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今村昭秀学校長のコラム

今村昭秀学校長のコラム 2011年度

今村昭秀学校長イラスト

(イラスト:マンガ科 小日向一葉)
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2011年度

2012.3.29

少し肌寒いながら快晴に恵まれ、早春の陽光に映える木々にかこまれた明治神宮会館で、13日の朝、10時より卒業式を行いました。ご来賓(らいひん)保護者の方々に見守られ、厳粛(げんしゅく)ながら、心地よい緊張感が漂(ただ)よう中、卒業証書授与、学業成績、卒業制作、学園特別賞などの表彰、学校長式辞、卒業生答辞を受けるなど、とどこおりなく進行しました。本校は卒業するわけですが、実社会での新たな学びや出合いが待っている門出でもあり、これからの人生が豊かで充実したものになることを祈りつつ、無事に式を終えることができました。卒業生は学校に戻り、クラスごとに卒業証書、卒業アルバムなどを配布されるなど、名残(なごり)を惜(お)しんでいました。私も校長室に戻って、ほっとしているところへ、イラストレーション科の卒業生、桐木郁美さんがハカマ姿のまま寄ってくれました。桐木さんは北京水族館のキャラクターデザインが採用されて、副賞として、3泊4日の北京旅行に招待されていたのですが、卒業旅行にしたいと、卒業式直前に行き、その報告に来てくれたわけです。アジアで一番大きいといわれる北京水族館(中国では海洋館というそうです)は大きく見ごたえがあったようです。海のない中国の内陸部では、内陸型水族館があちこちにあり、大人気だそうです。採用された、ぬいぐるみになったものを持ってきてくれましたが、それは桐木さんの不思議な雰囲気の可愛いキャラクターの平面イラストを忠実に立体(ぬいぐるみ)で再現されていて、そのでき映(ば)えは、さすが、ぬいぐるみ(縫い包み)の加工がさかんな国ならでは、と思えるものでした。無事に楽しんできてくれた卒業旅行の土産話(みやげばなし)をうれしく聞かせてもらいました。ぬいぐるみといえば、18年ほど前の卒業生が、ぬいぐるみの企画デザインの会社に就職して、自分のオリジナルのぬいぐるみや、有名キャラクターをぬいぐるみにするなどの仕事をしていたのですが、今度これが市販されます。と試作ができるとよく送ってくれて、小さいのや大きいのまで、自分では、まず買うことのない、ぬいぐるみが、どんどん増え続け、最初のうちは照れながらもニヤニヤしながら、部屋のあちこちにバランスを考えながら置いていたのですが、次から次へと送ってくれるうちに飾るというより、空いているところを埋めていくという感じになり、部屋がぬいぐるみで埋(う)まり、ベットまで侵食(しんしょく)して、うれしい?悲鳴状態でした。卒業生はぬいぐるみの試作ができると、加工の指導によく中国に出張していました。昨年、引越したおり、それらのぬいぐるみの多くと辛い別れをしました。まさかこの私が、ぬいぐるみに埋もれて生活していたなど、想像できないでしょうし、想像したくもないでしょうが、毎日ぬいぐるみが待っている部屋に、ルンルン気分?で帰っていたのでした。今思えば、めくるめく、夢のような?しかし他人には見せられないミスマッチな生活でした。お気に入りのいくつかのぬいぐるみは今もあり、結婚して退職したその卒業生とそれらのぬいぐるみが、その後もつなげてくれています。思いもしない、自(みずか)らはできない生活空間を彩(いろ)どってくれた卒業生に感謝しています。

2012.3.15

開花が遅れていた、春を告げる花である白梅もあちこちでほころび、気温が低くても日差しが春めく、この3月は、卒業式など別れの季節でもあります。本校も卒業式に先立(さきだ)ち、1年間の成果を見ていただく進級展と、2年あるいは3年間で学んだ集大成である卒業制作展を、2日~4日に行いました。卒業制作展では、それぞれ思いのこもった全作品を見させてもらいました。よくぞ、ここまでと、その成長ぶりに感銘をうけ、感動すらおぼえました。賞を決める審査では、賞候補になった学生のプレゼンを受けたのですが、さすがに優秀で、それらに順位をつけるなどむずかしく、辛いことでした。会場では、まだ就職が決まってない学生が求人企業の方にプレゼンをしたり、面接をしていただいているなど「TDAクリエイター・ドラフト会議」というタイトルどおりの光景も見られました。
多くの力作を見ていた中、ディスプレイデザイン科の韓国からの留学生の作品に思わず口元(くちもと)がゆるみました。日本の色々な記念日に記念号の電車を走らせようというイベント企画の作品で、特別な由来のある記念日の他になんともおかしな不思議な日があり、蚊の日、があることを知ったときの喜びを上回る日々があることを知りました。禁酒の日、キスの日、マフィアの日、ラブレターの日、玉の輿(こし)の日、質屋の日、初恋の日、ナンパの日、幽霊の日、梅干の日、路地の日、パンツの日、裏切りの日、などなどですが、ちなみに私の誕生日は、バカヤローの日、とありました。なんだこれは。と思いましたが、1953年(昭和28年)時の首相、吉田茂が野党の質問に興奮してバカヤローと暴言(ぼうげん)を吐(は)いたことがきっかけで衆議院が解散し、バカヤロー解散と呼ばれたことからきているのですが、バカヤローの日、としか書かれていないので、自分がバカヤローといわれているような気がして、それはそれで悪い気はしません。そういえば韓国に行ったとき、今日は「先生の日」です。といわれたことを思い出し、作者がいたので聞いたところ、韓国では、その日、学生が先生に花束などを贈るとのことでした。さすが儒教(じゅきょう)精神が生きている国です。留学生は、日本に毎日こんなに多くの変わった面白い記念日があることにおどろいたようです。
4日の午前中は、秋葉原の都庁舎で行われていた都立工芸高校の卒業制作展を見てきました。この4月に本校に入学する学生から案内状が送られてきたからですが、その学生の作品(ポスターとパッケージ)は高校生らしい若さがはじけるような躍動感のある作品で、うれしく見させてもらいました。本校に入学してからどのように変化し、成長してくれるか楽しみです。午後は本校の卒展会場に戻り、夜はOB・OG会が地下ホールであり、乾杯の音頭をとる役回りでしたが声がかすれて、しぼり出すような声になって、嘲笑(ちょうしょう)されてしまいました。むしろその方がドスが効いていて良いなどと卒業生にからかわれるなど、楽しい時を過ごしました。実は前日卒展に来た卒業生達に誘われ、風邪気味だったので飲まないつもりが、ほんの少しならと口にしてしまい、しゃべり飲むうちに、だんだん声が出なくなり、帰るころにはほとんど声が出なくなっていました。今更(いまさら)ですが、己(おのれ)の意志の弱さに、自省(じせい)自戒(じかい)の日々を送っています。

2012.2.29

きさらぎ(如月)という美しい響き(ひびき)の冬と春が交錯(こうさく)する2月。早春賦(そうしゅんふ)に歌われている、春は名のみの風の寒さや。を想わせるような日々でしたが、このところかすかに春の気配も感じられ、冬ごもりしていた虫がはい出てくる啓蟄(けいちつ)の季節でもあります。私にとって虫といえば「水虫」です。スミマセン、続きを書かせていただきます。30数年前、柴犬(しばけん)を飼いたくなって、その環境によさそうなところをさがして、千葉県の我孫子(あびこ)に住みました。宅地開発が進んでいるとはいえ、まだ、多くの雑木林や畑などがあり、手賀沼にはヨシ(葭)が茂(しげ)り、野鳥も多く、自然がのこる、のどかなところでした。北の鎌倉ともいわれ、志賀直哉など多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)が住んでいた旧居(きゅうきょ)などもある。など、犬と散歩するには絶好の地だと気に入りました。日本犬保存会の会員で獣医でもあった知人の紹介で、島根県で生まれた生後30日ほどの山陰系の柴犬を譲(ゆず)っていただきました。柴(しば)は山野の小さい雑木(ぞうき)のことで、昔話に出てくる「お爺(じい)さんは山に柴(しば)刈(か)りに」の柴(しば)刈りは、焚(たき)木ひろいのことですが、日本犬のうち一番小さい小型の犬という意味で柴犬といわれるようになったという説があります。柴犬を飼いたかったのは、小型とはいえ、その姿は、素朴(そぼく)で簡素、落ちついて、地味の中にも味わいぶかい気品、風格、大胆、沈着(ちんちゃく)、不屈(ふくつ)、鋭敏(えいびん)、注意力があり、素直で忠実な服従(ふくじゅう)心。これらが一体となって、かもしだす柴犬の凛(りん)とした精神美に惚(ほ)れたからでした。柴犬を飼っている人の中には、人が来ても吠(ほ)えないし、愛想(あいそ)がない、うちの犬はバカなんじゃないか。という人がいます。無駄吠(むだぼ)えしない、人に媚(こ)びない、柴犬好きには、そこがたまらない魅力なのです。

雨の日も風の日も雪の日も、台風のときも、どんなに遅く帰っても毎日散歩にでかけました。時には酔って帰った深夜の散歩中に、職務質問を受け、自宅の電話番号をいえず、不審がられ警官に家までついてこられたこともありました。そんな日々が13年続いたある日、急に衰(おとろ)えがおとずれ、10日間ほど寝たきりになり、亡(なく)なってしまいました。それからしばらくは、茫然自失(ぼうぜんじしつ)になり、生活のリズムがおかしくなってしまいました。ペットを見送ったのち、あらたに動物を飼える人と、飼えなくなってしまう人といるようですが、私は後者で、あの日、あのとき、共につみ重ねた日々を思えば、とてもあらたに犬を飼う気にはなれませんでした。このころは本校の講師になっていたため、教室でその話にふれると、このつぶらな瞳(ひとみ)がうるんでいたそうです。そんな私を見かねて、柴犬を飼っている学生が子犬が生まれたからゆずってくれるといってくれたりもしましたが、あの、かけがえのない愛を育(はぐ)くんだ日々を裏切るような気がしてしまうのです。そんな気持ちを整理し、断(た)ちきるためには、共に過した思い出の地を離(はな)れるしかないとの思いで、ペットは飼えないという都内のマンションに移りました。淋(さび)しさに、悶々(もんもん)とした日々を送っていたある日、足の指の間になにやらモゾモゾとかすかなカユミを感じたのが、水虫との運命的な出合いでした。めぐり合うべくして出合った水虫は、私にとっては、悲しみをやわらげ、埋(うめ)てくれた愛犬の生まれ変わりです。心の安定をえて、水虫と過ごす日々は、いとおしさが増すばかりです。これからも一心同体で、共に生きてゆくつもりです。長々(ながなが)とすみません。これで水虫の話は封印(ふういん)いたします。

