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今村昭秀学校長のコラム

今村昭秀学校長のコラム 2014年度

今村昭秀学校長イラスト

(イラスト:マンガ科 小日向一葉)
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2014年度

2015.3.30

春分の日も過ぎ、各地から桜の開花のたよりがとどき、いよいよ草木が芽吹き、花が咲き、生きとし生けるものがよみがえるこの季節は、なんとはなしに気分が浮き立ちます。春休みの校内は学生がいません。待ちに待った華(はな)やぐ春だからこそ学生がいない校内は、そこはかとなく何か満ち足りない、とりとめのない哀愁(あいしゅう)に誘われる空気が漂っています。春分の日は春の訪れを祝う日ですが、学生がいない校内には春は訪れていません。春の季語に春の落ち葉「春落葉」があることを知りました。秋に落葉するのは落葉樹ですが、冬でも落葉しない常緑樹や照葉樹であっても葉には寿命があり、その多くは春に新芽が出てくることから春落葉と呼ぶのだそうです。芽吹き花咲く春の落ち葉には、学生がいない校内の、もの憂(うれ)うさびしさを感じます。こうした想いを春愁(しゅんしゅう)と言うのでしょうか。
春色に染まると言えばピンクが連想されますが、それは桃や桜の花の印象がつよいことからと思われます。春に咲く花には、菜の花やマンサク、ロウバイ、レンギョウ、ミモザ、タンポポ、ヤマブキなど、意外に黄色い花が目につきます。とくに菜の花は全国各地に観光スポットがあり、一面に広がる菜の花は春の風物詩ともなっています。この菜の花が咲く季節の変わり目は天候の変わり目でもあり、この時期に降り続く雨を菜種梅雨(なたねつゆ)といい、菜の花を吹く風を「花菜風(はななかぜ)」というそうです。かつて菜の花の種からとれた油は、灯火(ともしび)の燃料として利用されていましたが、いま菜の花は観賞用、食用の菜種油(なたねあぶら)の採油用、菜花(なばな)と呼ばれる食用のものがあり、そのほのかな苦味(にがみ)はまさに春の味です。菜の花はアブラナ科の花の総称でブロッコリー、カブ、コマツナ、ハクサイ、キャベツなども収穫しないでほっとけば黄色い花、菜の花が咲きます。この黄色は寒さに強い虫が好む色で、この花粉を運んでくれる虫にいちばん目につきやすいように、黄色になっているのだそうです。作家の司馬遼太郎は野に咲く花、とりわけタンポポや菜の花といった黄色い花が好きだったことや「菜の花の沖」という小説があることから、命日を「菜の花忌(なのはなき)」と命名され、彫刻家で詩人の高村光太郎も黄色い花のレンギョウを好んだことからその命日を「連翹忌(れんぎょうき)」と呼ばれています。
春は悩ましい花粉症の季節でもありますが、この黄色い花々は花蜜が豊富で、虫によって受粉が行われる虫媒花(ちゅうばいか)であり、花粉はほとんど飛ばないため、花粉症の原因にはならないようです。主な原因となるのは、花粉を風で運んでもらい受粉する風媒花(ふうばいか)で、虫などを誘う蜜などはつくらず、大量の花粉を飛散(ひさん)するスギがよく知られています。花粉が水で運ばれ受粉する水生植物は、水媒花、鳥に運ばせ受粉するのは鳥媒花というそうです。
私は慢性鼻炎で花粉症ではありませんが、この時期は花粉症ですか、と言われることが多く、いえ違います、慢性鼻炎です。というのも面倒なのと、花粉症の方が言葉のひびきがキレイですから、春は花粉症ということにしています。この鼻炎は長い間常態化(じょうたいか)していることから、卒業生に会うと私がよく鼻をかんでいたことが印象にのこっている、などと言われ恥ずかしくもありますが、そうだろうな、と納得してしまいます。私はこのところ花粉症ならぬ家紛争(かふんそう)?で悩んでいます。

