました。このコーナーは目の不自由な方にも美術館に足をはこんで鑑賞していただきたいとの思いで企画したものです。 夜は恒例の絵画部、彫刻部の懇親パーティが東京ミッドタウンのホテル、ザ・リッツカールトンで行われ、招待を受け出席しました。織田広喜二科会理事長と同じテーブルの主賓席でした。今年はやっと定評のある料理を堪能(たんのう)することができました。
5日はデザイン部の授賞式が国立新美術館のホールで行われ、本校の在校生、卒業生も晴れやかな表情で出席していました。私は、代表アイサツ、賞状授与などの役割がありましたが、全国から集まった250名ほどの方々とできるだけ話を交わしたり、写真に入ったりして喜びを共にさせていただきました。パーティでは飲食をしながら、今年の特別テーマ「FOOD ACTION NIPPON」が話題になりました。日本の食料自給率40%を1%アップしたいとの農林水産省の後援でこのテーマでポスターを公募したのですが、審査が終わって間もなく、1%アップして41%になったとういう報道があり、展示しないうちに1%アップしてしまい、国民的には、喜ばしいことですが、展示作品には食料自給率が40%とか1%アップとか表現されており、デザイン部としてはタイミングが悪いことになってしまいました。このようなテーマ、企画も含めて、デザイン部の作品は、実に多彩、多様でエキサイティングな作品が多く、審査のときも何が出てくるのか、ドキドキ、ワクワクの連続でした。出品者のエネルギーに圧倒されました。こうした表現の背景には、アニメやマンガなどのサブカルチャーが日本の代表的な大衆文化といわれたり、あらゆる表現領域が、それぞれ越境するボーダレス化や、めまぐるしく変化するメディアの変容が応募者の作品に具体的な表現となり形となってきているように思えました。 11日の読売新聞の武蔵野版に「二科展こつこつ10年入選」とういう見出しで、本校イラストレーション科卒業、キャリアコース修了の関琴美さんが、二科展にまつわるエピソードや活躍について本人の写真入りで大きく紹介され、うれしく読ませてもらいました。12日には昨年お世話になったベトナム大使ご夫妻が二科展にこられるとの連絡をいただいたのですが当日、入学イベントの学校説明会があり、ご案内することができませんでした。絵画部の会員に対応していただき、予定の時間をオーバーするほど楽しんでいかれたと聞き、ほっとしました。私にとって1年で最も忙しい季節が今年も又、充実した心地よい疲れと共におわりました。

2009.8.31

ドームやガレの工房があった、フランス・ナンシーの地とつながっているかのように、あえて錯覚したまま、清里北澤美術館を出て、清里の自然をのんびり散策しました。そこには、見てきたばかりのガラス工芸のモチーフに見られた、自然に対する日本人の繊細(せんさい)な感性に共通する郷愁にも似た風景が広がっていました。
清里をあとにして、小海線で佐久平をへて、中軽井沢に向かったのですが、途中、野辺山駅に下車して、次の列車がくるまでの1時間半、さわやかな風が吹きぬけ、おだやかで、ゆったりとした夏の時間が流れるホームのベンチや、趣(おもむき)のある駅舎(えきしゃ)の周辺を、何をするでもなく、見るでもなく、ブラついて過ごしました。駅のホームでは、1345メートルの駅としては最高地点の表示の前で、記念撮影をする人たちも見られました。野辺山駅から佐久平駅まで、小海線の沿線風景をたのしみながら、その日は中軽井沢に泊まり、翌日、ホテルからほど近い、セゾン現代美術館に行きました。緑ゆたかな林に囲まれた美術館は、浅間山を望む広い庭園があり、数々の彫刻がおかれ、緑の中を散策しながら、イサムノグチなどの作品を鑑賞することができました。館内では現代美術の草創期のカンディンスキー、クレー、デュシャン、マンレイ、エルンスト、ミロなど。戦後世界の現代美術のポロック、ロスコ、サムフランシス、ジャスパージョーンズ、アンディウォーホル、リキテンスタインなど。戦後日本の現代美術の岡本太郎、菅井汲、荒川修作、篠原有司男、中西夏之など。企画展ではステラ、スーラージュ、クライン、フォンタナ、ヴァザルリなどなど、それらの作品のほとんどが1960年から70年代に出会った作品でした。作品、作家それぞれに、当時のことが懐かしく思い出されました。「反芸術」をかかげて、既成概念をくつがえすような廃物(はいぶつ)のオブジェ作品や、さまざまなパフォーマンスをくりひろげていた若手作家たちの熱気にあおられ、私も個展やグループ展、パフォーマンスなどで、若気(わかげ)の至(いた)りのような作品を発表していました。そのころ、前衛芸術の発表の場となっていた読売アンデパンダン展を見て、荒川修作、赤瀬川原平、篠原有司男、中西夏之など多くの若手作家の、そのエネルギーと斬新(ざんしん)な表現に圧倒され、私も出品したくなり、最終展となった、1963年の読売アンデパンダン展に出品しました。作品が年ごとに過激になり、会場の東京都美術館から苦情が出たりして、主催の読売新聞社がこれ以上は続けられないと中止になってしまいました。伝説となった展覧会に出品でき、その時代の空気と空間を共有できたことは、その後の制作意欲にもつながっています。若くて、貧しかったあの頃は、若さゆえの熱病にかかったように作品制作に夢中でした。歌の「神田川」のように3畳間のアパートに住み、4畳半に出世(?)したころでした。今にして思うと、よくあんな、冷房も、暖房もない、狭(せま)いところで制作ができたものだと思いますが、若さがその全てを解決してくれたのでしょう。当時はまだ結核がはやっていて、変なセキがでるので仲間から病院で診てもらったほうが良いといわれ、住んでいた中野区の保健所に行き、血沈(けっちん)をとったとたん、貧血で倒れてしまい、しばらく、意識不明でした。単なる栄養失調とわかり、保健所始まって以来、こんな人は初めてだと笑われたことなど思い出します。
セゾン現代美術館から、旧軽井沢に近い、脇田美術館に行きました。脇田和の個人美術館で数年前の教職員旅行のおりにも寄ったことがあります。その時は脇田さん本人がおられお会いすることができました。作品は、鳥とか花、子供たちなど、身近かなものをテーマに描かれており、その詩情ゆたかで、抒情的な半具象のフォルムと、澄みきった色彩とマチエールは、セゾン美術館で高揚した気持ちをおだやかに静めてくれました。