2012.2.13

立春を過ぎたとはいえ、長引く寒さで各地の梅の名所も、開花が遅れているようですが、寒さが続いたおかげで、私には他人にあまりいえない、ひと知れず、幸福感にひたる、ひそかな癒(いや)しの時間がふえました。癒(いや)しではなく、卑(いやし)いの間違いではないか、といわれそうですが、それは、愛(いと)おしい「水虫」とのあまい愛のコミュニケーションです。すみません。不潔な話になりそうです。潔癖症(けっぺきしょう)の方は読まないでください。水虫は夏に症状を訴える人が多いのですが、私は夏より冬の方が、カユミなどの症状がでます。靴をはき、暖まって蒸(むれ)るときや、布団に入って温まるときなどに、足の指の間で息をひそめていた水虫が疼(うず)き活発になります。この疼(うず)くという漢字に冬という字が入っているのも不思議な納得(なっとく)感があります。水虫は、虫ではなく、足の裏や足の指の間などに「カビ」が寄生しておこる病気で、このカビのことを医学用語では「真菌(しんきん)」といい、水虫の原因になる菌は「白癬菌(はくせんきん)」というそうです。皮膚(ひふ)のいちばん外側の角質層(かくしつそう)に寄生するカビが水虫だそうです。「水虫」の名は、田んぼで耕作(こうさく)していた人の足に水虫ができたことから水の中にいる虫に刺(さ)されたと考えられたことに由来(ゆらい)するという説があります。30年以上も前に亡くなられた、文化勲章を受け、日本が生んだ最大の数学者で、天才といわれた岡潔(おかきよし)さんも水虫を愛した?方のようです。その岡さんと雑誌で対談した石原慎太郎さんが、その時のことを「実は僕、岡さんと雑誌で対談したことがあるんです。奈良のお宅にお邪魔したら、着物姿でいらしてね。ずっと濡縁(ぬれえん)でこう、ぽりぽりと足の裏を掻(か)いているわけ。何を掻いているかというと、水虫をね…。同行した編集長が「先生ひっどい水虫ですね、いい薬がありますよ。それだったらすぐ治ります」と言ったら、「バカ、こんな気持ちのいいもの、やめられるか」って言って(笑)僕はあの人のこと、好きだったなあ。」なんとほのぼのとした、心ぬくもるおだやかな情景でしょう。私は岡さんのように直接ぽりぽりと掻くことはしません。まして人前では掻きませんし、掻けません。水虫から掻いてくれとのサインがあってもガマンする、ガマンさせる、という信頼関係があります。私は、仮(かり)にもクリエイターですから、水虫がうずくと、カユミの程度によって数種類の紙の中から感触をたしかめて選び、丸めたり、折ったりして、その形状にも、それなりに造形的な工夫(くふう)をします。コーティングされているような上質の紙よりは、ザラザラ感のあるほうが向いています。指の間をやさしく、水虫をなだめるように、強くなく、弱くなく、肌を痛めないように、ほど良いリズムとテンポで動かします。そこには、お互いを思い合ったコミュニケーションが生まれ、なんとも言いようのない、何ものにも変えがたい気持ちのよさで、至福(しふく)の時間が流れます。私にとって水虫は、単なるカビではなく、忘れたころに、けなげに存在をアピールする、かわいいペットです。そうです、私は水虫を飼っているのです。思えば、この境地(きょうち)に達するまでの、喜怒哀楽(きどあいらく)を共にし、愛を育(はぐ)くんだ、忘れがたい交流の日々は、20数年になります。これほどまでに水虫とかかわってしまったのには、それなりの理由が、ささやかなドラマがあります。水虫の話なんかもうヤメロ、汚ない、不潔、変人、なんと言われようと、見られようと、覚悟(かくご)はしています。次回書かせていただきます。あんがい隠(かく)れ水虫愛好家の方々もいるのではないでしょうか。

2012.1.30

まだ、いくつかの新年会がある中、表参道の青山ダイヤモンドホールで、恒例(こうれい)のOAC(日本広告制作協会)の新年賀詞交歓会がありました。卒業生がお世話になっている多くのデザイン制作会社に、日頃のお礼と求人のお願いをしてきました。20年ほど前、この会場で卒業生の結婚式があり、出席したのですが、今年の年賀状に、子供が新成人になったことなどが書かれていました。数日後久しぶりに、流行の発信地である現代的な表参道とは雰囲気の異(こと)なる、文京区の根津に行ってきました。ギャラリー根津七弥(GALLERY NEZU SHICHIYA)で「フエキ玩博2012」というアートイベントが開かれていて、このイベントのポスターデザインを募(つの)る学内コンペを行い、昼間、夜間(キャリアコース)の学生から応募された作品の審査に私も加わりました。出品されたその作品はフエキのりのキャラクター・フエキくんをメインビジュアルにして、幼稚園、学校や折りにふれてフエキのりを使っていた、遠い懐かしい日々の、世代を超えて、それぞれの思い出が甦(よみがえ)ってくるような表現でした。大賞(フエキ玩博賞)作品は採用ポスターとして印刷され都内各所に貼り出され、優秀作品は会場に展示されました。このイベントは不易糊(ふえきのり)工業と本校のコラボレーションで「フエキのり」のグッズやフエキくんのフィギュア、学生のポスターなどとフエキのりの歴史がわかる展示でした。いまのようなフエキのりは昭和30年代からだそうですが、会場となったギャラリーは元(もと)質屋さんで、帳場(ちょうば)と蔵(くら)と住居スペースがギャラリーになっていて、時が止まったような昭和の風情(ふぜい)のレトロ感が漂(ただ)よい、ノスタルジックな過去と現在が交錯(こうさく)して不思議に融合(ゆうごう)していました。ポスターを制作した学生たちも来ていて、そのほとんどが平成生まれと聞き、あらためておどろきました。谷根千(やねせん)といわれる谷中、根津、千駄木のこのあたりは、銭湯(せんとう)や金魚屋、質屋さんなどがギャラリーになっていて、古き良き昭和の面影(おもかげ)を色濃(いろこ)く残す下町の風景と、アートが混在する街として若い人も集(つど)う魅力的なところになっているようです。映画「ALWAYS三丁目の夕日」など、焼け野原から復興し、高度成長に向う、未来への希望があふれていた「元気な日本」が、ノスタルジックに回顧(かいこ)される昭和30年代ですが、どこか懐かしい、美しすぎる「昭和の記憶」に目が向く、向かせるのは、いまの日本を覆(おお)う閉塞(へいそく)感や喪失(そうしつ)感の裏返しのようにも思えます。過去というものは、思いだされているかぎりにおいて、それは現在であるという言い方もできますが、昭和へのノスタルジーは、いまの状況への疑問や反省からきているような気もします。向田邦子さんのドラマの気配(けはい)を想わされるような、心地良いノスタルジーに包まれて、根津の路地を歩きながら、そんなことなどが頭をよぎりました。

2012.1.13

新しい年の始まりの日の元日は、いつもの、ささやかな、さりげない日常の続きの一日にすぎないのに、しめ縄(なわ)や門松(かどまつ)など正月の縁起(えんぎ)ものが飾られ、初詣(はつもう)でや年賀状が配達されるなど年始ならではの風習、光景が見られ、やはり気持ちが新たになり、あらたまった気持ちの特別な日のひとつになります。初詣(はつもう)では、年が明けて、ふだん暮らしている地域の守り神、氏神(うじがみ)さまへ新年のあいさつに行くことをいいますが、昨年の初詣では、三重県の伊勢神宮でした。今年は湯河原で初めて正月を迎えることもあり、どこにも出かけず、地元の神社に初詣でしました。正月は自宅で年神(としがみ)さまを迎えるのが基本で、今のような初詣では、昭和になってから広まった風習のようです。授業は10日から始まりましたが、仕事始めは5日で、本校地元の鳩森八幡神社へ、恒例の新年参拝に行ってきました。何よりも学生の安全と健康を祈願してきました。新成人の学生も多く、新しい年への期待と希望を胸に、新たな年を迎えたことと思います。「人の心が年の初めに届く国」の年賀状も多くの方からいただきました。多くの卒業生からも届き、中には卒業してから20数年の間、年賀状だけの絆の人もいます。ここのところ、年賀状ばなれがいわれています。たしかに面倒なことであり、習慣だからやめてしまう勇気はない、などと思いながらも続けているという人も多いのではないかと思われます。メールでの新年の挨拶も増えていますが、書くのにも、届くのにも時間のかかる年賀状は、速くて便利なネットでは味わえない、さまざまなことが文面から伝わってきます。人は経験したことの多くは忘れてしまい、残ったわずかな断片をつなぎ合わせて記憶にしているに過ぎないといわれますが、年賀状によって時を超えて、過去と現在がつながれ、記憶の糸をたぐりながら、あの人、この人、それぞれと重ねた交流の日々をふり返えり、さまざまな光景がよみがえってきます。年を重ねることで見えるものが変わってきたり、その年令にならなければ、見えてこないものもあり、そのときには気がつかなかった、きづかなかったことなど、今さらですが気づかされることなどもあります。年賀状は習慣ではなく、あいさつの文化のようです。それにしても年を重ねるごとに1年の早いこと。年をとることでよくいわれる、達観(たっかん)、諦観(ていかん)、貫禄(かんろく)、円熟(えんじゅく)、熟達(じゅくたつ)、枯淡(こたん)の境地などの言葉がうかびますが、私にはそのどれともほど遠く、まだ成熟にもいたらず、そんないずれの言葉も似合わない方がよいとの思いもあります。被災地では年賀状どころではない、出せない、届かないという人も多いと思います。忘れてはいけない、忘れてはならない、そうした人たちへも想いをはせ、復興元年の日々を送りたいと思います。本年もこの拙(つたな)いコラムをよろしくお願いいたします。