2015.3.16

ウグイスの初音(はつね)が聞かれ、春めいてきたとはいえ、まだ冬枯れの名残(なごり)をのこした褐色(かっしょく)の草木が多い、3月6日~8日「千花繚乱」のタイトルで、卒業制作展・進級展を行いました。千点を越す作品の色とりどりの個性の花々が咲き、原宿が春らんまんになりました。1年間、2年あるいは3年間学んで成長した成果がそれらの作品1点1点に見られ、よくぞこゝまで、と感心し、うれしく、感動しました。その高揚した気分のまゝ、春の日差しが感じられる晴天に恵まれた、12日の朝10時より明治神宮会館で卒業式を行いました。卒業は別れですが、広い世間、社会にふみ出す社会の一員になるという新たな出会い、門出(かどで)出発の日でもあり、卒業生、保護者の方々へ心よりお祝いを伝え、明日からの人生が豊かで充実したものになることを祈って、卒業証書授与、学業成績、卒業制作、学園特別賞などの表彰、学校長式辞、卒業生の答辞をうけるなど厳粛(げんしゅく)な雰囲気の中、とどこおりなく式次第にそって進行することができました。
今年の卒業式は、ハカマよりキモノ姿が多く「花かんざし」が目につきました。「かんざし」は「髪挿(かみさ)し」に由来するのだそうですが、古(いにしえ)の人々が神を招く際に飾る草花が起源の花を飾ったことから、花を挿す「花挿(はなかざ)し」が変化したものという説があるようです。枯れていた木から花が咲くことの不思議に驚き、花を恐れもしたことから、髪に花を挿し魔除(まよ)けにした事が、いまのような髪飾りの「花かんざし」になったのだそうです。
春めいた陽気に誘われるように、冬ごもりしていた虫たちが、地上に出てくるこの季節を啓蟄(けいちつ)と言いますが、冬の寒さは、虫の体内で健康な春を迎えるための、なんらかの変化を起こすそうです。虫たちは冬が暖かいと困るようです。寒さを十分に経験しなかった虫は弱く、冬の寒さに耐え忍(しの)んだからこそ、生きる力が強くなるのだそうです。これは虫だけではなく、他の動植物、人生の冬、もある人間にも同じことがいえそうです。豊かな人間性や人格は、楽な経験を過してつくられるものではなく、悩んだり迷ったり、行きづまったりするなどの辛い経験や失敗したりする間にきたえられると言われます。とはいえ人間は弱くもあります。私は式辞のなかで、そんなときは本校を頼ってください。と卒業生に話しました。
腹の虫は啓蟄とは関係ありませんが、卒業生たちの虫の居所(いどころ)が悪くなければ素直に聞いてくれたのではないか、と思いますが、日頃からあの校長は「虫が好かない」とか卒業式では「虫がいい」ことばかり言って「腹の虫がおさまらない」などと思われなかったか、気になるところです。

2015.2.27

梅の花見月の2月は春浅(はるあさ)し、とか、春寒(はるさむ)というような日々でしたが、ときおり三寒四温のような暖かい日があり、初旬(しょじゅん)ごろはまだ1分咲き、3分咲きであったのが、5分咲きとなり、満開となった各地の梅林から、その咲き誇(ほこ)ったようすが伝わってきます。いま花見といえば桜ですが、早咲きの河津桜は咲いていて、梅との競演が見られます。万葉集には梅の歌が桜の3倍もあり、花見と言えば、寒さの中で凜(りん)として咲く気品のある「梅」だったようです。
春の花の中で最も香り豊かといわれる梅の花は、百梅百香といわれ、香りは品種によって違うようです。慢性鼻炎(まんせいびえん)の私には微妙(びみょう)な違いはわかりませんが、気品あるその香りはわかります。梅の種類は300種以上はあるといわれ、その花の色も紅色、白色、淡紅色などがあり、形も八重咲き、一重咲き、大輪、小輪などさまざまですが、花の観賞を目的とする「花梅」と実の採取を目的とする「実梅」に大別(たいべつ)できるようです。先日その実梅で知られる小田原の曽我梅林へでかけました。こゝは日本三大仇討(あだう)ちの一つ「曽我物語」の主人公、曽我の十郎、五郎兄弟の育ったところであることから、35,000本はあるという白梅の多くは、「十郎梅」というオリジナル品種だそうです。その実は名産品として梅干し、梅酒、ジャム、ケーキなどに加工されているようです。梅林の先に、白く冠雪(かんせつ)した富士山を望める眺望(ちょうぼう)は、富士百景に指定されているのもなるほどと思える風景でした。観光梅林は紅梅もあることで白梅がより白く映え、そのコントラストは魅力ですが、こゝは果樹園、梅畑といった趣(おもむき)の実梅の生産梅林で、どこまでも白梅でした。
梅は中国が原産で1500年ほど前、中国の呉(ご)の高僧が朝廷を訪れたとき、梅の木と梅の花をあしらった衣装を土産(みやげ)として持参したそうです。その後、梅の花柄の着物が流行し、呉の衣装がもとになっていることから「呉服」と呼ぶようになったのだそうです。同じころ遣隋使(けんずいし)が、完熟前の梅の実を燻蒸(くんじょう)乾燥させた、薬用の烏梅(うばい)というのを持ち帰ったようです。梅干は梅酢(うめす)を作った後の副産物で、黒焼きにして腹痛や解熱(げねつ)等の効用を目的に、食用より漢方薬として用いられ、食用としての梅干しは平安時代につくられ、日本で最も古い野菜のひとつで、漢方薬でもあった紫蘇(しそ)をあわせることでより効果を高める赤く色づけした梅干しは、江戸時代に入ってから広まったようです。そういえば、このところ耳にしなくなった、「梅干しババア」は死語なのでしょうか。子供のころ、なぜ「梅干しジジイ」といわないのか不思議に思っていました。
外見だけでなく中身も充実している名実ともに優れていることを、「花も実もある」というように例(たと)えることがありますが、これは美しい花と薬としての効果もある実を表す「梅」に由来(ゆらい)するのだそうです。花も実(み)もない身(み)であれば、せめて花や実を愛(め)でる。ことしかありません。

