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今村昭秀学校長のコラム

今村昭秀学校長のコラム 2012年度

今村昭秀学校長イラスト

(イラスト:マンガ科 小日向一葉)
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2012年度

2013.3.29(New!)

3月弥生(やよい)は年度がわりで、卒業式や人事異動、送別会などがあり、希望と不安が混交するときでもあります。私のところにもお世話になったあの人、この人から転勤の挨拶メールが届いています。弥生は草木がいよいよ生い茂る月、弥生(いやおい)が変化したとの説があり、弥生には詩的な感情がただよっています。花見月という優雅な呼名もあり、いよいよ草木が芽吹き、多くの花々が咲き競い(きそ)いはじめるときですが、今年の3月は寒さが長びき、真冬の寒気が入る日もあり、春は遠いと思っていたら、急に気温が上がり暖かい日が続き、夏日になる日もあるなど、月末から4月に入って咲く桜のソメイヨシノが、例年より10日ほど早く開花して、あっという間にサクラの季節を迎えてしまいました。桜は野生種(山桜)と人の手が加わった園芸種(里桜)に大別されるのですが、花見といえば一斉(いっせい)に絢爛(けんらん)と咲き乱れるソメイヨシノに代表されます。この桜は江戸時代、駒込に染井(ソメイ)と呼ばれる地名があり、この地に多く住んでいた植木屋が桜の品種改良したのがソメイヨシノであることはよく知られています。この咲き誇るようなソメイヨシノの姿もよいものですが、野や山々を彩る変化に富んだ豊潤(ほうじゅん)な色合いの花を咲かせる野生のサクラ、山桜や山里や名刹(めいさつ)に咲く枝垂桜(シダレザクラ)の古木の風格も味わい深く、ヤマザクラならでは、シダレザクラならではの艶(つや)やかな風情(ふぜい)の魅力があります。古くから日本人は桜に想いを寄せて、多くの詩歌に詠(うた)っていて、和漢朗詠(ろうえい)集にある「年々歳々(さいさい)花相似(あいに)たり、歳々年々人同じからず」は桜の季節であろうと思われます。サクラは短い期間につぼみから花が咲き、そして散っていく、その変化していく性(さが)から化生(けしょう)の花ともいわれ、自然の非情さを世相の非情に結びつけ、人のもつ残酷さや醜(みに)くさ、弱さといった負の部分と、少しは交わっている、したたかなしぶとさや優しさを、はかなく散るサクラの花に重ねて魅(み)ているのではないでしょうか。「桜」は常用漢字ですが、旧字体の「櫻」の方が趣(おもむき)があるという人もいます。「櫻」で想い出すのは、かなり前の卒業生が東京で就職し、何年か勤めて、鹿児島の実家に戻るという送別会で、その卒業生が私に「櫻の四季」という立派な写真集をくれました。その卒業生は飲み会やお花見をしたメンバーの一人でした。それは全国の山桜、里桜の満開と散りぎわなどと前後の四季を撮ったもので、毎年この季節になると贈られたその写真集を開くのですが、いままでは桜の写真ばかり見ていたページに小さな文字でタイトルと句が添えられていて、はじめてその言葉を拾(ひろ)ってみました。「櫻愁」というページにある句は「このほどは花に礼いうわかれかな」「散花」というページには「さまざまな事おもい出す櫻かな」とありました。20数年たっていま、やっとそのときの卒業生の想い、メッセージが伝わってきました。桜は咲き誇っていますが、会う人は「同じからず」を実感しています。

2013.3.18

この3月は別れと出会いの季節でもありますが、本校も3月12日、朝10時より卒業式を行いました。前日には明治神宮神楽殿で卒業式の安全祈願をしましたが、今年は明治神宮会館が工事のため式場が渋谷公会堂になりました。当日は早春らしい暖かい陽ざしの好天に恵まれて、教職員、保護者、ご来賓の方々に見守られ式次第を粛(しゅく)しゅくと、とどこおりなく進行することができました。卒業証書授与と学校長式辞の間に学業成績、卒業制作、学園特別賞などの表彰をしたのですが、各賞をいくつも受賞している「両手に花」の学生も多く、2年間あるいは3年間がんばったその強い意思と情熱の結果にうれしく授与させてもらいました。「両手に花」は、美しいものや素晴らしいものを両手にもつということですが、花に例(たと)える類語の「両手に花」は梅と桜だそうです。梅は桜より早く咲き、同じころ両方見られることは少ないのですが、今年は寒さが長びいて梅の開花が大幅に遅れたことから、梅と早咲きの桜を同時に見ることができました。早咲き桜は、沖縄の寒緋桜(カンヒザクラ)と伊豆の河津桜(カワヅザクラ)が知られていますが、その伊豆河津町の河津桜を初めて見に行ってきました。河津川沿いに咲く、ソメイヨシノより濃いピンクの河津桜をゆっくり愛(め)でながら桜餅ならぬ、桜葉餅をいただきました。桜餅は東京の隅田川沿いの長明寺と大阪の道明寺が有名ですが、そのどちらも桜の葉の塩漬けで包んでいて、塩漬けすることで芳香(ほうこう)成分がうまれ、独特の風味を醸(かも)しだしているのだそうです。使われている大島桜の葉はそのほとんどがこの伊豆で生産されていることから桜葉餅としているようです。帰り道、色合いの異なる早咲きの桜がところどころで見られ、気になってしまい数日後、湯河原、真鶴、根府川などの早咲き桜を巡(めぐ)ってみました。やはり河津桜が多かったのですが、「春めき桜(足柄桜)」と「おかめ桜」を知りました。「春めき桜」は足柄地方の農家などで彼岸(ひがん)のころに咲いていた桜の枝から育成した比較的新しい桜だそうです。花は「おかめ桜」より淡いピンクでした。「おかめ桜」の由来(ゆらい)は花が濃いピンクで下を向いて咲いているところから女性が恥かしがって下を向いているさまから、との説もあるようです。ソメイヨシノより一足早い桜巡りをしたあと、卒業式に先(さき)がけて3月1~3日「千花繚乱」というタイトルで卒業制作展を行ないました。「百花繚乱」はいろいろな多くの花がはなやかに咲き乱れることですが、本校の卒展は1,000点近い力作が展示されることから、百花より多くの花々が咲き誇ることを形容し「千花繚乱」としました。会場に花を咲かせた1人ひとりの変化に富んだ異なる色合いの個性が咲き競う、その春爛漫(はるらんまん)を先取りするかの花景色は、まさに「千花繚乱」でした。卒業式の数日後、ある卒業生が入社式で新入社員を代表して挨拶をすることになったので、私の式辞を引用して話をしたいとの話がとどきました。学校長式辞などほとんど聞いていないか、忘れてしまうのが、ふつうですから、このうれしい話は私の心を春爛漫にしてくれました。

2013.2.28

湯河原に移ってから映画を観に行っていないので、久し振りに神田神保町にある「岩波ホール」に行きたい、などと思っていた矢先(やさき)に総支配人の高野悦子さんが亡くなられたことが報じられました。高野さんは商業主義からこぼれ落ちた秀作や佳作を紹介、上映して映画と観客を育てることに尽力された方でした。私もこのホールが好きでよく足をはこびました。「八月の鯨」「宋家の三姉妹」「山の郵便配達」などの話題作もありますが、そのほとんどは地味な作品でした。私は「ピアノレッスン」「セラフィーヌの庭」などが印象にのこっています。「宗家の三姉妹」と書いていたら「小篠家の三姉妹」が浮かんできました。デザイナーのコシノヒロコ、ジュンコ、ミチコさんですが、長女のコシノヒロコさんの会社は本校近くにあり、レストランでスタッフと昼食をしているところや、生前のお母さんに手をそえて車に乗るところなど見かけたことがあります。昨年そのコシノ三姉妹の母として知られた小篠綾子(コシノアヤコ)さんをモデルにしたNHK連続テレビ小説「カーネーション」が高視聴率で話題になり何回か見ました。これはデザイナーという言葉すらなかったころからのオートクチュールデザイナーの草分け的存在であり、三姉妹を育てた母親の物語でした。この母親役を演じて好評だったのが尾野真千子という女優さんで、どこかで見たことがあるような、と思い出せないままでいました。先日、湯河原のとなり真鶴(まなづる)の町立中川一政美術館に行ったおり、真鶴駅前に軽便(けいべん)鉄道という説明板がありました。真鶴半島自然公園の樹林に包まれた静かで落ちついた美術館も良かったのですが、駅前にあった軽便鉄道の方が気になってしまいました。調べてみたら、いまから120年ほど前、新橋から神戸まで東海道本線が開通したのですが、現在の海沿いを通る路線ではなく、国府津(こうづ)から箱根山のうしろの御殿場(ごてんば)を通るルートで、小田原や湯河原、熱海などは鉄道からとりのこされてしまい、馬車や人力車ぐらいしか乗物がなく、小さくて簡単にできるトロッコのような小型の箱車を人が押して安く走れる「人車(じんしゃ)鉄道」をつくり、約10年ほど走ったそうです。その人車鉄道のレールに蒸気機関車を走らせたのが軽便鉄道で、人車鉄道よりは少し大きく普通の鉄道よりはずっと小さく、簡単にレールを敷(し)けることから軽便鉄道と呼ばれたそうです。国木田独歩の「湯河原より」には「小田原から先は例の人車鉄道。僕は一時も早く湯河原に着きたいので…」という描写があります。芥川龍之介の名作「トロッコ」も湯河原が舞台になっていて、人車鉄道から軽便鉄道に移すときの改修工事に興味をもつ少年が描かれていて「小田原、熱海間、軽便鉄道敷設の工事が始まった良平が八つの年。トロッコで運搬するそれが面白くて見に行った。」とあり、現在の湯河原の集落を思わせる描写もあります。この「トロッコ」でNHKの連ドラ「カーネーション」のコシノ三姉妹の母親を演じた尾野真千子さんがつながりました。芥川龍之介の不朽の名作「トロッコ」をベースに映画化された「トロッコ」をシネスイッチ銀座という小さな映画館で観た記憶がよみがえってきました。その主演が尾野真千子さんでした。パンフレットに「とおい昔に読んだ「トロッコ」が美しい映像を通して新しくなって戻ってきた。そのうちきっと静かな風が吹き、これからの映画界に影響をあたえるだろう。尾野真千子さんという女優はとても魅力的である。」と芥川龍之介の孫である芥川耿子さんが寄せています。「カーネーション」が放映される4年前でした。「トロッコ」に出てくる人車鉄道や軽便鉄道の、その姿をいまに残すものは湯河原の和菓子屋さんの店先に置かれている人車鉄道の実物大の模型と、熱海駅前に置かれている軽便鉄道の小さな蒸気機関車以外にはないそうです。いま私は東海道線で湯河原から熱海へ行き、熱海から品川まで新幹線に乗り、原宿まで通っていますが、リアルタイムでは知らない人車や軽便鉄道の労苦に想いをはせ、なぜか懐かしく、郷愁にかられ、モノクロームの風景や光景が浮かんでは消える不思議な感覚におそわれながら、うれしく、ありがたく、通勤させていただいています。

