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今村昭秀学校長のコラム

今村昭秀学校長のコラム 2010年度

今村昭秀学校長イラスト

(イラスト:マンガ科 小日向一葉)
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2010年度

2011.3.31

まだまだ、被害の全貌(ぜんぼう)がわからないほどの未曾有(みぞう)の大震災で、被災地では、多大な数の人々が悲しみと困難にある中、こうしてコラムを書くことに、とまどい、ためらいながらも、書かせていただきます。本校でも、被災地とその周辺に住所がある今年の卒業生、在校生、この4月に入学予定の新入生の全員、1人ひとりを、教職員が手分けして、安否と被害状況を確認する作業をしました。家族が避難所にいるという学生が数名いましたが、皆さん元気でおられることがわかりました。有楽町の東京国際フォーラムが、避難者の受け入れ施設に指定されたとの報道がありました。実は震災があった数日前、この東京国際フォーラムで内閣府が全国の小学校、中学校、高等学校から募集した「食育推進ポスター」の審査会があり、審査員をたのまれ、出席しました。小、中、高校から応募された5000点近かい作品から一次審査で選ばれた中から、3部門の入賞(金賞、銀賞、銅賞)作品を決める審査でした。それらの作品は、食に対する思いが、明るく、楽しく、躍動感あふれる表現で、その奔放(ほんぽう)さが魅力でした。応募してきた中には被災地の学校もあり、高校の部で銀賞に入賞したのは、岩手県の大船渡高校1年の女子学生でした。そのポスターの標語(キャッチコピー)が<朝食は今日が始まる出発点>でした。画面中央にある、このコピーの文字は、全て地元のものであろうと思われる食材を、組み合わせて描かれていました。あの元気で、たのしげなポスターを描いた児童、生徒たちが、通学できなくなったり、自宅や家族が被災して、1人ひとりの個別のかけがえのない日常が奪われ、失われてしまったのであろうことを思うと、胸がしめつけられる思いです。入賞作品は、内閣府により、「食育月間」や「食育の日」のためのポスターに使用されることになっています。被災された方々の悲惨さを思えば、計画停電や、節電などによる多少の不便はあっても、まがりなりにも日常生活が送れているだけでもありがたい思いです。今回の地震、津波による原発事故で、この首都圏の電力の3分の1が福島の原発から送電されていて、地元では使用されていないことを改めて知りました。なんとなくはわかっていたのですが、計画停電などの影響をうけて、実感しました。ぜいたくに電気をつかう生活があたりまえになっていたのは、福島の原発のおかげであったのだということを思い知らされました。福島の原発のあいつぐトラブルは、地元の人々に避難生活を強いることになり、なにか申し訳ない気持です。この災害や事故は、東北や福島の問題ではなく、東京の問題でもあることに思いいたらなかった自分の想像力のなさを、いまは恥じ入るばかりです。とあれば、生活への不便、不自由さや、我慢を引き受け、被災地の苦難を少しでも分かち合うしか、なすすべがありません。せめて、われわれ1人ひとりが当時者であるという一体感をもち続けたいとの思いです。

2011.3.15

草木が芽吹きはじめる3月は、弥生(やよい)ともいい、弥生(やよい)の語源は、弥(いや)が「いよいよ」「どんどん」生(おい)は「生い茂る」で草木がいよいよ生い茂る月、弥生(やおい)が変化したのだそうですが、この3月は別れの季節でもあります。本校も11日(金)に明治神宮会館で、卒業式を行いました。前日には、明治神宮へ恒例の参拝に行き、神楽殿(かぐらでん)で祝詞(のりと)の奏上(そうじょう)巫女(みこ)による神楽(かぐら)舞(まい)などで、お祓(はら)いを受け、卒業式の無事を祈願(きがん)してきました。卒業式に先だって4日~6日には卒業制作展があり、2年あるいは3年間学んだ集大成である、それぞれの思いのこもった全作品、1点1点をうれしく見させてもらいました。入学したころのことを思えば、よくぞここまで成長してくれた、との思いで、それぞれの作品に感銘をうけました。卒業式では、保護者やご来ひんの見守る中、卒業証書の授与、学業成績他各賞など多くの学生を表彰することができました。卒業生の人生が豊かで充実したものになることを願いながら式辞へと進行し、とどこおりなく、卒業式を終えることができました。 ほっとして、学園本部の校長室に戻っていると、3時少し前、今までにない激しい揺れを感じ、外を見ると電柱が揺れていて、電線も波うち、道路には、周辺のオフィスから飛び出してきた、多くの人が不安そうに、茫然(ぼうぜん)として立ちすくんでいました。相当大きな地震で、どこかで被害がでているだろうな、くらいにしか思っていなかったのですが、帰宅時間ごろになると、JRなどの交通機関が運行を見合せたため、ふだんは静かな通りも、多くの人が歩いて帰宅する姿が見られ、時間がたつにつれてどんどん増えて、明治通りも人と車が押しよせ、あふれるような人の波が深夜まで途絶えませんでした。私も歩いて帰ろうとしたのですが、迷っているうちに時間が過ぎ、結局は学園本部で一夜を明かすことになり、理事長をはじめ10人ほどの教職員が残りました。原宿駅に近かい1号館では、帰れなくなった卒業生や教職員が、学校に戻ってきているとの連絡が入り、深夜にかけて、130人の卒業生が集まり、各教室、地下ホール、1Fのエントランス、ギャラリーなどに分散して待機しました。私も本部から交代で何回か1号館の様子を見回り、早朝4時ごろ1号館へ行って、教職員と交通機関の運行状況の情報を得て、卒業生1人ひとりの帰宅駅と再開を確認して、帰ることができるようになったと判断した学生から、順に帰宅させました。中には保護者の方が迎えにこられたり、一般の方へも本校を開放したのですが、83才の病院帰りの途中だったという女性は、翌朝お孫さんが迎えにこられました。卒業生を最後に送りだしたのは11時ごろでした。帰宅してテレビの画面で見る東北地方の地震による津波の惨状には、ただただ驚いて、切なく、気が重くなるばかりです。被害の拡大を見るにつけ、なにげない日常が、かけがえのない大切なものであることを、改めて思い、東日本大震災で被災された方々に、心よりお見舞いを申し上げるとともに、多くの亡くなられた方々と、そのご親族に、つつしんで哀悼(あいとう)の意を表したいと思います。

2011.2.25

前回、有楽町マリオンのことなどを書いていたら、ノスタルジックな記憶がよみがえってきました。有楽町マリオンができた1984年に開業した有楽町西武は、それまでの、モノを並べて売る、という従来型からモノを売るだけではなく、情報を発信して消費を生みだす「モノ消費からコト消費」へと情報発信型の先鞭(せんべん)をつける店として誕生し、そのにぎわいはビルの名前<有楽町マリオン>にちなんで「マリオン現象」などとさわがれました。そんな西武のコンセプトをシンボライズした、コピーライター糸井重里さんのキャッチコピー「おいしい生活」が話題になり、コピーライターという職業が脚光を浴びたのもこのころでした。そんな有楽町西武が閉店するなどとは思いもよりませんでした。バブル期といわれた80年代後半、この有楽町マリオンの11F、朝日ギャラリーで私は仲間とアートの公募展を立ちあげ、開催しました。これは美術館で行っている絵画展ではなく、街に出て、画家ではない、デザインジャンルのクリエイターが時代の空気を表現するアートの発表の場にしようというものでした。オープニングパーティーではメンバーの中に大手洋酒メーカーの広告とパッケージデザイナーが2人いたことで、新発売のカンビールを試飲用に提供してくれました。このパーティーに当時教えていた学生10数名を連れて参加し、ひんしゅくを買いましたが、1人暮らしの学生の空腹を少しでも満たしてあげたいとの思いでした。そのころの学生も今では、父親となり、母親となっています。卒業生といえば、絵本作家として活躍している島田ゆかさんから、最新作の「バムとケロのもりのこや」を贈呈していただきました。このシリーズの累計(るいけい)が360万部のベストセラーで、この最新作も大ヒットしているそうです。島田さんは結婚されて島田姓になり、カナダに在住しています。本校を卒業したのが1983年で、有楽町マリオンができる1年前になります。私が本校の講師になったのが1981年ですから、最初に教えた学生です。4月には銀座のデパートで展覧会(原画展)をする予定とのことですので楽しみにしています。本校ギャラリー「アミ」では、校友会主催の企画展として16年前の卒業生で、現在、広告制作会社の社長をしている西野純子さんの「商[SHOW]品のデザイン展」を開催しました。日常売場などで目にしている商品パッケージをメインにエディトリアル、キャラクター、ポスターなどを展示し、会期中に、在校生とのディスカッション、ギャラリートークなどをしていただきました。西野さんの友人である、経済評論家の勝間和代さんが来校され、西野さんに紹介してもらいました。テレビなどで拝見する勝間さんは迫力があり、大柄な感じでしたが、思っていたより小柄で一緒に写真を撮るときも、背の低い私が無理して背のびする必要がありませんでした。勝間さんの公式ブログでも西野さんの展覧会のことを書いてくれています。学生にとって、先輩が手がけた大手企業のパッケージや広告は、比較的自由にできる課題制作と違い、良い勉強になったことと思います。数年前、私が六本木で個展をしたおりに、ケーキの差し入れをしてくれたことや、学生時代の西野さんのことなど思い出されます。こうした人生の至福を感じる卒業生との、多くの出会いが訪れることを、うれしく、ありがたく思う日々です。