2015.2.13

まだ余寒がきびしい日もありますが、立春ともなれば、冬から春へ移ろう自然の姿に春の気配や兆(きざ)しが感じられます。寒さの中、いち早く顔を出すフキノトウや寒さに耐(た)え静かに力をためて、けなげに春への用意をしているかの樹木の芽や蕾(つぼみ)などを目にすると、ほっとし、いとおしくもあり、気恥ずかしくも心がときめきます。
2月の花といえば、百花に先がけて春の訪れを知らせてくれる梅があります。紅梅や早咲きの白梅があちこちで咲いていますが、先日でかけた湯河原梅林は山裾(やますそ)にあり、その日うっすらと雪化粧をした山のほうから風花(かざはな)が舞ってきて、梅の花はほころび始めたばかりで観梅ならぬ探梅(たんばい)でした。風花は遠くで降った雪が風に流されひらひらと舞うことを言い、探梅は一輪二輪とほころび始めたばかりの梅の花を探すことを言うそうです。風と花といえば「風姿花伝(ふうしかでん)」が思い浮かびます。
室町時代の能役者で能作者であった世阿弥(ぜあみ)が観世(かんぜ)流の能の継承(けいしょう)のために記(しる)したもので、一般の人に向けたものではありませんが、人生にも通じる生き方論とも読めます。その中には、花が蕾から満開になり散っていくまでを<時分の花><まことの花><老骨に残りし花><年々去来の花><因果の花>や<秘すれば花>には<秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず>とあり、隠(かく)していることも隠せ。とあります。ここでいう「花」とは、人間としての豊かさ、質、滲(にじ)み出る人間的な格調。それが「花」である。とされ、その簡潔で魅力的な文体はいまでいう有能なコピーライターのようです。
学問の神様、菅原道真(すがわらのみちざね)をまつる湯島天神の早咲き梅の便りが報じられ、頭に浮かんだのは「東風(こち)吹かば においおこせよ 梅の花 主(ぬし)なしとて 春を忘るな」です。東風とは、東から春がやってくると信じられていて、東風は春風のことで「こち」ともよばれ、この風が吹くと寒さがゆるむ、といわれていたのだそうです。平安時代の貴族で学者であった菅原道真が京から福岡の大宰府に左遷(させん)されるとき、邸内の梅の木に別れをおしんで詠(よ)んだといわれているものですが、その梅の木が道真公を慕(した)って一夜のうちに大宰府に飛んで根付いたといわれるのが有名な飛梅(とびうめ)伝説です。道真は梅の花とくに紅梅(こうばい)を好み多くの梅を植えていて「紅梅殿」とも呼ばれていたそうですから、その梅は紅梅だったのでは、と思われますが、太宰府天満宮にある「飛梅」はなぜか白梅です。道真が紅梅を好んだのは、赤(紅色)は魔よけに用いられたことが転じて慶事(けいじ)に用いられる縁起(えんぎ)のいい色ということからと思われますが、紅梅は赤といっても少しくすんでいて宮廷紅色と呼ばれたそうです。ただひとつ異彩(いさい)を放つ花のような女性や、男性の中のひとりの女性を「紅(こう)一点」と言ったり、何のかかわりもないことを「赤(あか)の他人」などと例(たと)えるようにアカ(赤・紅)はもともとは色ではなく「明(あか)し」、光の輝くようすを表す言葉で、そこから照り輝く色、明るい赤系の色を総称して「アカ」と呼ぶようになったのだそうです。
「風姿花伝」には初心を忘れるな。初心に返る。などの「初心忘るべからず」という戒(いまし)めの言葉がありますが、私には花もありませんし、そもそも返るべき、忘れるべからず。の初心がありませんので、仮(かり)に書けるとしたら誤(あやま)った風説の「風姿訛(か)伝」でしょうか。

