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今村昭秀学校長のコラム

今村昭秀学校長のコラム 2013年度

今村昭秀学校長イラスト

(イラスト:マンガ科 小日向一葉)
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2013年度

2014.3.28

桜がほころび始め、各地から次々に開花が報じられていますが、ついこの間まで湯河原の冬枯れの山肌は、ほうじ茶色の渋い濃淡がひろがっていて、ところどころに梅の白い花や早咲きの桜の薄紅色があり、春の兆(きざ)しを告げてくれていました。そんな地味な里山風景がわりと好きで時間があると飽(あ)きもせず眺めていました。枯れ山には冬でも緑を保(たも)っている松と竹もあり、早春に咲く梅と共にこの松と竹は、寒さに耐えることから、歳寒の三友(さいかんのさんゆう)と言われ、めでたいものの象徴として古くから画題のひとつにもなっています。梅の絵といえば、日本美術の傑作として名高い尾形光琳の国宝「紅白梅図屏風」があります。おりから、それを所蔵している熱海のMOA美術館で展示されていることを聞き、見に行ってきました。ここは何回も来ているのですが、この作品は人気があり、いつも貸出中とかで今回初めて見ることができました。それは背景を省略し、梅の木と流水だけを大胆に描き、水の流れは中央に、光琳波といわれる曲線で抽象的に表現し、左右の紅梅と白梅はそのほとんどが画面の外に向かい、見るものの想像力に委(ゆだ)ねることで画面が広がり、大きく感じ、その構図はまさにデザインでした。松・竹・梅が表現された琳派の絵画、陶器、漆工品などもあり、江戸初期の本阿弥光悦や俵屋宗達によって種がまかれ、芽を出して尾形光琳・乾山へとつながった琳派のその装飾美は魅力的で現代デザインにも通じるものでした。美術館で観梅したあと、熱海梅園に足をのばし、光琳の「紅白梅図屏風」を思い浮かべながら紅梅、白梅の間を散策しました。「寒梅や火の迸(ほとばし)る鉄(まがね)より」。これは画家であり俳人でもあった蕪村(ぶそん)の句ですが、寒中の梅は鍛冶屋(かじや)が打つ真っ赤に焼けた鉄から飛び散る火花であり、寒の冷たさと火の熱さが激しく交(まじ)わって寒梅は開く、ということのようです。湯河原に「湯河原梅林」という観光名所があり、その場所が鍛冶屋幕山というところで、約4,000本の紅梅、白梅が梅のじゅうたんのごとく「梅の宴」をくりひろげていて、かつて鍛冶屋があったところだったんだろうな、とその地名と蕪村の句に想いをはせながら、桜のように華麗さはないけれど凛(りん)とした可憐(かれん)な花と、豊かな香りを今年も愛(め)で楽しんできました。すし屋、そば屋、うなぎ屋などで特上が「松」上が「竹」並が「梅」となっていますが、注文するとき、つい高からず安からずの「竹」と言ってしまいます。もともと松竹梅には等級などはなく、並と注文するより「梅」とした方が美しく注文しやすいところから用いられるようになったのだそうです。うなぎ屋では待たされることを「待つ(松)だけ(竹)うめ(梅)え」とのシャレでもあるようです。平安時代に松が、室町時代に竹が、江戸時代に梅が、めでたいものとされるようになったことからこの時代順という説もあるそうです。禅宗(ぜんしゅう)では、梅は桜より重きをおかれていて、それは人生の苦難をのりこえて悟(さと)りを開く人の姿に重ねられているからだそうです。<美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない>。これは小林秀雄の美への思いを代表する言葉ですが、美を感じること、愛することは、苦労すること、忍耐することと同意であり、「美しい花」を見て感動もせず「花の美しさ」について知識をひけらかすことを批判しているのですが、この言葉は、私自身が問われ、戒(いまし)められているようで、心にぐさっと突(つ)き刺(さ)さります。

2014.3.17

寒(かん)の戻りのような日もあった3月7日〜9日“千花繚乱”というタイトルで「卒業制作展・進級展」を行いました。進級展は入学してから1年間の学びの成果を、卒業制作展は2年間あるいは3年間の集大成として、それぞれが全力で取り組んでエネルギーを結実させたものです。千をこえる多彩な個性の花々が咲き乱れ、校内が春らんまんになりました。その全作品を見させてもらい、よくぞここまで成長してくれた。と、その努力を重ねた学生の姿勢と、たゆまず指導を続けた教師の熱意が伝わってきて、うれしく、ありがたく、その作品群に感動しました。まだその余韻がのこる12日、春めいた陽気に包まれて、明治神宮会館で卒業式を行いました。厳粛(げんしゅく)な中にも新たな出発の日でもあり、華(はな)やいだ空気も漂い、卒業証書授与、学業成績、卒業制作、学園特別賞の表彰、学校長式辞など、とどこおりなく進行することができました。卒業式はいつも学生を送りだすよろこびと、寂しさがないまぜになります。卒業式といえば、歌詞が時代にそぐわなくなって、今ではほとんど歌われなくなってしまった巣立つ歌、別れの歌、として長い間、歌われてきた別れを惜(お)しむ、惜別(せきべつ)の情と励ましの歌、「仰(あお)げば尊(とうと)し」と「蛍の光」を懐かしく想い出します。別れは「さようなら」ですが最近はこの「さようなら」というアイサツがあまり聞かれなくなった気がします。下校するとき学生に「さようなら」と声をかけると、キョトンとされたり「お疲れさま」が返ってきたりして、さようなら、という学生はまれです。学生に「お疲れさま」といわれると戸惑(とまど)います。「さようなら」のさよう(左様)は、そのとおり、そのよう、という意味ですが「左様ならば」の「ば」が略され挨拶の言葉になったのだそうです。「左様なら」は当(あ)て字で「然様なら」が意味に即(そく)しているようです。別れ際(ぎわ)に言う「じゃあ、そういうことで」のようなもので、「そういうことならば」で、「さようなら」の類語には「じゃあね」「あばよ」「サイナラ」「バイバイ」「さらば」「またね」「ごきげんよう」などもあります。明治時代は男性が女性に「さようなら」と言い、それに女性が「ごきげんよう」と返すようになり、大正、昭和と男性中心社会になるにつれ、「さようなら」だけが一人歩きして、「ごきげんよう」は置き去りにされてしまったのだそうです。昭和の初めに来日した飛行家のリンドバーグ夫人が「さようなら」に感銘をうけ、これまで耳にした別れの言葉のうち「さようなら」のように美しい言葉を私は知らない。と言ったそうです。これは「さようなら」の語源や由来を知ったからではないでしょうか。「会うは別れの始まり」とか「さよならだけが人生さ」とか言いますが「さようなら」は「こんにちは」と対(つい)になる言葉でもあり、「別れ」と「出会い」は同意語であることを、しみじみと思った、別れ(さようなら)のセレモニーである卒業式の日でした。

2014.2.28

2月のことを昔の暦(こよみ)では「如月(きさらぎ)」と呼んでいて、このきさらぎは、まだ寒いので衣(ころも)を更(さら)に着ることから「衣更着(きさらぎ)」とする説や、草木が生(は)えはじめるから「木更月(きさらぎ)」とする説などがあるようです。「きさらぎ」には、春先の清らかな美しい光にふさわしい言葉の響(ひび)きがあります。寒さがあける冬と春の分かれ日の、立春が過ぎたというのに、関東甲信では記録的な大雪になり、その日の午後は休校とし学生を早く帰宅させました。大雪による災害が報じられている中、冷たい冬に耐えていち早く咲く、梅、椿、水仙、蝋梅(ろうばい)が「雪中四花」の名そのままにあちこちで咲いていて、春が近いことを告げてくれていました。とくに水仙は雪中花という名が多くつかわれているように、その清楚(せいそ)な佇(たたず)まいと香りが華道、茶道といった日本的な美意識に合い重用(ちょうよう)されていて、いかにも日本の花のように思いますが、原産地は南ヨーロッパの地中海沿岸で、中国から渡来(とらい)したようです。陸路からとする説と、海からの説があるようですが、群生地が海岸など海辺に多いことから海に漂って漂着し、繁殖したという「漂流渡来説」のほうが自然に思えます。水仙の仙は仙人の仙で漢名の「水仙」を音読みにして「すいせん」になったのだそうです。「仙人は天にあると天仙、地にあると地仙、水にあると水仙」という中国の古典に由来(ゆらい)し、その花を「清楚・純白の象徴」水の精の成り代わり、と見たようです。学名でもある英名は「ナルキッサス」「ナルシサス」で、花言葉は「うぬぼれ、自己愛、エゴイズム」などです。これはギリシャ神話の、泉に映る自分の姿に見惚(みほ)れて恋をして、どんどんやつれて、いつの間にか一本の花、水仙に姿を変えたという少年の名ナルシスからきていて、ナルシストという言葉もここから生まれていることはよく知られています。太宰治の短編に水仙の絵がキーワードになっている「水仙」があります。この太宰治や中原中也、石川啄木などは10代のころよく読んだのですが、読んでいるとか、好き、とは言えない気恥(きは)ずかしさがあり、嫌いだけど好き、好きなんだけど嫌い。という気持ちがなんの矛盾(むじゅん)もなく同居していました。それは水仙の花言葉にある「うぬぼれ、自己愛、エゴイズム」や、水仙になったナルシスのようにナルシストの匂いが共通していたからだと思います。とくに太宰治は青春のはしか(麻疹)のようなものだ。と言われていて、私もはしかにかかっていたのです。NMB48というアイドルグループが「太宰治を読んだか?」という秋元康作詞の曲を歌っています。東京秋葉原のAKB48、名古屋栄のSKE48に続いて秋元康がプロデュースした大阪難波のNMB48ですが、そこには青春の甘酸(あまず)っぱい屈折した心のフレーズが並んでいます。秋元さんもはしかにかかったことがあるのかも知れません。モノを書いたり、なにかを創り表現する人は、多かれ少なかれ「自分は他人とは違うことをアピールしたい、自己顕示(じこけんじ)欲が強いナルシスト」ではないでしょうか。図々(ずうずう)しくもこのようにコラムもどきを書くのも、そうした気持ちがあるからではないか。と思うとただただ恥ずかしくなります。