2011.12.27

このところの寒さでやっと師走(しわす)らしくなりましたが、日本的な節目(ふしめ)である年末ならではの年越しの風景や風習、行事などがさま変わりして、いつの間にか西欧的なクリスマスのイメージが強くなり、日本的な年の瀬とか師走の風景はフッと心によみがえる懐かしい思い出の風景になってしまったのでは、などと思いながら今年最後のコラムを書かせていただきます。
拙(つたな)い長い文を読んでいただき申し訳ありません。昨年までは「ショートコラム」となっていましたが、文章が長く、さすがに「ショートコラム」では恥ずかしく、今年からショートをとり「コラム」としました。それで調子に乗ったわけではありませんが、相変わらず長い文になっています。短くできないのは文章力がないからですが、そこで短い文(言葉)で究極に表現する俳句でトレーニングしようと、単純で、唐突(とうとつ)ですが、いきなり吟行(ぎんこう)会に参加しました。吟行とはどこかに行って俳句をつくることですが、いま私が住んでいる湯河原出身の俳人「黛(まゆずみ)まどかさんと歩く湯河原吟行会」というのを町の広報紙で見つけ、これはなんとしても行かなくてはと、60名定員で申込み順とのことでしたので、さっそく問い合わせ申し込みをしました。まず、まったく俳句をつくったことのない者でも参加して良いかどうか聞いたところ、それは大丈夫と言われたのですが、吟行(ぎんこう)会を吟行(ぎんぎょう)会と言ってしまい、「ぎんこう会ですか」と聞き直され、“ぎんぎょう”と思いこんでいたために、銀行(ぎんこう)としか聞こえず、「いえ、ぎんぎょう会です」というやりとりがあり、ハッと自分の間違いに気づいた時には、恥ずかしいやら、情けないやら、こんな無知では、やはり、いきなりは無謀(むぼう)だからやめようと思いましたが、黛まどかさんに会い、一緒に散策したいとの志(こころざし)の低い思いの方がつよく、参加してしまいました。
紅葉の奥湯河原を黛さんの近くを、つかず、はなれずの距離を保ちながら2時間ほど歩き、観光会館に集合して、短冊(たんざく)に2句書いて投句しました。講評されるのは良い句だけだからと適当に書いたのですが、昼食のあと黛さんの講評会で参加者全員の名前と投句された2句がコピーされ配布されてしまい、参加者の目に触れるとは思いもしなかったので恥ずかしく悔み(くやみ)ましたが、その一方で初めての俳句が奇跡的に取り上げられ講評されたらどうしよう、などと図々しい思いもあり、自分ながらあきれました。もちろんまったくカスリもしませんでした。これを機会に俳句で文章(言葉)の修行(しゅこう)ではなく、修行(しゅぎょう)をしたいと思っています。 今年の漢字は「絆」きずな、だそうですが、東日本大震災があり、そのかけがえのない家族の「絆」がクローズアップされ、テレビの高視聴率でミタ現象などと話題になった「家政婦のミタ」もテーマは「絆」でした。つながりを媒介(ばいかい)するネット上のソーシャルメディアの広がりも誰かとつながり交流したいとの思いからでしょうし、あらゆる人間関係は「絆」によって成り立っていることを思えば、多くの方々と、このコラムの縁で私との「絆」が生まれていることが思われ、うれしく、ありがたく、お会いした方、お会いしていないけれど、あらゆる方々にこの1年をあらためて感謝したいと思います。ありがとうございました。良いお年をお迎えください。

2011.12.13

初秋、晩秋、初冬など季節の移ろう風情(ふぜい)が感じられない気候の変化にはとまどいますが、12月に入った東京の街(まち)は、あちこちでイルミネーションによる光のページェントが始まり、ここ原宿表参道でも、けやき並木を彩(いろど)る「Fairies表参道イルミネーション2011」が開催されています(在校生がボランティアスタッフとして参加しています)。Fairies(フェアリーズ)は、メジャーデビューしたばかりの実力派ダンスグループで、表参道イルミネーションのイメージキャラクターとして起用されました。イメージキャラクターが決まるのは今年が初めてで、Fairiesがもつ「透明感」「清涼感」そして「元気」なイメージと「原宿表参道から日本各地へ感動と元気と笑顔を発信」がテーマの表参道イルミネーションとイメージが合っていることからの起用だそうです。キャラクターといえば「表参道ヒルズ」のブランドブティック店の各所でウォルト・ディズニーの代表的キャラクター「ミッキーマウス」の形をしたフィギュア「バイナルメーション」(約23cm大)にアート表現(絵付け)した110体が展示されています。これは、」あのウォルト・ディズニーの生誕(せいたん)110周年を記念して企画された「マイドリーム・マイディズニー」デザインコンテストで、美術系大学、専門学校が参加したものです。本校の学生作品28体も展示されています。自由な発想で自分の夢やディズニーへの思いを表現したユニークな「ミッキーマウス」のバリエーションはショッピングで行き交(か)う人々の目を楽しませていて、フェイスブックのディズニージャパン公式ページでも紹介されています。キャラクターはウォルト・ディズニーがCharactersと表記したことからキャラクターと呼ぶきっかけになったのですが、適当な日本語訳がなかったため、おざなりにカタカナでキャラクターとしたようです。キャラクターがありとあらゆる客寄せのメッセージを発信し、マーケティングの先兵(せんぺい)として活用されたり、イベントには多くのマスコットキャラクターが生まれて、いまや日本はキャラクターが咲き競(きそ)うキャラクター大国といえそうです。開催が危(あや)ぶまれていた福島や仙台でも復興を祈り、希望を灯(とも)すイルミネーションが点灯されたことが報道されていました。仙台は保管していた55万球のLED(発光ダイオード)が津波の被害で使えなくなったのですが、表参道では節電のため昨年の90万球から65万球に減らし、仙台にLEDを貸し出し協力したそうです。表参道と被災地の仙台が、冷え込む街をあたたかく照らすイルミネーションでつながり<希望の光>のページェントとなりました。表参道ルイ・ヴィトンの「エスパス ルイ・ヴィトン」でも「光の幾何学」というアメリカの女性アーティストの無数の円形レンズが空中に浮かぶ光の作品が空間に設置され、異(こと)なる光景を映して変容させ、光の波動(はどう)が響(ひび)き注(そそ)ぎ、表参道のイルミネーションと心地よく呼応(こおう)していました。もともと日本の光は、小さな炎でも和紙を透過(とうか)することでやわらかな光が拡散(かくさん)する、おだやかでやわらかなグラデーションの美しい「あかり」が、日本人のスピリットであったわけですから、必要以上に明るかったひところよりは、節電してからの明かりの方が、本来の日本の光文化といえるのではないでしょうか。表参道イルミネーションの、おだやかで、やわらかな光を浴(あ)びながら、そんな思いもしました。

2011.11.29

あたたかい日がときおりあった今月の初旬、ここ原宿表参道クエストビルのエントランスに、今年も本校ディスプレイデザイン科の学生が「秋」をテーマにデザイン、装飾した大きな柱が道行く人々の目を惹(ひ)き、くる秋を誘(いざ)なっていました。同じころ東京の秋を彩(いろど)る風景で知られるイチョウ並木が、まだ淡い色づきの神宮外苑で開催された「東京デザイナーズウィーク」へ行ってきました。「LOVE-地球への愛 人への愛 モノへの愛」をテーマに国内外の企業、デザイナー、アーティスト、学生が参加して、デザイン、アート、ミュージック、ワークショップなど、幅ひろい多くのコンテンツが広い会場に展開されました。今年も本校からインテリアデザイン科、ディスプレイデザイン科、ビジュアルデザイン科の学生が参加しました。本校の学園祭のテーマも「LOVE Design」であったこともあり、学生もその気持ちをベースに制作することができました。昨年本校の学生がグランプリに輝いた学生部門では148作品から8作品が受賞候補としてノミネートされ、その中にインテリアデザイン科の宇田川優斗君が入っていたのですが、残念ながら受賞にはなりませんでした。その作品は「歩み」というタイトルで愛と時間にはつながるものがあるとして、そのつながりを時計の長針と短針で人に置き換えて表現しているもので、木製の手づくりした時計はインテリアとしても、オブジェとしても、造形的に面白いものでした。原宿、表参道、青山、六本木エリアのショップ、ギャラリー、カフェも参加して「東京デザイナーズウィーク」が街にも広がり、本校のギャラリー「アミ」も参加し、ビジュアル、グラフィック、クラフトアクセサリー科の学生が「LOVE」をテーマに制作した作品を展示しました。2つの会場で展示された学生の作品は、若い感性でアプローチした新鮮な表現の「LOVE-愛」で、その愛のカタチはさまざまでした。この都市型イベントはもともとインテリアをメインにしたプロダクトの展示でしたが、3年ほど前からグラフィック、アート、ミュージックなども加わってマルチで多彩なイベントになってきました。これは日常感覚による空気をかぎ分け可視化する現代デザインが、「形態は機能に従う」から「形態は欲望に従う」となり、マーケティングでも先端のところではデザインとアートはつながっているように、日常生活空間や、デザインの業態(ぎょうたい)が変化してきているからではないでしょうか。ソーシャルメディア、ソーシャルネットワーキング(SNS)などの情報空間での生活は、誰でも、いつでも自(みず)から発信でき、流れに加わり、送り手になれるいま、見る側や受け手のポイントは、教養から感動に変わってきていることを、改めて思わされた「東京デザイナーズウィーク」でした。