2009.8.21

先週の休日、日本で一番高いところを走る高原鉄道の小海線に乗り、清里から佐久平の沿線をめぐり、軽井沢を回ってきました。中央本線に乗るたびに、小海線への乗りかえ駅である小淵沢(こぶちざわ)駅が気になり、いつかこの駅に降りて、小海線にのりたいと思いながら、いつの間にか30数年が過ぎていました。小海線は小淵沢駅(山梨県)から小諸駅(長野県)をつなぐ約80キロの路線ですが、清里-野辺山駅間に標高1375メートルのJR鉄道の最高地点があることや、世界で初めてハイブリッド車両が運行されたことなどでも知られています。1980年代のバブルといわれたころの清里は、オシャレなペンションが建ちならび、若い女性に人気のリゾート地として、そのにぎわいが話題になっていました。(当時教えていた女子学生のグループが清里に行き、そのおみやげのお菓子をクラスの皆んなで食べたことなど思い出します。)そのころのイメージがあり、清里に行くということがテレくさく、自分の中で心の整理をするために、「小海線でアートの旅へ」としました。清里への車窓からは、富士山、八ヶ岳、南アルプスなどの山々が見られ、レタスやキャベツ、トーモロコシなどの高原野菜畑が、草原の風と輝きに映えて、さわやかな夏の風景が広がっていました。清里駅に降りて、とりあえず、八ヶ岳山ろくの八ヶ岳高原と清里高原が一望できるというスキー場のリフトに乗り、足もとに広がる草花を眺めながら、標高1900メートルの頂上につき、360度の大パノラマでの雄大な景色を眺めることができました。
この日は、清里高原のホテルに泊まり、翌日、清里北澤美術館に行きました。カラマツ林の中にたたずむ小さな美術館ですが、この北澤美術館は、フランスのアール・ヌーボーのガラス工芸品を展示するため、1983年に諏訪湖畔に諏訪北澤美術館として設立され、その姉妹館として清里にできたものです。19世紀末のフランスのアール・ヌーボーのガラス工芸品のコレクションは世界でもその充実した内容で知られています。私はアール・ヌーボーのエミールガレやヤドーム兄弟のガラス工芸作品が好きで、諏訪の北澤美術館ができたとき、すぐに行ってきました。その後、清里にもできたことを知り、いずれは、と思っていました。アール・ヌーボーは「新しい芸術」という意味のフランス語ですが、建築、インテリア、絵画、ポスターなど多様なジャンルで自然をモチーフに曲線を生かしたデザインで知られています。アール・ヌーボーの華(はな)といわれるのが、ドームやガレに代表されるガラス工芸品です。ここ清里に展示されている作品はほとんど以前に何回も見ている作品でした。この1~2年の間に見た、サントリー美術館での「ガレとジャポニスム」展。箱根のポーラ美術館での「エミールガレ(アール・ヌーボーのガラス工芸)」展なども北澤美術館の協力によるものでした。その魅力は、ガラスの詩情。光の抒情。光と色彩のロマネスク。などといわれる光の濃淡によって微妙にその表情を変える、豊かな色彩とモチーフにあるようです。そのモチーフはジャポニスム(日本趣味)といわれた日本の美術に触発されて、昆虫や、動植物などの自然や生命の営みをガラス工芸に表現しており、そこには自然を、生命の輝き、はかなさ、生と死の輪廻(りんね)としてとらえる、日本人の詩的な感性、「もののあわれ」感がつたわってくることに多くの日本人がひかれるのかも知れません。時間をかけて、ゆっくり、好きなドームやガレの作品を鑑賞して、休憩コーナーで、そのここちよい疲れを休め、余韻を楽しみながら、窓の外を眺めていると、トンボや蝶、野の草花などが目に入り、見てきたばかりのモチーフと重なり、ここ清里と、工房があったフランスのナンシーの地が融合し、一体化して、あたかもここがドームやガレのガラス工房であるかのような不思議な気分になり、ウトウトと夢うつつの白昼夢(はくちゅうむ)に身をゆだね、しばらくそのまま、豊かで、ぜいたくな時間にひたっていました。