2014.2.14

早くも2月半ばとなり、いつもどおりの過ぎゆく歳月(さいげつ)であり時間の流れですが、1月が終わり2月になる、なった。と実感するのはカレンダーの1月をめくるときです。同じ過ぎゆく歳月、時間の流れでありながら東日本大震災の被災地では、時間が止まっているかのように、今なお多くの方が仮設住宅で暮らしています。歳月とは、人も街も一緒に年を重ねてゆくことだと思いますが、被災地では、その街が今はなく、そんな暮らしの中ではカレンダーへの思いも、被災前と後では異(こと)なるのではないでしょうか。いま、本校のギャラリーで被災地に贈るカレンダー「OAC学生クリボラカレンダー巡回展」を開催していますが、これはそうした被災地のひとつ、岩手県大槌町の仮設住宅や集会所で使っていただきたい。とカレンダーを制作し、届けようという、本校も賛助会員になっている日本広告制作協会が主催し、朝日新聞社、電通が後援しているものです。クリボラとはクリエイターによるボランティアの意味で、本校の学生も参加しました。被災された方を想い、少しでも心の隙間(すきま)を埋め、和(なご)み、温め、満たしていただけたら、と各校の学生がデザインしました。カレンダーには、そうしたそれぞれの想いのメッセージも添(そ)えられていて、本校の学生は、1月(VD科池田悠司君)と4月(VD科中山香さん)が最優秀賞となり、採用されました。その1月をデザインした池田君は、昨年11月、学生を代表して協会の方と一緒に大槌町の仮設住宅を訪問し、カレンダーを直接届けてきました。池田君がインタビューをうけるなどしたこの模様は、岩手日報など地元メディアでも紹介されました。報道されているだけでは見えない、わからない現状を見て聞いて知ったことは、貴重で有意義な体験だったと思います。この「学生クリボラカレンダー」の贈賞式が、表参道の青山ダイヤモンドホールで行われた「OAC新年賀詞交歓会」であり、私も出席してともに祝いました。
東北の春の訪れは遅く、まだまだ寒い日が続く事でしょうから、学生たちがデザインした復興応援カレンダーで、わずかでも心に温(ぬく)もりと明るさが灯(とも)っていただけたら、との思いです。被災された方々が、仮設住宅で、不自由な暮らしをされていることを思えば、平凡といわれる日常の出来事の、そのほとんどが、かけがえのない大切で、大事で、幸せなことであることを改めて思い知らされます。それぞれの環境、ペースで生きるしかないとは思うものの、なにか申し訳ない気持ちがぬぐえません。そんな平凡な、古き良き家族の日常を描いた、国民的アニメ「サザエさん」一家の、波平役の声優が亡くなられたことが報じられた数日後、所用があり桜新町へ行きました。ここは以前、長谷川町子美術館に来たことがあり、久し振りでした。駅を出るとすぐにサザエさん一家のモニュメントがあり、波平像の前には献花や果物が供(そな)えられていて、写真を撮っている人たちも見られました。この波平の頭にあった10センチほどの貴重な1本の毛が2度にわたって抜き取られ、「植毛式」をやったことが報じられたことを思い出し、頭を見てみたら、ちゃんと1本ありました。地元の“サザエさん通り”の商店街では、「故意に抜かれたのであれば被害届を出したい」。と言っていましたが、その後どうなったのでしょうか。近くで見てみたらワイヤー製の超剛毛で、子供のイタズラとは考えにくく、やはり大人の仕業(しわざ)だろうと思われます。このエピソードは、放送開始から45年という、誰からも愛され親しまれているアニメ「サザエさん」一家の平穏(へいおん)でありながら、どこかおかしさのある日常が、現実と入り交(ま)じったような不思議な感じでした。抜き取る方も、被害届を出そうという方も、サザエさん的には大人毛(おとなげ)ない、ではなく、大人気(おとなげ)ないのではないでしょうか。災後「つながる」が時代のキーワードになっていますが、被災地の方々の日常と、社会のつながりの小さな単位である家族というサザエさん一家の日常を思うと、日常とは何だろう。と改めて自問(じもん)させられるこのごろです。

2014.1.31

この1月は寒い日が多く、寒の入りから立春までを寒の内とか、寒中というその名のとおりですが、その寒い時期にけなげに咲いている花に蝋梅(ろうばい)があります。この蝋梅は、ろう細工のような光沢と梅に似た香りと花であることから、その名がついたそうです。地味でそっと控(ひか)えめに咲く姿は、日本人好みで、茶花や生け花によく使われるようです。秩父の長瀞(ながとろ)にある宝登山の蝋梅園に行ったことがあります。山頂一帯に2500本ほどの蝋梅が咲いていたのですが、黄色いその地味な花は、心晴れやかとはならず、心静かに物思いに誘(さそ)われ、この花は沢山あるより庭先に1本ぐらいの方が、その魅力が伝わり、映(は)えるのではないかと思ったものでした。中国原産のため唐梅(からうめ)ともいうそうですが、中国では、厳寒期に咲く花木の代表格として、この蝋梅と椿、梅、水仙を「雪中四花」と呼ぶそうです。いずれも「春告げ花」でもあります。
新年を新春ともいい、類語に賀春、頌春、迎春などがあり、いただいた賀状にもそれらが見られます。正月の晴れ着を春着ということなども、旧暦では、いまの立春が新年であったことからだそうです。寒い中、新春など春の字があるだけでも、春の兆(きざし)が想われ、温(ぬく)もりを感じます。本校の新成人も、各地の成人式に出席したようですが、華(はな)やかなその晴れ着は、まさに青春の春着そのものです。成人とは大人になるということですが、私自身大人になったようなフリだけはしてきていますが、いまだにまっとうな大人になっているとは思えず、お恥しいかぎりです。成人式では、立派な大人になる、なりたい。など大人の誓いがされますが、新成人には、大人になってほしいと思う一方で、大人になんかならなくてもいいのです。という気持ちもあります。いつの時代も年配者が、今どきの若い者は、となにかと苦言を呈(てい)するものですが、今どきの若い人や、本校の学生を見ていると、そこそこ、ほどほどにマナーもよく、むしろ年配の人の迷惑行為の方が目についてしまいます。そんな大人になってほしくないとの思いがあります。若者も年配者も、それぞれお互いに、「怒るまい、笑うまい。自分が来た道だから、自分が行く道だから」。の寛容(かんよう)さが必要なのではないでしょうか。年をとった梅を老梅(ろうばい)といいますが、蝋梅(ろうばい)と同じ語感に狼狽(ろうばい)があります。年を重ねることで人格が円満に発達して、落ち着いて、如才(じょさい)なくなることを円熟とか成熟などと言いますが、私は、いまだにそれらにほど遠く、狼狽するばかりです。せめて老害にならないよう、今どきの年寄りは、と言われないように、多くの過ちを自省、自戒しつつ、精一杯、大人になっているフリをしながら、心して日々を送りたいと思います。

2014.1.14

おくればせながら新年おめでとうございます。「ぼうとすることがしきたりお元日」新聞にあった句ですが、正月といってもかしこまるものではない、年の始めぐらいは、ぼうとしていたい。ということですが、いくつになっても正月はめぐってくる、そんな当り前のことを思った、なにごともない、おだやかな正月を過ごすことができました。本校は6日から授業が始まり、仕事始めでした。まずは地元の鳩の森八幡神社へ参拝し、何よりも学生が健康で安心安全な学校生活を送れるよう祈願してきました。社殿から外に出ると境内にある将棋堂前で、日本将棋連盟の祈願祭が行われており、谷川浩司会長を初め多くの棋士が参列されていました。近くには将棋会館があることから、毎年行われているということは聞いてはいたのですが、初めて出会いました。将棋界の新年といえば王将戦があり、各地で7局(七番勝負)行われる第1局が12・13日、渡辺王将と再挑戦となる羽生三冠により、静岡県の掛川城内二の丸茶室でありました。日本で初めて木造の天守閣を復元したという掛川城に年末なぜか?行ってきました。王将戦の対局が行われたその二の丸茶室で茶の湯のおもてなしをうけました。掛川茶の産地でもあり、茶の湯がさかんのようです。年始めの茶会を初釜(はつがま)といいますが、年の終りの茶会はなんというのでしょうか。昨年の流行語にもなった「おもてなし」の心は、茶の湯が生み育み高めたともいわれます。「おもてなし」は「表無し」が語源だそうです。「表裏一体」と同じで、茶道におけるおもてなしの表裏は、表が「モノ」裏が「コト」なのだそうですが、このモノとコトは茶室や庭、花や掛け軸(じく)、主人の立ち居(い)振(ふ)る舞(ま)いなど、すべてで表現する「表」と「裏」が主客一体となることで本当の「おもてなし」になるのだそうです。
掛川には車窓の風景を楽しみたいため、あえて在来線の各駅停車に乗ったのですが、その名のとおり、富士、富士川あたりが雄大な富士山を見ることができました。初夢で富士山を見ると縁起(えんぎ)がいいとされていますが、いまだかつて見たことがありません。世界文化遺産に登録されたことから、富士山と富士にまつわる文化などがちょっとしたブームになっています。そんな一つに「富士塚」があります。富士塚は富士山信仰が盛んになった江戸時代、富士山にお参りに行けない人のために、神社などに富士山を模して造られた数分で登れる小さな山で、パワースポットとしても関心をもつ人が増えているようです。都内には約50ケ所、関東地方では300ケ所以上あるといわれ、都内でもっとも古いとされるのが、新年の参拝祈願した鳩の森八幡神社にある「千駄ヶ谷富士」で、私も登ったことがありますが、10秒ほどで山頂に着いてしまいました。登山というには面映(おもはゆ)い感じですが、それなりの面白さ、充実感が味わえます。新年とは新(あたら)しい年のことですが、古代の表現では、新(あらた)しいといったようです。このあらたしいは改(あらた)めるが語源であらたむ(改む)はあらためる、正すという意味もあり、私には、あらためなくてはならないことがあまりにも多くあり、新年とは新(あらた)む、改む、正すことなり。と心に刻(きざ)みました。