2013.2.15

小寒から大寒をはさんで、立春までの1ケ月が寒さが最もきびしい寒の内だそうですが、あたりを見回せば、春の訪れを告げる水仙が咲き、白梅の花がほころんでいるなど、春の兆(きざ)しの「ちいさい春」がみつかりました。2月の花といえば梅ですが、寒さに耐(た)えて咲いている寒椿(カンツバキ)のその姿も凛(りん)とした魅力があります。とくに雪の日、白い雪の中に咲く椿(ツバキ)の赤い花と艶(つや)のある濃(こ)い緑の葉のコントラストは、ただ寒さに耐えるだけではなく、春を待つ。という強さや気概(きがい)が感じられます。雪の多い日本海側には野生する雪椿(ユキツバキ)があるそうです。幻の酒といわれ、ニセモノが出回った名酒「越乃寒梅」がある新潟には、雪椿酒造の「越乃雪椿」という日本酒もあるそうです。ツバキは栽培種も多く、それぞれ魅力がありますが、私は山地や海岸に自生している野生の藪椿(ヤブツバキ)が好きです。カンツバキはこのヤブツバキと山茶花(サザンカ)の交雑種のようです。ツバキは万葉の時代から愛され、よく似たサザンカは花びらが一枚づつ散りますが、ツバキは一輪ぽとりと落ちることから「落ち椿」という春の季語になっています。冬から早春にかけて咲くツバキの名の由来は、厚葉木(あつばき)がなまったものとも、艶葉木(つやばき)がなまったものともいわれています。かなり前、たくさんのツバキの木が自生していたことからその名がついたといわれる、南紀白浜に近いひっそりとした「椿温泉」というところに行ったことがありました。
東京で椿といえばやはり椿の咲く島、伊豆大島です。いま「椿まつり」が行われていることから、これに合わせて、先日、新宿西口イベントコーナーで「東京愛らんどフェア」という催(もよお)しがありました。これは伊豆諸島の特産品即売会、伝統芸能ステージ、島めぐりショッピングラリー、などでしたが、ここで本校の学生がパッケージをデザインした、大島の「椿の花びらジャム」の試作品6点が展示即売されていて、その売上げによる人気投票の結果を参考に商品化されるということで、私も買い求めました。このジャムは、ツバキの花びらを手摘(てづ)みして、一枚一枚ていねいにはがして洗ったあと、煮(に)つめてジャムにしたものです。利島(としま)の椿油「島椿」のパッケージも本校の学生がデザインしました。椿油は椿の実(種)から採取したものですが、椿の実がなるのは寒に入ってから咲いた花だけで、花が咲いたものすべてに実がなるのではないようです。その他、三宅島の明日葉(あしたば)の佃煮。八丈島の黄八丈サブレ。大島の唐辛子みそ。塩辛。新島のくさや。などのパッケージも学生がデザインしました。これらは「伊豆諸島特産品デザインプロジェクト」に本校が協力しているコラボレーションで、学生と指導の先生が島にわたり一泊して現地で製造工程などを見学し、説明をうけ、交流した上でデザインしているものです。このコラボは朝日新聞の東京版で紹介されました。冬の余寒と春への予感の狭間(はざま)で、無着色の「椿の花びらジャム」の花びらの赤い花色を、ひとさじ口(くち)にしただけで芳潤(ほうじゅん)でほどよい甘さが胸の中まで広がり、うららかな春色に染まりました。香りを楽しむポプリとエディブルフラワー(食用花)を合わせたように気分をリフレッシュさせてくれ、心もゆったりと、ひと足早い春を味わせてもらいました。

2013.12.26

あっという間に年末となり、年をとるごとに1年が早く短かく感じます。歳末、歳の暮、年の瀬、師走(しわす)、小晦日(こつごもり)、大晦日(おおみそか)、行く年、年越などの言葉は浮かんでくるのですが、日常の光景や街の風景などには、こうした日本的なるモノやコトが年々うすれ、見られなくなっています。ここ原宿表参道でも光のページェントであるケヤキ並木のイルミネーションが、2年ぶりに復活して250万球のLED電球が、幻想的に街を彩っています。すっかり年末の風物詩となったイルミネーションですが、表参道は初詣で、多くの人が参拝する明治神宮の参道ですから不思議な感じもします。この光輝く数々の球体が草間彌生の水玉(ドット)の作品と、本校のマークのドットがダブって見えてきます。ダブルといえばかつて年末にシリーズで放映されたフジフイルムの年賀状のCMに出演していた、樹木希林が思い出されます。この樹木希林さんと草間彌生さんが、おどろくほど似ていることに気がついてからは、樹木希林さんを見ると草間さんが、草間彌生さんを見ると、樹林さんがダブって見えるようになってしまいました。ユニークな女優、樹木希林はその名をかつて悠木千帆(ゆうきちほ)と言い、テレビのオークションコーナーで売るモノがないから、と自身の芸名「悠木千帆」を競売にかけ、自(みず)からは「樹木希林」に改名したという変わった人です。変わっているといえば、内田裕也と別居結婚しているのですが、文学座研究所の同期に岸田森、小川真由美、寺田農、橋爪功、北村総一郎、草野大悟などがいて、後に文学座を退団して「六月劇場」を今は亡き岸田森、草野大悟らと結成し、そのころ岸田森と結婚しています。この岸田森に憧(あこ)がれて、六月劇場に研究生として入団したのが後にスターとなる松田優作でした。(その息子が今活躍している松田龍平、翔太兄弟です。)草野大悟さんと私は湯島のスナックでよく会い、芸術論?を交わした飲み友達でした。個性派の俳優草野大悟は私より年は少し上の共に30代でした。その頃、井上靖の名作「天平の甍(てんぴょうのいらか)」が映画化され、それに出演、そのロケが中国で行われ、この中国ロケのはみだし記。「同志!!僕に冷たいビールをくれ」(装丁は平野甲賀)を出版し話題になりました。この本を私にくれたことなど思い出します。当時は、状況劇場、自由劇場、天井棧敷、など多くの小演劇グループのアンダーグランド(アングラ劇団)が結成され、私はアングラの演劇ポスターをデザインしていたこともあり、懐かしく想い出します。年末は過去の記憶に向き合うときなのかも知れません。日々は過ぎるものですが、越えるものでもあることを感じるのも、年越しというからでしょうか。年をとるとどうしても過去語りになってしまいます。今年も多くの方にお世話になりました。また、長い文のコラムにお付き合い下さいましてありがとうございました。良いお年をお迎えください。

2013.1.30

まだのこっていた新年会のうち表参道ダイヤモンドホールで行われた恒例のOAC(日本広告制作協会)新年賀詞交歓会に出席し、正月の行事はほとんど終わりましたが、中国や台湾の正月はこれからで、旧暦の元日、旧正月を「春節(しゅんせつ)」と呼び、都会にでている多くの人が帰省し、盛大に祝いにぎわうそうです。本校の中華圏からの留学生もこの「春節」には帰国したいようです。
賀詞交歓会は、OACクリボラカレンダー展の贈賞式から始まりました。クリボラとはクリエイターのボランティアの意味で、大震災でいまなお仮設住宅に住んでいる方々に心を癒(いや)し穏(おだ)やかに、ほっとできる「心和(なご)むカレンダー2013」を届けたいという主旨(しゅし)で、OACの制作会社のデザイナーや会員校の学生が、個人あるいはチームで応募したものでした。鈴木清文OAC理事長より表彰された受賞者の中に、本校の卒業生もいて、うれしくおめでとうを伝えました。交歓パーティーでは、制作会社の方々に卒業生がお世話になっているお礼と、これからのお願いをしました。多くの方々とお話させていただいたのですが、日本デザインセンターの児玉圭文取締役とは私にとって身近(みじか)な話題が広がりました。日本デザインセンター(NDC)は日本を代表する制作会社ですが、本校はなにかとお世話になっています。OACの理事長でもある鈴木清文NDC社長には本校の学校評価委員をお願いしたり、児玉さんにはビジュアル系学科のポートフォリオの公開プレゼンセミナーに、NDC色部デザイン研究室の色部義昭さんを講師として紹介していただいたり、キャリアコースの教え子である台湾出身の女子留学生が本校を修了して、美大の大学院に進み、原研哉(はらけんや)教授に指導をうけた縁でいまNDCの原研哉デザイン研究室にお世話になっているなどです。この留学生はキャリアコースの修了式の日、これからも集まりをもちたいので今村塾を結成したい、ともちかけてきたメンバーのひとりでした。今村塾で会ったり、そのときどきの近況を知らせてくれていましたが、今年の賀状には北京に行くことになったので北京に遊びにきてください。とありました。そんな話をしたところ、NDCでは数年前に中国展開するため、北京に拠点(きょてん)をつくり、中国出身のデザイナーを派遣していて、そこをより強化するため、原チームにいる本校修了生と中国出身の女性デザイナーの2人が北京に行くことになっているとのことでした。北京に行っているデザイナーは鄧(とう)さんではないですか。というと鄧君を知っているのですか。と児玉さんはおどろいていました。2007年の二科展デザイン部で「アジア現代ポスター展」を開催し、アジア各国のデザイナーを招待したおり中国からもデザイン協会の幹部数人が来日し、その中に鄧さんの知人がいたことで鄧さんが通訳をしてくれました。そのときNDCに勤めていることなどを知りました。その後、鄧さんから案内状が送られてきて、そこには日中国交正常化35周年記念「中国鄧兄弟作品展」とあり、サブコピーには、中国の若手芸術家を代表する鄧兄弟。とあり、会場の有楽町マリオンの朝日ギャラリーにでかけました。主催が中国日本友好協会。朝日新聞社。共催が電通。日本デザインセンター。後援が中国駐日大使館。他各団体。協賛には日本を代表する企業名がある大規模な展覧会で、その作品は書と水墨画で広い会場も狭く感じるほどの作品の数でした。北京から弟さんも来ていて、兄弟は幼いころから書道と水墨画を学び少年友好大使として3度も訪日していてメディアでも話題になったそうです。兄弟ともに北京の大学でグラフィックデザインを学び兄の鄧さんは日本の芸大でも学んで日本デザインセンターに入ったことなど話してくれました。そんな鄧さんと教え子が北京で一緒に仕事をするようになるとは、うれしい縁を感じます。