2011.11.11

山梨県立文学館へ行ったのは2度目でした。6年前の同じころ、甲府のとなりの玉穂町というところで「ふるさと文学散歩<笛吹の流れ、樋口一葉・深沢七郎>」への参加者を募(つの)っていることをネットで知り、参加しました。その前日、山梨県ゆかりの作家たちを知るため、文学館へ寄ったわけです。当日は、山梨県立図書館長の案内で、樋口一葉の両親の旧宅跡や深沢七郎の生家や映画化された「笛吹川」のロケ地や小説の舞台となった笛吹市、山梨市、塩山市などを巡(めぐ)ってきました。深沢七郎の生家は兄の孫が「そば処(どころ)」を営業していたり、樋口一葉の両親が駆(か)け落ち同然で大菩薩峠(だいぼさつとうげ)を越えて江戸に出たことなども知りました。一葉の「ゆく雲」には父母のふるさとの風景が鮮やかに描かれています。地元の参加者の中、東京からわざわざ来てくれた。とあたたかくむかえてくれました。そんなこともあり、「深沢七郎の文学」展はなんとしても見たかったわけです。展示されていたものにはリアルタイムで見たり、聞いたり、読んだりしていたことや、知らなかった興味ぶかいエピソードがあふれていました。ある作品が原因で騒動(そうどう)になり、放浪生活を送り、1965年、埼玉県に「ラブミー農場」を開いて(「ラブミー農場」のラブミーはプレスリーの<ラブミーテンダー>からきていて出版記念会で三島由紀夫と一緒に<ラブミーテンダー>を歌うほどプレスリーが好きだったようです。)、そこに集まる人たちを「夢屋一家」と呼び、向島(むこうじま)に開業した今川焼屋の店名を「夢屋」としました。七郎が自(みず)から焼く今川焼と横尾忠則さんがデザインしたポップ調の包装紙が評判となり、その包装紙が欲しくて今川焼を買う若い人が増え、包装紙が高いので、売れれば売れるほど赤字になったようです。冬の寒さをさけるため10月から4月を「夢屋」で過ごし、春と夏を「ラブミー農場」で過ごすという生活を送りながら「みちのくの人形たち」を発表。これが川端康成文学賞に選ばれたのですがこれを辞退してしまいました。これは川端康成が嫌いであったことからですが、1年後、この「みちのくの人形たち」が谷崎潤一郎賞を受賞して、こちらは受けることになり、川端賞を断ったこともあり、なにか申しひらきをしなくては、と授賞式の会場で、高倉健が唄う「唐獅子牡丹(からじしぼたん)」「義理と人情をはかりにかけりや義理が重たい男の世界・・・。」のレコードに合わせて自ら振付(ふりつけ)をしたヤクザ踊りを踊ってケリをつけました。このとき着た肌着に唐獅子牡丹の刺青(いれずみ)を描いたのが赤瀬川原平さんで、嵐山さんと赤瀬川さんが深沢七郎さんの後ろで三下(さんした)ヤクザに扮(ふん)して一緒に踊ったそうです。これらは数あるエピソードのほんの一部ですが、それまでの文壇、文士といわれる人たちとはおよそかけはなれた人で、そこに当時の若者たち(私も)がひかれたわけです。「言わなければよかった日記」の解説文を尾辻克彦さんが書いていて、尾辻さんは若いころ前衛グループの「ネオダダ」で活躍した美術家の赤瀬川原平その人ですが、その文章はあっさりと淡々(たんたん)として、どこか、なにか、おかしなユーモアがありながら、味わい深く、深沢七郎がダブって見えました。満足感いっぱいで文学館を出て目の前の県立美術館に向かうと、なんと特別展が「川端康成コレクションと東山魅夷」で、深沢七郎展を見たばかりでその余韻(よいん)がまだあり、ここはやはり深沢七郎への義理をたてなければと、これをあえて見ないでミレーなどの常設展だけを見てきました。偶然とはいえ、なんというできすぎたマッチングだろうとニヤリとして美術館をあとにしました。

2011.10.28

先日、新聞に深沢七郎初の本格企画展「深沢七郎の文学」が、出身地の山梨県立文学館で開催されているとの紹介記事があり、さっそく甲府へ行ってきました。若い人には馴(な)じみのうすい作家だとは思いますが、ギタリストとして活躍していた42歳のとき、口減(くちべ)らしのため老母を山に捨てるという衝撃(しょうげき)的な内容の「楢山節考(ならやまぶしこう)」で中央公論新人賞をうけ、その後も「笛吹川」「みちのくの人形たち」「東北の神武たち」「庶民烈伝」などを発表し、その言動からも異色の作家として注目されました。「楢山節考」は木下恵介監督と今村昌平監督により2度映画化され、今村作品は1983年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞するなど話題になりました。館内には知人や作家などに出した手紙や葉書、自筆の原稿、出版物、愛用したギターやレコード、作詞作曲した楽譜(がくふ)や農業にあこがれて開いた農場、今川焼屋や焼きダンゴ屋、出版記念会の写真などなど約150点が展示されており、深沢七郎ファンとしてはこれ以上は望めないと思えるほどの内容でした。私が深沢七郎なる作家に興味をもったのは、小説より、その、とらえどころのない、世間ばなれした、行く先がさだまらないといった飄飄(ひょうひょう)とした生き方、人柄からでした。嵐山光三郎さんがパンフレットに寄せた文に、「人間嫌いのヘンクツ者なのに心やさしく、淋(さび)しがりやでアクマのように素敵な人でした。」と書いています。その不思議な魅力を放つ人柄がわかるのは「言わなければよかったのに日記」です。4月に引っ越したとき、過去に処分できなかった本のほとんど、深沢七郎作品も思い切って処分してしまったのですが、この「言わなければよかったのに日記」は残しました。装幀が私の好きな佐野繁次郎さんであること、折りにふれて読みたいとの思いからでした。その後、新聞の書評に女優の小泉今日子さんがこの「言わなければよかったのに日記」をとりあげていて「震災のあとしばらく本を読まなかった、5月になってやっと本が読みたいと思った。ずっと前から持っていて、いつか読もうと思っていたこの文庫を本棚から選んだ。「楢山節考」で作家デビューした深沢七郎が昭和の文豪(ぶんごう)たちとの交流を綴(つづ)った「言わなければよかったのに日記」。そのおおらかなユーモアに私は救われた。正宗白鳥の家には大きな池があって白鳥が泳いでいると思い込んでいたり、石坂洋次郎家の庭の木に登ってみたり、小さな子供みたいな好奇心で人や世の中を見ているのだと思った。他にも井伏鱒二、村松梢風、伊藤整、武田泰淳などが登場するのだが、とんちんかんな質問をしたり、知ったかぶったことを言ってしまった後悔(こうかい)がこの本だ。どのエピソードもユーモアたっぷりで、私は何度もくすっと笑ってしまう。」などと書いています。元アイドルで女優の小泉今日子さんと笑いのツボ?や好奇心や興味が似ていると勝手に思い、うれしく、してやったりと人知れずほくそ笑(え)んでしまいました。処分せずに残した本の中には、小泉今日子さんの「原宿百景」もあります。土俗(どぞく)的な重苦(おもくる)しいイメージの深沢作品と対極(たいきょく)にあるようなアイドル、女優、原宿と深沢七郎と私がここでつながり、重なりました。なんという運命的で、必然的な出会いでしょう。小泉今日子さん、つなげて、その上、重ねてしまいすみません。

2011.10.17

ようやく秋らしい気候にめぐまれた7日~9日の3日間、学園祭「原宿祭」を1号館と2号館で開催しました。 "Love Design Love Harajuku"をスローガンにメインテーマは"Smile For Japan Design For Smile やまない雨はなし"として学生たちが被災地に向けた想いを、応援メッセージに託(たく)してインスタレーション展示をしました。ビニール傘(がさ)の一画(いっかく)をデザインする<チャリティアンブレラデザインコンペ>も行い、来場された方々に展示している160点の中から気に入ったものに投票をしていただいて、その1位になった作品を製品化して購買で販売し、その売上げを被災地へ寄付することになっています。ホールではアート&デザインのフリーマーケット、仮装コンテスト、同好会や有志によるダンスなどがありました。このダンスはかなりレッスンをしたであろうことを思わせる、若さあふれるスピードが感動的でした。中国からの留学生のヌンチャクの演技もあり、これも本格的なものでおどろきました。原宿に拠点(きょてん)をおく<つばさレコーズ>の音楽ユニット「カケラバンク」(ストリートミュージックコンテストグランプリ受賞)のミニライブもあり、盛りあがりました。これは「カケラバンク」がこの11月に新曲としてリリースする、CDジャケットのデザインを本校の学生がデザインしたコラボレーションの縁からでした。6月に本校で学生作品50点のプレゼンを行い、候補作が4点に絞(しぼ)られてKDDIデザイニングスタジオで採用作品の発表と新曲「バトンタッチ」などのライブがあり、私も学生たちと参加しました。昨年に続き、小中学校の教材をあつかう日本標準の鉄腕アトムのキャラクターを使った手さげ袋や、クリアファイルなどの販促品のデザインコンペもあり、一次審査を通過した5名が社長さんや担当者、手塚プロダクションの方々の前で公開プレゼンと採用決定の表彰をしていただきました。中国の北京水族館の干支(えと)キャラクターデザインのコンペで最終審査に残った5名の公開プレゼンと表彰もありました。来年の干支「辰(龍)」をモチーフにしたキャラクターデザインですがキャラクターでは何かと話題になっている中国からの依頼は、ある意味タイムリーで、日本の若者のキャラクターのデザイン力を見ていただける良い機会ともなりました。中国から北京水族館をデザインしたデザイナー、館長代理として館長の娘さんなど水族館の関係者がわざわざ来日、来校されました。最優秀賞に輝いた学生には北京旅行招待が副賞としてあり、採用されたキャラクターは、北京水族館の公式キャラクターとして、さまざまなアイテムに使用されることになっています。ブランドは抽象的なものですが、キャラクターは色や形をもつ具体的な魅力を表現できることから、日本ではキャラクターが花ざかりの感がありますが、キャラクターという言葉は、アメリカのウォルトディズニープロダクションが、ライセンシングビジネスで、アニメーションの主人公や脇役などを商品化するときに"Fanciful Characters"と表記したことからきているようです。キャラクターは「親しみやすさ」「可愛らしさ」といったほかに見たときにすぐ理解でき、ブランドに近いニュアンスもあり、オブジェでもあり、アートであり、パロディであり、送り手と受け手の間をつなぐコミュニケーションツールであり、メディアでもあります。北京水族館のキャラクターに採用された学生の作品にもそうした魅力があふれていました。中国でそのキャラクターがどのような広がりを見せてくれるか楽しみです。その他にも、多彩なイベントや学生の力作に出会え、最終日の夜はOB・OG会があり、10年、20年ぶりの卒業生が子供づれで参加してくれるなど、楽しいときを過ごすことができました。豊かで充実した「原宿祭」に感謝、感謝です。