2009.7.31

先週、Ⅰ期の授業が終わり、補習期間をへて、夏休みに入りました。静かになった校内では、学校説明会オープンキャンパス体験入学などの入学イベントが行われています。私も本校を理解していただくため、ほとんど毎回、イベントのはじめに、アイサツをさせていただいています。初めて参加される方、リピーターの方、遠方から来られる方など、さまざまですが、うれしく、ありがたく、感謝の気持で心をこめて、アイサツさせていただいています。司会の在校生から紹介されて、私がアイサツにたつと、私の顔を見ながら、心なしか表情がゆるみ、ニコニコされる方がいますが、このコラムの私の似顔絵を見たことのある方のようです。一緒に参加される保護者の方も多く、直接お話しさせていただくことがあります。あるお母さんが、このショートコラムを3年前から見ていてくれていると話してくれ、少しほめていただき、社交辞令とはいえ、うれしくもあり、恥ずかしくもあり、面映(おもはゆ)い気持でいっぱいでした。
このコラムについては私が思っていた以上に多くの方が見ていて下さり、意外なところで、意外な人に見ていますとか、かくれファンです。などといわれることがあり、戸惑(とまど)うこともあります。見て下さる方に申し訳ないのは、ショートコラムとなっていながら、少しもショートコラムではなく、長くて読みづらい文章です。これは私の文章力のなさによるもので、短かくまとめようとしているのですが、まとまらず、どうしても長くなってしまいます。句読点(くとうてん)のつけかたも下手で読みかえすと恥ずかしくなります。 作家の丸谷才一さんが「いい文章は、一升マスに八合入っているものです。残りの二合はどうするか。名文というものは、読者が二合を補うように書いてあるものです。」といっています。なるほどとは思いますが私は作家ではありませんので、できるだけ心がけることしかできません。これはアイサツやスピーチについてもいえることかも知れません。心に残るアイサツやスピーチはあまり長くないようです。「全てを言い尽くした芸術は、何も言わないよりも、貧しい」という象徴詩人マラルメの言葉もあります。 国際的ファッションデザイナーであり、日本のデザイン発信基地として、東京ミッドタウン緑地内にデザインミュージアム「21_21DESIGN SIGHT」を構想、実現した(ここのオープニングレセプションやその後の企画展にも招待していただいています。)三宅一生さんが、広島での被爆体験を初めて公(おおやけ)にしたうえで、オバマ大統領にむけたメッセージをニューヨークタイムズに寄稿し、掲載されたことが先日報道されました。三宅さんがこれまで「原爆を生きのびたデザイナー」のレッテルを嫌って、今まで語らなかったことの意味の深さ、重さを感じる報道でした。オシャベリの人の話は心の琴線(きんせん)にふれませんが、発せられない言葉の強さ、深さ、重さなど言葉の意味だけではない、何か、が問いかけられたような三宅さんのメッセージでした。 コラムとは、囲み記事、短評、特別寄稿などの意味だそうですが、それらを書く人をコラムニストというようです。私はとてもコラムニストとはいえませんが、多くの方が見ていてくださることを想い、言葉のもつ意味や、重さを思い、心して書かなければとの気持をよりいっそう、つよくしました。