OACのパーティーの翌日、北京に行くことになったその修了生も混じえて久しぶりの今村塾がありました。その日私は、体験入学イベントで出校していたこともあり、メンバーは本校の1号館に集合し、オシャベリをしながら表参道をゆっくり歩いて南青山のカフェ「A to Z Cafe」に向いました。このカフェは若い人に人気のポップアーティストの奈良美智(ならよしとも)さんとのコラボの店のようで、店内には廃材でつくられた小屋のようなスペースや、奈良さんの作品や作品集が展示されていたりする、ほどよい解放感とぬくもりのあるギャラリー空間で、メンバーとはそれぞれ積(つも)る話があり、話が弾(はず)みました。北京に行く予定の彼女に鄧さんの話をするとびっくりして、私との2ショット写真を見せておどろかそうとうれしそうでした。北京には中国出身の卒業生や修了生が何人もいるのですが、卒業して日本の制作会社を経て北京の電通に入った、2人のうち1人がフリーランスになって、昨年私を訪ねて来校してくれました。懐かしい話をしながら報道されている日中関係ではない、生活者としての生の声を聞くことができました。北京にいる卒業生やこれから行く修了生の、あのとき、このとき、が想い出され、過去と現在がつながり、それぞれ違う環境にある点と点が、星の点が星座に見えてくるような緩(ゆる)やかな絆(きずな)でつながっていってくれることを想い願うこの1月でした。(年の初めから長い文になってしまいすみません)

2013.1.15

寒の入りになり、寒さがつづいた7日から授業がはじまり、校内には久し振りに学生たちのにぎやかで華やいだ声がゆきかい、すがすがしい新年の空気がただよっています。
いつもと同じ過ぎゆく日に変わりはないけれど、新しい年のはじまりの元旦は、不思議と気持ちを前向きにしてくれる日でもあります。三が日は自宅ですごし、地元の氏神(うじがみ)さまである神社へ初詣でに行きました。初詣では、ふだん暮らしている地域の守り神である氏神さまへ、新年のあいさつに行くことですが、正月は自宅で年神(としがみ)さまをお迎えするのが基本だそうです。年神さまは豊作の神さまであり、ご先祖のことだそうですが、正月はその年神さまを迎え、祝い祈り新しい魂(たましい)、力を分けてもらう節目(せつもく)のことをいうそうです。この正月(節目)は多彩な食文化や風習、歴史、伝統、行事などに触れ想うことができるときでもあります。正月のために用意する料理を「御節(おせち)」といいますが、もともとは季節の変り目の「節日(せつにち)」に神さまに供(そな)えものをし、宴(うたげ)を開くという宮中行事の料理で江戸時代に庶民にも広がり、いまのような正月料理を意味するようになったのだそうです。「おせち」はお節日に神さまと人が一緒に食べるという意味で節日は節句ともいい1年に5つあり、元日は節日の中でも新たな年を加える、とくにめでたい日ということだそうです。その「おせち」料理をつまみながら、いただいた年賀状に感謝しつつ目をとおし、あの人、この人を想いうかべるなど三が日のひとときを、幸せで豊かな気持ちで過ごすことができました。今年も多くの卒業生から年賀状が届き、共にした時間がよみがえり、想うことができ、私にとって年賀状は過去からのうれしい贈りものです。年を重ねれば重ねるほど過去に生かされていることが実感されます。人の心が「年の初めに届く国」の年賀状の歴史は、平安時代の手紙の文例集に年始のあいさつ状の例文があるそうです。江戸時代中ごろには庶民の中にも飛脚(ひきゃく)をつかって送る人もあらわれ、明治に入ると郵便事業が始まり、全国に配達される郵便はがきが発売され、年賀状を出す人が急増したようです。ふだんはあまり気にしていない干支(えと)ですが、年賀状にはやはり干支の絵や文字が見られます。本校の年賀状デザインは毎年学生から学内公募しているのですが、今年の採用デザインは、巳年の巳の字を色いろな書体でデザインしたタイポグラフィー作品でした。十二支の動物は国、地域によって異っていて日本では「猫」は入らないのですが、タイ、ベトナム、チベットでは猫が兎の代わりに入っているそうです。十二支ができた古代中国では猫を飼う習慣がなかったから、との説が有力のようです。年賀状は過去からの贈りもの。との思いと、過去は過去、過去を追い求めると未来を失う。などという言葉も頭のすみにあり、今年もまだまだ円熟(えんじゅく)とか達感(たっかん)とかの境地にはほど遠いことになりそうです。今年もつたない上に長いコラムになりそうです。がまんづよいおつきあいをお願いいたします。

2012.12.28

いつの間にか暮れも押しせまり、師走(しわす)という文字が頭にうかぶ日々になり、ふだんは落ち着いている師(先生)までもが忙しく走り回るということのようですが、私は体が走り回るわけではなく、何かと気せわしく、気持ちが走り回っています。日本の年末、年の瀬ならではの風景や光景がうすれ、人と街も華やぐイルミネーションの彩りが、日本のあたりまえの師走の風景となっていて、時の移ろいを感じます。ここ原宿表参道でも、それぞれのショップが明りの彩りを競っています。原宿表参道エリアを代表する「表参道ヒルズ」「ラフォーレ原宿」「東急プラザ表参道原宿」などがウォルトディズニー生誕110周年記念の「Walt Disney 110th Anniversary表参道原宿、Dream Togetherプロジェクト2012」を開催していて、各ショップにはディズニーのキャラクターをモチーフにした、イルミネーション・オブジェなどがあり、エリア全体でディズニーの世界観を体感できるイルミネーションスポットになっています。そんな表参道に新しくジュエリー・アクセサリーショップ「GOODNESS OMOTESANDO」が誕生し、オープンに先(さき)がけプレスプレビューとレセプションのご案内をいただき出かけてきました。「Natural、Green Coastal」をコンセプトに日本初上陸というカリフォルニア発のオリエンタルブランド「Silvana K」をはじめ、「ラフ」で「自由」なスタイルの「旬」を求める若い女性に向けた、さまざまなバリエーションのジュエリーとアクセサリーでした。店内には表参道というエリアにふさわしい街の空気が心地よく漂よい、そこに回遊する空気は心をハッピーに豊かに満たしてくれそうでした。創る人、売る人、見る人、身につける人、それぞれが集い出会ってイマジネーションを触発しあい、感性を磨き、人や街とつながり、情報発信をする「GOODNESS OMOTESANDO」という空間が新たに風景として加わり、ここから新しい「表参道物語」が始まる予感をおぼえながら店を後にしました。
今年は表参道のケヤキ並木にイルミネーションがなく、その分ショップのイルミネーションが華やいで見えます。原宿表参道は環境問題にも取り組んでいて、美しい街づくりをしている先進的な街である「エコアベニュー」を宣言していることからも、この方がケヤキ並木にやさしいエコといえそうです。本校もこの「エコアベニュー」に参加し、協力したり、全学科に「エコデザインカリキュラム」を導入してデザイン・アートの分野で可能なエコロジーへの取り組みを行なっています。そのエコデザイン教育の一端を先日開催された日本最大級の環境展示会「エコプロダクツ2012」で展示発表しました。その作品はエコキャラ制作。素材を通してエコへのメッセージ。チタンを使った携帯電話フォルダー制作。エコアニメ企画書。エコ展示会ブースのデザイン。全国都市緑化フェアTOKYO。への参加作品などでした。日本を代表する有名企業のほとんどが出展している会場の中、本校のブースは小スペースながらキラリと光っていて、エコ授業の成果が実感でき、うれしく見させてもらいました。 いくつになっても季節はめぐるのですが、年を重ねればそれだけ経験がつまれ、心が広く、深く、豊かになれるのかと思っていたら、むしろ若いころには見えなかったモノやコトが見えてきて、気づいたり、振りかえったり、想いだしたり、見つめなおすなど一向に心おだやかになれません。そんな今年も直接、間接に多くの人にお世話になり、助けられました。ありがとうございました。行く年に感謝して、来る年にささやかでも希望を抱きたいと思います。良いお年をお迎え下さい。

2012.12.14

12月に入ってすぐの休日、箱根のポーラ美術館に行ってきました。開館した年に出かけ、その後も何度も足をはこんでいる好きな美術館の一つです。今回は、ポーラ化粧品のパッケージデザインを長い間手がけ、この美術館のポスターなどグラフィックデザインもしている本校の元講師から、開館10周年記念企画展の招待券をいただいたからでした。ポーラ美術館はフランスの印象派を中心とした西洋絵画が主なコレクションで「箱根の自然と美術の共生」をコンセプトにしていて、その景観は地上部分を低く、そのほとんどを地下にして、豊かな森の緑に抱かれ自然と調和した、自然と美術が競演しているかの空間です。窓面を大きくとった自然との一体感と、解放感あふれる明るいカフェとレストランもお気に入りです。その日箱根は、晴れたり曇ったり、急にミゾレやヒョウが降る変わりやすい天候でした。ヒョウ変するとはこのことかと思ったのですが、これは豹変で、小さな氷の塊(かたまり)は雹(ひょう)で、雨まじりの雪は霙(みぞれ)と書くなど知りませんでした。企画展は「モネとポーラ美術館の絵画」で、モネ、ルノアール、ピサロ、マネ、シスレー、スーラー、ゴッホ、セザンヌなどの印象派の作品が多く、中でもクロード・モネの「睡蓮の池」が人気でした。印象派の画家は日本の浮世絵の影響を受け、ゴッホやモネは浮世絵を模写していて、とくにモネはジャポニズム(日本趣味)が高じて日本庭園を模(も)して太鼓(たいこ)橋をつくり、池には睡蓮(すいれん)を植え、それを描いた睡蓮の連作的作品は、世界各地の美術館に収蔵されていますが、日本で印象派が人気なのは、やはりジャポニズムが底流にあるからでしょうか。(印象派と書いていたら、奈良に行ったとき店名が飲笑派というバーの看板を見つけニヤリとしたことを思い出しました。)この夏、町立湯河原美術館の庭の池にモネ財団から譲(ゆず)り受けたというモネの池の睡蓮の花が咲いていると聞き、その可憐(かれん)な花を見に行き、モネが移り住んだジヴェルニーのモネの庭園に思いをはせてきました。
20数年前、パリのオルセー美術館がオープンしたとき「ジャポニズム展」が開催され、その副題は「19世紀西洋美術への日本の影響」とありました。このとき私はパリに行く機会があり、オルセー美術館でこれを見ました。この展覧会が見たかったわけではなく、オルセー駅が美術館になったことに興味があったからでした。駅の面影(おもかげ)が残る自然光の差し込むアーチ型のガラス張りの天井など、ベルエポックの香り漂(ただよ)う優美な駅舎は、光をテーマにした印象派の殿堂(でんどう)にふさわしい展示空間でした。19世紀後半に印象派の画家やフランス人に影響を与えた浮世絵の浮世は、過去でも未来でもない現在、現代風という意味で、武家の支持した狩野(かのう)派などとは違い当世(とうせい)流行(はやり)の、幕府からはよからぬとされた俗世間(ぞくせけん)浮世の風俗を描いたもので、江戸時代のサブカルチャーといえます。21世紀のいま、文化大国といわれるフランスで、その浮世絵に変わり日本のマンガ「MANGA」が1200作品も仏訳され、1300万部刊行されるというブームだそうです。浮世絵もマンガも役人の干渉(かんしょう)がなかったから花開いたのでは、とも思えます。フランスの日本マンガの主な読者は若者で、その若者であるフランスの高校生30名が来年の3月に本校の見学とマンガの体験実習に来校することになっています。時代はめぐる、でしょうか。