2015.1.30

寒中、寒の内、大寒など言葉どおり寒さのきびしいときですが、もっときびしい寒さと雪の中で生活されている雪国の方々の大変さや、ご苦労を思い比べれば大したことはなく、申し訳ない気がします。「冬」の語源は「冷(ひ)ゆ」が変化したものだといわれますが、寒さに震(ふる)う。年が暮れていくので経(ふ)ゆ。などという説もあるようです。
季節風が吹き荒れていたとはいえ、のん気な観光客目線で見た津軽の野や山、街はどこまでも雪が白く覆(おお)い美しく、そうした津軽の冬景色が日々甦(よみがえ)り、その余韻(よいん)が心地よく、その余韻を確かめるべく太宰治の「津軽」を読み返してみました。そこには若いころには見えなかった、わからなかった津軽の風土、人々、暮らしや、記憶の断片が浮かびあがってきて、若き日の自分に向き合わされ、言いようのない恥ずかしさがこみあげてきました。
そんなある日、世田谷区教育センターにある中央図書館に行った折(おり)、中にあるプラネタリウムで、満天の星の下で、CDによる音楽を聴くコンサート「冬の夜空とジャズの調べ」というのがあることを聞き、寄ってみました。東京の冬の夜空の星を見上げながら、フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン。星に願いを。などを聴きましたが睡魔(すいま)とのたたかいでもありました。その数日後、南青山の「ブルー・ノート東京」に招待いただいて、ジャズのライブとフレンチのディナーを楽しませていただきました。昨年も呼んでいただいて、2度目になりますが、これは「ブルー・ノート東京」さんと本校で何かコラボができないか。ということからでした。その日の出演者は、現在進行形の人気ピアニスト、ジャズピアノのトップランナー、ジェイソン・モランとザ・バンドワゴンで、スペシャルゲストはピアニストの奥さんでジャズシンガーのアクシア・ホール・モランでした。その演奏と歌を聴きながら、なぜか津軽の風景や津軽三味線の旋律(せんりつ)や音色(ねいろ)、藤圭子が歌う姿が浮かびダブりました。そうだ津軽三味線は日本のジャズなんだ。との想いに至(いた)りました。
津軽三味線の楽曲のルーツは、越後(えちご)の瞽女(ごぜ)の三味線といわれ、基本的にはすべて即興(そっきょう)で行われ、アドリブを特徴とするジャズと似ています。瞽女は女性の盲人芸能者で、三味線を手に村々を流し歩いて生活をしたのですが、福祉や医療も未発達であった明治、大正、昭和の初めころまでは全国いたるところでみられたそうです。「津軽」を書いた太宰治に風貌(ふうぼう)も似ている水上勉の小説に、越後(新潟)の瞽女を描いて映画化や舞台化された「はなれ瞽女おりん」があります。藤圭子の母親がこの瞽女であったことで、貧しい生活を支えるために藤圭子は、幼い頃から母親に同行し、新潟を中心に旅回りの生活を送ったといわれ、娘の宇多田ヒカルが生まれたとき、目のことが気になり、目の光が失われないように、とヒカルと名づけたのだそうです。そんな藤圭子が1969年17才で「新宿の女」でデビューし、その翳(かげ)りのあるふりしぼるような情念的な声、歌う雰囲気は演歌ではない、艶歌(えんか)でもなく、その生い立ちから怨(うら)み唄の「怨歌(えんか)」だ。と作家の五木寛之が書いたことでも話題になりました。目が悪くなっていたともいわれる藤圭子が、新宿のマンションから落下して亡くなったのも、なにか因縁(いんねん)めいたものを感じます。
アメリカのニューオリンズで生まれた黒人の民族音楽と、白人のヨーロッパ音楽とが融合(ゆうごう)した独特なリズム感のジャズと日本の津軽、越後の三味線の旋律はどこか通じるものを感じました。その歴史から黒人や瞽女の魂の奥底からわきあがるひびき、共振する音や歌が時間や距離を超え、根元でつながっていて、地続きであることを想わされ、ニンマリ?とした「ブルー・ノート東京」でした。