2013.12.26

あっという間に年末となり、年をとるごとに1年が早く短かく感じます。歳末、歳の暮、年の瀬、師走(しわす)、小晦日(こつごもり)、大晦日(おおみそか)、行く年、年越などの言葉は浮かんでくるのですが、日常の光景や街の風景などには、こうした日本的なるモノやコトが年々うすれ、見られなくなっています。ここ原宿表参道でも光のページェントであるケヤキ並木のイルミネーションが、2年ぶりに復活して250万球のLED電球が、幻想的に街を彩っています。すっかり年末の風物詩となったイルミネーションですが、表参道は初詣で、多くの人が参拝する明治神宮の参道ですから不思議な感じもします。この光輝く数々の球体が草間彌生の水玉(ドット)の作品と、本校のマークのドットがダブって見えてきます。ダブルといえばかつて年末にシリーズで放映されたフジフイルムの年賀状のCMに出演していた、樹木希林が思い出されます。この樹木希林さんと草間彌生さんが、おどろくほど似ていることに気がついてからは、樹木希林さんを見ると草間さんが、草間彌生さんを見ると、樹林さんがダブって見えるようになってしまいました。ユニークな女優、樹木希林はその名をかつて悠木千帆(ゆうきちほ)と言い、テレビのオークションコーナーで売るモノがないから、と自身の芸名「悠木千帆」を競売にかけ、自(みず)からは「樹木希林」に改名したという変わった人です。変わっているといえば、内田裕也と別居結婚しているのですが、文学座研究所の同期に岸田森、小川真由美、寺田農、橋爪功、北村総一郎、草野大悟などがいて、後に文学座を退団して「六月劇場」を今は亡き岸田森、草野大悟らと結成し、そのころ岸田森と結婚しています。この岸田森に憧(あこ)がれて、六月劇場に研究生として入団したのが後にスターとなる松田優作でした。(その息子が今活躍している松田龍平、翔太兄弟です。)草野大悟さんと私は湯島のスナックでよく会い、芸術論?を交わした飲み友達でした。個性派の俳優草野大悟は私より年は少し上の共に30代でした。その頃、井上靖の名作「天平の甍(てんぴょうのいらか)」が映画化され、それに出演、そのロケが中国で行われ、この中国ロケのはみだし記。「同志!!僕に冷たいビールをくれ」(装丁は平野甲賀)を出版し話題になりました。この本を私にくれたことなど思い出します。当時は、状況劇場、自由劇場、天井棧敷、など多くの小演劇グループのアンダーグランド(アングラ劇団)が結成され、私はアングラの演劇ポスターをデザインしていたこともあり、懐かしく想い出します。年末は過去の記憶に向き合うときなのかも知れません。日々は過ぎるものですが、越えるものでもあることを感じるのも、年越しというからでしょうか。年をとるとどうしても過去語りになってしまいます。今年も多くの方にお世話になりました。また、長い文のコラムにお付き合い下さいましてありがとうございました。良いお年をお迎えください。

2013.12.16

おだやかに移ろうという季節感がうすれ、秋と冬が交錯(こうさく)するような日々でしたが、巡る季節にはそれぞれ旬(しゅん)の食材があり、この秋はその食材の虚偽(きょぎ)表示が相次(あいつい)で見つかったことが話題になりました。皮肉(ひにく)なことに、そのタイミングで日本の伝統的な食文化の「和食」が、ユネスコの世界無形文化遺産に登録される見通しになった。との報道があり、12月に入ってから、正式に登録が決定されたようです。春夏秋冬の季節や地理的な多様性による豊かで多彩な 食材を慈(いつく)しみ、生かし、自然の美しさを盛りつけることなどを大切にする、繊細(せんさい)な美意識、「和食」の伝統があるからこそ、食材の虚偽や偽装問題がきびしく問われるのではないでしょうか。この季節の旬の食材といえば私はキノコが思い浮かびます。いまでこそキノコが旨(うま)いと思いますが、ガキのころはその味がわからず、ただ山に入って、キノコをさがし、見つけて、色あざやかな、美しくもあやしい毒キノコに魅入(みい)り、食べられるキノコを見分けることが面白く、そんなキノコ採(と)りに夢中でした。以来キノコ好き、キノコ愛は続いていまに至(いた)っています。このキノコ採りは「キノコ狩(が)り」ともいいますが、イチゴ狩り、ナシ狩り、ミカン狩り、ブドウ狩り。などもなにか違和感があります。これは「猪狩り」「鹿狩り」など獣(けもの)を捕(とら)える意味であったものが、野鳥や小動物を捕らえる意味に広がり、果物などを木からもぎ採る意味にも使われるようになったのだそうです。眺めて愛(め)でるだけの「紅葉(もみじ)狩り」は山や渓谷(けいこく)に紅葉を見に出かけ、紅葉した葉を拾い集めたことなどから「狩り」となったようです。最近は、キノコに関連した写真、絵、文学、映画などが多く目につくようになり、キノコ愛好家、同好の士が増(ふ)えて、ひそかなブームになっているようです。キノコにまつわる話やキノコ図鑑など愛好家向けの出版物も多いのですが、研究目的である19世紀フランスの「ポートレットの菌類図譜」や、日本の南方熊楠(みなかたくまぐす)の「菌類図譜」の美しい細密彩色図と、余白を埋(う)めつくす英文のメモは正(まさ)にアートです。南方熊楠は、近代日本を代表する菌類(きんるい)藻類(そうるい)などの研究者で、博物学、宗教学、民族学の先駆者(せんくしゃ)であり、「歩く百科事典」と呼ばれ、キノコの標本は40年間つくり続けたそうです。20年ほど前に亡くなった現代音楽の作曲家ジョン・ケージもキノコ愛好家で知られ、前衛的、革新的な作品を発表する一方で、ニューヨーク菌類学会を設立するほどのキノコ好きでした。1950年代アメリカでジョン・ケージに共鳴し師事した日本人に、前衛音楽の作曲家一柳慧(いちやなぎとし)がいて、ケージの周辺には画家のロバート・ラウシェンバーグ。ジャスパー・ジョーンズ。小野洋子などもいました。この小野洋子は後にジョン・レノンと結婚したあのオノ・ヨーコさんですが、当時はニューヨークのギャラリーで1回きりのパフォーマンス「ハプニング」をやっていて、一柳慧さんと出会い2年ほど結婚生活を送っています。ジョン・ケージは60年代の初め来日して無音の音楽。偶然性の音楽。不確実性の音楽。など、心地よいハーモニーやメロディなどない、これが音楽かというようなコンサートを行い、当時の音楽、絵画、演劇などの若い世代に衝撃(しょうげき)を与えましたが、私もそのひとりでした。ジョン・ケージが禅などの東洋思想の影響を受けていることやキノコ好きであることも知り、うれしく思ったものでした。このキノコは毒、不気味、怪(あや)しいなどミステリアスで マニアックなイメージもあり、キノコ好きには奇人、変人が多いのでは、とも言われます。そんな気もしないでもありません。地中に張りめぐらされた菌類の菌糸は動植物を分解し、還元して次のサイクルにつなげます。相手を殺(あや)めてでも栄養分とする「寄生菌」。死んだ植物を栄養とする「腐生菌」がありますが、そのどちらでもないキノコは、自分で栄養分をつくれなく、動けないことから独自の進化をとげ、植物から栄養をもらう代わりに水やミネラルをあげる「共生菌」です。環境と共生するキノコの生き方は人間社会のさまざまな問題にも示唆(しさ)を与えてくれそうです。私はキノコ的でありたいと思っています。ともあれ、キノコは可愛い、カワイイともいえます。本校の同好会に「原宿カワイイ菌類キノコ同好会」ができるとうれしいのですが…。

2013.11.30

木々の葉がやっと彩りはじめ、つかの間の色づく秋ですが、紅葉の季節になると思い出すのは、台湾や東南アジアからの留学生です。ある朝、教室に入ると教卓の上に鮮やかに紅葉した色とりどりのモミジ、カエデ、イチョウ、サクラなどの葉が広げられていて、その先には、うれしそうに微笑(ほほえ)んでいる留学生の姿がありました。途中の公園で拾ってきたのだそうですが、その日は一日、なにかほのぼのとした幸せ感でいっぱいでした。紅葉しないところからの留学生は、その美しさに感動するようです。そうした彩り豊かな紅葉に比べると、地味でその風情(ふぜい)には、もの寂(さび)しさが漂いますが、秋の風物詩の代表的なものにススキがあります。このススキは、「薄」「芒」とも書き、カヤブキ屋根のカヤ「萱」カヤ「茅」とも言い、その他にも尾花(オバナ)敷浪草(シキナミグサ)袖振草(ソデフリグサ)乱草(ミダレグサ)など、風に揺れ、そよぐさまを表わす別名があります。「幽霊の 正体見たり 枯尾花」。の尾花は、穂が獣の尾に似ていることからだそうです。万葉集には、ススキ、カヤ、オバナのいづれかの名で詠(よ)まれ、多くの歌題になっています。現代の歌人、俵万智は、「秋色の 光と風を サヨナラの 形に変えて 手を振るススキ」。と詠み、「すすき波 つぎつぎゆれて どこまでも」。これは新聞に載(の)っていた小学一年生の俳句です。なんでもないようなその表現は、風にゆれ、風にそよぐ、広いススキの原が想い浮かび、驚きです。すすき野という地名もそのようなところだったからだと思われますが、札幌のすすき野(薄野)は福岡の中洲、東京の歌舞伎町と3大歓楽街と言われ、いまではさびしいススキの原っぱが想像できません。
「徒然草(つれづれぐさ)」には、「家ありき…秋の草は荻(おぎ)、薄(すすき)、萩(はぎ)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、しをに、われもかう、かるかや、りんだう、菊」。とあり、漢字が萩(ハギ)に似ていてよく間違える荻(オギ)もススキの一種で、ススキは黄金色と表現されますが、オギはススキより大形で、その穂は銀白色で河川敷(かせんじき)などに群生(ぐんせい)しています。荻窪とか井荻の地名もそのあたりからきているのではないかと思われます。ススキに似ているものに狗尾草(エノコグサ)があります。穂が狗(犬)の尾に似ていることから、犬っころ草(イヌッコログサ)が転じてエノコグサになったのだそうです。俗称は犬ではなく、猫ジャラシで、ススキよりかなり小さく、穂は丸みがあり、これを振ると猫がジャレることからのようです。松任谷由美の新作の歌詞の中に、「夏の盛りには知らなかった 雨の調べ 無限の影の色」。というフレーズがあり、私の頭の中で「雨の調べ」が「すすきの調べ」に変わり、「夏の盛りには知らなかった すすきの調べ 無限の影の色」。となり、箱根の仙石原や伊豆稲取の細野高原などの広大なススキの原が想われます。風にゆれ、そよぎ、風の音を聞き、風の色を見る、かのような叙情的なその風姿(ふうし)と風景は、「すすきの調べ 無限の影の色」のような風の記憶を呼びおこしてくれます。こうしたフレーズに惹(ひ)かれるのは年を重ねたからでしょうか。秋は季節の黄昏(たそが)れですから、すべてのモノの存在が深く想われ、感じられもします。