2012.11.30

遅れていた紅葉が都心にもゆっくりやってきて、イチョウなどの街路樹も色づいてきましたが、まっかだな まっかだな つたの葉っぱが まっかだな…。と童謡「まっかな秋」にもあるように、いま、その蔦(ツタ)の葉が鮮やかな赤色のグラデーションを見せてくれています。色の塊(かたまり)の立体で見る木々の紅葉とは違う平面で見る美しさです。この蔦はつる性の「伝(つた)う」からその名がついたようです。<秋日和静かに閉じる「放浪記」>これは先日新聞にのっていた川柳(せんりゅう)ですが、上演2017回を数えるという舞台「放浪記」を務めた森光子さんが亡くなられたことを詠(よ)んだものと思われます。この「放浪記」は林芙美子が27才のときに刊行され、ベストセラーになった、昭和初期から戦後にかけての貧しい生活について書かれた自伝的小説ですが、25才のとき「秋が来たんだ-放浪記-」を発表し好評を得ていたそうです。このころ芙美子は新宿区の上落合に転居していて、数年後下落合に移り、47才で亡くなるまでそこに住み、その住居がその後、林芙美子記念館となって一般公開されました。「秋が来たんだ-放浪記-」にちなんである年の秋のある日、林芙美子記念館に出かけました。西武新宿線の中井駅からゆっくり歩いて10分ほどのところでしたが、その向かう道は多くの樹木がのこる閑静(かんせい)な住宅地で石垣や塀(へい)や木々にからまり、つたう紅(あか)く染まった蔦の葉が秋の陽に映えていた、その光景がよみがえってきます。林芙美子の住居であった記念館は、数寄屋(すきや)づくりの瀟洒(しょうしゃ)な落ち着いた、たたずまいでした。庭の草木の紅葉にも和(なご)み、落合の地に20数年過ごした林芙美子を偲(しの)びながら、私も40数年前上落合に住んでいたことがあり、そのころが想い出され、懐かしく、帰りにその場所に行ってみました。当時の面影(おもかげ)はまったくなく別の建物がありました。私がいたころ、そこは1階が美容院で2階がアパートでした。東中野から少し気分を変えようとあまり遠くないところをさがした結果、1階が美容院であることで即決しました。美容院といえば女性の出入りが多く、若い美容師もいて、何らかの出会いがあるのではないか、との不純な思いでした。住んでみると美容院とは一切(いっさい)関係がなく、アイサツを交わしたり、顔を合わせることさえありませんでした。自分の想像力の貧しさにがっかりでした。当時はまだ東西線が開通しておらず利用したのは中井駅でした。そのころは帰りが遅くなったり、徹夜(てつや)、休日出勤も多く時間も気持ちの余裕もなく、落合にかつて林芙美子など多くの作家が住んでいたことや、この落合という地名は神田川と妙正寺川が落ち合うところからきていて、その川の水をつかって栄えた「江戸小紋」「江戸友禅」といった江戸の染色文化を受けついでいるいくつかの染色工房があることなども知りませんでした。芙美子には「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」という有名な詩の一節があります。ある出版社が高名な作家に「詩」について原稿をたのんだところ届いた原稿は「死」について書かれていたというエピソードを聞いたことがあります。電話のやりとりであったことからの勘(かん)違いですが、美しい紅葉も寒くなって葉の細胞が病(や)んで活動が弱まって色づき、落葉はその死を意味するともいえ、ひと葉ひと葉が美しい晩秋のそれは「死」ではなく「詩」と言えるのではないでしょうか。秋は「詩」が似合います。

2012.11.15

暑からず寒からずの、さわやかな季節のはずの秋がめぐってきたと思ったら、すでに晩秋から初冬の趣(おもむき)です。晩秋、草木が枯れることを「素枯(すが)れ」というそうですが、梅雨(つゆ)どきに咲いていたアジサイが、枯れた枝葉(えだは)にまだ花をつけているのがあり、その花は寒さで色づきが変化して、生花ともドライフラワーとも違う、渋くて、深い色味の美しい姿を見せてくれています。この花を「秋色アジサイ」と呼ぶそうですが、なるほどと思います。そんな陽気の11月に入って最初の日曜日、体験入学と説明会があり、出校して役目を終え、神宮外苑絵画館前で行われている「東京デザイナーズウィーク」に行ってきました。プロの作品展と学校作品展があり、今年も本校は参加しました。国内外の大学、専門学校47校が参加していて、共通のテーマは「HOUSE」で本校の作品タイトルは「空白の家」でした。空白には人々が集い、生まれる無限の可能性があり、スペイン語で「白い家」を意味するカサブランカをメインコンセプトにして、その白いスペースにインテリアデザイン科を中心にディスプレイ、ビジュアル、グラフィック、マンガ科の学生が学科の枠を超えて共同空間の中でそれぞれが可能性を模索(もさく)して取り組みました。その空間には家族づれが多く集まり、小さな子供たちが作品と戯(たわむ)れ遊んでいて、この光景こそが本校作品の完成形だとうれしく思いました。
インテリアがメインの「東京デザイナーズウィーク」がノンジャンルとなって、幅広いジャンルのデザイン、アートのミュージアムが出現して、見応えがありました。その中に現代のアートやデザインに影響を与えている伊藤若冲にインスパイアされた、国内外のあらゆるジャンルのクリエイターの作品が展示されている「伊藤若冲感性インスパイア作品展」があり、ここでも若冲(じゃくちゅう)か。との思いでした。伊藤若冲は江戸時代の絵師で北斎や写楽のような人気作家ではなく、家業を弟に譲(ゆず)って40才になってから絵の世界に入り、家からほとんど外に出ず、縁側(えんがわ)で放し飼いにした鶏(にわとり)をスケッチし続けていたという、元祖オタクのような人だったようです。 現在の若冲ブームは1970年に出版された「奇想の系譜」がきっかけといわれ、それまで日本文化の象徴とされていた「わび」「さび」から外れて、日陰に置かれていた日本美術や画家たちにスポットを当てたこの本によって、若冲などが再評価され、翌年には東京国立博物館で特別展覧の「若冲展」が開催されました。その後じわじわと人気が出始め、メディアでも紹介されるようになり、2000年に京都国立博物館で「没後200年若冲」と題する大回顧展があり、ブームに拍車(はくしゃ)がかかったようです。2006年には「若冲と江戸絵画展」が京都と東京の国立博物館であり、その爆発的な人気は不動のものとなって現在も続いています。私は若冲がブームになる前に美術専門誌にのっていた若冲の小さな絵に惹かれ、そのころ、皇居の東御苑内にある皇室の宝物(ほうもつ)を展示する宮内庁三の丸尚蔵館で若冲の群鶏図(ぐんけいず)を見て、その現代的なインパクトのある表現にショックを受け、すっかり若冲の虜(とりこ)になってしまいました。それからは若冲に関する記事や出版物を集め、私の若冲さま的な若冲オタクでしたが、世間(せけん)に知られブームになると気持ちがだんだん冷めてきていたところに、この若冲展でした。これはアイドルやタレントが無名のときにファンになり、有名になると気持ちがはなれていくというファン心理と同じかもしれない。と恥ずかしくなり、会場で人知れず頬(ほお)を赤らめてしまいました。

2012.10.29

夏の終わりがはっきりしないまま、やっと秋の気配が感じられるようになった学園祭の数日後、南信州へ行ってきました。そば屋の店先に「新そば」「新そば入りました」が目につくようになり、所用のついでに「新そば」を、との思いでした。信州はいま、リンゴの赤い実が秋の陽に映え、遊休地などではコスモスが植えられ一面に咲いていましたが、広いところに数多く咲き誇るコスモスよりは、民家の庭先や空地、畑の隅(すみ)にひっそりと咲いている方が風情(ふぜい)があって好きです。すっかり日本の秋の風景になっているコスモスですが、原産地はメキシコで明治時代に入ってきたもののようです。花びらの形が桜に似ていることから、秋に咲くサクラ「秋桜」という別名があり、秋の季語にもなっています。<うす紅の秋桜(コスモス)が秋の日の何気ない陽だまりに揺れている>で始まる山口百恵の代表曲の一つ、秋桜(コスモス)は1977年の10月にリリースされています。そんな庭先に咲くコスモスの近くにときおり「ほうき草」が見られ、うれしくなりました。あまり見られなくなった「ほうき草」ですが、私の幼少のころ、ではなく、ガキのころは、農家や民家の庭先に数本植えられていて、それは枝葉が細かく茂り、高さが1メートルほどになることから、それを干(ほ)して「くさぼうき」として使っていたものでした。テレビや新聞などで、紅葉する草「コキア」が何万本も植えられている公園の、その赤いじゅうたんを見る人たちのにぎわいを伝えていましたが、これは「ほうき草」のことで「コキア」はラテン名だそうです。観光地化するためには「ほうき草」というより「コキア」の方がオシャレ感があるのでしょう。東北地方ではこの「ほうき草」の小さな黒い実「とんぶり」がキャビアに似ていることから、陸のキャビア、畑のキャビアとして名産品になっています。飢饉(ききん)のときに食べていたのが始まりだそうで、そんなもの悲しさもあるこの「とんぶり」がまれに古い飲み屋のお品書(しなが)きにあることがあります。
東京のそばやの店先で見かけた「新そば」が見られなく、不思議に思い、入ったそばやで聞いたところ信州ではまだ少し早かったようで、東京の「新そば」は北海道産だということでした。ほとんどのそば畑は花が終わっていて実がついたままの、収穫前の状態でしたが、ときおり白い花が咲いている畑もありました。新そばではありませんでしたが、信州そばを堪能(たんのう)しました。泊ったホテルで「赤そば花まつり」というチラシを見つけ、赤いそばの花を見たくて翌日地図をたよりにでかけましたが、残念ながら花は終わっていました。赤そばの赤い花の映像を見たことがあり、赤い花が咲く「そば」に興味がありました。そばの原産地の雲南省からヒマラヤにかけては、ピンクや赤色の花のそばがあるそうで、この赤そばは、それらを品質改良したものだそうです。「新そば」は叶(かな)わなかったのですが、生産者の顔のわかる信州のそば粉を求めることができ、好物の「そばがき」をたのしんでいます。この「そばがき」はそば粉に熱湯を加えてハシなどで掻(か)き混ぜるだけですが、江戸時代の中期ごろまでは、この「そばがき」やダンゴ状に丸めたものが食べられていて、その後、麺状(めんじょう)にしたいまのような、そば切りが庶民に広がったのだそうです。美味(おい)しいそばの条件は「挽(ひ)き立て」「打ち立て」「茹(ゆ)で立て」の三立てといわれますが、あるとき、ある方と話をしているとき、最近面(めん)打ちの教室に通っている。と、いわれるので、いい趣味ですねえ、そのうち作品を見せてください。といったら、いやあ作品というほどじゃないんです。と、私は謙遜(けんそん)していると思い込み、そういわず一度でき上ったら見せて下さい。といったところ、出来上がると皆で食べてしまうんですよ。と、そのとき、はっと勘違いに気がつきました。私は能面の面打ちだとばかり思っていたわけですが、そばを打つ麺(めん)打ちだったわけです。何はともあれ、秋はそばの旬(しゅん)です。<信州、信濃(しんしゅう、しなの)の「そば」よりはわたしゃあなたの「そば」がよい>などという俗曲がありますが、この秋、<私は、あなたの「そば」よりは、そばやのそば通(がよ)いになりそうです。