2009.7.15

先週の8日夜、日本テレビ系の所ジョージさんが司会する人気番組「1億人の笑ってコラえて」の「金の卵の旅」コーナーで、グラフィックデザイナーの金の卵として本校のグラフィックデザイン科ビジュアルデザイン科とその在校生が紹介されました。憧れの職業をめざして日々真面目に頑張っている若者たちを現代の「金の卵」として応援するという企画で、今回はグラフィックデザイナーをめざす専門学校生に密着するということで、本校での授業の様子や、企業課題のプレゼンテーションや在校生が会ってみたい、憧れのデザイナーと対面するシーンなど見応えのある内容でした。在校生が会ってみたい、憧れのデザイナーとしてあげたのは佐野研二郎さんでした。これにはおどろき、うれしくなりました。佐野さんは私が担当しているキャリアコース(夜間講座)のグラフィックデザイン1年コースで行っている特別授業で、ゲスト審査員として参加していただきました。これは、原宿にある「KDDIデザイニングスタジオ」(Kスタ)さんと本校のコラボレーションで、Kスタのアドカード(PRポストカード)を学生がデザインして、優秀作品数点が採用され、Kスタ、auショップ、原宿、表参道の各種ショップなどにおいていただいているものです。佐野さんはauのキャラクター「LISMO]をデザインされたということもあり、Kスタのイベントステージをお借りしてのプレゼンテーションで審査員をお願いしました。 番組では、佐野さんから金の卵たちに「所さんをモチーフにしたお菓子をデザインせよ」という課題が出されていて、3人の学生がそれぞれ完成した作品を、その日、初めて会う憧れのデザイナー佐野さんにプレゼンテーションをして講評していただくという特別授業がありました。私もその収録風景を見させていただこうと、当日学生より先に佐野さんの仕事場におじゃまして、佐野さんとオシャベリしたり、セッティングを見ながら待っていたのですが、収録が始まる直前になって、担当ディレクターから、校長がいると学生が緊張するかも知れないので、はずれて欲しいといわれ、残念ながら立会えませんでした。放映されたのを見て、それぞれ、面白く、ユーモアのある仕かけのパッケージでほっとしました。学生にとっては、忘れることのできない、ワクワク、ドキドキの濃くて、深くて、楽しい時間であったと思います。佐野さんは井上陽水、宇多田ヒカルなどのCDジャケットデザイン。ショートケーキや角材に見えるようなメモ帳など遊び心あふれるステーショナリーデザインやキャラクターデザインなど広い分野で活躍している旬(しゅん)のグラフィックデザイナーです。とくにキャラクターは、かわいらしく、やさしい、人の心を和(なご)ませるマヌケ感や親しみのある、ゆるいキャラクター「ゆるキャラ」の元祖ともいえる日光江戸村の「ニャンマゲ」(1998年)が話題になりましたが、これも佐野さんのデザインです。偶然とはいえ、学生が会いたい憧れのデザイナーが佐野研二郎さんであったことは、Kスタさんと本校との縁を、auキャラクター「LISMO」がコミュニケーションツールとして、学生と佐野さんをつないでくれたのかも知れません。私の机の上には、Kスタさんからいただいた、非売品のauキャラクター「LISMO」のメモクリップがあります。