2011.2.10

ひところの寒さがいくぶんやわらぎ、春を待つ、冬の終わり、冬の春ともいえる立春のころ、有楽町マリオンへ映画を観に行ってきました。この映画館は11Fにあり、OACの新年交歓会とクリボラ展が行われた朝日ホールのとなりでした。このところ報道されているチュニジアやエジプトの政権をゆるがした大象運動のキッカケが、フェイスブックやツイッターなど、ソーシャルメディアと呼ばれるインターネット上の交流サイトが急速に広まっていることから、などといわれていて、その最大の交流サイト「フェイスブック」の若き創設者、マーク・ザッカ―バーグの野望を描いた映画「ソーシャル・ネットワーク」に興味をもったからでした。6年前、当時20才の主人公がハーバード大学の寮の一室から始め、またたく間に6億人におよぶ利用者を増やしていった急成長ぶりが、若さゆえに周りに迷惑をかけながらも、大胆につき進んだ姿が、多くのエピソードで描かれていました。かつては、何10年もかかって変わっていった世の中が、時間や週単位で移ろう、そのテンポの早さには、小気味よいスピード感がありますが、そこには、やはり、危うい光と影が見えかくれします。このサイトは実名で個人的な情報をやりとりするもので、実名でつながる交流サイト、フェイスブックが広がらない数少ない国の一つが、日本だそうです。タイガーマスク現象などといわれた、実名を出さない、名乗らない寄付行為は、売名をきらい、目立ちたくないという日本人の特質である、匿名(とくめい)性の表われですが、実名であることの透明性が、公正な世の中をつくる。という側面と、明らかになりすぎることのマイナス面もあり、重い問いに向き合わされて、映画館をあとにしました。
この映画館がある有楽町マリオンは、30数年前までは朝日新聞の本社があったところで、友人がここに勤めていてよくたずねたものでした。阪急デパート側は日本劇場(日劇)があって、レビューなどといわれていたショーが演じられ、日劇ウエスタンカーニバルで、ロカビリーブームが起こり、山下敬二郎、ミッキーカーチス、平尾昌晃が「ロカビリー3人男」と呼ばれ、興奮した若い女性ファンが失神するなど、爆発的な人気がありました。その山下敬二郎さんが亡くなられ、おどろきました。昨年10月、日経ホールでのプレミアムジャズスペシャルにミッキーカーチスさんと共に元気でゲスト出演されたのを聴いたばかりでした。その跡地にできた有楽町マリオンの1Fに出店した有楽町西武が年末に閉店しました。「おいしい生活」などのキャッチコピーが流行語にもなった1980年代の西武の絶頂期にオープンした有楽町西武が店を閉じたことも、ネットメディアサイトのサービスが急速に広まっていることにも遠因(えんいん)があるのではないか、と11Fで観てきた映画「ソーシャル・ネットワーク」がよみがえり、閉店した1Fの有楽町西武とつながり、重なってしまいました。

2011.1.25

小正月から節分までの、ほぼ1ケ月を寒の内(うち)というそうですが、そんな冬らしい寒さの先日、有楽町マリオン11F(朝日ホール)のギャラリーとスクエアでOAC(日本広告制作協会)のクリボラ展のオープンニングレセプションと新年交歓会があり、出席しました。OACは、広告制作会社が正会員で本校は賛助会員となっています。OAC会員の制作会社には、6000人を超えるクリエイターが所属しており、本校の多くの卒業生もお世話になっています。クリボラとは「クリエイティブパワーを生かしたボランティア活動」の意味で、毎年行われている作品展です。今年のテーマは「地球環境:あなたが世界を変える日」で、各社のクリエイターがグラフィックのポスター部門とウェブのプロモーションサイト部門に出品しています。本校もグラフィックデザイン科1年の学生2名が出品しました。プロのクリエイターが制作した作品は、たしかなメッセージが伝わるコミュニケーションとクリエーション力を感じさせるものでした。本校の学生作品も、プロや、他校の作品の中にあって、1年生とは思えないアプローチの新鮮なビジュアル表現で、学内選考の数点の中から私が2点を選んだこともあり、ホッとして、うれしく、誇(ほこ)らしく見させてもらいました。ギャラリーでゆっくり「クリボラ展」を見て、同じフロアーの向かいにあるスクエアでの、オープニングレセプションと、新年交歓会の方に移りました。鈴木清文OAC理事長(日本デザインセンター社長)には、昨年来校いただいて、学校関係者評価に協力して下さったこと、服部邦繁前理事長(一星企画社長)にも色々とお世話になったこと。佐々木幸三アドブレーン会長にも何かとお世話になったこと。年末には会社に伺い、昼食を供にさせていただき、面白くて、たのしい話を聞かせていただいたこと、などなど。出席され、お世話になっている多くの方々にお会いして、歓談するなかで、感謝の気持ちをお伝えし、お礼と、今年も、なにかとお世話になることへのお願いをしてきました。JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)の勝井三雄会長など関連業界の来賓(らいひん)の方々も多く、活気のある新年交歓会でした。「松の内」を大正月(おおしょうがつ)とか男(おとこ)正月。15日からの小正月(こしょうがつ)を女(おんな)正月、「松の内」に対して「花の内」、花正月ともいうことを知りました。早咲きの「冬至(とおじ)梅」や紅梅は開花して、春遠からじで「花の内」とは、なるほどと思っていたら、大寒が近づいたころから寒さが増し、春のきざしはいずこへ。ですが、いくつかの新年会や、卒業生の結婚式などがあり、気持はまだまだ、花正月が続いています。

2011.1.12

元日から7日までの「松の内」が過ぎて、正月もひとくぎりしているのですが、「おめでとう」は小正月の15日までと、大寒の20日頃までが目安だという説もありますので、遅ればせながら、おめでとうございます。新成人の学生も多く、思いも新たに、それぞれ新鮮な気持ちで新年を迎えたことと思います。授業は6日から始まったのですが、仕事始めの5日の朝、本校地元の鳩森神社へ恒例の新年参拝に行ってきました。社殿で拝礼し、何よりも学生の安全と健康を祈願してきました。初詣(はつもうで)は、年が明けて、初めて地域の守り神である氏神(うじがみ)さまへ、去年1年を感謝して、新たなご加護を願い、祈るため、お参りすることだそうですが、私は年末から東京をはなれ、1日の朝、三重の伊勢神宮に初詣をしてきました。伊勢神宮は日本人のふるさとといわれ、「お伊勢さん」とも呼ばれ、親しまれていて、昨年は「パワースポット」ブームもあり、過去最高の人出であったそうです。私も何回かきているのですが、正月は初めてでした。五十鈴川(いすずがわ)の川上に2000年の時を超えて、古代のたたずまいを今に伝える内宮(ないくう)その500年後にまつられた外宮(げくう)そのいずれも広くて、深い千古(せんこ)の森にかこまれた、どこまでも静かな神域で、玉砂利をふんで歩いていると自然に身も心も浄化されていくようでした。伊勢神宮に初詣した目的は、毎年、お守りとして神楽殿(かぐらでん)で売られているという、その年の干支(えと)の一刀彫りを求めるためでした。その干支(えと)の一刀彫りが木版画にされて、おかげ横町で飾られ、売られているのですが、その原画を伊勢神宮に出向いて描いているのが、伊勢市在住の私の友人(グラフィックデザイナー)で、その縮小版が、伊勢名物の赤福11代目店主のあいさつ文「伊勢だより」として、赤福餅のパッケージに封入されていて、この赤福をその友人が毎年送ってくれていることから、一刀彫りの現物を見たくなったからです。卯(う)年のそれは、手のひらにのるほどの大きさの、くすの白木を一刀彫りにした兎(うさぎ)でした。年末、年始の行事にクリスマスがあり、お寺の除夜の鐘を聞き、初詣では神社で拝むというこの行動は外国人にはなかなか理解されませんが、それは、あらゆるものに畏敬(いけい)の念をもち、受けとめて、またそこに新しいものを生んでいくという、日本人の曖昧(あいまい)ともいえる柔軟な精神性が、近代化と伝統を調和させており、海外の若者があこがれるクールジャパンの魅力は、この異質なものを共存させる「和」が日本文化の深みと広がりとして感じられているからではないでしょうか。あわただしく、うつりゆく日々のその速さのぶん、多くの大切な、大事なものを失っているのではないか、との思いもつよくした新年でした。