2012.10.18

台風が通り過ぎた直後のまだ暑さが残る10月1日、渋谷区文化総合センターで開かれた「渋谷区制80周年」記念式典に出席してきました。これは区制80周年記念に結成された渋谷区少年少女合唱団のロゴマークを本校が依頼され、学生がデザインしたことから、この日のお披露目(ひろめ)に区長から出席要請があったからで、デザインを採用された学生も出席しました。式典の中ほどで合唱団のお披露目があり、司会者からロゴマークデザインは東京デザイン専門学校の協力があったことを紹介してくれました。渋谷区内の小学1年生から6年生までの56名が全員そろって舞台に立つのはこの式典が初めてだそうで、区政功労者など年長者の表彰が続いた後だったこともあり、そのさわやかで、ういういしい姿と歌声に、会場の空気が一気(いっき)になごみました。ここ原宿は、渋谷区であり、この地域に根ざした、学園祭「原宿祭」を5日~7日の3日間、開催しました。原宿にあるデザイン専門学校として、デザインの観点、視点で原宿発のデザイン情報を発信して、新しい原宿文化の一端(いったん)を担(にな)うべく、スローガンは、今年も "Love Design Love Harajuku"で、テーマを「原宿産デザイン」としました。原宿地域との産学協同コラボレーションの発表、その公開プレゼンテーション、各科の原宿産デザインをテーマとした作品展示や、デザインアートライブ、ワークショップ、フリーパフォーマンス、アート&デザインフリーマーケット、仮装コンテスト、ダンス、音楽ライブ、映像上映、スタンプラリー。メインイベントは"原宿産(キラキラ)Web"で、在校生全員がこれからの原宿のキラキラ輝く「モノ・コト・ココロ」のメッセージをイラスト、写真、マンガ、タイポなどでキューブに表現し、ネットワークをイメージして組み立てた立体キューブをWeb〔クモの巣〕の糸に吊り下げて、つなげていくインスタレーションでした。それは<World Wide Web>の、世界に広がるクモの巣と、世界中にあるWebページが相互につながりあって、リンクという糸で複雑に絡(から)み合い、フェイスブックを始め、ツイッター、ミクシィ、ニコニコ動画など、ネット上に次から次へと新しいつながりを媒介(ばいかい)するサービスのソーシャルメディアが登場して、その光と影も含(ふく)めて、ビジネスでもプライベートでも必然となっているネットワーク社会を表現しているようでした。キューブに表現した学生の「原宿」は、まず地域とつながり、原宿から世界へ発信しようという想いの、それぞれの「原宿」が浮かんできました。トレンドを追いかけるだけではなく、既存(きぞん)のメディアも活用する手法で、本校の伝統と変化と先進性が会場のすみずみまでネットワーク化され、それが静かに、元気に、熱く、伝わってきて、好評だった学園祭でした。その心地よい余韻のまま7日の夜、校友会のパーティーにのぞみ、卒業生たちと旧校舎での学園祭の思い出に花を咲かせました。

2012.9.30

秋とは名ばかりの残暑の日々であった。9月5日~17日、六本木の国立新美術館で第97回二科展が開催されました。5日の朝10時オープニングセレモニーがあり、私もデザイン部代表として、絵画、彫刻、写真部の各代表と二科会新理事長、国立新美術館新館長、NHK厚生文化事業団新理事長の新しい顔ぶれとテープカットを行いました。午後は絵画部、彫刻部の授賞式、夜はミッドタウンのホテル、ザ・リッツカールトンでの懇親パーティーに招待を受け出席しました。7日は芝の東京プリンスホテルで写真部の60周年記念式典と授賞式、懇親パーティーがあり、招待され出席しました。大竹省二代表が当日体調をくずされ欠席されましたが、1,000人近い出席者の盛大な式典で、私も祝辞を求められました。8日はデザイン部の授賞式と懇親パーティーを国立新美術館のホールで行いました。今年も代表あいさつ、賞状授与などの役割をとどこおりなく済ますことができました。パーティーでは全国から集まった出品者との歓談(かんだん)や本校卒業生、在校生の授賞者、入選者と喜びを共にしました。 デザイン部では、毎年公共的テーマを設定し、その啓発、啓蒙、周知などのポスターを公募して、ささやかですが社会貢献をさせていただいています。今年は、厚生労働省、日本赤十字社、赤十字国際委員会の後援で「赤十字150年」をテーマとしました。赤十字をテーマにしたのは、昨年、大震災の被災地や被災された方々へエールを送る復興応援ポスターを特別展示した、その想いを継続したいとのメッセージでもありました。赤十字をテーマにしたのは3回目で、1回目は今から58年前(1954)に銀座のデパートで行われた春季展に赤十字運動をテーマにしたポスターを展示し、その作品を日本赤十字社に献納し、それが宮内庁でも展示され、当時の皇后陛下をはじめ皇族方が見学され、ポスターの原画を初めてご覧になられたそうです。このとき東郷青児二科会会長もポスターを出品して皇后陛下から「赤十字有功賞」を受けたそうです。2回目は50年前(1962)の47回展に「赤十字運動百年祭」をテーマにしました。この赤十字創立100周年のとき、東郷青児の呼びかけで、赤十字の理念に賛同した二科会の創立会員でもある梅原龍三郎など名だたる美術家が作品を寄贈したそうです。その中に東郷青児の看護学生をモデルにした「ナース像」もあり、そうした作品を中心に、東日本大震災チャリティ企画復興への想いをひとつにして。という「日本赤十字社所蔵アート展」が今年初めに損保ジャパン東郷青児美術館で開催され、赤十字から招待券をいただき見させていただきました。
そんな関わりのある日本赤十字社の近衛輝忠社長が12日来館され、私がご案内しました。近衛社長は芸術に造詣(ぞうけい)が深く、二科会にも詳(くわ)しく、絵画、彫刻もゆっくりご覧になられながら色々とお話を伺(うかが)うことができました。近衛社長は細川護熙元首相の弟さんで、近衛家に養子になったいきさつや、私が湯河原に住んでいることで、兄の元首相が湯河原に窯(かま)をつくり、作陶にはげんでいること、湯河原には小さい頃からよく行っていたこと、国宝や重要文化財など細川家のコレクションを一般公開している文京区の「永青文庫」の屋根裏部屋で近衛社長は学生時代寝起きしていたこと、すぐ隣が男子学生寮「和敬塾」で木々も多い広い敷地は細川家の江戸下屋敷跡で本館は細川家の16代が建てた昭和初期の華族の邸宅で元首相も幼少期を過ごしたお屋敷だったことなど、この辺(あたり)は私の散策コースでもあったので興味深く伺うことができました。この「和敬塾」は作家の村上春樹が学生時代住んでいて、小説「ノルウェイの森」に出てくる学生寮はここのことのようです。多くのエピソードを伺いながらデザイン部の「赤十字150年」をテーマとしたポスター作品をご覧いただきました。その展示作品の多様なアイデアの表現に感心され、喜んでいただきました。国際赤十字会長でもある近衛社長は、これらの作品を国際的にも紹介したいとのことで、ジュネーブにある「国際赤十字博物館」で展示したい意向を話してくれました。最後に私の作品の前で2ショット写真を撮りました。豊かな見識(けんしき)をおおらかにやさしくユーモアやウィットにつつんで話される近衛社長のお人柄やその話ぶりは一朝一夕ではない長い伝統、歴史に育(はぐ)くまれたものであろうことが伝わってきました。
突然話は変わりますが、「AKB48」の公式ライバルとして秋元康がプロデュースしているアイドルグループ「乃木坂46」のメンバー若月祐美(18)さんがデザイン部門に初入選したことがメディアで紹介され話題になりましたが、歴史や伝統にはこうした新しい風や流れも大事で必要です。ちなみに若月さんとも勇気をもって2ショットを撮りました。歴史や伝統とかいうと古いイメージがありますが、こうして過去、現在、未来がつながれ、その日々の重ねてきた時間の厚みは、時代がどう変化しても現在は過去の続きであり、変わらないためには、変わることで、人と人をつないで、変わる強さと変わらない強さが、歴史や伝統になるのだということを改めて思わされた今年の二科展でした。