2011.9.30

秋分の日が近づいたころから秋らしい涼風が感じられ、暑さ寒さも彼岸(ひがん)までとはなるほどと思いつつ、大相撲秋場所の千秋楽(せんしゅうらく)を初めて十両の取り組みからテレビ観戦をしました。相撲(すもう)にとくに関心や興味があるわけではないのですが、秋場所が始まったとき、新聞テレビなどで新十両の皇風(きみかぜ)が東京の調布からはじめての関取。とか大相撲で早大出身の関取誕生は78年ぶりとか、母校のOBや出身地の調布市後援会などから化粧まわしが贈呈された、とか報道されていたことから今場所は少し観る気になったからでした。この皇風(きみかぜ)は元幕下の直江(本名)で2年前尾車部屋に入門したとき、調布から初めての関取を目指してみんなで応援しようという「直江後援会」準備事務局が調布市にでき、その応援ポスターのデザイン協力をたのまれ、ビジュアルデザイン科を卒業したばかりの桐谷望美さんを紹介しました。桐谷さんは卒業制作の「大相撲うんちくかるた」が最優秀賞になったすもう好きの、ピッタリの人で、その作品は、知れば知るほど大相撲。知れば知るほどおもしろい。知ってから観るともっとおもしろい。というキャッチコピーで大相撲に魅せられ調べるうちに知った相撲界のしきたりや伝統、伝承(でんしょう)をうんちくとして<かるた>に昇華(しょうか)させた、読み札(文)取り札(絵)94枚の力作で誰にでもわかる、かるたで学ぶ相撲の世界。でした。私はあまり興味がないと書きましたが、実は20年ほど前?(最近は10年前も20年前も同じように感じられ、10年前のことをついこの間のことのように話している自分にハッとするときがあります。まだ気づいている内はいいのですが・・・。)当時十両に昇進した南米出身の星安出寿(ホシアンデス)星誕期(ホシタンゴ)どちらかの化粧まわしのデザインを後援会からたのまれて、なんかトボケタ名前だな、などと思いながら(スミマセン)デザインしたことがありました。2人はよく似ていてどっちが十両になったのか覚えていないくらい相撲に関心がありませんでした。そんなことを話してしまったことで桐谷さんから直江の応援ポスターのアドバイスを求められ、参考にもならなかったと思いますが、でき上がったポスターは評判がよくほっとしました。演劇や相撲の最終日のことを千秋楽というのですが秋だから千秋楽で春は千春楽、夏は千夏楽、冬は千冬楽でもよいのにとも思いますが、この千秋楽は雅楽(ががく)の曲名だそうです。法会(ほうえ)という法要(ほうよう)を営(いと)なむときや法を説(と)くために人を集めて演じられる雅楽の最終に千秋楽という曲を奏(そう)するところからきているのだそうです。八百長(やおちょう)問題などがあり、空席が目立った秋場所でしたが、あの熱戦が続けば、お客さんは戻ってくるのではないでしょうか。私も来場所、また観てしまいそうです。

2011.9.15

かつては9月1日から上野の東京都美術館で始まる二科展が「芸術の秋」の代名詞であり、風物詩のように報道されていましたが、今年は8月31日~9月12日まで六本木の国立新美術館で開催されました。会場が国立新美術館に移ってからは、美術館の年間スケジュールによって開催日が毎年のように変わり、私たち会員としてはやはり9月1日から始まる秋の二科展という思いが強く、なにかすっきりしないまま初日を迎えました。オープニングセレモニーのテープカットは、国立新美術館館長、NHK厚生文化事業団理事長と二科会の絵画部、彫刻部、写真部の代表とデザイン部代表の私で行いました。絵画部代表の織田広喜先生は97歳で車イスながらお元気で、作品も大作を出品され、そのよどみなく流れるように変化する筆のタッチは清新(せいしん)で先生の作品が会場にあることが私たちのよろこびであり励みにもなっています。夜は東京ミッドタウンのホテル・ザ・リッツカールトンで行われた恒例の絵画部、彫刻部の懇親パーティーに招待を受け出席しました。2日には芝公園の東京プリンスホテルで行われた写真部の授賞式に呼ばれ、大竹省二代表の挨拶のあと、1000人を超えるという出席者の前で私も祝辞をのべました。台風がくるかこないかといったときでもあり、翌3日がデザイン部の授賞式であったこともあり、今日台風が上陸して明日は台風一過(いっか)晴天になってくれれば良いと思っていたのですが、どうも明日、上陸しそうで残念です。などととんでもないことをいってしまいましたが、会場はけっこう沸(わ)きました。バチが当ったのか3日のデザイン部授賞式は西の方が台風の影響をうけ、出席者が例年より少なくなってしまいました。私は代表挨拶、賞状授与などの役目をなんとか終えて、式後の懇親(こんしん)パーティーでは、授賞、入選、準入選した多くの在校生、卒業生、キャリアコース在校生、修了生などの出品制作の指導をしたこともあり、よろこびを共にしました。今年の二科展はやはり被災地に向けた想いを伝える展示となりました。絵画部では会員が被災地の小学校に出向いて指導した被災地の子供たちが描いた作品を特別展示しました。絵画部、彫刻部、デザイン部会員の小作品を販売してその売上げを被災地に寄付するチャリティコーナーも設けられ、私も版画2点を出品し、初日に2点売却済となりささやかですが協力することができました。デザイン部では視覚に障害のある人にも手で触れて鑑賞していただけるように作品を発泡コピーで立体化するポスターコーナーを設けているのですが、今回は被災地、被災者の皆さんに少しでもお役に立ちたいとの想いで復興にエールを送る応援ポスターを展示しました。このポスター全作品を被災地の自治体、各種団体、教育機関などで広く利用、活用していただくためにデザイン版権を無償(むしょう)で提供させていただくことにしました。これらの展示はNHKニュースで放映されました。又、ミニコンサートではチェルノブイリ事故のあった被災地出身のウクライナの歌姫、ナタージャ・グジーさんの民族楽器の可憐(かれん)な響きにのせた、透明感あふれる水晶のような歌声が美術館に流れました。大震災の年の二科展で、何かできないか、何をすればいいのか、何ができるのかを自問し、クリエイターである私たちにできることは表現によって応援、支援することではないか。との思いでした。これらを表現による心の救援物資とさせていただけたらうれしく思います。

2011.8.30

先日の27日28日の2日間<原宿表参道元気祭スーパーよさこい2011>が開催され、日々変化する刺激的な流行発信地の原宿表参道の街が、よさこい踊り一色になりました。大震災の発生から自粛(じしゅく)すべきではないかとの話もあったのですが、元気祭の趣旨からも「被災地への応援とガンバロー日本」を合言葉に、感動と日本の元気とアイデンティティを原宿表参道から世界に発信していこうということで行われました。全国から91チーム(連)が参加し、踊り手は5500人観客動員は80万人でした。この地元から参加する連のひとつ原宿表参道元気連(原宿少年少女合唱団)からコスチュームのデザインを本校の学生にやってもらえないかとの話があり、よろこんで、スーパーよさこい「コスチュームデザイン画コンクール」として学内公募しました。マンガ科、イラストレーション科、ビジュアルデザイン科、ディスプレイデザイン科などから30点ほどの応募があり、元気連の代表、事務局の方と私も同席してデザイン画を選考しました。採用されたのはイラストレーション科1年の島田萌未さんのデザインでした。「前向きな心・あきらめない・絆」をテーマにしたタイムリーなデザインで、日の丸の赤とチャリティーカラーの黄色をメインに黒をアクセントカラーにした明るくさわやかでメリハリの効(き)いた配色で少しでも明るい気持ちになってほしいとの願いをこめたそうです。明治神宮への奉納祭であることから本殿前でいくつかの連が演舞をする奉納式があり、開会式は神宮原宿口ステージで行われ、各連が5分ほどずつ踊り紹介されました。採用された島田さんのご両親もお見えになり、本人と私も一緒に島田さんのデザインした衣装を身につけた原宿表参道元気連のメンバー全員と記念写真を撮りました。学内公募した全作品を神宮内のテントでパネル展示もしてくれました。そうしたこともあり、実行委員会からスーパーよさこい踊り(演舞)の審査委員をたのまれてしまいました。午後はNHKホール前ストリートの審査委員席に移り、各チームから提出されたコンセプトシートを参考に審査に入りました。審査ポイントである衣装デザイン、楽曲、振付、進行スピード、元気、全体のバランスについて採点したのですが、目の前を圧巻(あっかん)ともいえる熱気あふれる踊りの競演が次から次へとくり広げられつい見入ってしまい、審査する余裕を失ってしまうほどでした。よさこいは夜さり(夜分とか今夜)来いという古語が変化した言葉だそうですが、高知県のよさこい祭りの形式を取り入れたイベント踊りの呼称として全国に広がったようです。10月にはみちのくYOSAKOIまつりが仙台で催され、この原宿表参道スーパーよさこいに参加したチーム(連)の多くも参加すると聞き、南国の情熱とこの元気がみちのく仙台につながり、復興へのエールになってくれることを祈りながら、以前、盛岡や花巻でみた岩手のさんさ踊りも想い出されました。