2013.11.16

秋の深まりを感じる間もなく、冬が駆(か)け足でやってきたかのようですが、まだイチョウ並木も色づいていなかった先日、神宮外苑で開催された国際的なクリエイティブイベント、TOKYO DESIGNERS WEEKに行ってきました。建築、インテリア、プロダクト、グラフィックなどデザインとアートが世界から集まり、さまざまな企業、ブランド、学校、大使館、デザイナー、アーティスト、ミュージシャンが展示やライブイベントを行うもので、本校も20数名の学生が学科を超えて共同制作した、屋外に展示する作品で参加しました。そのタイトルは「MUSUBI(結び)」で、人と人、地域と地域、心と心。空間や時代を超えてつなげたい想いを「結び」に込めて。というものでした。透明な素材を使って積み上げたその造形は、日本伝統の「校倉(あぜくら)造り」を思わせ、中にはコンセプトをシンボライズする赤い紐(ひも)が数多く結ばれ、吊り下げられていて、照明の入ったそれは幽玄(ゆうげん)な美しさを醸(かも)しだしていました。そんな会場で「ハロウィンパーティ&仮装コンテスト」など「クリエイティブハロウィンに参加しよう!」というイベントもあり、原宿表参道ハロウィーンパンプキンパレードに本校の学生が関わったこともあり、数日後、カボチャつながりで以前から気になっていた湯河原にある「かぼちゃ美術館」を訪ねてみました。その存在は知っていたのですが、その語感から地元の農産物のカボチャをお化けの顔のように、くり抜いて飾るハロウィーンのようなモノを展示しているものだと思っていたのですが、その日、観光案内所でもらったリーフレットには、なんと草間彌生(くさまやよい)の水玉のカボチャの版画が大きく載(の)っていて、そこには、神を見るか、宇宙に溶けるか、水玉の扉を…。草間彌生に愛をこめて「かぼちゃ美術館」とありました。そこはミカン畑や住宅が点在する静かなところで、草間ファンであるオーナーが集めたかぼちゃをモチーフにした絵画、版画、オブジェを展示している、別荘かアトリエのような趣(おもむき)の小さな私設美術館でした。作品だけでなく、草間彌生の生き方を敬愛しているその熱情が伝わってきました。 草間さん(84才)は水玉や網目を反復する絵画、オブジェ作品や挑発的なパフォーマンスで知られ、美術の枠を超え幅広いジャンルで活躍、世界的に評価を得ているアーティストですが、派手な水玉の服、蛍光色のカツラがトレードマークのご本人そのものがオブジェのようです。昨年はルイ・ヴィトンとのコラボで、ヤヨイ・クサマ コレクションを発表し話題になりましたが、その中に「モノグラム・パンプキンドット」というバッグのシリーズもありました。なぜ水玉?の問いに、「水玉は、世界と生命のエネルギーの象徴たる太陽の形、そしておだやかな月の形、まるく、やわらかく、カラフルで水玉がたくさん集まると動きが生まれる。ポルカドットは無限に通じる道」。と言っています。水玉はポルカドットとも云い、ポルカはダンスの一種でポルカを踊るかのようにリズミカルに並んだドット(玉)のことで、本校のシンボルマークも水玉(ドット)の集まりで、先進性と総合力を表現していて、一人ひとりを大切にするあたたかい教育によって、新しい創造力が未来に羽ばたいて行くことを意味していることから、本校のマークの水玉(ドット)と草間作品の水玉が重なり、つながりました。15年ほど前、東京都現代美術館で行われた「草間彌生展」を、課外授業で学生を引率して見に行ったことを思い出しました。無限に広がるかのような躍動感あふれる水玉の世界に、思わず頬(ほお)がゆるみ、みんなニコニコするポップな生命賛歌の空間でした。このところ、湯河原に実るミカンも私にはパンプキンドットの、草間さんのオブジェのように見えて仕方ありません。

2013.10.31

そろそろ、さわやかな秋日和(あきびより)になるのかと思っていたら、台風がきたり、急に涼しくなったり、寒くなったり、と安定しない日が続いていた15日~27日。表参道と明治通りの交差点近くの、開店したとき話題になった「東急プラザ表参道原宿」の隣で、向いが「ラフォーレ原宿」という全国有数の集客スポットにある「YMスクウェア原宿」で「原宿交差展」なる本校学生の作品展を開催しました。ここは、ファッション、レストラン、カフェなど若い人に人気のテナントが入るビルで、その2Fのかなり広いスペースを、本校の学生作品発表の場に提供していただきました。原宿祭のインスタレーション、ライブアートパフォーマンス作品と、その映像を流したり、クリエイティブアート、アニメーション、イラストレーション、マンガ、クラフトアクセサリー、インテリア、グラフィック、ビジュアル、ディスプレイ作品を木枠で組んだ中やダンボール板に展示するなど、淡い照明効果もあり、アーティスチックな原宿らしい空間となりました。27日は「原宿表参道ハローハロウィーンパンプキンパレード」があり、仮装した子供たちが保護者と一緒に表参道周辺をパレードしたのですが、協力店舗を回るとお菓子をもらえることになっていて、この「原宿交差展」も、そのコースに入っていることから、子供たちが保護者と共にやってきました。会場では、本校の学生と一緒にフェルトをカボチャの形に切り抜くなど、ワークショップで楽しんでもらったり、お菓子ではなく、学生たちが創ったさまざまなグッズをプレゼントし、喜ばれました。本校の学生もこのパレードに毎年参加しています。昨年は「原宿カワイイ大使キャリーぱみゅぱみゅ」が参加したのですが、今年はスケジュールが合わなかったようです。カボチャを飾り、仮装した子供たちがパレードなどをする「ハロウィーン」は、元々ヨーロッパの発祥で秋の収穫を祝い、悪霊(あくりょう)や魔女を追い払う民族行事だったのがアメリカに伝わり、大象化したもののようです。瓜(うり)科のカボチャの名はポルトガル(南蛮)人がカンボジアから日本に伝えたからで、西瓜(スイカ)に対して南瓜(カボチャ)と書くのもそこからきているようです。英名のパンプキンは果皮がオレンジ色のカボチャのみを指し、グリーンのカボチャはスクワッシュというそうです。江戸時代から冬至にカボチャを食べる風習があるのは、かつて冬に緑黄野菜が少なくビタミンが欠乏しがちだったことに由来するのだそうです。この「原宿交差展」は「ハローハロウィーンパンプキンパレード」の協力店舗のイラストマップ、パンフレットでも紹介していただき、そこには「デザインの街、原宿のデザイン専門学校として有名な東京デザイン専門学校の学生が街とコラボします。」とありました。パンプキンは秋色ですが、原宿の街とつながり、交流、交響、交歓、交差した、この「原宿交差展」は、秋色ならぬ、原宿色に染まりました。

2013.10.17

どこからともなくキンモクセイの甘い匂(にお)いが風にのり混ざる、この10月11日~13日の3日間「原宿祭」を開催しました。都心の気温が上昇し真夏日となった初日、1号館前の宮廷ホームの庭からもキンモクセイの匂いが漂(ただよ)ってくる中、オープニングセレモニーのテープカットを理事長、学校長、原宿祭委員長、学生実行委員長により行いました。この日の午後、折(おり)からの「全国地域安全運動」に伴(とも)なう「原宿地域安全パレード」に本校の学生有志も参加しました。原宿警察署、原宿防犯協会の要請(ようせい)によるものでしたが、一日署長がタレントの中川翔子(しょこたん)さんであったことも学生の関心、興味をひき、参加希望が増えたようです。一日署長の就任式や挨拶などがあり、オープンカーの中川翔子一日署長を先頭に、地元小学校の鼓笛隊、原宿警察署、原宿防犯協会、原宿少年柔道、剣道、町内会の方々と共に本校の学生も揃(そろ)いの法被(はっぴ)を着て表参道をパレードしました。この法被は、2年ほど前にできた懐かしいひびきの「裁縫(さいほう)研究同好会」の学生が制作したもので、その粋(いき)な「和」がパッチワークされた「法被」はひときわ目立ちパレードを盛り上げました。私も途中まで同行し、「原宿祭」に戻りました。13日の午前は本校イベントホールで「HARAJUKU竹下通りアートフェス」の公開審査があり、竹下通り商店会の会長、役員の方々と私も審査に加わりました。この「アートフェス」は、「原宿カワイイ文化」「みんなに見せたいカワイイビジュアル」や「伝えたい気持ち」を写真、イラスト、文字のつぶやき、などの静止画と動画を竹下通りのシンボルであるアーチ上部のパノラマビジョンに流し、発表しよう!と募集したもので、本校の学生も多数応募しました。1次審査で絞(しぼ)られた52作品を審査したのですが、それらの作品はいかにも「原宿が好き」が伝わる表現でした。審査結果は11月に発表されます。最終審査に残った作品は全(すべ)てパノラマビジョンで流されることになっているので楽しみです。
こうした原宿という地域に根ざしたデザイン専門学校として、ここ数年"Love Design Love Harajuku"をスローガンに「原宿文化」「原宿産デザイン」などを発信してきましたが、今回も「Makeup for HARAJUKU私たちの手が創るこれからの原宿」をスローガンに掲(かか)げ、メインイベントのインスタレーションのテーマは「Present」で、これからの原宿に「あったらいいな」と思う「モノ」「コト」「ココロ」を吹き出し型のペーパーにイラスト、写真、マンガ、文字、マーク、メッセージなどで原宿への想い、姿を在校生全員が表現し、原宿デザインメイクに挑(いど)みました。その他、授業や業界コラボ作品の展示やワークショップ、ライブペインティング、アートデザインフリーマーケット、仮装、コスプレ、フリーパフォーマンス、同好会発表、スタンプラリーなどなど(フリーマーケットの会場マップ「ふりまっぷ」には「Welcome」の吹き出しがある私の似顔絵が描かれていました。私は似顔絵が描きやすいのか、コトあるごとに描かれるイジラレキャラです。)学生たちが主体となって企画し運営された「原宿祭」は、ドキドキ、ワクワクの「原宿デザインワンダーランド」でもありました。