2012.9.15

暦の上では秋だというのに、まだまだ猛暑が続いていた先月下旬の土曜日、体験入学、保護者説明会で出校し、日曜日も「原宿表参道元気祭スーパーよさこい2012」があり、この週末も原宿でした。今年も「スーパーよさこい」の審査委員を頼まれ、全国から88チーム約5000人の踊り手が参加した、よさこい踊りを堪能(たんのう)しました。明治神宮、文化館、原宿口、などのステージと、NHKホール前のストリート、表参道で熱気あふれる元気なよさこい踊りが、次から次へとくりひろげられ、その中には、本校の学生がデザインした衣装の原宿少年少女合唱団も、元気はつらつと踊っていました。去年の審査員席はNHKホール前でしたが、今年は神宮前交番近くの表参道アベニューでした。ヤグラ上の審査員席からは、チーム全体の踊りが見わたせ、強い日ざしもケヤキ並木がさえぎってくれ、暑さもやわらぎました。審査項目は楽曲、衣装デザイン、踊り振付、鳴子の鳴らし方、進行スピード、元気、全体のバランスなどがあり、けっこう大変でした。 夏は盆踊りなど、踊りのシーズンでもあり、明け方まで踊り明かす徹夜踊りなど、全国各地で地方色豊かな生活文化としての民謡踊りが伝わっています。民謡は音階も独特で言葉も地域性がありますが、変容を続けていて、若者に人気の「ヨサコイ・ソーラン」も高知県と北海道の民謡ですが、地域を超えた大象音楽踊りになっているようです。
踊りといえば40数年前、ある会社のデザイン室に勤めていた頃、当時はまだ社員旅行が全盛で、宴会では各課対抗があり、その年は私の提案で男だけでバレエ「白鳥の湖」をやろうということになり、仕事が終わると10人ほどが毎日特訓に特訓を重ね、衣装も手づくりしました。つけまつげは服ブラシをカットしてセロテープでつけ、重くて痛くて大変でした。胸には夏ミカンを半分に切って両胸につけ、私が振付し、デビューした舞台は水上温泉のホテルでした。化粧した鏡に写るその姿は、うっとりするくらいの美形で、その優雅で華麗なバレエはホテル始まって以来の評判で、話題の舞台だったようです。その10年後ぐらいにニューヨークから男性だけのバレエ団「黒鳥の湖」が来日し、公演して話題になりましたが、これは、我々の評判がなんらかのルートでアメリカに伝わったからで、これはパクリではないか、との思いでした。その後、本校の講師になって、教職員旅行の宴会で各科から何かやらなくてはならなくて、グラフィックデザイン科から私が出て、「白鳥の湖」できたえた創作舞踊を踊り、グランプリをとってしまいました。翌朝、数人の先生から私の踊った姿がチラつき、一晩中、悪夢にうなされて眠れなかったと苦情をいわれ、心外でした。
今年から中学校の保健体育でダンスが必修になったようですが、現代的リズムのヒップホップなどが人気のため、イマどきのリズムの動きに戸惑(とまど)う教員が多く、指導が大変で、ベテラン教員からは「教えられない」と悲鳴が上がっているようです。本校にもダンス同好会ができて、昨年の学園祭では驚くほど軽快でテンポのよいヒップホップダンスを披露(ひろう)してくれました。フラダンスをやっている卒業生からときどきフラダンスの写真が送られてきて、そこには「先生、そろそろ始めるタイミングですよ。」などと書かれていて、封印していた踊りへの想いがうずいている自分が恐くなってきているこのごろです。

2012.8.15

夏休みに入った校内は、静かでおだやかな空気がただよっていますが、本校の夏の風物詩ともいえるオープンキャンパスが開かれる日も多く、いつもと同じ学校が、いつもと違う光景や空気が見え、感じられます。夏の風物詩といえば思い浮かぶモノやコトも多いのですが、猛暑の中、いただいた暑中見舞いはがきには、朝顔、西瓜や金魚などの絵柄が見られます。かつて夏の代表的な風物詩であった金魚売りの声が聞かれたのは、1960年代ごろまでだったでしょうか。金魚で思いおこすのは、本郷菊坂の近くにある金魚坂です。文京区は坂が多く、不思議な変った名の坂があるのですが、この坂もその1つです。菊坂から横道に入る幅2メートル、長さ30メートル足らずの路地の坂で、その先には江戸時代から続く、老舗(しにせ)の金魚の卸問屋(おろしどんや)があり、そこにちなんだ呼名だそうです。いまでも営業していて、約40種、5万匹の色とりどりの金魚が敷地内の水槽の中で優雅に泳ぎ回っていて、金魚釣りもできる「釣り堀」もあり、都会の夏に涼を呼ぶ癒(いや)されどころです。2000年に金魚を飼育するいけすなどがあった場所を改装して、喫茶レストラン「金魚坂」をオープン。昨年4月まで茗荷谷(みょうがだに)に住んでいたこともあり、このあたりは私の散策エリア、コースの1つでしたのでオープン当初から何回か足をはこんでいます。金魚が食材ではありませんが、メニューには「金魚すくい御膳」、「金魚坂御膳」「金魚坂コース」などがあり、ネーミングもたのしめます。 6年ほど前、千駄木と根津の間にある、やはり金魚屋を改装したギャラリー「KINGYO」で、キャリアコースの学生2人が展覧会をしたことがありました。それはギャラリーで展示する単体の造形作品だけでなく、谷中、根津、千駄木の街や有名なたい焼き屋などの商店も場とする、インスタレーションでした。これに私も協力したことで、2人を「金魚坂」へも案内しました。このギャラリーに毎日のように来ているという幼稚園児ぐらいの子供が、私がいるときも遊んでいたのですが、その子供を迎えにきたという父親がワハハ本舗の役者で俳優の佐藤正宏さんで、おどろきました。かなり前、テレビ東京の「TVチャンピオン」という番組で「親子で描く壁画」の決勝大会の審査員をしたとき、現場中継の進行役が佐藤さんで、千駄木にすんでいるとかで、収録の合間に谷根千(やねせん)で話がはずんだのですが、この近所だったとは。教え子のおかげでの出会いでした。
金魚はフナの突然変異の観賞魚ですが、江戸時代後期ごろから庶民も観賞するようになったようです。金魚は本来、上見(うわみ)といって上からめでるものだそうです。姿、形を競う品評会も、上見で審査され、尾びれなども、上から見て美しくなるように改良されてきたのだそうです。美術作家の深尾隆介さんの作品集「金魚養画場」では、色鮮やかな金魚がひしゃくの中や、引き出しの中、ビーカーの中など現実にはないようなシチュエーションで泳いでいて、その姿はどう見ても本物にしか見えないほど、生き生きとしています。この金魚たちは樹脂をキャンバスに見立てて、アクリル絵具で金魚を描き、その上に樹脂を流して、また金魚を描くという作業を何度も重ねるという、CTスキャンのような画法で描かれていて、横から見れば赤い線が並んでいるだけですが真上から眺めると、本物に見まごう金魚に見えるという、江戸時代からの上見の観賞と、現代美術の金魚も上見で眺めるというこの時を超えた偶然も不思議です。金魚といえば、金魚の真似はしないという、どじょう総理の「どじょう内閣」ですが、このどじょうは江戸時代の庶民の味で、暑い夏にどじょう鍋や甘酒など熱いものをあえて飲食することで暑さをしのいだといわれます。そのころからの老舗の「どぜう飯田屋」「駒形どぜう」は4文字の"どじょう"は縁起が悪いことから3文字の"どぜう"にしているといわれます。野田さんも「どぜう内閣」にしておけば良かったのでは、とも思います。久し振りに浅草の「どぜう飯田屋」に行きたくなりました。

2012.7.18

それ、きゃりぱみゅ?と聞いたら、女子学生がびっくりして、先生知っているんですか?とおどろかれました。先月、授業参観で各科の授業を見て回っていたとき、イラストレーション科2年の教室で、それぞれ歌手や俳優などの顔を描いているリアルイラストの課題の中、きゃりーぱみゅぱみゅ。が目についたからでした。原宿のデザイン専門学校の校長が女子高生に圧倒的人気の原宿のカリスマ、新曲「つけまつける」で人気沸騰(ふっとう)、かわいさで受ける、原宿ファッションの代表的モデルで歌手の、きゃりーぱみゅぱみゅ。を知らなくてどうする。ですが、きゃりぱみゅ。などとすんなり出たのには、自分ながらおどろきました。舌をかみそうな名前なので、とっさに短かく言ったわけです。数日前まで、原宿駅構内の竹下口に通じる壁面の両サイドに、きゃりーぱみゅぱみゅ。がモデルの大きなポスター10枚ほどが貼られていて、改札口を出ると、竹下通り入口のアーチにも、キャッチコピーが、「ぱみゅコレ。超絶かわいいインサイドホン。」という、きゃりぱみゅ。がモデルの横断幕の広告があり、(その上にあるモニター画面には本校学生作品の映像が流れています。)竹下通りにも同じ広告のフラッグがはためいていて、原宿、竹下通りは、きゃりぱみゅ色に染まっていました。このきゃりーぱみゅぱみゅ。がパリのジャパンエキスポで初ライブを行ない、ぱみゅコールもあり、歌に合わせて踊るなど、日本のカワイイ文化の代表として、フランスでもカワイイは大人気だったようです。昨年アメリカのロサンゼルスでライブをしたときも、6000人が集まって、みんな出だしから歌えて、踊りまでまねしてくれた。と本人がおどろいたようです。アニメ、ゲームなど日本のポップカルチャーが国際的な注目を集めている中、ファッションを中心に若い女性たちが生みだす、東京のカワイイ文化の数々を伝える、NHK「東京カワイイ・TV」が、海外でも人気となっているようです。
ニッポンの「かわいい」はには(埴輪)からハローキティまで。いまや世界の共通語となった「KAWAII」は、国宝絵巻から路傍(ろぼう)の石仏まで、わが国に連綿(れんめん)とつづく文化だったのだ。と「芸術新潮」誌が特集したり、「カワイイ」が大正にもあった。と文具や小物など身辺雑貨に「かわいい」という価値を加えた「大正から始まった日本のKawaii展」が文京区の弥生美術館であったり。昭和30年代にポップカルチャーの最先端を担(にな)う日本のカワイイ文化のルーツを創ったアーティストの「元祖"カワイイ"のカリスマ内藤ルネ展」が渋谷パルコであったり、とカワイイカルチャーが花ざかりです。いま、旬(しゅん)の写真家で、沢尻エリカ主演の映画を監督したことでも話題の蜷川実花の写真も「かわいい」という若い女性たち。その写真は極彩色で不気味な剥製(はくせい)や造花、人形など、どう見てもそれを「かわいい」とは思えないのですが、奇抜、不気味、悪趣味などといわれてきた表現が「カワイイ」という言葉に価値が変換されて、グロテスクでもかわいい、グロカワ。キモくてもかわいい、キモカワとか、大人かわいい、とか、カワイイ、かわいい、「kawaii」は日本から生まれた表現で「beauty」でも「Cute」でも言い表せない「kawaii」は、いま、世界で通用する言葉になっているようです。かわいい、は本来小さくて力(ちから)の劣(おと)ったものに対してつかう言葉であったはずですが、時代によって、言葉の意味が変化するとはいえ、何かの拍子(ひょうし)にこの私にでさえ「かわいい」などと学生がいうときがあり、どうして、なに、ん?と戸惑(とまど)うことがあります。長く「ギャルの悪ふざけ」といった感覚であったお役所や産業界がマンガ、アニメ、ゲームに続くカワイイを日本発の文化、ビジネスに育てようと動き始めたようですが、いまさら、それは、カワイイとはいえないような気がします。