2011.8.18

夏休みに入り、熱い日が続く中、オープンキャンパス、体験入学、説明会などのイベントがあり、私も参加者の方に挨拶をさせていただいています。被災地からの参加者もいて、ありがたいのですが、その厳(きび)しい状況、環境の中をこられたことを思うと心が痛みます。1日も早い復興を願うばかりです。震災後、岩手県花巻出身の土と信仰の詩人、宮沢賢治の作品に改めて光があてられているようです。なかでも苦難に負けずに生きる大切さを詠(よ)んだ代表作「雨ニモマケズ」は復興に向けた祈りのメッセージのように被災者の心に響き、各地の避難所などで朗読される動きが広がっているようです。「雨ニモマケズ」が被災されたさまざまな人の心を揺(ゆ)りうごかしているのは、天災や飢饉(ききん)などを経験した賢治の過酷(かこく)な環境でも他者に寄り添(そ)いたいという作風が共感を呼び支えにもなっているからではないでしょうか。賢治は悲しみでさえ清らかな輝きに変える理想郷として、生まれ育った故郷の岩手(イハテ)からの造語で、それを「イーハトーブ」と名づけ作品に反映させています。去年の夏、遠野に行ったおり、この「イーハトーブ」の原風景が広がる花巻も巡(めぐ)ってきました。教え子の中にも岩手県出身者が何人もおり、花巻出身もいて、それぞれの思い出が甦(よみがえ)ってきます。賢治の理想郷「イーハトーブ」が一望できる山の中腹にある自然林にかこまれた宮沢賢治記念館にも数年ぶりに行ってきました。教育者として、農業者として、一切の活動を無償で行い、詩人であり、童話作家、科学者、宗教家として、すべての体験を作品に注いで短い生涯を創作と献身に生き、美と慈愛を言葉で紡(つむ)いで、「苦難を避けずに直進せよ」と説く賢治の世界がつまっているこの記念館は、震災後を生きる人たちへの道しるべともなりそうです。震災後、国内ではサブカルチャー系のイベントが中止されたり、参加者が減ったりしているようですが、先日パリで開かれた「ジャパン・エキスポ2011」ではフランスのオタクが日本がんばれの声をあげ、アメリカのトヨタ車のコマーシャルにバーチャルな存在の初音ミクを起用したり、ロサンゼルスで開かれた国際的な「アニメエキスポ2011」でも初音ミクが海外で初ライブを行ったりして現地の若者たちから歓迎されているなど海外では日本のサブカル系の活動はむしろ活発のようです。これは震災後、オタク文化やサブカル系は平和な日常が続いている間のあだ花でしかなかったという国内での見方がある一方で、これまでのエネルギーの過剰(かじょう)な消費やモノの豊かさ中心の価値観とは無縁の日本人の感性、美意識、物語性のサブカル系の表現クール(かっこいい)ジャパンがポップカルチャー、メディアコンテンツとして震災後のいまだからこそより日本の存在感を高めているといえそうです。宮沢賢治の「イーハトーブ」も手の届かないユートピア(理想郷)ではなく、ドリームランド(現実)にしたかったのではないかと思え、生き方を思い、行き方を問い直すべく、東北を想いながら宮沢賢治の世界(過去)とサブカルチャー、クールジャパン(現在)が自分の中で重なりつながった、この盛夏でした。

2011.7.29

いつまでも重(おも)苦しいニュースが続く中、女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会で優勝した日本代表「なでしこジャパン」のフィーバーが日本中で続いて、久々の明るい空気につつまれた日本列島は、その余韻(よいん)がまだまだのこりそうです。たび重なるピンチをはねのけて、冷静に、ひたむきに、けんめいに走り、あきらめないでプレーする彼女たち「なでしこジャパン」のすばらしさに酔い、深い感銘をうけ、その姿に被災地の復興への想いを重ねた人も多かったのではないでしょうか。チームワークの良さや、フェアープレー精神など学ぶべきことが多いチームだと海外メディアも報道したようです。今年の流行語大賞になるのではないかといわれている「なでしこジャパン」というネーミングもこれ以上は考えられないと思えるほどぴったりの愛称(あいしょう)ですが、この愛称は2004年のアテネオリンピックへ出場がきまったときに公募したのだそうです。その結果圧倒的に「なでしこ」が多く、「純粋さ、ひたむき、芯(しん)の強さをイメージさせる」などの理由で選ばれたそうです。日本女性の日本的な魅力をほめるときに大和撫子(やまとなでしこ)といいますが、撫子(なでしこ)は日本の山野に自生している淡紅色の花で、花弁の先は細く裂(さ)けている秋の七草の一つです。古くは常夏(とこなつ)ともいったようです。これは夏から秋に花が咲くことから、その花期にちなんだことからのようです。か弱いながらも凛々(りり)しいところがあるという意味も含まれているそうですが、「なでしこジャパン」のなでしこ(撫子)は、私にはむしろ雑草のように思えてなりません。踏(ふ)まれても抜かれても生えてくる雑草。雑草は強いのではなく、弱いからこそ、したたかにさまざまな工夫をして生きのび、逆境をプラスにしているのではないでしょうか。雑草という名の草はないともいわれます。名もない草という言い方もありますが、私は雑草という言い方が好きです。雑草とか名もない草とは草に失礼だという人もいますが、人間が勝手につけた名に、ここに書くのもはばかれるような名やニセアカシアなどのようにニセ呼ばわりされるよりは雑草や名もない草といわれた方がまだましな気がします。撫子(なでしこ)も日本的な美しくやさしいひびきで魅力的ですが、一過性のブーム、熱気で終わることがないように、私は撫子(なでしこ)も雑草だと思いたく、強引に思うことにしました。

2011.7.15

7月7日は七夕(たなばた)ですが、7月4日~12日まで本校の学生(ビジュアルデザイン科、グラフィックデザイン科)がデザインしたポスターが新宿高島屋の仙台七夕まつりを応援する、<復興応援七夕フェア>で展示されました。東京デザイン専門学校生による「仙台七夕まつりに行こう!応援ポスター展」というタイトルでした。東京でデザインを学んでいる若者が仙台に寄せる復興、応援の想いをデザインにこめて「希望」「未来」「明日」をテーマに表現したものです。60点制作された中から20点が展示され、同じ会場で「未来」と「過去」をつなぐ2つのポスター展として1960年代から1980年代までの仙台七夕まつり公式ポスター展示もありました。今年の仙台七夕まつりは「復興と鎮魂(ちんこん)」をテーマにしており、このように本校の学生が被災地への応援イベントに関わらせていただいたことをありがたく、うれしく思います。このポスター展は新聞、テレビなどでも紹介されました。七夕(たなばた)は7月7日あるいはその前夜の行事ですが仙台七夕まつりが8月6日~8日に行われるように東北地方では月遅れの8月7日に行うことが多いそうです。ロマンあふれる七夕は、星の祭りともいわれ、織り姫と彦星が年に一度だけ天の川をはさんで会えるという星伝説ですが、織女祭(しょくじょさい)ともいい、中国伝来の行事と日本古来の伝承(でんしょう)などさまざまな要素が入りまじって今日に伝わっているようです。東北、被災地といえば、6月17日(金)の20:00~22:00原宿表参道で大震災被災者支援チャリティー・キャンドルナイトでんきを消して、スローな夜を。<被災者に送ろう、キャンドルの暖かさ>というイベントが行われ本校からも同好会の広告研究会、ディスプレイデザイン科の学生が参加しました。表参道と周辺のカフェが協力してくれ、キャンドルカフェネットワーク、キャンドルインスタレーション、オリジナル行灯(あんどん)、子供たちのキャンドルパレードなどがありました。本校の学生は手作りのオリジナルキャンドルで火を灯(とも)し、まだ電気が不自由なところも残る東日本の被災地に向け、それぞれが、ろうそくの灯でそれぞれの想いをとどけました。今なお、なんの落度(おちど)も罪(つみ)も、責任もない人々が、深い悲しみの中、苦難な生活を強(し)いられ、避難しているというのに、そういう人々に対する想いがまったく感じられない、ここのところの政治の混乱、迷走、怠慢(たいまん)は情けなく、申し訳ない気持ちでいっぱいです。あの大震災のあと、多くの人々が人生観や世界観が変わるほど、いままでの生き方、あり方を見直しているとき、政治の世界は相変わらず、旧来のやり方をくり返しているだけです。こんな政治でありながら被災地の無力化につながっていないのがむしろ驚きです。被災地の人々の我慢強さ、優しさに、助けるべき政治家が助けないで、助けられているとしか思えません。政治家はそんな被災地の人々や国民にあまりにも甘えすぎているのではないでしょうか。いまは党を超えて1人の人間としてオールジャパンでスピード感をもって復興に全力をあげるべきだと思います。いささか古い言葉ですが、かつて日本人の美徳とされていた惻隠(そくいん)の情(こころからいたわしく思う、困っている人や弱っている人に配慮する)を政治家をはじめ、私たち1人ひとりがとりもどす必要がありそうです。