2013.9.30

暑さの余韻(よいん)が残る夏と秋の狭間(はざま)のような日々、このところ高視聴率で「倍返しだ!」が流行語にもなり話題になっていた、テレビ番組「半沢直樹」の最終回と前2話ほど視てみました。巨大銀行を舞台に、仕事のトラブル、行員の陰謀や、不正に立ち向かう銀行員を描いていて、その半沢の決めゼリフやられたら、やり返す。「倍返しだ!」は小気味がよく、視聴者の鬱積(うっせき)を解放してくれるものでした。この「倍返し」は「半返し」「出世払い」「恩返し」など日本の社会儀礼である贈ること、返すことの贈与の振る舞いですが、どの程度返せばいいのか、むずかしく、それによっては人間関係が壊(こわ)れることもあるものです。人間関係がこわれるということでは、「つながる」が時代のキーワードになっている今、日常生活に欠かせない、インターネット上で人と人がつながるソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)も使い方によっては危(あや)ういものです。いつでも、どこでも、誰でも気軽に、時間も空間も超えてつながることができるソーシャルメディアでは、直接会ったことがない人と交流ができ、ネット上で知り合った友人など、良い関係性をつくるコミュニケーションツールにもなれば、つながりをもちたくない人や、つながりのない人までも、つなげてしまい、ネットいじめや、人格人権を侵害したり、落としめたり、惑(まど)わすような情報が流れたり、どうしても光と影がつきまといます。デジタル社会のIT技術は日本人にとって「パンドラの箱」ではないかと思う。と言っていた人がいました。それは、「欧米人は二者択一の場面では、自分の責任でそのどちらかを選び、いったん決めたことは無理でも突き進む。この白か黒かの決着のつけ方は、1か0かのデジタル思考にきわめて相性(あいしょう)がいい。だからこそコンピューターを発明したのだろうし、その使い方もうまい。 対立する考え方を暴力的に排除もするが、対立する意見、世界があることも常に意識して、道具を手段として相対化して使おうともする。日本人の場合は、二者択一する場面では迷い、判断できないことが多く、その場の空気とか、状況に埋没(まいぼつ)し、流されて、何らかの行動に出ることをやめてしまうことが多い。デジタルは白か黒かの二者択一の世界であり、「ほどほど」「なんとなく」「灰色」もあるのに、といった処理はむずかしい。日本人には慣れない思考や方法にいやおうもなく直面させられデジタル技術を対象化しコントロールすることが苦手だ。」ということですが、これは日本人というより、私にむけられたことのように思えます。そうした環境に適応できないことを「ガラパゴス化」といい、スマートフォン(スマホ)を使っていない、従来型の携帯を「ガラケー」と云うそうですが、そうです、私はその「ガラケー」です。このガラケーはもう売ってないそうです。どうしてくれるのですか。この怒りを「倍返し」したいところです。「半沢直樹」の最終回は父親を自殺に追い込んだ常務に「100倍返し」をし、頭取から証券会社への出向を命じられ、視聴者の期待を裏切る波乱の幕切れでしたが、きわめて日本的な結末といえます。欧米であれば、黒である常務は失脚し、白である半沢は出世するのが当然ですが、半沢は「パンドラの箱」を空けてしまったからかもしれません。

2013.9.17

この夏は、猛暑、酷暑、炎暑などという日が続き、このまま夏が終わらないのではないか。と思っていたら、やっと吹く風に秋の訪れを感じるようになりました。古今集にも"秋来ぬと 目にはさやかに 見えぬとも 風の音にぞ おどろかれぬぞ"と目には見えないけれど、風の気配に秋を感じた。とあります。小田和正の「夏の終り」の歌詞に<駆けぬけてゆく 夏の終りは 薄れてゆく あなたの匂い><夏は冬にあこがれて 冬は夏に帰りたい あの頃のこと 今ではすてきにみえる>。とあるように、夏の恋の多くは、一過性のものなのかもしれません。夏は「灼熱(しゃくねつ)の太陽(恋)」に象徴される、開放的で、健康的で、情熱的で、燃えるような激しい恋のイメージがありますが、「ひと夏の恋」とか、秋は「恋の墓場」ともいわれるように、「ひと秋の恋。ひと冬の恋。ひと春の恋。」とは言いませんし、秋、冬、春はつぎの季節におだやかに移るという感じですから、「秋の終り。冬の終り。春の終り。」も似合いません。校内のイベント案内コーナーに、これから上映されるという「少女と夏の終わり」という映画のリーフレットがありました。夏は終る。終りにしたい。けじめをつけたい。との思いがあるのかもしれません。 瀬戸内寂聴(じゃくちょう)の小説「夏の終り」が映画化され、いま上映されているようですが、この小説は、40数年前、当時、瀬戸内晴美の名で発刊され、その単行本を読んだことがあり、懐かしく思い出されます。その内容は、「ひと夏の恋」などというおだやかな、生(なま)やさしいものではなく、自らの体験をもとにした壮絶な不倫、ドロ沼の恋愛を描いたもので、その話題性もありベストセラーになり、何回も映画化されているロングセラーでもあります。「夏の終り」を発表した10年後の50代で出家し、瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴になったのですが、この出家を相談し、頼ったのが、直木賞作家の小説家で僧侶(そうりょ)でもあり、中尊寺の貫主であった今東光(こんとうこう)で、寂聴というのは、今東光の法名、春聴から一字もらったものだそうです。この今東光という人は(初代の文化庁長官の今日出海は弟さん)その過激で奔放(ほんぽう)な言動から「昭和の怪人」ともいわれ、国会議員になったり(選挙事務長が川端康成)若いころは文学を志しながら、画家も目指していて、東郷青児とも親交があり、第6回二科展に油絵を出品し、落選したことで絵筆を折ったのだそうです。そんな人となりが、瀬戸内さんの生き方、出家にも理解があったのではないかと思われます。 今東光さんが第6回展に出品し、選外になったという二科展も第98回展となり、9月4日~16日まで、六本木の国立新美術館で開催されました。私は、初日のオープニングセレモニーのテープカットに始まり、絵画部、彫刻部の授賞式、ザ・リッツカールトンホテルでの懇親パーティーに出席し、東京プリンスホテルで行われた写真部の授賞式、懇親パーティーでは、ここ2年ほど体調がすぐれず欠席されていた、大竹省二代表が車イスでこられ、久し振りにお会いすることができ、うれしく祝辞をのべさせていただきました。わがデザイン部の授賞式と懇親パーティーは美術館のホールで行い、代表挨拶と賞状授与などの役割をつとめ、入選、受賞した全国からの出席者と本校在校生、卒業生と共に祝いました。会期中だけではなく、学生への制作指導、自分の作品制作、運営会議、準備打合せ作業、審査、展示。などなどがあり、夏が1年でもっとも忙しい季節です。私にとってこの二科展は、美術の秋。ではなく、美術の夏です。二科展が終ることで、やっと「夏の終り」になります。もちろん「ひと夏の恋」など望むべくもなく、ありえません。夏の終り。は、さみしいものです。

2013.8.31

湯河原では、ついこの間まで、セミの鳴き声に混って聞こえていたウグイスの声が、いつの間にか聞かれなくなり、セミの声ばかりが耳につくと思っていたら、そのセミの声も心なしか弱まり、虫の声が混じるようになりました。セミは声を出して鳴くのではなく、腹で音を出して、その音の波動が鳴き声として聞こえているのだそうですが、セミが一斉(いっせい)に鳴きたてるのを、時雨(しぐれ)の降る音に見たてた夏の季語に、蝉時雨(せみしぐれ)があります。セミの抜け殻(がら)を空蝉(うつせみ)といいますが、そのどちらも、暑さにまどろむ夏には心地よいひびきの、美しい名です。夏になっても鳴いているウグイスのことを、老鶯(ろうおう)と呼ぶそうですが、これは、その声がやや衰えて鳴いていると思われたことからの命名だそうです。実際には、春先に人里近くで、たどたどしく鳴いていたウグイスが、夏になると繁殖のため巣づくりに山に上がってきて鳴くその声は、春よりも大きく、張りがあり、しっかりしているようです。 各地の集中豪雨で、岩手の雫石(しずくいし)あたりの被害が報じられ、40数年前、みちのく岩手を巡(めぐ)っていたとき一泊した鴬宿(おうしゅく)温泉を想い出しました。ウグイスが川床で傷を癒(いや)したという伝説に因(ちな)んで鴬宿となったのだそうですが、その名に惹(ひ)かれたからでもありました。いまは近代的なホテルが建ち、賑(にぎ)わっているようですが、そのころ清流の川沿いに点在する宿は、静かな湯治場(とうじば)という趣(おもむき)でした。いま、同じ岩手の三陸を舞台にしたNHKの朝ドラ「あまちゃん」が人気らしく、メディアでもとりあげられ、観光客も増え、「アベノミクス」ならぬ「アマノミクス」などと「あまちゃん」現象が話題になっていることから、休みがとれた数日、「あまちゃん」を視てみました。脚本は宮城出身の宮藤官九郎で、この「あまちゃん」は「海女ちゃん」人生の甘えん坊「甘ちゃん」だったヒロインが、笑い、悲しみ、人を愛し、うろたえ、時にはしたたかで、時にはもろい、成長物語のようです。私も何回か乗ったことのある三陸鉄道がオープニングで映し出され、それをバックにした軽快なオープニング曲も人気の要因だそうです。明るいホームドラマ路線や青春アイドル路線、サブカルチャー、昭和のアイドルのパロディ、ライブパフォーマンス、キャラクターの棲(す)み分けなど、関心や価値観の違う熟年や若い世代に目配(くば)り、気配りがされていることが、幅ひろい年齢層に受けているようです。この「あまちゃん」の挿入歌「潮騒のメモリー」がオリコン2位になり、歌っている昭和のアイドル小泉今日子(キョンキョン)としては20年ぶりのトップ3入りだそうです。三陸鉄道は津波のため61ケ所で線路が流され、8割近くが復旧したそうですが、全線開通は来春になるようです。
ドラマ「あまちゃん」の中でヒロインの母親(小泉今日子)がスカウトされ、リアルでも昭和のアイドル小泉今日子がスカウトされた、虚実ないまぜのシーンもある、ここ原宿の夏の風物詩になっている、「原宿表参道元気祭スーパーよさこい」の審査委員を今年もたのまれ、NHK前ストリートの審査委員席で、各チームがくりひろげる白熱した演舞、流し踊りを見させてもらいました。全国から92チーム5,000人の踊り手が集まるこの「元気祭」のまつりは、感謝や祈りを「祀(まつ)る」の名詞形で、本来は神を祀ることですが、今では賑やかな催事、イベントを、まつり、「祭」とすることが多く、この「原宿表参道元気祭」の若いチームの活力みなぎる踊りに、NHK前のことでもあり、「あまちゃん」の能年玲奈のはつらつとした姿がダブって見えてきました。このドラマは、いまのところ震災にはふれていませんが、宮城出身の作者や視聴者の多くに、あいまいにしてはならない震災の共通した記憶と、復興への気持ちが共有されていて、つながり、朝ドラ「あまちゃん」を感謝や祈りの「祭り」として、応援歌として視ている人も多いのではないでしょうか……。