2015.1.15

新春のお慶(よろこ)びを申し上げます。本年もよろしくお願いいたします。本校の仕事始めと授業は5日からでした。まずは地元の鳩の森八幡神社でお祓(はら)いをうけ、祝詞(のりと)を奏上(そうじょう)していただいて、学生が健康で安心安全な学校生活を送れるように祈願(きがん)してきました。
心の中では正月を迎えず、こなかった、なかったことにしようと思い、そのためには年末年始は自宅を離れることだ。とあえて本州の北端である雪深い青森(津軽)に行ってきました。<上野発の夜行列車おりた時から青森駅は雪の中 北へ帰る人の群れは誰も無口で海鳴りだけをきいている 私もひとり連絡船に乗りこごえそうなカモメ見つめ泣いていました ああ津軽海峡冬景色・・・・・>この演歌は38年前にリリースされたのですが、当時の夜行列車「八甲田」「十和田」「津軽」「あけぼの」「はくつる」は、2014年のダイヤ改正で「あけぼの」を最後に今はなく、東北新幹線で着いた新青森駅も雪の中でした。青森市内は昨年を上回る積雪とのことで、ときおり風が強まり吹雪(ふぶき)もようでした。
かつて青春の文学と言われた、青春時代に必ず直面する、しなければならないような問題が描かれている太宰治にかぶれ、小説であり故郷の記であり、風土記でもある長編の「津軽」を読んだことがあり、その内容はおぼろげ覚えている程度ですが、津軽という土地と津軽人が見事に描かれていて、想像力をかきたてられ興味をもち、津軽と言う言葉のひびきにも惹(ひ)かれ、青森西部の「津軽」地方を巡(めぐ)ってみたいとの想いがありました。桜のころ弘前(ひろさき)や桜の名所を訪(たず)ねたことはありましたが、冬の津軽は初めてでした。雪が激しく降り、風が吹きすさぶ厳寒(げんかん)酷寒(こっかん)の真冬ですから、それなりの心がまえはしていきました。宿は鯵(あじ)ヶ沢にある岩木山の北の麓(ふもと)に位置し、白神山地の風を感じ、津軽平野と日本海を望めるというホテルにしましたが、辺(あた)り一面真白でほとんど周りが見えなく、それはそれでむしろ厳しい津軽の冬景色が見られる、との想いでした。ホテルにあった八甲田ロープウェーのパンフに「樹氷を眺めながらの空中散歩」とあり、そのコピーに誘われて、寒さついでに八甲田に向かいました。その日そのあたりは雪と風が吹き荒れていて、ロープウェーが動くかどうかわからないと言われていたのですが、それまで止まっていたというロープウェーが動き、山頂公園駅まで上れたのですが、猛吹雪で何も見えなく、外に出ずにそのまま戻ってきてしまいました。高倉健が主演した、八甲田山雪中行軍遭難事件の映画「八甲田山」が頭をよぎりました。
メインの目的であった太宰治の面影を訪ねて、五所川原市の金木にある太宰治記念館「斜陽館」に行きました。そこは青森ヒバをふんだんに使った重厚感のある和洋折衷(わようせっちゅう)の大きな家でそこに生まれ育った太宰が、旧家であり、大地主の子であることのひけ目から、それを自虐(じぎゃく)的に描いた作品の様々な場面を、なるほどと思いおこさせてくれました。この地区は盲目(もうもく)の旅芸人たちが始めた門付(かどつ)け芸の津軽三味線の発祥(はっしょう)の地といわれ、この向かいには「津軽三味線会館」があり、ライブステージで「津軽じょんがら節」に代表される津軽三味線の迫力ある魂の音色を堪能(たんのう)しました。冬の風物詩になっている津軽鉄道のストーブ列車にも乗りました。ノスタルジックな車内には、ダルマストーブで焼いたスルメの匂いが漂っていて、車窓からはあたり一面の雪景色で、これぞ津軽路という眺めでした。最終日は五所川原から秋田の能代までゆっくり南下しようと思っていたのですが、日本海に沿って走る五能線は、その日吹雪のため遅れが出ていて、途中で止まる可能性もあるとのことで、あきらめてバスにしました。五能線と並行して走るその風景は、荒れている冬の日本海を右に、ブナの森の白神山地の裾野(すその)を左に見ながらでしたが、青森を離れるころには、青森県出身のこの4月に入学する予定の高校生、在校生、卒業生に想いを馳(は)せ、募(つの)らせました。
正月をやり過ごすつもりでしたが、帰宅して年賀状を見ながら正月モードが戻り、落ちつかなくなり、近所の神社に初詣に行ってしまいました。雪の世界が舞台の「アナと雪の女王」の歌にある「ありのままで〜」のように素直にありのままを受け入れ、ありのままであるのが良いようです。いまさらですが…。