2009.6.29

先日、東京ミッドタウンで行われた、日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)の前会長で、この一月に亡くなられた福田繁雄さんの追悼(ついとう)セレモニーに行ってきました。献花をして、生前、色々とお世話になったことへの感謝と、ご冥福(めいふく)をお祈りしました。国際的に活躍された福田さんの足跡(そくせき)を年代順に作品でふりかえる特別コーナーもあり、国や文化が違っても、それらを超えて理解される、そのヒューマンで逆説的なユーモアのすごさに圧倒されました。この東京ミッドタウンには、表参道から移ったJAGDAの事務局があり、日本のグラフィックデザインの現在。ともいえるJAGDAの会員作品も展示されていました。その多くは、福田さんより30才から40才は若い人たちでした。JAGDA(本校も賛助会員)の活動が「毎日デザイン賞特別賞」を受け、その祝賀セレモニーが同じ日にミッドタウンホールであり、招待され出席しました。 勝井三雄新会長のアイサツがあり、JAGDAの新人賞など各賞の授賞式も行われました。福田さんは76才でしたが、そのあと早川良雄さんが92才で、粟津潔さんが80才で亡くなられ、日本のグラフィックデザインの黎明期(れいめいき)から国際的に高く評価されるようになった歴史をつくられた方々の多くがここ数年で亡くなられ、祝賀セレモニーでは世代交代を実感しました。粟津さんは印刷博物館の初代館長でもありました。(本校の。グラフィックデザイン科ビジュアルデザイン科イラストレーション科などが校外授業で見学しています。)早川良雄さんは、私が若いころ、その作品にあこがれた方でした。1950年代から関西で活躍され、東京に事務所を移されたのですが、関西モダニズム気風の感性といわれたその作品は、「顔」や「形状」シリーズなどの芳醇(ほうじゅん)な形と色彩表現で、グラフィックアートといえる魅力的なものでした。そんなあこがれの早川良雄さんとのうれしい出会いがありました。1968年に、そのころ世界的に定評があったスイスのデザイン誌「Graphis」が2号分の合併号として、大がかりな日本特集号(Visual Art and Design in Japan)を刊行しました。編集長が自ら来日して取材したその内容は、日本のデザイン教育。若い世代。広告美術。広告写真。パッケージ。ディスプレー。エディトリアル。工業デザイン。となっていて、亀倉雄策さん(東京オリンピックのマークとポスターをデザイン)の解説による「広告美術」のトップページに早川良雄さんの作品展「顔たち」のポスターと私の演劇ポスター「鳥獣伝説」の2点が並んで掲載され、うれしく、ほこらしく、励みになりました。そのころ、私は20代で、早川さんは50代でした。ただ気になったのは、私より年上の人たちが「若い世代」のページで紹介されており、釈然(しゃくぜん)としない気分でした。(もちろんそのころ頭髪はうっとおしいほどフサフサでした。)当時の朝日新聞の書評には、<発刊以来、編集長ヘルディングがもち続けた日本のデザインへの関心の集積というべきもので、わが国デザイン界を世界に紹介する、大きな役目を果たすことだろう。見ようによっては、この一冊は、日本の現代文化、産業のよき紹介ともなろう>とあり、日本のデザイン界を初めて本格的に世界に紹介したものでした。ちなみに「広告美術」では山城隆一、福田繁雄、田中一光、永井一正、和田誠、宇野亜喜良、横尾忠則さんなどの作品がありました。「若い世代」のトップページには、北京オリンピックの開会式のコスチュームを担当して話題になった、石岡瑛子さんのグラフィック作品が紹介されています。今や石岡さんは、アカデミー賞受賞映画のデザイナーとしてハリウッドでも活躍する世界的クリエーターです。昨年観た映画「落下の王国」は、石岡さんがデザインした華麗な衣装と世界遺産の壮大なロケーションとのコラボレーションで、極彩色の不思議な映像美のグランドオペラでした。
あらゆる分野で欧米に追いつけ、追い越せといっていた、あの時代から、いつの間にか日本のグラフィックデザインがモデルにされるようになったのも、グラフィックデザイン、イラストレーションの先端を走りつづけた先輩の方々のおかげであることを改めて思いおこさせてくれた感慨(かんがい)ぶかい一日となりました。

2009.6.15

先週、代々木公園に隣接する「国立オリンピック記念青少年総合センター」の体育館でスポーツ大会を行いました。競技はドッチボールで午前中は1年生、午後は2・3年生で全学科が参加して、トーナメント方式で戦いました。このドッチボールは2回目ですが、本当は3回目になるはずでした。1回目の年は麻疹(はしか)の発生で直前に中止となり、幻の大会となってしまいました。今年も新型インフルエンザの流行で心配していたのですが、幸い開催することができました。ドッチボールはあまりにも子供っぽいと、学生、教師とものり気ではなかったのですが、いざ試合が始まると、各コートはかなりヒートアップして、応援もボルテージがあがり、熱戦がくりひろげられました。優勝は1年がビジュアルデザイン科Aクラス。2・3年生がショップデザイン科2年Aクラス(昨年1年次も優勝)準優勝はディスプレイデザイン科1年Aクラス。グラフィックデザイン科2年Cクラスでした。ドッチボールとドッジボールはどちらも聞いたことがあり、ドッチとドッジはどっちが正しいのか気になっていたのですが、もともとはドッジボールでそれが転じてドッチボールともいうようにもなったとのことで、ドッチもドッジでした。学生に配付したプリントにはドッチボールとあり、試合終了後の表彰式の賞状にはドッジボールとありました。
以前は代々木公園の屋外トラックで運動会をやっていたのですが、雨天は中止になったり、ケガ人がでたりしたことで、千駄ヶ谷の国立競技場の体育館で(東京オリンピックのバレーボール会場)球技大会をやったりしましたが、なにかと不都合があり、場所を移してドッチボールの試合になったわけです。
この「国立オリンピック記念青少年総合センター」は1964年(昭和39年)の東京オリンピックのときは選手村だったところです。中国残留孤児が来日したときには宿泊や肉親との面会場所ともなりました。ここもふくめた代々木公園一帯は、終戦後の1945年(昭和20年)に都心最大の米軍基地となり、アメリカ軍将校のための住宅が立ち並び、ワシントンハイツと呼ばれていました。ワシントンハイツの存在が原宿周辺を「アメリカ文化の香りのする街」として他の街にはない、異国情緒をただよわせていたようです。1963年(昭和38年)ワシントンハイツが返還され、翌年のオリンピック開催に合わせて道路が広げられたり、新しくなったりして、原宿の街並みは急速に近代化されていきました。表参道から選手村をむすんだ原宿駅近くの橋は五輪橋と名がついています。オリンピック開催中の原宿は、外国人選手のサインを求める若者が集まり、外国人向けのシャレたレストランが増え、その雰囲気は今の原宿につながっているようです。代々木公園一帯が全面開園されたのは、1971年(昭和46年)でした。常に新しい何かがある原宿はそうしたプロセスがあったわけですが、当然のことながら本校の学生はほとんど知らないことですから、開会のアイサツでこうしたことに少し触れました。文化、ファッション、デザイン、アートなど多彩で先鋭的な創造と発信をする恵まれた環境の原宿に本校があることの幸せと、こうした由緒(ゆいしょ)あるこの地でドッチボールができることの幸せを改めて考えるキッカケにして欲しいと思いました。