2011.6.29

新学期が始まったとおもっていたら、あっという間の6月。梅雨(つゆ)入りしたばかりの先日、恒例(こうれい)のスポーツ(ドッチボール)大会を国立オリンピック記念青少年総合センターで行いました。全学科の学生が参加してトーナメント方式で戦いました。敗者復活戦の綱引き合戦もあり、かなりヒートアップしてもりあがりました。綱引きは単純明快で、わかりやすく、意外に見る側も力が入り、オリンピックの正式種目であったことがわかる気がしました。もともとは作物の豊凶(ほうきょう)を占(うらな)う宗教的な儀式や争いごとの解決手段として世界各地で行われていたようです。紀元前2500年ごろすでにエジプトの壁画に描かれていて、日本では鎌倉、室町時代に遊びとして庶民に広まったようです。去年のむし暑さに比べて、今年は温度、湿度がいくぶん低く、戦いやすかったようでした。留学生や学科の違う混合チームもあり、ふだんあまりできないような交流と熱戦がくりひろげられて、ココロとカラダの梅雨(つゆ)空(ぞら)も吹きとんだのではないかと思います。数日後の18日(土)静岡県の三島に行ってきました。これは18日と19日の2日間、内閣府と静岡県と三島市が主催して開催する45000人ほどが参加する「食育推進全国大会」の開会式に来賓として出席し、「食育推進に関するポスター」の審査講評をして欲しいと内閣府からの依頼があったからでした。当日は東日本大震災のあった日から100日目であり、開会式は出席者全員が黙とうをささげてからはじまりました。蓮舫(れんほう)内閣府特命担当大臣、川勝静岡県知事など主催者側の挨拶があり、蓮舫さんはトレードマークの白の上着と黒のスカートで、食は人を良くすると書くので大好きな文字だというところから入り、その歯切れのよいスピーチはさすがでした。続いて食育に関するポスターの表彰になり、賞状授与のプレゼンターは蓮舫大臣で副賞は薬丸裕英さん(ヤックン)からでした。審査では全国の小学校、中学校、高等学校から応募があった4880点の作品から金賞、銀賞、銅賞を選んだのですが、当日は小学校、中学校、高等学校それぞれの金賞受賞者3人への表彰となりました。会場からあたたかい拍手をうけ、そのまま3人は壇上(だんじょう)で立ったまま私の講評となりました。選考委員長と紹介されての講評でしたが主に出席している3名の金賞作品について、大人やプロとは違った食への思いが、素直に、ひたむきに、のびのびと表現されていて、その躍動感あふれる奔放(ほんぽう)な表現には「元気」や「希望」や「感動」まで伝わってきたこと、そうした作品に金賞、銀賞、銅賞などの順位をつけることは大変つらい選考だったことなどを話しました。表彰式が終わって金賞受賞者3人と蓮舫大臣と私で記念写真を撮りました。東日本大震災を受け、防災と食や食の安全を始めとする食育の取組みの重要性がより増してきている中、食育の推進をはかることを目的としたこの大会にささやかですが少しはお役に立てたことをありがたく、うれしく思います。食育を推進するポスターの審査をし講評する私が最悪ともいえる食生活をしている矛盾(むじゅん)に少しは反省しなくては、と心なしかうつ向きかげんで会場をあとにしました。
<金賞受賞者3人と蓮舫大臣と今村校長の記念写真はこちら>

2012.6.14

北原白秋のふるさと柳川に「からたちの花」の歌碑(かひ)があり、柳川でつくられたと思っていた「からたちの花」や「この道」「ペチカ」「待ちぼうけ」など、その童謡のほとんどが小田原で生まれたことを知り、福岡から戻った数日後、さっそく白秋ゆかりの「童謡のまち小田原」に行ってきました。私はけっこうしつこいのです。19才で上京した白秋は、8年間に15回も転居した人でしたが、柳川についで長く居住(きょじゅう)し、初めて自宅をもった土地が小田原でした。温暖な気候と豊かな自然に恵まれた小田原をこよなく愛した白秋は、終生(しゅうせい)小田原で暮らすことを考えていたそうです。小田原での生活は快適で、多くの童謡を創作しましたが、名作「からたちの花」も、小田原の小径(こみち)を散策(さんさく)したことで生まれたようです。多分このあたりであろうという小径が、白秋童謡の散歩道「からたちの小径」となっていて、そこには白秋を愛する市民が植えたという、からたち(枸橘)の木がありましたが、春さきに咲く花はすでに終わっていました。ミカンの花は初夏の花で、いまを盛(さか)りと咲き匂(にお)っていましたが、からたちの花もミカンの花に似た白い花で、実(み)は小さく球形で黄色くなり、花も実も似ている、カボス、スダチ、ダイダイなども同じミカン科です。からたちには鋭(するど)いトゲがあり、<からたちの花が咲いたよ。白い白い花が咲いたよ、からたちのとげは痛いよ。>の山田耕作が曲をつけた歌を想い、白秋が散策したであろう姿を思い描きながら、その小径を歩き、小田原文学館と別館の白秋童謡館に向かいました。文学館には小田原ゆかりの文学者が紹介されていて、庭には白秋の童謡歌碑があり、白秋童謡館では、童謡集や原稿など白秋の童謡にかかわる資料の展示や、ビデオ「童謡のふるさと小田原-白秋が愛したまち」などが放映されていました。かつて小田原から通学していた学生、地元で有名な老舗(しにせ)の蒲鉾(かまぼこ)会社に就職した学生、結婚して小田原に転居したと年賀状にあった卒業生などが思い浮かんできました。その童謡館で、北原白秋が日本で初めて訳したことで知られる、イギリスの古くから親しまれていた、伝承童話「マザー・グース」の訳本「まざあ・ぐうす」を見ることができました。毎年この時期、本校イラストレーション科で「マザー・グース」に絵(イラスト)をつけるという課題にとりくんでいることもあり、興味をひかれました。この間まで渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで、「レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想」が開催されていましたが、ダ・ヴィンチの「ヴィンチ」は柳を指すのだそうです。故郷の村に自生する柳に由来(ゆらい)していて、この柳の枝を図案にして自分のエンブレム(紋)にしているダ・ヴィンチと、白秋の故郷が柳川という、そんな柳つながりもありますが、神と人間の関係を見直して、自然を意識しはじめたダ・ヴィンチの時代と、原発事故で科学への信頼が失われ、自然を見直しはじめた現在と、白秋が小田原で関東大震災にあい「私は今度の震災に得たものを決しておろそかにしまい」と歌壇(かだん)の閉鎖(へいさ)性に風穴(かざあな)を開けようと感性優位の短歌誌「日光」を創刊した時代が似ていることに、何かを問われ、示唆(しさ)されているような気もした、柳川と小田原の白秋散策でした。

2011.6.15

バムとケロ、ゆかいな2人が原宿にやってきました。「バムとケロ」絵本シリーズで人気の絵本作家で卒業生の島田ゆかさんの絵本展を本校ギャラリーで5/23~6/5まで開催しました。バムとケロがくりひろげる物語は、いやしに満ちたあたたかさとユーモア、その細(こま)やかに描きこまれたページには、たのしく、新しい仕かけや、発見がいっぱいあって、子どもから大人まで世代を超えて愛されていることが改めてわかりました。島田さんから後輩の在校生にメッセージもいただきました。字が読めないころから見ていた記憶があるという在校生のファンも多く、よろこんでいました。バムとケロのぬいぐるみ、マグカップ、リュック、フィギュアなどのグッズも展示したことでギャラリーの空気がなごみました。この人気絵本シリーズを出版している文溪堂さんが、少し前まで私が住んでいた文京区の私の散歩コースにあったことを知り、うれしいおどろきでした。公園脇にあるその会社の前を何年も歩いていながら気がつかずにいたのですが、2月に入った休日のある日、ビルの入口に「バムとケロ」シリーズの最新刊ポスターが貼ってあり、文溪堂であることがわかりました。ささやかな縁ですが、後日訪問して、本校での島田ゆか絵本展への協力をお願いして実現しました。この絵本展にさきがけて4/27~5/9まで松屋銀座で島田ゆか&ユリア・ヴオリ絵本原画展<バムとケロ、ぶた(SIKA)の世界>が開催されました。この機会にカナダ在住の島田さんが来日してサイン会をすることを聞き、シリーズ最新作の「バムとケロのもりのこや」を送っていただいたお礼もかねてと思い会場に行きました。サイン会はすでに終わっていて、アポをとっていなかったため、会えず残念でした。これは「バムとケロ」の島田ゆかさんと「ぶた」シリーズで日本でも注目されているフィンランドの絵本作家ユリア・ヴオリさんの絵本原画、共同作品、スケッチなど200点が展示されていて、2人の制作風景の映像も流れ、多くのグッズのコーナー、バムとケロとぶたカフェなどもあり、広い会場をうめつくすほど、家族づれファンで盛況でした。こうした卒業生の活躍はうれしいものですが、ある週刊誌にも「結婚」マイケルとゆかりの「中鉢富砂子さん」と「商社マン」を結んだ手作り弁当。という見出しでニューヨーク在住の卒業生中鉢富砂子さんの結婚と活躍ぶりが紹介されていました。中鉢さんは映画「マイケルジャックソンTHIS IS IT」の両手をかろやかにあげ、足をクロスさせたマイケルのシルエットにステージで踊るマイケルの映像がいくつも重なり浮かび上がるサウンドトラック盤のジャケットを制作した、米ソニーミュージックのアートディレクターですが、ビヨンセ、エアロスミス、ブルース・スプリングスティーンなど超大物のミュージシャンのCDジャケットデザイン、広告も手がけています。中鉢さんは13年ほど前の卒業で私が担任のクラスであったこともあり、まだ当時のことを鮮明におぼえています。島田さんは私が本校の講師になって最初の年の学生で旧姓でした。いま思えば新米(しんまい)教師で教え方も下手であったであろうと恥ずかしく、申し訳ない気持ちでいっぱいです。でありながらこのように活躍している多くの卒業生によって、過去に生かされ、現在と過去を同時進行で生きているような充実感があります。これも教師なればこそとうれしく、ありがたく感謝する日々です。