2010.12.28

JR東海のキャンペーンポスター「そうだ 京都、行こう」の紅葉の写真に誘われて、晩秋の京都に行ってきました。ポスターになっている新撰組発祥の地である、金戒光明寺(きんかいこうみょうじ)の彩りも鮮やかな紅葉(モミジ)をはじめ、南禅寺、一般公開されている京都御所、清水寺、東福寺、三千院と大原の里、東山のふもとの哲学の道、などを散策し、夜はライトアップされている高岩寺などを巡り、暖かい日が続いたことで、10日ほど遅れているという紅葉は、どこもまだ、燃えるように染まっていて、その華麗で奥ぶかい京都の、ゆく秋、くる冬、の狭間(はざま)を心ゆくまで堪能(たんのう)してきました。せっかくなので、平城遷都(せんと)1300年祭のイベントでにぎわった奈良にも、足をのばしてきました。在(あ)りし日の威容(いよう)が再現された、大極殿(たいきょくでん)、すでに復元されている朱雀門(しゅじゃくもん)のある平城宮跡に佇(たた)ずんで、時空を超えて、天平(てんぴょう)の時代に、ひととき身をゆだね、想いをめぐらせてきました。奈良といえば、やはり阿修羅像に会っていかなくては、と思い興福寺に向かい再建が進んでいる中金堂や特別公開されている東金堂、五重塔の初層などを見て、国宝館の阿修羅像に再会しました。入口には「阿修羅ファンクラブ」入会の受付があり、ファンクラブがあることを知りました。会長が仏像好きで知られる、イラストレーターの、みうらじゅんさんで、ファンクラブの公式ソングもあり、作詞がみうらじゅん、作曲がALEFEEの高見沢俊彦で、タイトルが、愛の偶像(ラブアイドル)とありました。ファンクラブの略称がAFCで、今年の流行語大賞にも入っているAKB48と似ていて、阿修羅像もアイドル化されたのか、と阿修羅ファンとしては複雑な思いでした。アイドルは偶像、崇拝(すうはい)とか人気者の意味ですが、かつて、作詞家の阿久悠(あくゆう)さんが人気アイドルのことを「手が届かない隣のお姉さんか、手が届きそうな高嶺(たかね)の花」といっていましたが、AKB48もどこにでもいるような素人(しろうと)っぽい、ダンスも歌も「えっ」というようなレベルですが、むしろそれが魅力であり、人気のようです。秋葉原で無名の女の子がほぼ毎日公演をしていて「会いにいけるアイドル」AKB48を立ちあげたのは、かつて「おニャン子クラブ」を仕かけ、「なんてったてアイドル」の作詞をした秋元康さんで、又、時代の方が近づいたのかも知れません。阿修羅ファンクラブには少し心が動いたのですが、私にとって阿修羅像は、崇拝するスターであり、人気者のアイドルではないとの思いで、入会はしませんでした。悠久(ゆうきゅう)の時を超えて、いま在(あ)る不思議な京都、奈良とは違った魅力の東京の街は、初冬から年末にかけ、スター(星)がキラめくような、夜を彩るイルミネーションが輝き、ここ原宿表参道でも、表参道完成90年を記念して90万球のLEDで幻想的な美しさを演出しています。今年もこの無数の光のように、出会い、関わりあった、多くの人、会えなかった、会わないけど、多くの、あの人、この人に、支えられ、助けられました。そのすべての方々に、行く年を、感謝したいと思います。ありがとうございました。良いお年をお迎えください。

2010.12.14

「世界エイズデー」の12月1日、本校のイベントホールで「レッドリボンネイル・デザインコンテスト」の表彰をしていただきました。これは、国際保健協力市民の会と、サンスター株式会社の共催による「ネイルにレッドリボンを」のキャンペーン関連イベントに今年も参加し、協力させていただいたことからでした。エイズへの理解を表わすシンボルマークのレッドリボンを、ネイルに描くことで、草の根の啓発をしていこうという、ネイルアートによる新しい啓発キャンペーンですが、本校の学生が参加したのは、このコンテストでした。エイズに対して、誤解や偏見があるマイナスイメージを、少しでも減らすことにお役にたてれば、との思いと、この機会に本校の学生にも、エイズについての正しい知識を得てほしい、との思いからでした。制作するにあたり、応募するイラストレーション科の学生に対し、サンスター広報室の吉田智子さんにエイズについてとレッドリボンの意味についての、特別講義をしていただきました。提出された80点ほどの作品は、それぞれエイズとレッドリボンの意味を理解し、消化して、新鮮な視点と斬新なアイデアで表現されていました。学内選考した30点が、原宿キャットストリート沿いにある、BODY WILD under wave の店頭テラス(協力・グンゼ株式会社)で11月6日・7日に行われた「ネイルにレッドリボンを街頭キャンペーン in 原宿」会場で展示され、会場にこられた方、道行く人たちに投票していただいた一般投票と、スタッフ、サポーターの方々の投票も加えて、1位から4位までが、受賞作品として表彰されました。1位の黄韻潔さんには、ネイルアーティストの草野順子さんから黄さんのデザインを特別制作したネイルチップがプレゼントされました。指さきの小さなスペースのネイルが、意外にも強いメッセージを発信できるメディアであり、ツールであり、ステージであることを、学生の多彩なネイルデザインを見て教えられました。エイズ予防財団が全国から公募した「世界エイズデー」のポスターコンクールでは、ビジュアルデザイン科の松岡さつきさんが、優秀賞、石井純平君が佳作に入賞しました。こうしたエイズに関心をもち、理解を深める学生が増えてきていることをうれしく、ありがたく思います。私も15年ほど前に厚生省とエイズ予防財団の広報に関わって「世界エイズデー」のポスターなどのディレクションをしたのですが、厚生省に「エイズ撲滅(ぼくめつ)対策本部」ができ、本部長が、厚生大臣の橋本竜太郎さんでした。何かと申請書が必要で、厚生大臣宛が多く、名前が竜太郎か龍太郎か迷い、新聞は正しいと思い、Y新聞を見たら、竜太郎とあり、そのように申請したところ、龍太郎が正しいので直すようにいわれました。新聞は正しいとの思い込みがあったので、まさかと思いA新聞を見たところ龍太郎とありました。新聞によって違っているなどとは思いもよらず、Y新聞とA新聞を見比べていると似たような違いがありました。当時巨人軍の長島監督がY新聞では、長嶋で、A新聞では、長島でした。まさかこんなことが、と釈然(しゃくぜん)とせず、Y新聞に問合せたところ、長嶋監督本人からいわれてそうしているとの返事でした。そんなバカな!!と思いつつその怒りを小さな胸におさめ、その後は、活字やメディアへの過信を自省、自戒しているのですが、今だに釈然としないまま、「世界エイズデー」を迎えたのでした。

2010.11.30

秋も深まった、この11月は、東京デザイナーズウィーク。東京ミッドタウン他の会場で展開された、デザインタイドトーキョー。東京都現代美術館での「オランダのアート&デザイン新・言語」展など、プロダクト、ファッション、インテリア、グラフィックの境界を越える最先端のデザイン、アートイベントを巡ってきました。その数日後、そうしたコンテンポラリーな表現とは対極にあるような「和田誠の仕事」展を見に、渋谷の「たばこと塩の博物館」に行ってきました。この展覧会のチラシは、和田さんの、ほのぼのとしたイラストを印刷するための、色指定原稿がそのままデザインされたものでした。データ化して入稿する現在では、珍らしく、なつかしくもあり、そこに惹(ひ)かれてのことでした。和田さんは、イラストレーター、グラフィックデザイナー、絵本作家、エッセイストであり、映画監督でもあるという、さまざまな顔をもつ多彩な方ですが、私の中では、いつまでも旬(しゅん)なイラストレーター和田誠さんです。「たばこと塩の博物館」主催のこの展覧会は、和田さんが、デザインプロダクションのライトパブリシティ時代に手がけた、たばこのパッケージ「ハイライト」が発売されて50周年になることにちなんでのことだそうです。ライトパブリシティといえば、村越襄、田中一光、細谷巌、横尾忠則、篠山紀信、浅葉克己などなど、そうそうたるメンバーがいたことで知られる伝説的なデザイン制作会社です。展示されている、たばこの広告、映画・演劇ポスター、絵本、装丁、週間文春の表紙、などのイラストやデザインは、すべてアナログで、そこには、和田さんの息づかいや体温が感じられるような、シンプルでユーモアがあり、心がなごみ、安らぎ、温くもりがあり、おだやかで、ほっとするような、和田さんのお人柄が伝わってくるようでした。幸い会場に和田さんがおられ、お話することができました。実は和田さんの息子が私の教え子という縁がありました。8年ほど前、大学に通いながら、本校のキャリアコース(夜間講座)の私の担当するグラフィックデザイン講座に、ダブルスクールで来ていました。初日の授業で自己紹介をしたのですが、和田君は父親のことにふれなかったので、私が、お父さんはあの和田誠さんだと言ったのですが、あまり反応がなく、ある女子学生が、ロックバンドTRICERRATOPSの和田唱の弟さんだといったら、教室が沸(わ)いたことに少しショックを受けたことがありました。和田君はその後、電通に入社し活躍をしています。入社後も、和田君がまとめてくれたクラスの飲会などに呼んでくれました。お母さんは、元気印のにぎやかな、料理愛好家の平野レミさんで、シャンソン歌手であり、タレントとして活躍していた、若かりしころの平野レミさんを、私はリアルタイムで知っています。在学中、和田君が社交辞令とはいえ、家に来るように誘ってくれたのですが、とうとういかずに時は過ぎてしまいました。平野レミさんの手料理をいただくチャンスを失ってしまい残念でした。いま思えば、図々しく、伺っておけば良かったとの思いです。和田誠さんの表現には、描かれているところと、描かれていないところの、現景と幻景がおりなす、誰の心にも潜(ひそ)んでいる郷愁めいたものがあり、デジタルの効率的な良さもさることながら、アナログ(手描き)の捨てがたい魅力に浸(ひた)った「和田誠の仕事」展でした。