2009.5.28

東京国立博物館で開催されている「国宝・阿修羅」展に行ってきました。仏像ブームとかで若い人も多くかなり混んでいました。
昨年の同じころ、同じ会場で「国宝・薬師寺」展を見たことで、そうだ、奈良に行こう。と奈良に行ってきましたが、それは薬師三尊像(やくしさんぞんぞう)のうち日光菩薩(にっこうぼさつ)と月光菩薩(がっこうぼさつ)の立像2体が寺外では初めてそろって公開されたのを見て、この高さ3メートルほどの2体が留守にしている空間を見たくなったからでした。 薬師寺の金堂には三尊像のうち薬師如来(やくしにょらい)の座像があり、左右にあるべき日光、月光菩薩の立像がない空間で、東京で見た立像2体を左右にイメージして見る、またとない体験をすることができました。今回の阿修羅展は、その逆で奈良の興福寺の国宝館で見てきた阿修羅像(あしゅらぞう)を東京で見ることで、興福寺で見た阿修羅像のあるべきものがない空間をイメージすることで、奈良(平城京)と東京、時間と距離、時代と歴史を超えた、ないのにある、あるのにない、という不思議な存在感を視ることができました。門外不出といわれた阿修羅像を東京で改めて見て、その異形でミステリアスな三面の少年を思わせるうれいをおびた顔や、八頭身の体、細く長いしなやかな6本の腕など、どこから見ても美しく、もっとも親しまれている仏像といわれているのがわかるような気がしました。
ここのところの若い女性を中心とした仏像ブームは、科学技術がいくら進歩しても、地球で生きていくかぎり、人間は自然と共生していかなければ生きていけないわけですから、「万物はすべてに命がある」と考える日本の仏教の仏像には、そうした考えがぎょうしゅくされていて、勝ち組と負け組。幸福と不幸。など相反(あいはん)するどちらかに分けたがったり、何かに追われ、追いつめられるような、あらゆる世代の人の悩みや不安な気持ちを、慈(いつく)しむように優美な表情で、ゆったりと大きく深く受けとめ、包んでくれる受容(じゅよう)と寛容(かんよう)さが、心をおだやかにしてくれるからではないでしょうか。きわめて日本的な空間であった平成館を出て、表慶館で行われているきわめて欧米的な「カルティエクリエーション」も見てきました。(本校のクラフト・アクセサリー科の学生も校外授業で見学しました。) パリの宝石職人が創設した「カルティエ」がいかにして世界のジュエリーブランドになっていったかがストーリーとなって展示されていました。宝石をちりばめた豪華な腕時計や、きらびやかな宝飾品は、いかにも上流階級の人たちに向けたもので、私には縁がないとはいえ、それはそれで、そのセレブ感もまた魅力あるものでした。
日本の仏教でいうところの貪欲(どんよく)でも禁欲(きんよく)でもない少欲望で充足を知る、”少欲知足”の空間から、ぜいたくをきわめた欧米の上流生活の空間へと落差の大きい2つの会場をめぐって、心なしか混乱している自分がいました。