2013.8.16

夏休みに入った校内は、ふだんと異なる空気の静かな時間がゆっくり流れ、保護者会があったり、ときおりのオープンキャンパス。資格取得講座、同好会などで出校する学生の姿に、夏の気配(けはい)と懐かしさをおぼえ、遠い昔であった夏休みの記憶がよみがえってきます。全国的な猛暑や局地的な豪雨による災害が報道されていた中、奈良、大阪で「震度7程度」の強い地震が発生する恐れがあるという、緊急地震速報があり、いよいよきたか。との思いでしたが、それは誤報でした。地震といえばナマズが思いおこされますが、これは地の底でナマズが暴(あば)れて地震を起こすという昔からの迷信からですが、ナマズには地震に先行する異常行動があり、あながち迷信、俗信だけはないようです。ナマズはコイなど他の魚種にはない水中の微弱な電位差を感じる能力があり、その感覚の鋭さは人間やコイなどが感じる能力の100万倍ほどあるそうです。ある大学でウナギとナマズに電気的な反応に関する実験を行った結果、ウナギの方が電気的に敏感ではないか。としています。「安政見聞誌」に、安政の大地震の前日、ウナギを釣りに行ったところ、ウナギはいなくて、ナマズが騒いでいてナマズは釣れたがウナギは釣れなかったことから、ナマズは地震の前兆を知っていた。とあるのは、いち早くウナギが地震による微弱な電気的シグナルを感知して姿を隠し、遅れて大暴れしていたナマズが釣れたのではないか。との推測もできるようです。このナマズは、白身でクセがなく、とくに天ぷらが美味ですがウナギより養殖がむずかしく、冬場だけナマズがメニューに加わる浅草の老舗のどぜう屋に、いかもの食いつながりの仲間と通ったものです。店構(みせがま)えが昭和の風情(ふぜい)がある、新大久保の「なまず家」はその養殖に成功して、1年中食べることができるようになり、何回か行ったことがあります。この「なまず家」は、秋篠宮さまが礼宮時代に紀子さまと訪れたことでも話題になりました。秋篠宮様がナマズの研究をされていたことからだと思いますが、タイに行かれたときにも大ナマズに興味をもたれ、ナマズを見に行かれたことなど報道されました。私もタイで「ヤム・プラードウック・フー」というナマズ料理を食べたことがあります。蒸したナマズの身をほぐし、天ぷらのように揚げたものですが、タイではかなりの高級料理のようでした。新大久保の「なまず家」は残念ながら閉店となり、いま「生マッコリ家」になっていて、ナマズの大きな看板はそのまま残っているようです。地震を起こし、災害をもたらすといわれているにもかかわらず、どういうわけか、愛嬌(あいきょう)のある剽軽(ひょうきん)なナマズのイメージが広まったのは、「鯰絵(なまずえ)」からのようです。この鯰絵は江戸時代、安政の大地震の後、ナマズをモチーフに描かれた錦絵(多色刷りの浮世絵)の総称で、大地震と次々に起こる天災が、江戸の人々の心に不安感をつのらせたことから、地震を世直しの予兆ととらえて、地震を起こしたナマズを主人公にして、それを楽しみ、不安をやわらげたのではないか。と言われています。それは大ナマズを懲(こ)らしめている庶民の姿や、ナマズが壊れた家屋(かおく)から人を助け出している絵や、ナマズが謝罪したり、震災復興を手伝ったりするなど、ナマズがヒーローとして描かれていて、身を守る「守り札」、不安をとりのぞくための「まじない」としても、庶民の間に急速に広まったのだそうです。このナマズを「破戒者と救済者」としてとらえ、人間と自然を対等にとらえる江戸の人の叡智(えいち)や滑稽(こっけい)味と諧謔(かいぎゃく)に富む、この豊かな想像力など、その精神性は、平成のいま、私たちにも必要なのではないでしょうか。

2013.7.31

平年より早い梅雨明けと思ったら、いきなり猛暑が続く日々でしたが、夏を告げる花々は、けなげに元気に咲いていて、真夏を謳歌(おうか)しているようです。夏の代表的な花といえばサンフラワー、太陽の花といわれるヒマワリですが、私が想い浮かべる夏の花は、サルスベリ、ネム、アオイ、フヨウ、ムクゲ、キョウチクトウ、ノーゼンカズラ、アサガオ、ダリア、カンナ、グラジオラス、ヤマユリなどです。とくに好きなのは、タチアオイやフヨウの花です。アオイの葵(アオイ)は徳川家の「葵の御紋」になっているものですが、花が似ているフヨウ(芙容)は、一重咲きと酔芙容(スイフヨウ)といわれる八重咲きとあり、いづれも朝に咲き、夕方にはしぼんでしまう一日花です。晩夏から咲く酔芙容は朝は白、午後には淡い紅色となり、夕方には濃い紅色に変わるところが、酔うとだんだん赤みをおびることからこの名がついたといわれ、この風情(ふぜい)ある名も好きです。花といえば、夏の風物詩になっている「土用の丑(うし)の日」のウナギの価格が高騰(こうとう)し「高嶺(たかね)の花」になっていて、各地の老舗(しにせ)が閉店しているようです。これは養殖用の稚魚のシラスウナギの不漁が原因のようですが、中国やマダガスカル、アメリカ産は安くても、老舗の店ほど国産のニホンウナギ(ジャポニカ種)にこだわりがあることから苦しいようです。「土用の丑の日」にウナギを食べるようになったのは、幕末の蘭学者の平賀源内が、夏場にウナギが売れないのでなんとかしてくれ、とウナギ屋に相談され、丑(うし)とうなぎの「う」が一緒だから「う」のつくものを食べると病(やまい)にならないという迷信、俗信から「本日、土用の丑の日」と書いて貼り出したところ繁盛(はんじょう)したことがきっかけといわれています。これは日本で最初の広告のキャッチコピーともいえそうです。今でも地方によっては、梅干し、ウリ、ウドンなどを食べるところもあるそうです。万葉集に「石磨呂に 吾物申す 夏痩(や)せに よしと云う物ぞ うなぎ取り召せ」とあり、1000年も前から、夏バテにはウナギといわれていたようです。
「蒲焼」は蒲(がま)の穂に似ていたことから「がま」が「かば」に転訛(てんか)して「かば焼き」になったという説があり、今のようにウナギを割(さ)いて骨をとりのぞき、串を打つ以前は丸のまま縦に串刺しにして焼いていたのが蒲(がま)の穂に似ていたからだそうです。関東では背開きで焼いたあと15分ほど強火で蒸(む)して焼き、関西では腹開きで蒸さず白焼きのままタレをつけて焼くのですが、武士の町である関東の背開きは武士が腹を切るのを忌(い)み嫌ったからともいわれていますが、どうもこれは俗説のようです。浜松や諏訪あたりは、背開きで蒸さない蒲焼があり、福岡では、焼いてから蒸して柔らかくする「せいろ蒸し」があります。私は雑食で、グルメとか食通ではありませんが、歳を重ねたことで気がつけば、結構良い店に行っていたようです。想い出すままに、上野の「伊豆栄梅川亭」南千住の「尾花」麻布の「野田岩」伊藤左千夫の「野菊の墓」の舞台になった「矢切の渡し」の近くの「川甚(かわじん)」江戸末期に創業したという銀座の「竹葉亭」三島の「うなよし」「桜家(さくらや)」せいろ蒸しの柳川の「御花」、閉店となってしまった鎌倉の「浅羽屋」、神田の「寿々喜」などが印象にのこっています。「串打ち3年、割き8年、焼き一生」といわれる蒲焼ですが、こちらのそのときの体調や気候、同じ店でも焼き職人によっても違うなどがあり、どこが一番かなどいえそうにありません。「詩が好きな人は日本語のグルメだ」という言葉が目に入りました。谷川俊太郎さんの詩集の「あとがき」にある言葉ですが、「うなぎが好きな人は日本食のグルメだ」と云うのには無理がありそうです。ともあれ、うなぎ登り、とまではいかないまでも日本経済の再生を思い、うなぎの蒲焼で猛暑をのりきりたいものです。

2013.7.16

多くのメディアが、銀座で最古の百貨店、松坂屋が閉館することを報道していて、遠くなっていた記憶がよみがえってきました。もう40数年近く前になりますが、松坂屋銀座店の店内装飾、ウィンドウディスプレイの仕事に関(かかわ)っていたことがあり、一抹(いちまつ)のさみしさをおぼえます。この銀座は近代的な目抜き通り、繁華街の代名詞であり、各地に銀座の名がありますが、東京の銀座の地名は幕府の銀貨鋳造(ちゅうぞう)所「銀座役所」があったからだそうです。金貨の鋳造所であった「金座」は地名では残っていないようです。この金座は、いまの日本銀行本店のあたりにあり、金貨の鋳造だけでなく、通貨の発行など、いまの日本銀行のような、中央銀行業務の役割も担(にな)っていたようです。とすれば、なぜ日本銀行ではなく、日本金行としなかったのでしょうか。そもそもお金を取り扱うところが金行ではなく、なぜ銀行なのか気になってしかたなく、元銀行員、現銀行員のひとに聞いてみましたが知りませんでした。気にもならないくらい当たり前になっているからだと思いますが、私は「しつこい」ので、預銀、貯銀、入銀、出銀などとは言わず、預金、貯金、入金、出金、送金、金利など、お金を扱うのに金行ではなく、銀行とはなぜなのか。調べてみました。日本初の銀行は明治維新にでき、bank(バンク)を銀行と訳したのは、行は漢語で店を意味し、金ではなく銀であるのは、当時欧州では金本位制であったが、東アジアでは銀が共通の価値としていたため、金と銀の両方が候補になり、一説によれば語呂が良いから銀行としたという、なんとも肩すかしに合ったようなものでした。そう言われてみれば、たしかに金行より銀行、金行員より銀行員の方が語呂がよく、なるほどと思いながらも、ではなぜ信用金庫は信用銀庫ではないのか、金融庁は銀融庁ではないのか。すっきりしません。銀行はともかく、お金にまつわる言葉のほとんどが、銀と言い変えるとかえって語呂が悪くなります。金融業を銀融業、借金を借銀、お金もちをお銀もち、金貸しを銀貸し、税金を税銀など変ですし、おかしくもあります。資金、寄付金、資本金、保障金、義援金、退職金、埋蔵金、協賛金、分配金、賞金、配当金、懸賞金、助成金、成金、保険金、年金、サラ金、ヤミ金、金策、金額、金銭、礼金、公金、金欠病、金運、などなどの金を銀に置き換えるとこっけいですらあります。であれば、なおのこと銀行ではなく金行ではないのでしょうか。と書きながら、あれ、賃金(ちんきん)とは言わず、賃金(ちんぎん)というのはなぜなのか。ますます混乱してきました。時代劇で、江戸時代は旅をするときの旅費、旅用のお金のことを路銀(ろぎん)と言っていたことを思い出しました。これは路金(ろきん)より路銀の方が語呂がよく、言葉とは不思議なものです。 このところ日本銀行(日銀)の金融緩和(かんわ)など、安部首相の名字と「エコノミクス」を組み合わせた経済改革「アベノミクス」が話題になっていますが、金融緩和であれば、やはり日本銀行より日本金行の方が意味としてもわかりやすく、整合性があるように思えます。いまさら日本銀行(日銀)を日本金行(日金)にはできないでしょうが、私の中では、日本銀行を日本金行。金融庁と銀行はいまのまま。信用金庫は信用銅庫とすれば、役割や意味的にもわかりやすくなるのでは、などと思ったりしていますが…。そんなことに頭をめぐらしていないで、もう少しましなことに思いをめぐらしたらどうか。の声が聞こえてきそうです。その通りです。せめて、最後は気のきいた金言(きんげん)でしめようと思ったのですが、言葉が浮かんできません。金には縁がないようです。