2013.6.15

このコラムで、風呂ぎらいだったようなことを書いたら、知人や卒業生から、湯河原に移ったのは温泉があるからだとばかり思っていた。と不思議がられました。たしかに湯河原に住んでいるとわかると、いいですねえ、毎日温泉に入れて。と言われます。湯河原といえば温泉が連想されるのは当然です。「足柄(あしかり)の土肥(とひ)の河内(かふち)に出(い)づる湯の世にもたよらに子ろが言わなくに」。万葉集の中でも、温泉の湧(わ)き出ているさまを歌っているのは、湯河原のこの一首のみだそうです。湯河原は土肥(とひ)と呼ばれていて、いまでも地名がのこっています。私は引越してしばらくは習慣でシャワーだけでしたが、温泉の管理、使用料などを払っていることもあり、貧乏性のゆえに、やはり湯船につからなければ、との思いで意を決して、最初のころは、つかってすぐ出るをくり返し、少しずつ体を慣(な)らして、1分から2分、3分とだんだん長くなり、今では、なんと5分ぐらいはつかれるようになっています。私の中ではまれにみる快挙(かいきょ)です。思えば1970年の大阪万博で、大手家電メーカーが、服を着たまま体が洗浄されるという「人間洗濯機」なるものを展示し、話題になりました。そのときは、いよいよ時代が自分に近づいてきたな。と期待していたのですが、その後話題にもならなくなり、実用化されなかったようで残念でなりません。このように私は温泉が好きとか、それが魅力で湯河原に移ったのではありません。なにより新幹線が止まらないその駅は、大型の商業施設がなくて、休日以外は乗降客も少なく、ホームからは四季折々の自然の移(うつ)ろいが見え、感じられ、そのたたずまいは、懐かしさが漂(ただ)よう旅先の駅であり、山と川と海のある「四季彩のまち」は、静かで、おだやかな自然が香(かお)り、文学が薫(かお)る、その空気感が気に入ったからでした。それは、前に住んでいた都内の文京区とつながり合う不思議な懐かしさを感じたことでもありました。この湯河原に住み、滞在して物語を生んだ多くの文人や画家は、夏目漱石、国木田独歩、芥川龍之介、山本有三、与謝野晶子、島崎藤村、谷崎潤一郎、丹羽文雄、小林秀雄、水上勉。画家では竹内栖鳳、安井曽太郎などなどですが、文豪・夏目漱石は湯河原を舞台にした晩年の小説「明暗」を、芥川龍之介は「トロッコ」。国木田独歩は「湯河原ゆき」。島崎藤村は名作「夜明け前」を温泉で静養しながら5年ほどかけて執筆(しっぴつ)したそうです。文京区ゆかりの文人には、樋口一葉、石川啄木、夏目漱石、森鴎外、宮沢賢治、泉鏡花、佐藤春夫、宇野浩二、久保田万太郎、幸田露伴、永井荷風。などですが、文京区と湯河原を想い、遥(はる)かな時の流れを感じながら、それらの面影を追い、忍ぶ文学散歩は、なにげない風景や光景が、特別なものに思えて、見えてきて、愛(いと)おしく、慈(いつく)しむ気持ちがおのずと湧(わい)てきます。若いときは、便利でにぎやかな都会の方が良く、ついこの間までは湯河原に住むなどとは、まったく思いもしませんでした。年を重ねるということは、こうした?ことでもあるのでしょうか。湯河原は町ですから役所ではなく町役場です。この役場というひびきも気に入りました。私は今村ですから、村には役場が似合います。

2012.6.29

梅の実が熟するころの梅雨(ばいう)。そのつゆ入りにあわせたように今年も、国立オリンピック記念青少年総合センターでスポーツ大会を行いました。全学科の学生が日ごろのうっぷん?を晴らすかのような熱戦をくりひろげ、うっとおしい梅雨(つゆ)空(ぞら)を吹きとばしてくれました。そんな梅雨(つゆ)どきに出かけた休日のある日、電車内で、にぎやかにオシャベリしている年配の女性グループから、「うめちゃん」「梅ちゃん」という名がひんぱんに聞こえ、なんでこの人たちが「うめちゃん」のことを知っているのか、不思議でした。私の中では「うめちゃん」「梅ちゃん」とは、写真界の芥川賞といわれる木村伊兵衛写真賞を受賞している、写真家の梅佳代(うめ・かよ)さんのことで、この「梅ちゃん」こと梅さんは、「じいちゃんさま」という写真集を出し、展示会もしている人ですから、年配の人が知っていてもおかしくはないのですが、一般の人が話題にしていることにおどろきながら聞いていたら、どうやらその「梅ちゃん」はNHKの連続テレビ小説「梅ちゃん先生」のことらしく、私は観ていなかったのでその時は知りませんでした。少し興味をそそられ、録画して数回分を観てみました。それは戦後の復興期にちょっぴりドジな女の子、梅子(堀北真希)梅ちゃんが家族や周囲の人々に支えられながら、ひたむきに生きる人々の命と向き合う町医者になっていくというドラマでした。車内で話題にしていた年配の人たちも、このドラマと同時代を生きてきたかのように見うけられました。写真家の梅ちゃんこと梅佳代さんの写真集「じいちゃんさま」が数年前、本校近くの出版社「リトルモア」から出版され、「リトルモア」の地下ギャラリーで、梅佳代展「じいちゃんさま」があり、のぞいてみました。この「じいちゃんさま」は梅さんの祖父が被写体で、初の写真集「うめめ」が異例のベストセラーになり、大ブレイクしているときでした。その写真はごく普通の日常を豊かな感覚で向き合い写し取る、ふつうが、普通でない魅力でした。そんなころ、梅佳代さんの写真展とトークがあることを知り、東京ミッドタウンのFUJIFILM SQUAREにでかけました。私にはよくあることですが、日程を間違えて、会期はすでに終わっていましたが、俳優の佐野史郎さんが、写真展「あなたがいるから、ぼくがいる」をやっていて、会場には佐野史郎その人がいて、面白く興味ぶかい話を聞くことができました。その時のDMやチラシなどをさがしてみたら、なんと次回写真展の予告に、堀北真希写真展「私の大切なメモリー」堀北真希が撮った思い出の一コマ。とありました。そのときは気にもとめていなかったのですが、そのころ堀北真希は、映画「ALWAYS三丁目の夕日」に出演しており、「梅ちゃん先生」と同じ焼け野原から復興する東京。高度成長に向う、物がなく貧しいながらも元気な日本が描かれており、そのころに比べたら物はあり、豊かでありながら不況という現在。終戦後は混乱してはいたけれど、人間が人間らしく暮らしていたという、ある作家の文章が目にとまりました。「ばい菌だらけだけれど、せいぜい大腸菌ぐらいで、工業汚染だの放射能だのってのじゃないんだからね。」これは東日本大震災のはるか前に書かれたものです。ごくありふれた日常のふつうを撮(と)る梅佳代さんこと「梅ちゃん」のカメラも、その眼差(まなざ)しは、復興期の昭和に向いているのではないかと思えるのも、東日本大震災の復興元年だからかもしれません。

2012.6.14

北原白秋のふるさと柳川に「からたちの花」の歌碑(かひ)があり、柳川でつくられたと思っていた「からたちの花」や「この道」「ペチカ」「待ちぼうけ」など、その童謡のほとんどが小田原で生まれたことを知り、福岡から戻った数日後、さっそく白秋ゆかりの「童謡のまち小田原」に行ってきました。私はけっこうしつこいのです。19才で上京した白秋は、8年間に15回も転居した人でしたが、柳川についで長く居住(きょじゅう)し、初めて自宅をもった土地が小田原でした。温暖な気候と豊かな自然に恵まれた小田原をこよなく愛した白秋は、終生(しゅうせい)小田原で暮らすことを考えていたそうです。小田原での生活は快適で、多くの童謡を創作しましたが、名作「からたちの花」も、小田原の小径(こみち)を散策(さんさく)したことで生まれたようです。多分このあたりであろうという小径が、白秋童謡の散歩道「からたちの小径」となっていて、そこには白秋を愛する市民が植えたという、からたち(枸橘)の木がありましたが、春さきに咲く花はすでに終わっていました。ミカンの花は初夏の花で、いまを盛(さか)りと咲き匂(にお)っていましたが、からたちの花もミカンの花に似た白い花で、実(み)は小さく球形で黄色くなり、花も実も似ている、カボス、スダチ、ダイダイなども同じミカン科です。からたちには鋭(するど)いトゲがあり、<からたちの花が咲いたよ。白い白い花が咲いたよ、からたちのとげは痛いよ。>の山田耕作が曲をつけた歌を想い、白秋が散策したであろう姿を思い描きながら、その小径を歩き、小田原文学館と別館の白秋童謡館に向かいました。文学館には小田原ゆかりの文学者が紹介されていて、庭には白秋の童謡歌碑があり、白秋童謡館では、童謡集や原稿など白秋の童謡にかかわる資料の展示や、ビデオ「童謡のふるさと小田原-白秋が愛したまち」などが放映されていました。かつて小田原から通学していた学生、地元で有名な老舗(しにせ)の蒲鉾(かまぼこ)会社に就職した学生、結婚して小田原に転居したと年賀状にあった卒業生などが思い浮かんできました。その童謡館で、北原白秋が日本で初めて訳したことで知られる、イギリスの古くから親しまれていた、伝承童話「マザー・グース」の訳本「まざあ・ぐうす」を見ることができました。毎年この時期、本校イラストレーション科で「マザー・グース」に絵(イラスト)をつけるという課題にとりくんでいることもあり、興味をひかれました。この間まで渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで、「レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想」が開催されていましたが、ダ・ヴィンチの「ヴィンチ」は柳を指すのだそうです。故郷の村に自生する柳に由来(ゆらい)していて、この柳の枝を図案にして自分のエンブレム(紋)にしているダ・ヴィンチと、白秋の故郷が柳川という、そんな柳つながりもありますが、神と人間の関係を見直して、自然を意識しはじめたダ・ヴィンチの時代と、原発事故で科学への信頼が失われ、自然を見直しはじめた現在と、白秋が小田原で関東大震災にあい「私は今度の震災に得たものを決しておろそかにしまい」と歌壇(かだん)の閉鎖(へいさ)性に風穴(かざあな)を開けようと感性優位の短歌誌「日光」を創刊した時代が似ていることに、何かを問われ、示唆(しさ)されているような気もした、柳川と小田原の白秋散策でした。