2009.5.15

連休は、信州の安曇野(あづみの)をめぐってきました。
雄大な北アルプスの麓(ふもと)にひろがるのどかな田園風景のあづみのは、臼井吉見の小説「安曇野」や、多くの画家が描いた安曇野風景が私のなかにイメージとしてありました。 早春のあづみのは、水田に雪どけ水が満たされ、水面には残雪の北アルプスの山並が映り、これぞ安曇野という風景がひろがっていました。早春といえば、この安曇野の雪どけ風景に感銘をうけて詩を書いたといわれる、♪春~は名のみ~の~♪で知られる「早春賦」(そうしゅんふ)の歌碑が穂高川のほとりにありました。光と水と緑のなか、さわやかな風にふかれて、念願であった「安曇野ちひろ美術館」を訪ねました。北アルプスを望み、花畑にかこまれた美術館は、安曇野の風景にとけこんでいました。絵本画家いわさきちひろの作品を中心に展示していて、ちひろの仕事。ちひろの人生。世界の絵本画家。絵本の歴史。などで構成されていました。「わらびを持つ少女」など安曇野の野草や花などの自然や子供をモチーフに描かれた水彩画のみずみずしい彩りの美しさは、どこまでもやさしく、その温かい気持ちがつたわってきました。ちひろさんが愛した安曇野で、いわさきちひろの世界に心ゆくまでひたることができました。(2年ほど前、私は参加できませんでしたが、本校の国内研修旅行でこの「ちひろ美術館」を見学しています。)安曇野には数多くの美術館が点在していますが、やはり行きたかった「碌山(ろくざん)美術館」に行ってきました。ツタのからまる赤レンガの教会風の建物がテレビや雑誌で紹介されていて、その建物にひかれてのことでした。
新緑の木立にかこまれた「碌山美術館」は、彫刻家ロダンに学び、東洋のロダンともいわれた荻原碌山(本名.守衛)の作品と友人高村光太郎らの作品が展示されていて、明治時代の日本の近代彫刻のさきがけを見ることができました。澄みわたる青い空のもと、残雪が輝くアルプスと清らかな水。木々や花々には陽光がふり注いでいました。太陽の恵みをうけた大地の安曇野を周遊して、穂高のホテルに向かう道みちには、白地に淡紅色のリンゴの花が咲きそろっていました。信州出身の島崎藤村の詩「初恋」の、まだあげそめし前髪のリンゴのもとに見えしとき、前にさしたる花ぐしの、花ある君と思いけり。を思い出しました。なにかと忘れっぽくなっているこのごろですが、この「初恋」は、なぜか3番まで覚えています。なぜでしょうか。標高が高くなるにつれまだ山ザクラが咲いていたり、草花の芽吹きを感じるなど、季節が逆行するような標高差が生みだす、変化の豊かさを目のあたりにしました。初めての安曇野は想っていた以上に心と体をうるおしてくれました。
帰京して、久しぶりに上井草の「ちひろ美術館・東京」にも行ってきました。ちひろさんが22年間すごした住まいをそのまま美術館にしたような、改築前の方が私は好きでした。現在はシンプルでモダンで、快適な、鑑賞空間になっています。「ちひろ花の画集」出版記念展を開催中で、今年ちひろ美術館からいただいた年賀状の絵(紅梅と羽子板をもつキモノ姿の少女)も展示されていました。子供の幸せと平和を願って、いのちの輝きに満ちた、生き生きとした子供の姿を、やさしいまなざしで情感ゆたかに描きつづけた作品は、美しい色彩と、のびやかな筆づかいに、戦争体験をへて激動の時代を、強く、やさしく生きぬいて平和をねがった、ちひろさんの人生が見えかくれしているようでした。そのやさしさは、強さにうらづけされた、ただならぬやさしさであること、本当のやさしさは、強さと同義語なのではないかと改めて思い知ったちひろ美術館でした。