2013.6.29

梅雨(つゆ)入りしたのに、空梅雨(からつゆ)のような日が続いていた中、恒例のスポーツ大会を行いました。ふだんは、静かでおとなしく見える女子学生や、草食系的な男子学生が意外にも肉食系、体育会系の熱戦をくりひろげ、うれしく、頼もしく、むし暑さも吹きとびました。6月の別称(べっしょう)を陰暦(いんれき)では水無月(みなづき)といいますが、皮肉にも読んで字のごとくのようだなと思っていたら、この水無月は水がない月ではなく、田に水を引くということだそうです。この「無」は神無月(かんなづき)の「な」と同じ「の」にあたり、水の月という意味のようです。会場は今年も「国立オリンピック記念青少年総合センター」でした。私は開会の挨拶で、ここは1964年の東京オリンピックのとき、世界各国の選手村であったこと。今、2020年のオリンピックを再び東京で開催しようという招致運動がさかんですが、実は1940年(昭和15年)に東京オリンピックが開催されることになっていたのが、幻の東京オリンピックになってしまったことの、エピソードを話しました。それは当時、東京市であった東京が1931年(昭和6年)から招致運動を始め、最有力はローマと見られていたのが、36年のIOC総会で東京開催が決定したのに、日本が戦争に向っていくことになり、38年に東京大会を返上し、幻のオリンピックになってしまったこと。決定していた公式ポスターも幻のオリンピックポスターになってしまったことなどでした。この幻のオリンピックポスターをデザインしたのが、二科会デザイン部の初代委員長をされた、故赤羽喜一さんでした。赤羽さんはその頃まだ東京美術学校(現東京芸大)の学生で、今のような指名コンペではなく、懸賞(けんしょう)つきの公募があり、応募して採用されたのだそうです。そんなことを思い出していたら、資生堂の広告デザインで知られた中村誠さんが亡くなられたことを知りました。中村さんは資生堂宣伝部のアートディレクターとして、それまでイラストが中心であった資生堂の広告デザインを、前田美波里、山口小夜子を起用して写真をメインビジュアルにしたポスターで話題になりました。中村さんは東京美術学校の赤羽さんの後輩で、1951年(昭和26年)二科会に商業美術部(現デザイン部)が新設された第1回展からお2人共出品され、結成された二科商業美術家連盟のメンバーでした。中村さんはその後、日宣美展の方に出品するようになり、赤羽さんは、日本グラフィックデザイナー協会の前身である日本宣伝美術会(日宣美)の創立会員でもあったことで、数年は日宣美展と二科展と両方に出品していました。中村さんは二科展デザイン部の授賞式に来られることを大変楽しみにされていて、式では祝辞をお願いしたり、二科展の70周年記念デザイン部作品集にお祝いの挨拶文をいただいたり、資生堂の広告を出稿していただいたりもしました。中村さんが担当する前の資生堂のデザインはアールデコ、アールヌーボー調の線描による女性像や「花椿」のマーク「資生堂」「SHISEIDO」のロゴマークデザインなどで、資生堂スタイルを創り、日本のグラフィックデザインの黎明期(れいめいき)の先駆者(せんくしゃ)のひとりでもあった山名文夫さん(日宣美初代委員長)にも私は、縁あって20代のころ山名さんに何回かイラストを見ていただいたことがありました。山名さんは当時60才前後だったように思います。赤羽さんと山名さんは東京アートディレクターズクラブ(ADC)創立メンバーでもあり、後に中村さんもメンバーになりました。私はいま二科会デザイン部の代表をしていますが、初代の赤羽さんから数えて5人目になります。こうして別々のはずの過去が混然とつながり、「過去」と「いま」が交錯(こうさく)し、会うべき人に会えていた、ぜいたくで、豊かであった時間を想うと、いま、私は「過去」に甘えて生きているような気がしてなりません。

2013.6.15

このコラムで、風呂ぎらいだったようなことを書いたら、知人や卒業生から、湯河原に移ったのは温泉があるからだとばかり思っていた。と不思議がられました。たしかに湯河原に住んでいるとわかると、いいですねえ、毎日温泉に入れて。と言われます。湯河原といえば温泉が連想されるのは当然です。「足柄(あしかり)の土肥(とひ)の河内(かふち)に出(い)づる湯の世にもたよらに子ろが言わなくに」。万葉集の中でも、温泉の湧(わ)き出ているさまを歌っているのは、湯河原のこの一首のみだそうです。湯河原は土肥(とひ)と呼ばれていて、いまでも地名がのこっています。私は引越してしばらくは習慣でシャワーだけでしたが、温泉の管理、使用料などを払っていることもあり、貧乏性のゆえに、やはり湯船につからなければ、との思いで意を決して、最初のころは、つかってすぐ出るをくり返し、少しずつ体を慣(な)らして、1分から2分、3分とだんだん長くなり、今では、なんと5分ぐらいはつかれるようになっています。私の中ではまれにみる快挙(かいきょ)です。思えば1970年の大阪万博で、大手家電メーカーが、服を着たまま体が洗浄されるという「人間洗濯機」なるものを展示し、話題になりました。そのときは、いよいよ時代が自分に近づいてきたな。と期待していたのですが、その後話題にもならなくなり、実用化されなかったようで残念でなりません。このように私は温泉が好きとか、それが魅力で湯河原に移ったのではありません。なにより新幹線が止まらないその駅は、大型の商業施設がなくて、休日以外は乗降客も少なく、ホームからは四季折々の自然の移(うつ)ろいが見え、感じられ、そのたたずまいは、懐かしさが漂(ただ)よう旅先の駅であり、山と川と海のある「四季彩のまち」は、静かで、おだやかな自然が香(かお)り、文学が薫(かお)る、その空気感が気に入ったからでした。それは、前に住んでいた都内の文京区とつながり合う不思議な懐かしさを感じたことでもありました。この湯河原に住み、滞在して物語を生んだ多くの文人や画家は、夏目漱石、国木田独歩、芥川龍之介、山本有三、与謝野晶子、島崎藤村、谷崎潤一郎、丹羽文雄、小林秀雄、水上勉。画家では竹内栖鳳、安井曽太郎などなどですが、文豪・夏目漱石は湯河原を舞台にした晩年の小説「明暗」を、芥川龍之介は「トロッコ」。国木田独歩は「湯河原ゆき」。島崎藤村は名作「夜明け前」を温泉で静養しながら5年ほどかけて執筆(しっぴつ)したそうです。文京区ゆかりの文人には、樋口一葉、石川啄木、夏目漱石、森鴎外、宮沢賢治、泉鏡花、佐藤春夫、宇野浩二、久保田万太郎、幸田露伴、永井荷風。などですが、文京区と湯河原を想い、遥(はる)かな時の流れを感じながら、それらの面影を追い、忍ぶ文学散歩は、なにげない風景や光景が、特別なものに思えて、見えてきて、愛(いと)おしく、慈(いつく)しむ気持ちがおのずと湧(わい)てきます。若いときは、便利でにぎやかな都会の方が良く、ついこの間までは湯河原に住むなどとは、まったく思いもしませんでした。年を重ねるということは、こうした?ことでもあるのでしょうか。湯河原は町ですから役所ではなく町役場です。この役場というひびきも気に入りました。私は今村ですから、村には役場が似合います。

2013.5.30

言葉の海を渡る舟だ。と、言葉をつむぐ映画「舟を編む」を観たことで、以前から気になっていた静岡県の三島にある「大岡信ことば館」に行ってきました。青葉若葉の風薫(かぜかお)る、まさに薫風(くんぷう)の中、JR三島駅北口から徒歩1分というその場所は、想像していたより大きなビルの1~2Fでした。そこには「ことばの世界にようこそ。ことばは生きもの。ことばによって、人は人とつながり、たくさんのことを知り、その思いを表します。ことばは、使う人によってさまざまにその形を変えながら、新しい意味を生み出していきます。私たち1人ひとりを取り巻いていることば。それは遠い昔から人が生きて、つむいできた、ことばの海とも言えるものです。」とありました。大岡信(まこと)さんは三島出身の詩人であり、批評など多彩な活動をされていて、館内には、その著書、同人誌、原稿や「大岡信の部屋ふるさとを歩く」のコーナー。大岡さんがコレクションしたアートの所蔵作品の展示。特別企画の「若き日の大岡信・西湖詩篇」は、18才のとき富士五湖の西湖に遊んだおりにつくられたという「詩」のみずみずしい言葉が、いくつかの素材に刷られ、置かれ、広い空間にそれがゆらぎ、言葉が浮遊しているその展示造型は、現代美術のインスタレーションのようでした。大岡信さんの名を知り、興味をもったのは1979年~2007年にかけて29年という長い間、朝日新聞の朝刊1面に連載されたコラム「折々のうた」でした。大岡信によって精選(せいせん)された万葉の名歌から現代の詩歌、短歌、俳句などを現代詩人の目でとらえなおし、読み解(と)かれ、わずか180字に凝縮(ぎょうしゅく)されたその小さなスペースは「天声人語」と並ぶ評判のコラムでした。息子さんの作家大岡玲(あきら)さんが本校の講師(美術史、デザイン史)をしていたときがあり、辞められて数年後、芥川賞を受賞されたことなど思い出されます。5年前に開館したという館内は思っていたより広く、入館者は私も入れて3人だけでした。そこは、思索(しさく)する詩人の館(やかた)にふさわしい、どこまでも静寂(せいじゃく)な、豊かでぜいたくな空間でした。
三島は富士山の裾野(すその)にあり、富士を仰(あお)ぎ、富士の伏流水(ふくりゅうすい)や湧水(ゆうすい)が流れ、湧き、「水の郷百選」にも選ばれている水の街です。その富士山がユネスコから世界文化遺産に登録される見通しになったことが話題になりました。富士山は古代から万葉集やさまざまな文学作品や北斎、広重などの浮世絵や多くの絵画に表現されていますが、私はこの富士山の絵を描こうとは思いません。というより描けないのです。形があまりにも整っていて、神聖で品格のあるその形は誰が描いても富士山に見えるという、だからこそむずかしく、描けないのです。ある俳人が、詩歌というのは「根も葉もある嘘(うそ)八百である」。と、どこかに書いていましたが、絵も同じです。名著「日本百名山」の深田久弥(きゅうや)は、百名山を選ぶ上で、「人格ならぬ山格のある山でなくてはならない。」と山容から感じる山の品格を重んじて富士山のことを「この日本一の山について今さら何を言う必要があろう」。と書いています。文学館とも美術館とも違う。そのどちらでもあるような「大岡信ことば館」でした。