2014.12.26

気がつけば師走(しわす)も半(なか)ば、と思っていたらいつの間にか年の暮れも押しせまり、なにかと気忙(きぜわ)しいのですが、年末とか年の瀬を感じるような日本の伝統行事や風習などが、日々の生活のなかであまり見られなくなってしまいました。今や年末の風物詩となっているのは、クリスマスキャロルが流れ、街を彩るクリスマスイルミネーションです。あちこちできらめくクリスマスの光のページェントは、すっかり日本の師走の風景となっています。こゝ原宿表参道のケヤキ並木も、12月1日〜25日までLEDによるイルミネーションがおだやかで静かな光を放っていて、かつては色とりどりの派手なものでしたが、いまでは明治神宮の参道らしい明かりになっています。本校の1号館、2号館のエントランスにも、ディスプレイデザイン科の学生が作ったクリスマスツリーが飾られ、校内もクリスマスムードが漂っていました。師走はすっかりさまがわりしてしまった。と思っていたところへ、本校の元講師の方から23日に我家で餅(もち)つきをするので、散歩ついでに立ち寄りませんか。という誘いをいただき、これぞ日本の師走、年の瀬と、うれしくありがたくおじゃましました。毎年の恒例(こうれい)になっているというその家は、世田谷の馬事公苑近くにあり、私がこのあたりをウロついていることが伝わったことからでした。なぜそのあたりによく行くのか、は内緒(ないしょ)です。というか謎(なぞ)とさせていただきます。住宅街にあるその家は、渋谷のパルコ近くにあった家が戦災で焼かれ、終戦の翌年に引越してきたとのことで、当時は、あたり一面(いちめん)畑で、家は2軒しかなかったそうです。その面影(おもかげ)がのこる庭の隅(すみ)で使い込まれた臼(うす)と杵(きね)で餅つきがはじまり、私はただ見るだけでつきたてのモチをアンコ、ゴマ、オロシ、キナコ、ズンダなどでおいしくいただくばかりでした。
餅といえば正月に食べるためのモチと神仏に供(そな)える正月飾りの鏡餅(かがみもち)があります。平安時代には源氏物語に餅鏡という表現がありますが、家に床の間がつくられるようになった室町時代から鏡餅が供えられるようになったのだそうです。名の由来は、昔の鏡が青銅製の丸形で神事などに用いられるその形が似ていることからのようです。鏡餅は12月28日に飾るものとされていますが、8という数字が末広がりで縁起が良いとされ、29日は9が「苦しむ」を連想させることからさけられているのだそうです。
師走は「年果(としは)つ」年が果てる、終わる。「為果(しは)つ」なし終える。「四極(しはつ)」四季が果てる。などが転じたという説もあるようです。どれも「果てる」「終わる」という意味が含まれています。今日26日は本校の仕事納めです。学生は昨日の25日で授業が終わり、冬休みに入りました。迎える正月は年令を一つ重ねることですから、年をとると、正月や誕生日は好きではありません。このまゝ何ごともなく、順調にいけば、正月がきてしまいます。こなければよいのですが、なんとかこないようにしたいのですが…。方法が見つかりませんので、見て見ないフリをして、さりげなくやりすごす、スルーして、なかったことにしようとは思っています。
この長くて読みづらいコラムもどきを読んでくださいましてありがとうございました。お会いした方、お会いしていないけれど多くの方々に今年もお世話になりました。感謝の言葉しかありません、ありがとうございました。こりずに来年もよろしくお願いいたします。良いお年をお迎えください。