2009.4.29

新学期はオリエンテーション期間から始まりました。新入生は学校になれるための校舎や施設見学、健康診断、留学生懇親会、フレッシュマン・レクリエーションなどがあり、2・3年生は就職に向けたセミナー、ガイダンス、キャリアデザイン、模擬面接がつづきます。
私には、留学生懇親会、フレッシュマン・レクリエーション、模擬面接などで学生と直接コミュニケーションをはかることができる機会でもあります。ロシア、ペルーからの初めての留学生も交えた新入生と教職員436名がバス10台をつらねて行く「相模湖ピクニックランド」のフレッシュマン・レクリエーションに同行しました。昨年は暴風雨の中での出発でしたが、今年は快晴とはいかないまでも新緑がほどよく映えるさわやかな天気に恵まれました。ダッチオーブンでの「ピザ作りとコーンスープ」はマキで火をたくため、火力のコントロールがうまくいかないなど悪戦苦闘をくりひろげましたが、ピザ作りの準備からカマドで焼くまでの共同作業はクラスメイトや先生とのコミュニケーションが広がり、深まったことと思います。昨年は悪天候であったこともあり、学生が焼いてくれた黒いノリをくっつけたようなコゲの方が多いピザにうっかり「うまい」といってしまったため、炭(スミ)のようなピザをいくつも食べるはめになってしまいましたが、今年はどのカマドもうまく焼けていて、プロに負けないほどの味でした。まだ緑が浅い若葉が萌(も)える回りの木々の間からは、ときおりウグイス(鶯)の鳴き声が聞こえ、私にとってはウグイスの初音(はつね)でした。3月中旬ごろになると本校の1号館前を通って本部に向かう朝、宮廷ホームの方からウグイスの鳴き声が聞こえてくることがあり、その日はほのぼのとした気分にさせてくれていたのですが、今年は聞くことができず気になっていました。
初音(はつね)とは風雅なひびきですが、ウグイス、ホトトギスなどのその年初めての鳴き声のことをいうそうです。「春告げ鳥」ともいわれるウグイスは、取り合わせの良い2つのたとえとして「梅に鶯」といわれているくらいですが、ウグイスは花の蜜を吸う習性はなく、梅の花の蜜を吸いによくくる小鳥はメジロだそうです。(メグロという小鳥も小笠原諸島にいるそうです)自然に包まれた新緑の中でピザ作りに興じながら、キャーとかワァーとかにぎやかに聞こえる学生の声も私にはウグイスと交響する初音(はつね)のように心地よく聞こえました。ピザを食べ終わったあとはプレイランドでのフリータイムでしたが、早く片づけて移動したのはスペース系の学生で、ゆっくり時間をかけて移動したのはビジュアル系の学生でした。こうしたところにも学科の特長が面白く、楽しく見られました。新緑の明るい光と暖さを増す空気の中での新入生は、若葉のように若々しく、すがすかしい、せんさいな感性と可能性を秘めたエネルギーがみなぎっていました。そこにはこれからたくましく成長していく新入生の姿を想像することができ、私にとって新入生は「春告げ鳥」ならぬ「春告げ人(びと)」のようでした。

2009.4.14

サクラの花がまだ残る快晴に恵まれた先週、入学式が行われました。昨年の入学式は雨でしたが、今年はまれにみるさわやかな天気での入学式でした。会場である明治神宮会館の庭の枝垂桜(シダレザクラ)も満開でした。本校への希望を胸に期待感と夢をふくらませている新入生と保護者の方々に、私の式辞の中で「本校のスローガンに【原宿にキセキを残す】【未来と自分を探しだす】というのがあります。今日からこの原宿であなたが主役、主人公の新たなドラマが始まり展開されるのです。あなたが新しい伝説、歴史をつくり残していく番です。あなたが好きな分野で、自立自活するため、自分の将来を切り開く力をつけるため、私たち教職員が、あなたのヤル気を応援します。サポートします。今日はあなたの新しい人生の初日です。春のスタートです。今日から一緒に頑張りましょう」と呼びかけました。
入学式を終えて、新入生はそのままガイダンスとなり、保護者の方々には参集殿に移っていただいて、教育目標や教育方針など本校を理解していただくための保護者説明会を行いました。日本の入学式はサクラの咲く季節であることもあり、サクラに対する日本人の愛着は他の樹木にくらべて特別のようです。桜は大古の昔から日本の各地に自生していたそうですが、万葉の時代には大陸文化の影響から花といえば梅をさしていたそうですが、平安時代ごろからは桜をさすようになったようです。サクラの咲くころは道行く人々の足どりも心なしか軽やかに見え、心がはずみ、顔が自然にほころび笑顔になり、希望に満ちた華やぐ気持にさせてくれるような、そんな不思議な力をもっているサクラは大げさにいえば日本人の心のよりどころになっているとすら感じられます。
日本のサクラは山桜(ヤマザクラ)大島桜(オオシマザクラ)などの自然(野生)種とそれらに変種を合せると100種以上あり、さらに自然交配や品種改良によって生れた200種以上の園芸種があるそうです。そんな多くのサクラが咲き競う春爛漫(はるらんまん)の暖かい陽ざしの良き日があるかと思うと、花冷えなどといわれる冷たい風が一進一退する不安定な季節でもあります。新入生にとってもこれから快晴の日ばかりではありませんが、サクラ咲く日の入学式の感動を忘れずに、夢や目標を実現するために、「好きだから、ハードでも楽しい」学校生活を送って欲しいと思います。

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