2013.5.13

大型連休が明けた校内には、若々しい、はじけるような元気な声が行き交(か)っていますが、5月病などといわれるこの時期は、遅刻や欠席が目立つようになる要注意のときでもあります。この連休、学生たちはどう過ごしたのか気になるところですが、私は久し振りに映画を観ました。書店員が選ぶ本屋大賞を受賞した三浦しをんの小説を映画化した「舟を編む」でした。発刊されたとき、そのタイトルにひかれたのですが、買い求めたまま、まだ読んでいない本がかなりあり、躊躇(ちゅうちょ)していました。三浦しをんという作家を知ったのは13年前の2000年、しをんさんが24才のとき、「格闘する者に○(まる)」という単行本でデビュー。このとき文学賞の新人賞をとってのデビューではないことで話題になったからでした。その5年後の2005年、これが文庫本化(新潮文庫)され、そのカバーの装画(イラスト)を本校の卒業生が描き、その本を学校に送ってくれたことで三浦しをんさんの作品を初めて読ませていただきました。それは女子大生がおりなす青春の日々の、就職活動でのてんまつをユーモアに満ちた批評眼で描いているものでした。映画「舟を編む」は辞書の編集に15年という長い期間、地道な作業を続けて新しい辞書を生む人たちの物語で、出演は松田龍平、オダギリジョー、宮崎あおい、加藤剛などでした。<辞書は、言葉の海を渡る舟だ>。原作にある言葉のように、辞書に載(の)せる言葉をどのように選ぶのか、その気が遠くなるような地味な作業の積み重ねをいくつかのエピソードでつないでいくのですが、言葉を編み出すために言葉と格闘するそのプロセスに、派手なアクションやドラマチックな展開はありませんが、私にはハリウッドのアクション映画よりドラマチックでした。表紙デザイン案の校正刷りを見る場面に、本好きで知られるお笑いコンビの芸人、又吉直樹がデザイナー役で出ていて、その深い青一色のデザインが印象的で気になりました。終わりの字幕で書籍デザインを数多く手がけているアートディレクター井上嗣也(つぐや)氏の名があり、なるほどと思いました。同時上映している3D映画などに入るのは2人連れなど複数の観客が多かったのですが、この「舟を編む」を観ていたのは、ほとんどが1人でした。私も1人でした…。
「舟を編む」の舟で三浦しをんさんのエッセイを思い出しました。同じ舟でも湯船のことですが、「湯船につかるのは気持ちがいい。急激な冷え込みをみせたこの冬、私はその事実に気づいた。そこに気づくまでに35年もかかった。」「風呂は面倒くさい、と思っていた。まず服の着脱が面倒くさい。そんなわけで長年シャワーのみですませてきた。しかしあまりにも冷えこんだある日、思い立って湯船につかってみたら気持ちがよかったのである。」などと風呂ぎらいだったことを書いています。(浴槽(よくそう)のことを湯船というのは、江戸時代、深川などの水路に浮かぶ小舟の上に浴室を設け、水を沸(わ)かして運ぶ移動式の銭湯(せんとう)、湯舟があったことからきているのだそうです。)私も三浦さんに似ていて都内のマンション暮らしの20数年間、ほぼ毎日、冬でもシャワーでした。三浦しをんさんのように女性でも面倒くさがりの風呂ぎらいがいることに、我が意を得(え)たり、ですが、湯河原に転居して温泉の湯船につかる環境になり、いつの間にか毎日湯船につかるようになっています。あの失われた20数年はなんだったのか。との思いです。日本の風呂文化が「洗う」から「つかる」になったのは江戸時代の中期ごろからだそうです。とすれば、私も三浦しをんさんも江戸の人を生きていたようなものです。いま、たっぷりと平成につかりながら、江戸に想いをはせているところです。

2013.4.26

花咲き、山笑う、この季節。学校生活にも少し慣(な)れてきたオリエンテーション期間の4月19日、新入生全員が参加するフレッシュマン・レクリエーションに今年も同行しました。原宿の代々木公園前を遅れることなく定時の9時に出発することができました。大型バス9台を連(つら)ねてほぼ予定の時間に現地(相模湖プレジャーフォレスト)に着き、デーキャンプ場に移動して、学科、クラス、グループに別れ、食材を受け取り、カマドへ運び、炊事場で材料を洗い、調理したのはダッチオーブンでのピザ作りとコーンスープでした。ピザを焼くのは薪(マキ)ではなく今回は炭(スミ)でした。薪より炭の方が火力は安定するのですが、細かな白い灰がかなり舞いあがり、私のこの澄(す)みきったつぶらな瞳?にも入りそうになりましたが、学生たちは気にもしてないようでした。毎年のことですが火力のコントロールがむずかしく、黒コゲになるグループも多く、今年はそうした炭のようなピザを食べさせられることなく、職員のカマドでほど良く焼けたピザをおいしくいただくことができました。もちろん私も下地づくりを手伝いました。食事を終えて、片付け、備品返却なども楽しそうでした。フリータイムのプレイランドでは、新緑の山々に囲まれ自然とふれ合い乗物に興じたりして、仲間とたのしげにコミュニケーションをはかっている姿があちこちにあり、そんな光景の中に日本の春を楽しんでいる留学生懇親会で会ったばかりの留学生の顔も見られました。相模湖周辺の山々の新緑は春の季語にある「山笑う」でした。山笑うは、芽吹きから萌(も)えるような新緑の濃淡によるグラデーションや、輝くような照葉樹の緑は明るく、のどかで春の山が笑っているかのように見えることからのようです。春は「季節の青春」ですが、光が満ち、はじけるような若さがこだまする学生たちの「世代の青春」は春の高揚感に似て、いま真っ盛(さか)りのようでした。 山には山吹(やまぶき)、山藤(やまふじ)、山つつじ、などが咲き、民家の庭には遅咲きの八重桜、木瓜(ぼけ)、石楠花(しゃくなげ)、ライラック、ボタン、花カイドウ、花モモ、芝桜、桜草など色とりどりの多くの花が競(きそ)って咲いていて、まさに百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の春らんまんでした。山桜やコブシ、モクレンなどはすでに散り、いま咲きほこっている花々もそろそろ落花の季節(とき)を迎えるなどと、春の華(はな)やいだ心にふと何か満ち足りない感情がわいてきたのは、さっきまで色とりどりの青春を見せていた学生たちが、心地よい疲れに、うとうとと、静かな眠りに入った帰りのバスでした。この日私は、私淑(ししゅく)していたある方の「偲(しの)ぶ会」があり、そちらに出席できなかったことへの心残りがあったからでした。ある詩人の「春」という詩の書き出しに、花は散ってしまわぬよう、こらえて、こらえて咲き誇(ほこ)っているという「花は耐(た)える、花はじぶんの春に耐える」というのがあります。春らんまんにも、花が咲く、讃花(さんか)と花が散る、挽花(ばんか)があるということを想ってしまいました。

2013.4.16

出発の季節の春。新たな第一歩をふみ出す新入生を迎える入学式を4月8日、朝10時より渋谷公会堂で行いました。前日までの春の嵐ともいえる変化のはげしい、不安定な天候が一転、春らしい明るく、あたたかく、うららかで、すがすがしい晴天に恵まれ、保護者、ご来賓の方々に見守られ、華(はな)やいだ心地よい緊張感が漂う中、学校長式辞、新入生宣誓など、式はとどこおりなく進行することができました。私は式辞の中で、「心地よく人間の気持ちを高めてくれるのが「デザイン」「クリエイション」であるとすればコミュニケーションもデザインです。すでにここで新しい仲間とのコミュニケーションが始まっています。目に見える形の作品制作や表現も大事ですが、目には見えない気持ち、心もデザインして下さい。クリエイトして下さい。心の新陳代謝も「デザイン」「クリエイション」です。これは人の立場に身を置く、他人への思いやりなど精神の自由と内面の豊かさが必要とされるモラルやマナーの伴(とも)なったコミュニケーションができることが「心をデザイン」するということだと思います。」というようなことも話しました。新入生にはこの日の思いを忘れずに、心身共に健康で元気で楽しい、豊かで充実した学校生活を送って欲しいと思います。
4月、卯月(うづき)は陰暦4月の別称(べっしょう)ですが、卯月の「う」は「初」「産」を意味する「う」で一年の循環(じゅんかん)の最初を意味したとする説があり、とすれば入学式のある4月はスタートの月であり、違和感はありません。卯月は卯(う)の花が咲く季節なので「卯の花月」の略とする説もあります。この卯の花とは、空木(うつぎ)の(空木は根や幹(みき)が空洞になっていることからその名がついたようです。)白い花「うつぎの花」が省略されて「うの花」になったともいわれ、この白い花を兎(うさぎ)にたとえ、兎の古名「卯」をとって「卯の花」としたという説もあるようです。この花は、花うつぎ、山うつぎ、卯の花などと万葉のころから詩歌に多く詠(よ)まれていて、「夏は来(き)ぬ」の歌詞にも「卯(う)の花の、匂(にお)う垣根(かきね)に、ほととぎす早(はや)も来(き)なきて、忍音(しのびね)もらす、夏は来(き)ぬ」とあり、季節は初夏のようです。小さいころ、この夏は来(き)ぬ、を夏はこないと解釈していて不思議な歌だなと思っていました。豆腐(とうふ)の絞(しぼ)りかすのおからを「卯の花」というのは、うの花の白としぼりかすの空(から)を意味しているのだそうです。新学期が始まり、オリエンテーション期間の校内には、白い「卯の花」のような新入生の初々(ういうい)しく清々(すがすが)しく、若々しい晴れやかな声が姿が、聞こえ見られ、まさに「青春」が躍動(やくどう)しています。毎年この季節、心が浮き立ち、恥ずかしながら私にも忘れかけた、というより忘れている「青春」の心が甦(よみがえ)ってくるときでもあります。年を重ねれば体験、見聞も増えてモノゴトの理解も進み、気持ちも落ち着くのかと思っていたら、ますますわからないことがふえるばかりです。思い込みや勘(かん)違いも多く、意味をあまり理解せず、そのまま取り入れることを「う」のみにするといいますが、この「う」は鳥の鵜(う)のことだそうです。こんな私が教え育(はぐく)む教育にたずさわることなど、不遜(ふそん)で傲慢(ごうまん)なことだとの思いもありますが、「卯の花」の花言葉は「謙虚(けんきょ)」だそうです。この花言葉を常に心におきながら、日々学生と共にありたいと思います。

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