2010.11.15

木の葉もほのかに色づきはじめた、10月下旬から11月にかけ、都内では、デザインの秋。ともいえそうなデザインに関する多彩なイベントが開かれていました。そうした中、今年も神宮外苑の絵画館前で開催された<東京デザイナーズウィーク2010>に行ってきました。これは、海外からの出展も多い、インテリアをメインにした、国内最大級のデザインイベントで、本校も学生部門に出展しました。テーマは<RedList-絶滅危惧種>で、自然環境だけではなく、あらゆる分野の絶滅危惧種にアプローチしようというもので、インテリアデザイン科、ディスプレイデザイン科の留学生もまじえた11名が、1人あるいはグループで制作した、立体作品を6点展示しました。会場では、学生からそれぞれの作品の説明をうけました。その内のインテリアデザイン科の小川奈月さんの作品<RANMA HNGER>が35校350作品の中から、個人賞とデザインアソシエーション理事長賞を、ダブル受賞する快挙となりました。この<RANMA HNGER>のRANMAは、欄間(らんま)のことで、かつて、ほとんどの家にあったものでした。天井(てんじょう)と鴨居(かもい。引き戸やしょうじ、フスマなどの上にある、みぞつきの横木)の間に、明かりとりや、風とおしのために、格子(こうし)や動植物などを、透(すか)し彫りにした板のことですが、この欄間を絶滅危惧種として、ハンガーの三角形部分の空間を欄間に見たてて、いくつかの透かし彫りのパターンを組合せ、重ねてたのしめるようにしたアイデアとバリエーションは、インテリア雑貨として、生活空間に欄間をよみがえらせるもので、その着想に感心しました。
<東京デザイナーズウィーク>のもうひとつのイベントにShopExhibitionがあり、街のショップ、ギャラリーが参加しました。本校のギャラリー<アミ>も渋谷、原宿、表参道、青山、六本木エリアのショップ、ギャラリーとして参加し、<RedList-絶滅危惧種>をテーマにグラフィックデザイン科、ビジュアルデザイン科、イラストレーション科の学生が制作した作品を展示しました。レッドリストをテーマにしたデザイナーズウィークとギャラリー<アミ>での表現の多様性は、自然界だけではなく、人工物でも多様性を守り、認めなくてはならないことを訴えているようでした。多様性とは、あらゆる生物とそれによって成りたっている生態系の豊かさやバランスが保たれている状態や、過去から未来へと伝える遺伝子の多様さまでをふくめた幅広い概念だそうです。<生命体>は機械のように必要不可欠なパーツだけで生きているのではなく、脳でも人体を構成する細胞のDNAでも、一見無駄と思われるようなパーツも沢山あるのだそうです。こうした学生たちの多様性も認め、守っていかなくては、との思いもつよくした、東京デザイナーズウィークでした。

2010.10.28

このコラムには音楽の話がほとんど出てこないが、音楽は嫌いなのですか、といわれました。そういわれてみると、たしかにそうですが、音楽が嫌いなわけではありません。ただ学校の音楽の時間は嫌いでした。小学校の低学年のころ、よく扁頭腺(へんとうせん)が腫(は)れて痛くなったり、熱を出したりしたので、扁頭腺を切除(せつじょ)しました。切ったあとがよく炎症をおこし、そのころから子供らしからぬカスれたような声になり、音楽の時間に1人変な声を出していると注意され、歌うのがイヤになり、それからは皆で歌うときはクチパクでした。扁頭腺をきっていなければ、ウィーン少年合唱団なみの美声?でしたから、もしかしてオペラ歌手になっていたかも知れません。今でもよく炎症をおこし、悪声なのはそのせいだと思っているのですが、医学的には声帯と関係がないので原因とはいえないようです。当時は盲腸(もうちょう)や扁頭腺はとくに役にたたないから痛くなったら切ってしまうということでした。今の医学では自然に退化していないのは、体の防衛作用のなんらかの役割があるのではないか、と簡単には切らないそうです。今さら、そんな!!ですが、歌手になっていた方が良かったかどうかは"?"です。
私だってコンサートに行くことがあるんです。先日、大手町の日経ホールへ<プレミアムジャズスペシャル>ビッグバンドが語る「テレビの時代」というタイトルのジャズコンサートに招待され、ジャズを聴きに行ってきました。2011年はテレビがアナログからデジタルに移行するエポックメーキングな年ですが、終戦後さまざまなアメリカ文化が入ってくる中、ジャズがテレビの隆盛(りゅうせい)と共に黄金時代となり、私もリアルタイムでその推移を見てきました。そのころの代表的なビッグバンドに奥田宗宏とブルースカイオーケストラがありました。宗宏さんが亡くなり、現在は息子の奥田英人さんがひきつがれて、創立77周年記念の特別企画でもありました。このビッグバンドに在籍したことのあるメンバーは、白木秀雄、ジミー竹内、世良譲、渡辺貞夫、南里文夫、松本英彦、秋吉敏子、日野皓正、ジョージ川口など日本のジャズ界を代表した人たちでした。 奥田英人さんが率(ひき)いる現在のブルースカイオーケストラが演奏する1960年代から80年代にかけてのなつかしい、あの時代の名曲の数々を心から堪能(たんのう)しました。このブルースカイのリーダー奥田英人さんらが、日本のジャズ界を活性化させ、ジャスを広め、知ってもらい、愛好家をふやそうと昨年「日本ジャズ協会21」を設立しました。そのシンボルマークのデザインを依頼され、本校のビジュアルデザイン科の学生たちが制作。協会の方たちにプレゼンをして採用されたのが現在つかわれているマークです。その縁で9月の二科展会場でのミニコンサートに奥田さんを招待しました。二科展のミニコンサートにジャズはどうだろうか、との思いがあったからでした。演奏は、日本の伝統と現在を新しい形で世界に発信している<AUN>の和の響(ひび)きでした。絵画の色彩と音(ね)色の美しいハーモニーは展覧会場ならではの魅力でした。そうしたことなどがあり、日経ホールでのジャズコンサートに「日本ジャズ協会21」が招待してくれたわけです。これも学生がつなげてくれた縁のおかげです。思えば、あれも、これも、学生のおかげであることが、かずかぎりなくあります。学生に感謝、感謝です。

2010.10.15

秋は、学園祭の季節でもあります。本校も10月8日~10日の3日間「原宿祭」を開催しました。今年も学生が主体になって"Love Design Love Harajuku"をスローガンに、新たな原宿のデザインアートカルチャーを発信しました。メインテーマは「原宿ファイブインデックス」で、1.竹下通り 2.裏原宿 3.表参道 4.明治神宮 5.TDA(東京デザイン専門学校)の5つのエリアスポットをイメージして、在校生、教職員、入学イベント参加者などおよそ1000人が「私の原宿」をポストカードサイズに表現して、インスタレーション展示をしました。その作品は、写真、イラスト、マンガ、タイポグラフィ、コラージュなど自由で多彩な、それぞれの原宿が表現されていました。1号館では各科が授業で制作した作品や、地元原宿や企業などとのコラボレーション作品を展示し、その成果を見ていただきました。ラフォーレ原宿の向い側のサテライト会場「YMスクエア原宿」では、<スリッポンアートライブペイティング>を行いました。壁面にはディスプレイデザイン科(以下 D科)の学生がグループ制作した長方形の大きな作品がかけられていて、グラフィックデザイン科(以下 G科)、イラストレーション科(以下 IL科)、ビジュアルデザイン科(以下 VD科)、キャリアコースの12名が布のくつをキャンバスに見たてて、アクリル絵具でアート表現あり、カワイイ、たのしいイラスト表現ありで、それぞれの思い、想い、を描いていました。通りがかりの多くの人たちが足をとめ、興味ぶかく見入っていました。あいにくの雨で気温も下がっていたのですが、学生たちはライブパフォーマンスをたのしんでいました。今年も表参道のクエストビルのエントランスに、D科の学生がデザインし、ディスプレイした「秋」をテーマにした柱が道行く人々の目を惹(ひ)いていました。竹下通りのシンボルキャラクターとグッズのデザインコンペも行いました。VD科、IL科、マンガ科アニメーション科、G科、キャリアコースの学生から201点の応募があり、その全作品を展示して来場された方に人気投票をしていただきました。ノミネートされた学生10名が、竹下通り商店会の役員の方々の前で、公開プレゼンテーションをしました。その中には、フランスからの留学生(女性)もいて国際色ゆたかなプレゼンになりました。その作品は、クールジャパンといわれるサブカルチャーなどの日本文化への興味と深い関心と理解が感じられる表現でした。「鉄腕アトム」販促品デザイン大賞のプレゼンテーションと審査もありました。これは、教育図書や教材を入れる手さげ袋やクリアファイルなどのデザインにビックキャラクター「鉄腕アトム」をつかうというもので、G科、VD科、キャリアコースの学生が制作しました。5名がノミネートされ、クライアントの日本標準の社長さん、手塚プロダクションの方々の前で公開プレゼンをしました。審査の結果、、G科の学生作品が採用されることになりました。学生ホールでは、仮装コンテスト、ミスミスターコンテスト、映像フェスティバルなど、多彩なイベントがあり、盛りあがっていました。2号館では各科、クラス、グループ、同好会などのコーナーがあり、エコバック、ポストカード、アクセサリーなどを売っていて、毎年それらを買い求めていますが、ポストカードのデザインやイラストが若さあふれる表現で、私的につかうのがためらわれるようなゼネレーションギャップがあります。年々たまる一方ですので、原宿のデザイン学校の校長である以上、そろそろ勇気をだしてつかわなくては、と思っているところです。今年の学園祭は、表参道のクエストビル、明治通りの「YMスクウエア」と本校とが原宿アートデザイントライアングルとなって、原宿の街とつながり、広がった、理想的な「原宿祭」となりました。学校も街もメディアであり、ステージです。これからも原宿で、デザイン、アートを生み、育て、クリエイティブなその魅力を原宿発で発信していきたいとおもいます。