2014.12.16

ついこの間まで、原宿駅の竹下口から本校にいたる道の、黄葉したイチョウの街路樹が、朝陽に映えていたのですが、その道が黄色い落ち葉でしきつめられ、過ぎゆく秋、来る冬を足もとからも感じています。かつてこの季節の風物詩といえば、落葉焚(おちばた)きがありましたが、童謡「たき火」の<垣根(かきね)の垣根の まがりかど たきびだ たきびだ おちばたき・・・>のような枯れ落ちた木の葉を集めてする焚き火は、すっかり記憶の中の風景になってしまいました。さまざまな木々の枯葉には、人生の哀歓(あいかん)のような味わい深い色合いがあり、ジュリエットグレコやイブモンタンが歌い世に知られたシャンソンの「枯葉」や、明治期の日本画家菱田春草の代表作「落葉」が思い浮かびます。先月この「落葉」を国立近代美術館の菱田春草展で見てきました。この落葉は、春草が病気静養中に散策していた、本校からもほど近い、代々木の自宅付近の雑木林を描いたものだそうです。
ガキのころ落葉や木の枝を集めて燃やすたき火は、サツマイモ、モチ、クリ、ミカンなどを焼くたのしみもあり、積極的に掃(は)き集めたものでした。落葉の季節が終わると、家の中でたき火ができる、囲炉裏(いろり)がある父母の親戚(しんせき)に、イロリ目当てによく遊びに行きました。そのころ、まだ古い民家には、床を四角に切って灰を敷(し)きつめ、マキや炭火などを燃やし暖を取ったり煮炊(にた)きするイロリがあり、そのタキギの中に皮をむかれた楮(こうぞ)の幹(みき)があり、その真白い木肌の美しさは子供心に焼きついています。このコウゾは、さきごろユネスコの無形文化遺産に登録された「和紙」の原料になるもので、この親戚には桑畑のような楮畑がありました。11月末から1月にかけて刈(か)りとり、これを蒸(む)して樹皮(じゅひ)をはぎ、天日に干(ほ)して川などの寒水に晒(さら)し、煮るなどを経(へ)て手漉(てす)き和紙の原料になるのですが、別の親戚では、冬の冷たい水の中に手を入れて作業をする手すき和紙をやっていましたが、寒いときの方が良い和紙ができるということで、農閑期(のうかんき)の冬の間だけの仕事のようでした。和紙の原料にはミツマタ(三椏・三叉)もありますが、コウゾの方が栽培がしやすく、たくさんつくれることから和紙の代表的な原料になっているようです。主にお札や賞状、証券用紙につかわれているミツマタは、枝が三叉(さんさ)になっていることからの名ですが、万葉集にもたびたび詠(よ)まれていて、中国から薬用として渡来し、その後、観賞用として栽培されていたものが、和紙の原料として利用されるようになったのだそうです。繊維(せんい)が多い植物であれば、そのほとんどが紙をつくる原料になるのだそうですが、竹の皮を原料とする竹紙(ちくし)があることを知りました。それは先日行ってきた世田谷文学館の「水上勉のハローワーク 働くことと生きること」展でした。若狭(福井)出身の水上勉さんは小学生のころ禅寺で修行、その後30種以上の職業を経験しながら文学を志し、直木賞作家になったのですが、会場にはその遍歴(へんれき)と文学修業の日々が辿(たど)れるようになっていました。そうした中にあった野菜や野の花などを描いた風雅(ふうが)な墨彩画(ぼくさいが)に惹(ひ)かれ近づいて見ると見なれた和紙と違うことに気がつきました。これが竹紙でした。水上勉本人が竹皮を煮て水車でついて原料をつくり、手すき枠(わく)をふるってつくったのだそうです。水上さんには「越前竹人形」という作品があり、「竹人形一座」にも関わり、竹人形の面を作るための竹モチから竹紙づくりに興味をもち、その風合いや微妙な手ざわり、ほどよい白さなど画を描かずにはいられなかったようです。
西洋から伝わった洋紙に対して、日本古来の紙を和紙というのですが、英語の「Paper」フランス語の「Papier」は、世界最古の紙といわれている、古代エジプトのパピルス草をつかったパピルス紙に由来するのだそうです。日本の手すき和紙が無形文化遺産に登録されたということは、それだけ和紙づくりが衰退(すいたい)していて、その伝統的な技術を保存し継承(けいしょう)していかなければならない、ということですから、枯れ落葉のような一抹(いちまつ)のさびしさを感じます。たき火ができる環境にないとはいえ、大人の火遊び?は厳(げん)に慎(つつし)まなければならないと、自(みずか)らを戒(いまし)めております。