2012.5.29

フレッシュマン・リクリエーションの数日後、福岡に行ってきました。二科福岡展のため、主催する西日本新聞社から招請(しょうせい)をうけてのことでした。東京を発つときは肌寒かったのですが、福岡は、晩春の暖かさというより、初夏のような陽気でした。空港から迎えの車で、会場の福岡市立美術館へ直行し、デザイン部の展示指導と、西日本新聞社賞の審査にあたり、夕方からは美術館のレストランで前夜祭の祝賀パーティーがあり、これも役割である挨拶をしました。九州の仲間やお世話になっている方々と交流し、親睦(しんぼく)を深めることができました。音頭(おんど)とりの飲んべえがいなかったこともあり、いつものような2次会、3次会がなく、ほっとするやら、さびしいやらでしたが、すんなりホテルへ帰ることができました。翌(よく)初日の午前中は美術館で、これも役割であるギャラリートークに参加し、地元の鑑賞者の方々へ作品解説や質問に答えたり、地元の新聞、テレビなどの取材もあり、役割を果(はた)すことができました。こうした巡回展で、本校の在校生や、卒業生の作品に、再び巡り合えるのも、格別(かくべつ)なよろこびがあります。福岡出身の在校生、卒業生の作品もあり、地元の親族、友人などに観てもらえるとよろこんでいました。午後は、前回、悪天候のため行けなかった、北原白秋が詩心を開花させた、生誕(せいたん)の地である柳川に案内してもらいました。福岡から柳川までの車から見える風景は、ついこの間まで、まだ浅く萌(もえ)ていたのに、目が覚(さ)めるように鮮やかな新緑になり、その木々の葉は、若葉の緑の色が湧(わ)き立つように燃(もえ)ていて、とくに遠望(えんぼう)する山に点在(てんざい)する楠(くす)の若葉は、光に映えて、その爽(さわ)やかな浅緑は見惚(みほれ)るばかりでした。柳川に着いて、遅い昼食を旧柳川藩主立花邸の「御花」で、国指定の名勝の庭園を眺めながら、うなぎのせいろ蒸(む)しをいただきました。柳川といえば、ゆたかな水をたたえた掘割(ほりわり)を、ゆったりと川下りする「水郷」として知られていますが、その水の上をわたってくる初夏の風は、青葉のにおいをはこぶ、風薫(かぜかお)る、まさに薫風(くんぷう)でした。そんな心地(ここち)よい風をうけながら、北原白秋の生家と記念館、歴史民俗資料館をたずねました。白秋を偲(しの)ぶ品々と、慈(いつくし)み育(はぐく)んだ柳川の歴史と、白秋の生いたちの光と影が、白秋の詩をつくる心、詩に対する情感になっていることが見えてきて、私の好きな「落葉松(からまつ)」の詩がより理解できました。中学生のとき、最初の作品「虹」を、福日新聞(現西日本新聞)に発表したことも知りました。念願であった白秋の生家に行くことができ、案内、同行してくれた4人の福岡の仲間に感謝、感謝です。

2012.5.11

初夏の風と光の中で、木々の若葉、青葉が輝き、夏がはじまる立夏(りっか)となったゴールデンウィーク(GW)も明け、1期の授業が始まりました。校内は活気がみなぎり、にぎやかになりましたが、新入生はGW前までのオリエンテーション期間で、やっと緊張がやわらぎ、学校やクラスの雰囲気にもなれ、友人もできたところでGWになってしまい、毎年のこの休み明けは、遅刻、欠席などが目につく要注意のときでもあります。そのオリエンテーション期間の4月20日、去年より多い新入生と共に大型バス9台を連(つら)ねて恒例(こうれい)のフレッシュマン・レクリエーションのデーキャンプに相模湖プレジャーフォレストへ行ってきました。ときおりわずかに小雨(こさめ)がぱらつく、くもり空でしたが、新入生たちは天候のことなど気にもしないで、クラスの班ごとに和気(わき)あいあいと楽しそうにサラダ、コーンスープなどの調理、ピザづくりに興じていました。私も教職員の班でピザづくりを手伝いました。今年は学生が焼いた真黒こげのピザを食べさせられることなく、焼き具合のほど良い自作のピザをおいしくいただきました。評判を聞いて先生や学生がわれわれのところにピザを食べにきたりしました。自分たちで焼いたピザの昼食を終え、学生たちは、自由行動に移り、プレイランドで乗物などで遊び、交流を深めている光景があちらこちらで見られ、コミュニケーションを図(はか)り、親睦(しんぼく)を深めようという目的は十分に達せられたようです。

相模湖を囲(かこ)む山の木々は、まだ冬芽が芽吹き、若葉が萌(も)えだしたばかりで、初々(ういうい)しく、まるで新入生の姿を見るようでした。寒さが長びき遅れ気味で咲いた山桜がまだ残っていて、遠くからの眺(なが)めは花霞(はながすみ)でした。雑木の間には山吹(やまぶき)の黄色い花が咲いていて、この花が散(ち)ると春が終るといわれている春を惜しむ惜春(せきしゅん)の風景でもありました。春告鳥(はるつげどり)といわれる鶯(うぐいす)の鳴き声は、耳をすませて、やっとかすかに聞こえるくらいでした。この時期は山へ戻って巣づくりをするはずですが、やはり、今年の寒さで戻るのが遅れているのかも知れません。春告花(はるつげばな)といえば、寒さがのこる3月頃、里山の枯れた雑木林の間から、いち早く白い花をつけ、春の兆(きざ)しを教えてくれる辛夷(こぶし)の花ですが、まだ少し咲いていました。こぶしの名は蕾(つぼみ)の形が拳(こぶし)に似ていることからだそうですが、似ている花に白木蓮(はくもくれん)があります。花はこぶしの倍くらい大きく、こぶしの園芸種だと思っていたのですが、こぶしは日本原産で、もくれんは平安時代の後期に中国から渡来(とらい)した別のものだそうです。

行くときはオシャベリに花が咲いていたバスの中も帰りはほとんどの学生が熟睡(じゅくすい)状態でした。出発したときと同じ原宿駅の近くでバスを降り、流れ解散でしたが、その先の表参道にかかる陸橋のそばにこぶしの木があり、もう花は落ちていましたが、新緑の若葉の姿も良いものです。原宿に山の辛夷(こぶし)は最も遠いイメージですが、その清楚(せいそ)な白い花と芳香(ほうか)は違和感がなく、私の中では代表的な原宿風景のひとつです。こぶしの漢字がなぜ辛夷なのか不思議で調べてみたら、コブシは種子(たね)をかむと辛いのでコブシハジカミの名もあるそうです。あれ?きゃりーぱみゅぱみゅ。この語感(ごかん)なんか似てませんか。原宿ファッションの代表的なモデルで歌手として話題のアイドルとつながりました。コブシハジカミは原宿によく似合います。

2012.4.19

春は新しい生活がスタートする季節ですが、やっと春らしい陽気になった4月10日、明治神宮会館で入学式を行いました。大きくふくらんだ期待と同じくらい不安もあるであろう新入生を迎え、希望あふれる宣誓(せんせい)を受け、改めて責任の重さを感じ、身のひきしまる思いでした。式を終えて、新入生はそのまま全体ガイダンスに、参列いただいた保護者の方々には参集殿に移っていただき、保護者説明会を行い、これからの学校生活へのご理解とご協力をお願いしました。これまで入学式のころは、ほとんど桜の花が散っていて、明治神宮会館の庭の枝垂(しだれ)桜が咲いているのを楽しみにしていたのですが、今年は季節の歩みが遅く、長い間、寒さに耐(た)えた桜の花がまだあちこちに咲いていて、卒業式は梅、入学式は桜と、この季節らしい心も華(はな)やぐ式となりました。

卒業式を終えた3月下旬、東京ビッグサイトで開催された「東京モーターサイクルショー」と「東京国際アニメフェア2012」に行ってきました。会期が同じであったため、一度に観ることができました。「東京モーターサイクルショー」は国内最大級のモーターサイクルのビッグイベントで、世界のバイクが大集合して、その最新バイクカスタムマシンをはじめ、各種パーツ・ウエアーの展示や、試乗会などもあり、ハードもソフトも、二輪車の魅力を体感できるイベントでした。本社が英国にあるトライアンフジャパンの出展エリアで本校の学生作品が展示されました。すでに何回かトライアンフジャパンとコラボをしているのですが、今回は「東京デザイン専門学校・トライアンフ創業110周年エコバッッグプロジェクト2012」でした。校内にバイクを展示し、オリエンテーションをしていただいて、グラフィックデザイン科、イラストレーション科、ビジュアルデザイン科の学生がエコバックのデザインを応募しました。いくつかの賞が選定され、最優秀賞、優秀賞が採用となり、そのエコバッグと、その他の受賞作品、応募作品も貴重なスペースに展示していただいて、ありがたく、うれしく見させていただきました。

「東京アニメーションフェア2012」は国内外のアニメ関連企業が出展している、アニメの最新情報がわかる世界最大のアニメ総合イベントで、本校もアニメーション科、マンガ科の学生作品、動画(アニメ)静止画を展示しました。教育関係の出展は少なく、本校のブースは来訪者が多く、にぎわっていました。そんな中、東映アニメーションのブースに、本校アニメーション科の卒業生、宇田鋼之介さんが監督した、5月19日全国ロードショー「虹色ほたる」<永遠の夏休み>の宣伝ポスター、チラシなどがありました。その宣伝文には、「それでも、こどもたちは今を生きる」心の故郷、大自然を舞台に、時代を超えた感動的な愛と絆の運命をめぐる、少年の成長ファンタジー。とありました。宇田さんは社会現象にもなっている大ヒット人気アニメーションの劇場用「ワンピース」を監督した方で、本校のアニメーション科で特別講義をお願いしています。日本アニメーションのブースでは、キャリアコース(夜間講座)の修了生、永見夏子さんの、あらいぐまラスカルをテーマにしたイラストやグッズが展示されていて、アニメフェアが身近に感じました。永見さんは、在学中に二科展デザイン部のイラスト部門に入選し、3年目でイラスト大賞を受賞した実力派イラストレーターで、日本アニメーションに入社してから出版した作品集「太陽と月とメルヘンとラスカルと森の仲間」は今も私の本棚にあります。銀座で個展をしたときには、在校生をつれて見に行ったり、聖蹟桜が丘にある日本アニメーションの本社スタジオを案内してもらったこともありました。東京駅地下の日本アニメーションRASCAL SHOPでも永見さんの作品が販売されていて、ときおり、のぞくことがあります。近々オリジナルブランドのHPが立ち上がるそうです。この3月、4月は、別れと出会いの季節ですが、こうして在校生と卒業生の作品が同じ会場で出会い、過去、現在、未来へと、めぐりつづけ、重なることのこの上ない贅沢(ぜいたく)な、めぐり会いの豊かさを思わせてくれた1日でした。
<永見夏子さんの作品はこちら>

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