2010.9.30

このところ、やっと秋めいてきましたが、秋の気配(けはい)も感じられない猛暑が続いていた9月12日の日曜日、秋季保護者会を行いました。暑い中、貴重な休日の時間にもかかわらず多くの保護者の方に参加していただきました。当日は「コミュニケーション力は親子の会話から」「成長できる就職を親子でめざす」などの講演や、学校と学生の現況を知っていただくために学科長、学級担任、カウンセラーなどによる個別相談などを行いました。暑い中、休日の時間をつかって来校された保護者の方々に、来てよかった、有意義だったと思っていただけたかどうか気になりますが、アンケートもいただいていますので、貴重なご意見を謙虚(けんきょ)に受けとめ、それらを反映させ、活かして、より良い学校にしていきたいと思っています。突然ですが、「蚊(か)の日」というのがあるのをご存じでしょうか。「父の日」「母の日」と同じように「蚊の日」があることを知りました。今年は連日の猛暑で蚊の発生も少なく、蚊も弱っているとの記事を見て、蚊もこの暑さにやられているんだ、と変な感心をしていたら、8月20日が「蚊の日」であることを知りました。7月10日が「納豆の日」「来る福」で、9月29日は「招き猫の日」など語呂(ごろ)あわせが多い「○○の日」ですが、この「蚊の日」の8月20日は、イギリスの細菌学者が、蚊が媒介(ばいかい)するマラリアの病原菌を発見した日だそうです。語呂あわせではない、れっきとした学問的、学術的な由緒(ゆい)しょ正しい「蚊の日」なのですが、なぜか、おかしいひびきがあります。このような蚊の話を、こともあろうに保護者会の校長アイサツの最初にしてしまいました。当然のことながら、唐突(とうとつ)だったこともあり、多くの冷たい視線を感じました。その視線には、暑い中をわざわざ学校にきたのに蚊の話をされても・・・という微妙(びにょう)な空気でした。私にしてみれば「蚊の日」などというのがあることを知った喜びと、うれしさをおさえきれなくて、1人でも多くの人に伝えたいとの思いからでした。本校は原宿にありますが、意外と蚊が目につきます。すぐ近くに明治神宮の森があり、皇室専用ホームの木々の緑があることで、原宿とは思えないような草木の多い静かな環境にあるからではないかと思います。「蚊の日」があることを知ってからは、蚊のなくような声(蚊の羽音のようなかすかな声)蚊の涙(非常にわずかなもののたとえ)などの例(たと)えが気になったり、蚊を見ると、心なしか衰弱(すいじゃく)しているように思え、その姿に、いとおしさを感じてしまう自分にとまどっています。蚊が好きだという人に会ったことも、聞いたこともありません。むしろ、ほとんどの人が嫌いな蚊の話をしてしまい、書いてしましましたが、今年は「国際生物多様性年」です。蚊といえども無駄な生き物などではなく、人間も含(ふく)めて、あらゆる命がそれぞれを支えあっている生物の多様性が、豊かな生態系を保っていくのだということにもつながるのではないか、といささか強引(ごういん)なこじつけですが、「生き物にやさしく」をメッセージとさせていただいたことで、お許しください。

2010.9.15

9月1日~13日まで、六本木の国立新美術館で、第95回二科展が開かれました。9月1日から始まるのは久しぶりで、かつては9月1日から始まる二科展が「芸術の秋」の代名詞のように報道されたものでした。今年は9月に入っても連日の猛暑で、秋とは名ばかりでした。初日は会場入口で、織田広喜二科会理事長(絵画部代表)小山由寿彫刻部代表、大竹省二写真部代表、今村昭秀デザイン部代表、林田英樹国立新美術館館長によりテープカットが行われました。私のとなりの林田館長は190cmはあろうかという長身で、小さな私がより小さく見え、いたたまれない思いでテープカットを終え、少しでも早く館長から離れようとしました。が、そのあと織田先生の作品の前で、先生と私の2人で写真をとってもらおうと並んだのですが、林田館長が近かくにこられ、カメラマンにうながされ、またまた林田館長と並ぶはめになってしまいました。そのときの写真には車イスの織田先生(96才)を前に、林田館長と私が並んでいて、その身長差には、これが現実とはいえ、がくぜんとする思いです。初日の夜は、東京ミッドタウンのホテル、ザ・リッツカールトンで行われた恒例の絵画部、彫刻部の懇親パーティに招待され出席しました。来賓(らいひん)席でのおとなりが中村季恵NHK厚生文化事業団理事長でした。いただいた名刺には、1枚の名刺からはじめる社会貢献(フィランソロピー)というメッセージと、障害、難病などハンディキャップのあるアーティストの作品がカラーで印刷してあり、収益をアーティストに、また印刷を福祉施設で行うことで障害者の就労の機会を創りだすことを目的としているとのことでした。小さな名刺が、アイデアによってコミュニケーションメディアやツールとして限りない可能性を秘めていることを示唆(しさ)された思いでした。3日には、東京プリンスホテルで行われた写真部の授賞式、懇親会にも招待され出席しました。祝辞を求められ1000人をこえるという出席者に圧倒されながら、なんとか済ますことができました。4日はわがデザイン部の授賞式と懇親パーティーが国立新美術館のホールで行われ、受賞、入選、準入選した本校の在校生、卒業生とよろこびを共にしました。私は毎年のことですが、代表アイサツ、賞状授与などの役目がありました。会期中は、金曜ナイトミュージアム(野外展示場のライトアップ)、ミニコンサート、ギャラリートーク、二科展ツアー、触って観るポスターアート、など多くの企画があり、あっという間の13日間でした。私にとっては出品制作の指導から始まった、最も忙しく、あわただしいシーズンを終えて、いま、心地よい虚脱(きょだつ)状態にあります。

2010.8.30

夏でお盆(ぼん)となれば、妖怪(ようかい)がにあう季節であり、妖怪といえば、妖怪の聖典(せいてん)ともいえる柳田国男の「遠野物語」が発刊されて100周年になることもあり、岩手県の遠野に行ってきました。「遠野物語」は、この地方に親から子へと家族間で口伝(くちづた)えで語りつがれてきた昔話や民話の民間伝承(でんしょう)を、そのまま聞き書きしたものですが、100周年ということで「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるさんが遠野に出向いて取材をしてコミック化した「遠野物語」が記念出版されました。そこには、ザシキワラシ、カッパ、オシラサマなど怪異(かいい)な妖怪たちが水木流の親しみのある愛らしい妖怪に描かれていて、登場する妖怪たちに会いたくなるような妖怪絵巻がくりひろげられていました。「みちのく」という言葉のひびきが好きで、東北地方には何度も行っているのですが、遠野は初めてでした。「みちのく」は「みちのおく」の意味だそうですが、40数年前に訪れた北上山地は日本のチベットなどといわれていたころで、「北上夜曲」というさびしげな歌がはやっていました。山間(さんかん)の寒冷地では米がとれなく、ヒエ、アワ、キビ、ソバなど冷害につよい「雑穀(ざっこく)」が食べられていました。今では米もとれるようになり、それらは生活習慣病を予防する健康食品といわれていて、時の流れを感じます。北上山地の南部にある遠野は、深田久弥の「日本百名山」にも選ばれている霊峰(れいほう)早池峰山(はやちねさん)など周囲を山にかこまれた盆地で、自然、神、人がおりなす伝承文学の原風景が広がっていました。そんな風景の中を「遠野ふるさと村」語り部(かたりべ)の昔話が聞ける「伝承園」「とおの昔話村」などをめぐり、現実社会でおきている事件のむごい、やりきれなさから、しばし愛しい妖怪たちに思いをはせることができました。私が最も興味と関心があったのは河童(かっぱ)についてでした。各地にカッパ伝説はありますが(水木マンガにも「河童の三平」があります。)ここ遠野がカッパに関する情報、もっともらしい話題が多く、カッパ釣りを指南するマブリット(守り人)がいるほどです。遠野観光協会で「カッパ捕獲許可証」を発行していると聞き、それを手に入れるのが一番の目的でした。いま、手元に「カッパ捕獲許可証」があります。それには許可番号があり、許可期間もきめられていて、それ以外で捕えると密漁になってしまいます。許可証にはカッパ捕獲7カ条があり、
1.カッパを生捕りにし、傷をつけないで捕えること。
2.頭の皿を傷つけず、皿の中の水をこぼさないで捕えること。
3.捕獲場所はカッパ淵に限ること。
4.捕えるカッパは真赤な頭と大きな口であること。
5.金具を使った道具でカッパを捕えないこと。
6.餌は新鮮な野菜を使って捕えること。
7.捕えたときには観光協会の承認を得ること。
とあります。今回は、カッパ淵(ふち)の周辺を念入りに調査してきたので、なんとしてもカッパを捕獲したいと思っています。ただ心配なのは、私のこの風貌(ふうぼう)から、私自身がカッパと見誤(みあやま)られて、捕えられてしまうのではないかということです。人がいないときに、人知れず捕獲しなくては、と心と体をきたえているところです。