2011.5.31

日本には四季折りおりに見せてくれる針葉樹、広葉樹それぞれの豊かで美しい森林がありますが、先日、車内ポスターで<東北の森がなくなる>というショッキングなコピーを見ました。本文を読んでいないのでわかりませんが、大震災によるものであろうとの想像がつきます。森の中では、高い木、低い木、下草が、土の中ではカビやバクテリアなどいろんな生きものが限られた空間で、お互いにいがみ合いながらも我慢して、能力に応じて精一杯生きているそうです。この「競争」「我慢」「共生」こそが生物社会の掟(おきて)のようです。森の中では好きな植物同士が好きなところで、勝手に生きているわけではなく、厳しい環境のもとで、ちょっと我慢しながら嫌(いや)なヤツとも共生しているのだそうです。互いに少し我慢して、すみ分けて共に生きていく、これが健全な生物社会の姿であり、植物(生物)が生きていくための条件だそうです。植林するときも、好きな木や役に立つ木だけを植えないで、その環境に合う木と、それを支える多種多様な木々を混ぜて植える、混植、密植することで「競争」「我慢」「共生」がはたらいて豊かで、美しい森になるのだそうです。人を育(はぐ)くむ教育にも同じことがいえます。好きな人たちだけ集まる。正論ばかりいう。先鋭的な意見ばかりいう組織は内部崩壊(ほうかい)するといわれます。地球には数えきれないほどの動植物が生息し、それぞれが支え合うことで生態系を形成しているのですが、私たち人間も自然や他の生物からもたらされているさまざまな営みによってなりたっていることを思えば、自然に対し、謙虚(けんきょ)に畏敬(いけい)の念を忘れずにいたいものです。2年ほど前にミツバチが世界で謎の大量死などという報道があり、日本でも受粉期にミツバチが不足して原因がわからず話題になりました。果物や野菜が実をつけるためには、おしべの花粉をめしべにつける受粉が必要ですが、この受粉を助けてくれるのがミツバチで、野菜や果物のハウス栽培での交配用ミツバチが自然システムのバランスをくずしたようです。ミツバチは複数の植物から、蜜や花粉を集めているのですが、ハウスでは大量に同じ農作物から受粉をするため、ストレスが体を弱らせ、自然の花粉や蜜の代わりに人工的な砂糖水から与えられるなどしていることが原因ではないかともいわれています。虫に花粉をはこばせて花を咲かせる植物を「虫媒花」といい、風に花粉をはこばせるのは「風媒花」というそうです。虫媒花は虫を惹(ひ)きつけるために匂いや色などの工夫をこらし、風媒花は風が吹くのを待つしかないのですが、おいしい蜜を準備して花粉をはこぶ虫を呼ぶ虫媒花は人間でいえば、婚活(こんかつ)をしているといえるのではないでしょうか。科学技術がいくら発展し、発達したとしても、地球に生きるかぎり、人間も森をはじめとした植物(生物)の寄生者としてでしか生きていけないことが福島の原子力発電所の事故で改めて思い知らされました。大震災や原発事故のあった「国際森林年」の今年こそ、地球は人間がいなくても(というよりいないほうが)生きていけるが、人間は地球がなくては生きていけないことを自(みずか)らへの教訓としたいと思います。

2011.5.18

やっと春がきたと思っていたら、みずみずしい青葉、若葉の濃い緑、淡い緑が5月の陽光にきらめいて、心地よい薫風(くんぷう)がふき、初夏を思わせる日々の先日、学校本部が移転しました。就職部、学生サービス課、留学生サポート室などは学生サービスセンターとして5号館へ。総合企画部は図書室のある6号館へ。私がいる教務部は2号館へ移りました。いままでは本部と校舎が別々でしたが、校舎に移ったことで、学生との距離が近づいて、教員室や廊下から、学生たちの元気な声が飛び交っているのが聞こえ、学校らしい日常空間になりました。大震災のことで帰国していた中国の留学生が戻ってきてくれました。本人は早く学校に来たかったのですが、やはり両親や家族の反対があったことで遅れてしまったそうです。このままでは出席日数が足りず、卒業に影響するのですが、大震災や原発の事故によってやむなく帰国せざるをえなかったわけですから、後日補充授業をすることで、その期間を充当(じゅうとう)することになっています。私ごとですが、私も学校の本部移転の数日前に転居しました。学校と自宅の引っ越しが続いて、公私(こうし)共にまだ落ちつかない日々が続いています。引っ越し先はなぜか神奈川県の湯河原町です。朝5時起きで原宿まで通っています。移る前は丸ノ内線の茗荷谷駅からで、近かったこともあり、就寝が1時~2時の間でした。湯河原ではできるだけ早く寝るように努力しているのですが、長い間の習慣でなかなか寝つかれません。数日前、湯河原駅に降りるとホームで今まで感じたことのない香りに、一瞬ジャスミンの香りかな、と思ったのですが、すぐに、以前見た俳人の黛(まゆずみ)まどかさんの文がよみがえってきました。「初夏になるとふるさと湯河原は町中がみかんの花の甘酸(あまず)っぱい香りに包まれる。JR東海道線が湯河原駅に入りドアが開くと、香りが車内になだれこんでくる「薫風」という季語は私にとっては甘酸っぱさが混じり、うき、うきして、ほのかに花みかんの香り漂う幼い日の記憶がよみがえってくる」というような内容でした。そんな文を読んでいたころは、まさか自分が湯河原に住もうなんて思ってもみませんでしたが、こんな日常的な、なにげない文章が記憶にあり、思い出されるということは、つながる、つなげる何かがあったのかも知れません。それにしてもあの可憐(かれん)ともいえる小さな白い花の、花みかんの香りが、慢性鼻炎でそのうえ蓄膿症の私の鼻でもはっきりわかるくらいの匂いでおどろきましたが、あっ、これが黛さんの書いていた花みかんの香りなんだ、と湯河原に引っ越した実感がよりつよくわきました。まだほとんどの人に湯河原に移ったことを言ってませんし、転居通知も出していませんので、このコラムではじめて知る方が多いと思います。すみません。できるだけ早く、移転通知を出すつもりですが、いつになることやら、気ばかりがせかれます。もう2度と引越しはイヤだと思っていたのですが、この機会にゴミ屋敷同然の生活から、思いきってモノを捨てることができて、モノもココロも軽くなり、もちろん財布も軽くなり、リフレッシュの毎日です。もう一度、すみません。

2011.4.28

20代の頃、陸前高田の友人の家にお世話になり、松林の美しい「高田松原」や、浜辺一面が碁石(ごいし)のような黒い石の「碁石海岸」などを巡って以来、東北地方<みちのく>を何度となく訪れた、あの懐かしい地名がひっきりなしに聞こえ、それらの街が、集落が消え、荒涼(こうりょう)たる光景を映像で見るにつけ、その折りおりに出会った多くの人たちや、あの風景が想われ、そんな感傷にひたることが後(うしろ)めたいと思いつつ、どうしてもよみがえってきます。今にして思えば、みちのくの友人、知人、見知らぬ人々の、その人の良さに甘えてきただけだったような気がします。被災された方々が、まだまだ、その悲しみや、怒りを大きく、強い言葉で言えないでいるであろうと思えるいま、それらの本当の気持ちがわかるべくもありませんが、人智(じんち)を超えた自然の猛威(もうい)を、簡単に想定外や未曾有(みぞう)という言葉で、ひとくくりにまとめて言ってしまっていいのかどうか。かといって、どんな言葉も無力に思え、むなしく、適切な言葉がうかびません。こうして言葉をつらねていると、井上ひさしさんの<言葉は道具ではない(略)精神そのものである>が心に重くのしかかります。そんないま、教え、学ぶ意味とは、を自問自答しながら、新学期の学び、教えは、そこが出発点であろうとの思いで新学期が始まり、オリエンテーション期間に留学生懇親パーティーを開きました。留学生の多くがこの大震災で帰国し、退学、休学、入学辞退などがありましたが、9カ国から77名の新入生を迎えることができました。親や親族が日本への留学を反対する中、その反対を押しきって入学してくれた新入生、在校生をうれしく、ありがたく、その思いを厚く、熱く迎える歓迎の気持ちを伝えました。数日後、そうした留学生を混じえた新入生が、フレッシュマンレクリエーションで、新緑に萌(もえ)る相模湖のデーキャンプに行ってきました。今年もダッチオーブンでのピザ作りに興じました。新学期早々の行事ですが、少し学校や友達になれてきたころで、クラス別のカマドでは、楽しげにクラスメイトや先生との交流が広がり、深めていました。毎年、同行しているのですが、同じ風景、同じような光景にもかかわらず、今年はより新緑が映(は)え、新入生が初々(ういうい)しく新鮮に見えました。この恵まれた幸せ感をもって、学生たちへ最大限の対応と、配慮、気づかいをしていきたいと、心を新たにしました。

2011.4.18

大震災の影響で、多くの学校の入学式の中止や延期が報じられている中、本校は予定どおり、12日の朝、明治神宮会館で入学式を行うことができました。寒さが長びき、遅れて咲いた桜の花がまだ残っていて、快晴にも恵まれました。東北地方にも桜が咲き、遅い春が訪れているようですが、被災された方々にとっては、春の始まりを告げる花を、愛(め)でるどころではない、状況が続いていることと思います。桜の下には、タンポポの黄色や、スミレの紫色が春を告げていて、災害や事故があっても、季節は巡ぐり、移りゆく、同じ自然の無情を感じます。私は、式辞の中で、「今日から好きな分野、なりたい分野を学べることが、どれだけ、ありがたく、恵まれていて、幸せなことであるかを、改めて思って欲しいと思います。あの大震災では、多くの人々の、かけがえのない幸せな日常が奪われ、失われました。被災地の悲惨な光景を思うと、身近かにあって、身近かにいて、当り前の、ささやかで、何げない日常の時間が、いかに大事で大切で、かけがえのないものであったかが、わかると思います。こうして入学式ができ、通学して学べることのできる幸せを思う一方で、あの被災地の深い悲しみや、苦難を思うと、自分が、具体的に役に立つことができないことへの悩み、無力感を覚える人もいるかと思います。皆さんが、あなたが、私たちができることは、この幸せな環境を活かして、心を心地よく満たし、気持を高める役割のデザイン、クリエーションを精一杯、きちんと、ひたむきに学ぶこと、教えることが結果として、被災地の復興への道のりや、再生へとつながっていくのではないかと思います。世の中には、自分の意志ではどうにもならないことがありますが、現実を変えることができなくても、現実への受けとめ方は変えることができます。すべて自分の気持ち、心持ちしだいです。今の自分を信じて、自分を認めて、自分が自分であること、自分らしく、自分を生きることから、他人への思いやりも生まれます。それが被災地の人々への、深い悲しみや、痛みを、分かち合う気持ちにつながるのです。」ごく一部ですがこのようなことを話しました、被災地の人々の、耐え忍ぶ、見事な振るまい、辛抱(しんぼう)強さ、規律正しさなど、日本の美徳に海外メディアは、驚嘆(きょうたん)の声をあげたそうですが、その謙虚さ、遠慮深さには、悲しみ、哀しみを超えた境地であろうと思われ、かえって切なく、助け、励ますべき私たちが励まされているような気がしてなりません。式が終わり、明治神宮参集殿での保護者説明会へ移動する道で、保護者の方から、入学式での私の話を、親子で心に刻(きざ)んでいくつもりです。と話かけられました。私こそ被災地に、思いをはせ、心して学生と向き合わなくては、との思いをよりいっそう強くしました。

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