2010.8.12

あちこちで最高気温がぬりかえられている猛暑の中、夏休みに入っている学校では、体験入学説明会など、オープンキャンパスのイベントを行っています。私もできるだけ出校して、全国から参加してくださった方々に、直接お会いしてアイサツをさせていただいています。先日、そうしたイベントに、20年ほど前の教え子が母親となって、高校3年生と中学生の娘さんを伴(とも)なって、山口県から参加してくれました。卒業して初めての再会が、高校生の娘の母親として母校にきてくれたことの、うれしさとおどろきは不思議な感覚で、卒業以来の空白の時間をうめるのに、少しの時間が必要でした。同級生の名前が次から次へと出てくることで、当時の教室の光景やエピソードがよみがってきました。なつかしい思い出の話をしている間、娘さんは母親の学生時代をニコニコと楽しそうに聞いていました。「極楽(ごくらく)の余(あま)り風」という言葉があるのを知りました。暑い夏に吹く心地よい涼風のことだそうですが、こうして卒業生が親となり、子供をつれて来校してくれたのは、まさに「極楽の余り風」のようでした。本校の講師になって最初のころの教え子が50才前後になることを思うと私も年をとるのは当然ですが、多くの卒業生との色々な交流も楽しんでいます。結婚式に呼ばれたり(同級生、同窓生同士の結婚も多いです。)結婚披露パーティー、新年会、忘年会、食事会、飲み会、個展、グループ展を見に行くことなどですが、子供づれで出席する集まりもあります。キャリアコース(夜間講座)の修了生は「今村塾」なる集まりをつくって呼んでくれます。タイミングや、都合によって出席できないこともあり、残念ですし、申し訳なく思っています。OB・OG会では忘れかけていたり、忘れていたりした卒業生が出席してくれることもあり、楽しみにしています。また、セミナーや特別講義などの講師もお願いすることもあります。校長室にもときおり卒業生が訪れてくれたりもします。長く教師をしているおかげで、こうしてさまざまな卒業生との交流があり、そうしたことで過去と現在がつながり、浮き彫りにされ、懐(なつ)かしい日々を「生き直す」ことで「現在を生きる」ことの豊かさとは、こういうことでもある。ということも教えてくれた「極楽の余り風」でした。

2010.7.30

本校のギャラリー「アミ」で「ニューヨークタイポディレクターズクラブポスター展」を開催しました。これは本校の近くにお住まいの日本タイポグラフィー協会の会長をされ、国際タイポグラフィ-協会の会員でもある、篠原栄太氏よりニューヨークタイポディレクターズクラブの会員作品を寄贈(きぞう)していただいたことからですが、篠原さんが大学で講師をしていたころの教え子が本校の講師をしているご縁でもありました。この機会にその講師と一緒にお礼をかねて、ご自宅に伺(うかが)いました。篠原さんが本校の近くにお住まいのことはずいぶん前から知っていました。私の年長の友人がTBSテレビの開局のころから番組のタイトルデザインを篠原さんと一緒にしていた同僚で、その後友人は赤坂のTBS近くにテレビタイトルの制作会社をつくり独立しました。この制作会社には卒業生が何人もお世話になりました。主にTBSテレビの仕事をしていて篠原さんとは今日まで親交が続いていることから、篠原さんを紹介するといわれていて、数10年がたっていました。そんなエピソードを篠原さんのお宅でしていたら、篠原さんの奥さんが私が代表をしている会の年長の仲間と大学の同級生であったことも初めて知りおどろきました。 篠原さんが会長をしている日本タイポグラフィー協会は1964年にできた日本レタリングデザイナー協会が母体となっていて、そのレタリングデザイナー協会の設立に関わった共通の知人が多く、懐かしい名前が飛び交いました。そのころレタリングブームがおこり、文部省認定レタリング技能検定などもでき、私の知人や篠原さんも中央試験委員でした。このブームはレタリングの通信教育の広がりによるものでした。その教科書を監修したのがレタリング協会設立の中心メンバーで、私の2代前の二科会デザイン部の代表をした先輩でした。その教科書の見本書体を書いたのが二科展デザイン部の出品者でもあったアシスタントでした。そのアシスタントはアメリカにわたり、一流スタジオであったグラフィックデザイナー・ソールバスのスタッフになりアメリカで活躍しました。ソールバスは読めれば良いとされていた映画タイトルを、斬新で魅力的な見せる映画タイトルにデザインして話題になったデザイナーです。「悲しみよこんにちは。」「ウエストサイド物語」などのタイトルは今でも鮮明に思い出します。楽しい語らいもあっという間に過ぎ、帰りぎわ篠原さんの著書を2冊もいただいてしまいました。そこには篠原さんがデザインしたテレビタイトル、ロゴタイプなどの人気番組の数々「渡る世間は鬼ばかり」「風雲たけし城」「3年B組金八先生」「遠くへ行きたい」などがありました。その著書にプロデューサーの石井ふく子さんが寄せた文に「タイトルはドラマの表紙である」とありました。篠原さんのおだやかで、温かく、謙虚なお人柄は、もっと見たい、知りたいと思わせる番組のタイトル(表紙)のようでした。

2010.7.16

公開中の映画「Flowers(フラワーズ)」をみてきました。資生堂が特別協賛をしていることで、日本の女性たちへ向けた映画であることはわかっていたのですが、この映画の企画制作総指揮にアートディレクター大貫卓也氏の名があったからでした。大貫さんは博報堂時代にラフォーレやカップヌードル、<日本一面白くない遊園地>をキャッチコピーにした豊島園などの広告で世間(せけん)をあっといわせ、その後もつねに旬(しゅん)な広告をつくり、資生堂の「TSUBAKI」の広告では、女性向けの広告も手がけています。そんな大貫さんが企画した映画はどんな映画なんだろうとの興味がありました。それは、美しい日本の四季の風景をバックに昭和の初めから平成までの3世代にわたる6人の女性たちが、それぞれの時代を世間(せけん)の抑圧(よくあつ)に苦しみ、悩みながら自分らしくひたむきに時代を生きぬく、静かで、芯(しん)の強い日本女性の、平凡でありながら、波瀾万丈(はらんばんじょう)な人生を描いていました。6人の女性の物語が、単なるオムニバスではなく、時代を超えて、命とともに愛がつながっていくストーリーが、1本の糸に紡(つむ)がれて、つながって、作品になっていく、タペストリーのようでした。人は、血縁関係や、出合い関わりあった人たちだけでなく、すべての人々とのつながりが、自らを生かしてくれているということや、幸せの形も人それぞれであり、客観的な幸せなどというものはないのでは、と改めて思わされました。日本女性が耐え忍んできた世間の抑圧の多くは、男性社会に都合のよい価値観によるものであり、これは男性に向けた映画であるともいえそうです。「苦しみて後に楽こそ知らるなり、苦労知らずに楽に味なし」という古歌がありますが、辛いことや苦しみや、忍(しの)び耐(た)えることなどを多く経験してこそ、感謝とか感動がおこってくるという意味だそうですが、大貫さんの斬新で洗練された、明るくて軽妙で苦労のかけらも感じさせない広告表現も、その制作プロセスでは、人には見せない。見えない、生みの苦しみ、悩みがあるからこそだということが見えてきた映画でもありました。

2010.6.30

前回、書道的タイポグラフィのさきがけなどと書きましたが、1950~70年代にかけて、画家の佐野繁次郎さんがユニークな書体で描くタウン誌「銀座百点」や単行本の表紙、パッケージ、手さげ袋、広告などのデザインが好きで、それらに触発(しょくはつ)されてのことでした。2年ほど前に「佐野繁次郎の装丁展」が豊島区と千代田区立図書館で企画されたことがあり、見に行ってきました。装丁(そうてい)は、いまでいうブックジャケットデザインですが、佐野さんの書をつかったデザインは装丁が似合います。前衛書道をやっていた社長が二科展に絵画を出品したいといいだし、先輩デザイナーが退社して、彫刻家の奥さんとニューヨークへ行ったことで、私がアシスタントと、マネージャー的な役目をすることになりました。キャンバスに前衛書道を生かした抽象表現の作品が二科展に入選したことでいっきに熱が入り、アトリエを設けて制作するなどして、連続入選するようになった作品が、アンフォルメル運動を提唱(ていしょう)して来日中の国際的に知られたフランスの美術評論家ミッシェル・タピエ氏の目にとまり、イタリア・トリノの国際美学センターでの国際展に岡本太郎、吉原治良、具体美術のメンバーなどと招待されるようになりました。具体美術協会や指導した吉原治良さんの活動が国際的に評価され、日本にフィードバックされ、評価が過熱したのは、ミッシェル・タピエ氏が海外で紹介したことによるものでした。私はメッセンジャーボーイとして、タピエ氏を通じて岡本太郎、吉原治良さんとも関わることができました。吉原治良さんが体を悪くされ、大阪のご自宅で(芦屋にもお宅がありました。)静養されているとき、社長と2人でお見舞いにうかがったり、土蔵(どぞう)を改造した具体の美術館「グタイピナコテカ」ができたときも案内をいただき見学に行ったことがありました。
その社長が銀座のギャラリーで個展をやることになり、パンフレットの紹介文をミッシェル・タピエ氏が書いてくれ、送られてできたフランス語を訳してもらいに私が国立西洋美術館の館長室をたずね、館長の富永惣一さんに訳してもらいました。富永館長は美術評論家であり、タピエ氏とは友人でした。タピエ氏の紹介文のおかげで、個展には岡本太郎さんをはじめ多くの抽象系画家がきてくれました。あのころは私も若く、生意気だったので、吉原さんも大阪の大きな会社の社長であり、ブルジョアの遊び、道楽ではないかとの思いがありました。’70年の大阪万博で岡本太郎は、テーマ館のプロデューサーとして万博のシンボルとなった「太陽の塔」を制作し、吉原治良は万博美術館委員として、お祭り広場で「具体美術まつり」を行い、私も出張あつかいで仕事として見学に行ってきました。そのとき吉原さんは63才、岡本さんは59才でした。下着のアバンギャルド鴨下羊子と岡本太郎、吉原治良と具体美術協会の共通する挑戦的な姿勢に、リアルタイムでほんの少しですがつながることができ、20代の単なるメッセンジャーボーイであったあの日々の、なんと豊かで、ぜいたくな時間であったことかと、しみじみと感慨(かんがい)にひたらせてくれた岡本太郎美術館でした。

2010.6.23

先日、川崎の生田緑地にある岡本太郎美術館へ行ってきました。多摩丘陵(きゅうりょう)の一角に位置するゆたかな樹木(じゅもく)にかこまれた静かな環境が好きで、ときおり訪れ、時間があるときは、となりの日本民家園にも足をのばしています。帰りに多摩川べりにある太郎の母、岡本かの子の生家あとにも寄りましたが、岡本太郎の彫刻と記念碑があるだけの空地(あきち)でした。今回は「前衛下着道・鴨居羊子とその時代」展で、1950年代から80年代、主に関西で活躍した鴨居羊子の「言葉」「絵画」「下着」と彼女を励まし、支え、関わった岡本太郎、今東光、司馬遼太郎、吉原治良と具体美術協会などの資料、作品、写真、記録映像などが紹介されていました。下着は白という意識のつよかった時代に、今でこそあたりまえのファッション性、機能性のある華やかな色合いや、見せる下着などを、下着のショーや個展で発表するという斬新な方法が大きな反響を呼び、髪を金色に染めるなど、そのライフスタイルにも注目された女性の意識革命のパイオニア的存在でした。下着ショーの会場構成に、そのころ関西で活躍していたグラフィックデザイナー早川良雄の名があり、演出に関わった関西の前衛グループ具体美術協会のメンバーや吉原治良の名もあり、私が20代であった1960年代から70年代にかけての当時をなつかしく思いだしました。岡本太郎と吉原治良は二科会会員で、期待されたホープでした。二科会の中でより前衛的な表現を求めた「九室会」を結成し、「日本アバンギャルド美術家クラブ」の結成にも参加して、二科会会員でありながら、さまざまな分野の芸術家と交流し、その後岡本太郎は二科会を退会し、吉原治良は具体美術協会を結成して、その表現をより先鋭的にしているころ、私はアパレルメーカーのデザイン室に勤めていて、前衛を気どった作品を本名ではない名前で個展やグループ展などで発表し、二科展の商業美術部(現デザイン部)にも出品していました。デザイン室の先輩デザイナーも二科展の絵画部と商業美術部の両方に出品し、奥さんも彫刻部に出品していたこともあり、社長が二科展を見にいくときは説明役で同行していました。その社長は前衛書道をやっており、前衛書道展に出品していて、なかなか魅力的な書で、当時の広告や商品ロゴなどを社長の書と私のデザインで制作したものでした。今は書道的表現のタイポグラフィーが多く見られますが、そのさきがけでした。こう書きながらまだ先が見えてきません。前々回も長くなってしまい、なにがショートコラムだ、あのタイトルはジョークか、などといわれているような気がします。(こう見えても気が小さいのです。)まとめる力がありません。次回につづきを書かせてください。スミマセン。

2010.6.10

6月に入ったばかりの先週、国立オリンピック記念青少年総合センターの体育館で、今年もスポーツ大会を開催しました。AMは2・3年生。PMは1年生の学年別クラス対抗ドッジボール競技で、今回は敗者復活の<つなひき合戦>も行いました。梅雨(つゆ)入り前の会場は、学生の熱気と夏日(なつび)の気温でむし暑く、私は開会式のアイサツと閉会式で賞状を授与するほかは座って観戦すだけでしたが、それでもじっとり汗ばむほどでした。競技をする学生と応援合戦をくりひろげる学生も、ともに汗だくでした。熱戦の結果、1年生のドッジボ―ルで優勝したのは、ディスプレイデザイン科Aクラスで、準優勝はグラフィックデザイン科Cクラス。3位がグラフィックデザイン科Aクラス、アニメーション科Aクラス。つなひきの優勝は、イラストレーション科Aクラス。2・3年生は、ドッジボールの優勝がインテリアデザイン科Bクラス。準優勝がビジュアルデザイン科3年Aクラス。3位がグラフィックデザイン科Bクラス、Dクラス。つなひきの優勝はクラフト・アクセサリー科Aクラスでした。4月に留学生交流パーティで会った各国の留学生も、競技と応援に参加しており、元気な姿が見られました。クラス、学科が一体化してもりあがったこの会場は、東京オリンピックの時の各国の選手が集(つど)った選手村だったところです。スポーツの祭典であるオリンピックは、世界平和を目的としているわけですから、私の中では、本校のスポーツ大会は超(ちょう)ミニオリンピックとの思いで、うれしく、たのしく観戦させてもらいました。
梅の実の熟するこの6月に降りつづく雨のことを、梅雨(ばいう)とか梅雨(つゆ)とかいいますが、「水無月(みなづき)」ともいい、梅雨(つゆ)の月が「水無月」とは不思議です(京都ではこの6月に「水無月」という和菓子を食べる習慣があるそうです)。これは旧暦では5月のことだからだそうです。5月も、五月雨(さみだれ)とか、五月晴れ(さつきばれ)など矛盾(むじゅん)した言葉がありますが、<さみだれ>は、少しずつくりかえしふる雨のことで、<さつきばれ>は、雨の間に一瞬晴れわたった珍しい晴天のことをいうのだそうです。去年は雨が降ったスポーツ大会も今年は晴天に恵まれ、学生にとっても身(み)も心(こころ)も<さつきばれ>のような一日になったのではないかと思います。日々の学校生活でもときおり心と体に<さつきばれ>があって欲しいものです。

2010.5.25

この5月は、若葉や、青葉などのさまざまな緑が美しく、これを吹きぬけ、緑のかおりをはこんでくれる風を薫風(くんぷう)といいますが、木に風と書くこの季節の楓(かえで)をそのみずみずしい青葉から<青もみじ>と呼ぶそうです。5月に入ってからも住まい近くの公園の緑の木々の間から、ウグイスの鳴く声がきこえました。山に戻っているはずのウグイスがまだいたのは、寒い日が続いたことからかも知れません。季節はずれに咲く花を<帰り花>というそうですが、このウグイスは<帰り鳥>とでもいうのでしょうか。ウグイス(鶯)といえばJR鶯谷(うぐいすだに)駅から歩いて5分ほどのところに俳人・正岡子規が住んでいた家が子規庵(しきあん)として再建されていると聞き、訪ねてみました。体を病んでいた子規は、松山から母と妹をよびよせ、亡くなるまでの8年半をこの家でくらしたそうです。元気なころはベースボールに夢中になり「野球」など、野球用語のほとんどを訳したことでも知られていますが、その生活ぶりは、明治の青春群像として、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に書かれており、NHKのスペシャルドラマでも放映されたこともあり、多くの人がきていました。正岡子規は香川照之、妹は菅野美穂が演じていました。そのドラマで見た庭に面した病室をかねた書斎もそのまま再現されていました。子規のファンでしょうか、庭先や部屋で、じっと佇(たたず)んでいる姿も見られました。このあたりは、江戸時代から明治にかけ「根岸の里」といわれ、川が流れ、鶯溪(うぐいすけい)とか鶯谷(うぐいすだに)とも呼ばれたウグイスの名所でもあり、これが駅名になったようです。子規も「鶯の遠のいてなく汽車の音」などと詠(よ)んでいます。この家には、夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、伊藤左千夫など多くの文人、画家が訪れていたそうです。近くには、江戸で初めて絹ごし豆腐をつくったといわれる豆腐料理の「笹の雪」が今もあり、この絹ごし豆腐は、笹の上につもった雪のような美しさだといわれ、笹の雪を屋号にしたのだそうです。子規も友人たちと通っており「うつくしき根岸の春やささの雪」の句も残っています。この「笹の雪」には私もおりにふれきていたのですが、俳句に関心をもつようになったのはごく最近のことですから、正岡子規が近くに住んでいたことなど興味がありませんでした。関東と関西ではウグイスの鳴き声が違うとかで、京都のウグイスをこの地に放し、ウグイスの鳴き合わせをしたといわれている料亭「鶯春亭(おうしゅんてい)」もこの近くでしたが、今はなく、子規が妹に買いにいかせたという「羽二重団子(はぶたえだんご)」は今もあり「名月や月の根岸の串団子」などの句を詠(よ)んでいます。(司馬遼太郎も訪れているそうです。)子規が学生のころ、向島(むこうじま)の桜餅で有名な長命寺の2階を「月香楼(げっこうろう)」と称して、ひと夏をすごし、そこの娘に淡い恋心をいだいたことがあったことを知り、隅田川のほとりの長命寺と子規も通ったといわれる近くの「言問団子(ことといだんご)」にも行ってきました。「葉隠れに小さし夏の桜餅」の句から、ロマンスのエピソードがほとんどなかったといわれる子規の青春の想いを偲(しの)んできました。すぐうしろには、いま建設中で話題の東京スカイツリーがそびえ立っていて、江戸と明治、大正、昭和、平成が混在(こんざい)し交錯(こうさく)する風景の中を漂(ただ)よいながら、子規の友人であった鴎外や漱石の青春成長小説のテーマである「近代的自我の目覚め」の世界も見えてきて、平成の学生達の青春も思いながら、人はみな、失われたもの、いまあるもの、これから現れるものの、変化の中を生きてきて、いまを生きているのだという、あたりまえのことを改めて教えられた下町散策(さんさく)でした。「坂の上の雲」で正岡子規を演じ「龍馬伝(りょうまでん)」では岩崎弥太郎を熱演している香川照之の顔がごっちゃになり、ちらつき、まとわりついてはなれず、こまりました。

2010.5.11

4月いっぱいで閉館となった歌舞伎座のさよなら公演が、多くのメディアでとりあげられていましたが、私も、あわてて、さよなら公演「御名残(おなごり)四月大歌舞伎」の「実録先代萩(じつろくせんだいはぎ)」と「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」を観に行ってきました。「先代萩」は、芝翫、橋之助、幸四郎、扇雀、芝雀など。「助六」は、口上(こうじょう)が海老蔵で、団十郎、玉三郎、勘三郎、三津五郎、福助、左団次、仁左衛門、菊五郎などなどの人気役者が演じる華やかな舞台に酔い、幕間には、歌舞伎座内で夕食の花籠膳(はなかごぜん)をいただいて、文字どおり心身ともに満喫(まんきつ)してきました。「先代萩(せんだいはぎ)」で思いだしたのですが、かなり前に、当時教えていた仙台(せんだい)出身の学生が帰省し、お土産といって仙台のお菓子「萩(はぎ)の月」を教室に持ってきたとき、「禿(はげ)の月」といっているようにしか聞こえなくて、今なんていった!!というと「はぎ(萩)の月」といい、間をおいて又「はげ(禿)の月」ときこえ、今なんていった!!というと「はぎ(萩)の月」とこたえ、先生、被害妄想(ひがいもうそう)だよ。などとからかわれたことがありました。銀座で異彩を放つ歌舞伎座は、桃山風建築の正面の外観が異空間の入口のようで、いづれは入って舞台を観たいと思いながら、そこにあるという安心感と、いつでもいけるとの思いから、時が過ぎてしまいました。建てかえられる新歌舞伎座は、新劇場と29階のオフィスビルの複合施設で3年後にオープンするそうです。現在の歌舞伎座が、1951年(昭和26年)に開場してから60年の幕を閉じるとなれば、なんとしても観ておきたいとの思いでした。さよなら公演は超満員の盛況で、私のような、にわかファンも多かったのではないかと思います。数日後、新宿の東郷青児美術館へ、<パリを愛した孤独な画家>というタイトルの「モーリス・ユトリロ展」を見に行き、ユトリロのパリ風景にひたりながら、パリにはオペラ座があり、東京には歌舞伎座があることや、歌舞伎役者を描いた浮世絵がフランスの画家たちに影響をあたえたことなどを、ぼんやりと思いながら、ユトリロのパリの街をめぐり終えて、東郷青児の作品が展示されているコーナーで見た年表に、1951年(昭和26年)新装となった東京・歌舞伎座の緞帳(どんちょう)「女の四季」を完成。とあるのをみつけ、うれしくなりました。20年に及ぶフランス時代にパリでピカソやキスリングなどと交流する中で、ヨーロッパの新しい風を身をもって知り、二科展を発表の場として新風を吹かせた東郷青児が、歌舞伎座のどん帳を制作していたことは、伝統芸であっても、低迷期には、新しい試みなどにより人気を回復してきた歌舞伎と東郷青児の歩みの共通性が伝統につながって見えてきて、時代がどう変化しても、現在は過去の続きであり、変わらないためには、変わることで人と人をつなげて伝統になるのだということを、おぼろげですが感じることができました。

2010.4.27

新入生を迎え、新学期が始まり、オリエンテーション期間の校内は新たな活気がみなぎっています。今年も新入生全員が参加するフレッシュマン・レクリエーションに同行しました。「春に3日の晴れなし」などといわれるこの季節は、気候の変化が激しいときであり、天気予報では、当日雨が降るなどといわれていたのですが、うれしいことに予報がはずれ、あたたかく、おだやかな春の陽光に恵まれました。バスが走る道沿いの木々の緑もひところより、濃く深くなっていました。現地(相模湖プレジャーフォレスト)に着いて、教職員と学生406名が学科、クラスごとに別れ、ピザづくりに挑戦しました。山の中腹のこのあたりは、やわらかい春風がここちよく吹きわたっていて、カマドの火かげんもコントロールしやすく、それぞれ順調に焼けていました。まわりの木々の緑はまだ浅く、芽吹いたばかりの若葉は淡い緑のもえぎ(萌黄)色そのものでした。いろんな食材がトッピングされた、ほどよい焼きかげんのピザをいただきながら、新入生がピザづくりでくりひろげているにぎやかな光景と、ワーとかキャーとか、明るく清らかにこだまする声を聞きながら、春という季節は、まさに青春なのだとの思いがよりつよくなりました。若い日の人生がひときわ輝いて見えるのは、未知の部分が多く、自由に夢を思い描くことができるからだといわれます。その純粋さに加えて、若さを信じきった幸福感、未来への希望があったからこそ、輝いて見える若いときの青春は、短かいものですが、季節の青春は、春がくるたびに訪れてくれます。まぶしいほどの若さと、躍動感あふれる学生たちの姿を追いながら「大いなる羨望と大いなる期待」という、山口瞳さんのキャッチコピーを思いだしました。学生もそれぞれが調理して焼きあがったピザを食べ、片づけを終えて、プレイランドでのフリータイムであそび、仲間と先生方とのコミュニケーションをはかるという目的は、充分にはたせたのではないかと思います。原宿に戻る帰りの車中では、満ちたりた青春の疲れに、ほとんどの学生が眠っていました。そんな学生を見ながら、人間は年とともに変わるようでいて、その本質は少しも変わらないような気がしました。私の青春も、まだ心の中で、ひそかに息づいています。

2010.4.14

三寒四温(さんかんしおん)をくり返す日々の温かい、おだやかな春らしい天気に恵まれた9日、明治神宮会館で入学式を行いました。期待と不安が入りまじりながらも、心はなやぐ空気がただようなか、卒業式で失態(しったい)を演じた声もスムーズに出て、式辞など無事に進行することができました。新入生が期待するところの、好きな分野で自立、自活し、自分の将来を切り開く力。をつけるため、私たち教職員が全員で応援、サポートすることなどを話しました。式を終えて、新入生はそのまま、新学期のスタートのための全体ガイダンスになり、保護者の方々には参集殿(さんしゅうでん)に移っていただいて、本校の教育目標、方針などの保護者説明会を行いました。毎年、入学式のころ会場の庭に咲く、薄紅色(うすべにいろ)の”しだれ桜”も、まだ鮮やかな姿を見せていてくれました。桜が咲く、この花時(はなどき)は、別れと出会いの季節(とき)でもあり、別れは卒業式で、出会いは入学式で、<会うは別れの初め>を実感させられています。もの悲しい、淋(さび)しさと、華(はな)やいだ高揚する気持が交錯(こうさく)するのは、桜の花のもつあやしい美しさの魅力そのものではないか、と思いいたりました。「花のかたち日本人と桜」という本の中に、日本人が桜を美しいと感じるのはなぜか。その美は「たまゆら」すなわち一瞬であるがゆえに「凝縮(ぎょうしゅく)された美が極上をきわめる」それだけではない桜吹雪(さくらふぶき)や咲き誇る桜は人々の心を乱し、おそれさせもする。そんな「神秘」のなかにも桜の美はある。とあります。桜の花も日ごとに少しづつ花を咲かせ、満開になったときは、圧倒的な美しさで咲き、ひとときの栄華(えいが)を誇り、風や、雨で散る、散りぎわの散華(さんげ)も、風が吹けば「桜吹雪」、雨が降れば、「花散(ちら)しの雨」とか、「花冷え」、「花曇り」など風雅な言葉もあり、人々はそのはかなさを愛(め)で、自分の人生を重ねて、それぞれの花見をしているのではないでしょうか。私も桜が好きで、思い入れがあるのは、ささやかな自分の人生を、そのおりおりに桜に重ねてきたからかも知れません。

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