2014.11.30

黄色や赤に染まった色鮮やかな木々の葉が、少しずつ散りはじめ、晩秋であり、初冬でもあるこの季節は、物憂(ものうれ)うときでもあります。そんな気分の中、すきま風が吹いたように赤瀬川原平さんの訃報がとどきました。折(おり)から、町田市民文化館ことばらんど。で「尾辻克彦×赤瀬川原平―文学と美術の多面体展」が始まっていて、数日後には千葉市美術館で「赤瀬川原平の芸術論展(1960年代から現在まで)」が行われるという直前でした。若いころささやかな縁があった赤瀬川さんを想い、偲(しの)びたく、町田市民文化館へ行ってきました。そこには美術家であった赤瀬川原平(本名 赤瀬川克彦)さんと、芥川賞作家でもあったペンネーム尾辻克彦の表現世界が広がっていてその歩みを俯瞰(ふかん)することができました。
美術家としての赤瀬川さんは、審査も賞もない誰でも出品できる読売新聞社が主催する「読売アンデパンダン展」に1950年代から出品していました。既成の権威や価値に対するアンチとして若い表現者たちがそのエネルギーを発散、爆発させるかのような熱気があり、そうした作品を新進美術評論家であった東野芳明、中原祐介などが読売紙上で取り上げそれらの表現を「反芸術」と呼び、話題の展覧会となりました。赤瀬川さんはそんな出品者の旗手のひとりでした。年々それらの作品表現が過激にエスカレートし、主催していた読売新聞社が1963年の第15回展で打ち切りとしましたが、後に現代美術で活躍する多くの美術家を輩出した伝説の展覧会となりました。私は前年にこの展覧会を見て、こんな面白い展覧会があるのか、あったのか。と脳天をガツンとやられ、全てをリセットさせられ、なんとしてもこの展覧会に出品しようと制作を始め、最後の展覧会に出品しました。赤瀬川さんは廃品を素材にした作品や、梱包作品で知られていたのですが、この最後のアンデパンダン展で梱包作品と千円札を畳(たたみ)一枚分ぐらいの大きさに拡大模写した作品「復讐の形態学」を出品、それは千円札の図柄を正確に写し取るという気の遠くなるような作業のものでした。その後、お札の持つ複数性と増殖性を作品に体現するには千円札を印刷することが必要と考え、千円札の片面を原寸大に単色で印刷し、それを個展の案内状につかい、私もその案内状をもらいました。会場ではこの片面印刷の千円札が「模型千円札」という作品として展示されていて、これが当時世間を騒がせていたニセ千円札との関連を疑われ取調べをうけ、起訴されてしまいました。その公判は「芸術か犯罪か」という芸術論争の場となり、「千円札裁判」として注目され、結果として法廷の場さえ赤瀬川さんは作品化してしまったように思えました。この千円札裁判のとき赤瀬川さんを応援するため評論家や美術家たちが「千円札事件懇談会」をつくり、私も加わりました。
赤瀬川さんとの出合いは私が20代前半で赤瀬川さんは私より5才ほど年上でした。そのころ勤めていた会社の上司の奥さんが彫刻家で赤瀬川さんと高校の同級生であったことから、上司が個展をするときには赤瀬川さんが展示の手伝いにきてくれ、私も一緒に手伝ったりしました。その作品と行動の印象から赤瀬川さんは声高のかなりの論客と思っていたのですが実際はおだやかでやさしい話しぶりの静かな方でした。散歩を愛し、四谷で見つけたある建物の側面にただ登って降りるだけのなんのためにあるのかわからない意味不明、用途不明の階段を「四谷怪談」のシャレで「四谷階段」と名づけるなど、何の役にも立たない、わからないモノは純粋芸術に似ているとして、不思議なモノを見つける「路上観察学会」をつくり、日常の中にひそむなんでもないようなモノやコトのナゾに向き合い、一見ネガティブなモノをユーモアでくるんで裏返すなど、そこには鋭い社会風刺がひそんでいました。老化で物忘れがひどくなることを「忘れる力がついた」と考えることでポジティブにとらえる「老人力」はベストセラーになり、流行語大賞にもなりました。小説家としては「肌ざわり」が中央公論新人賞。「父が消えた」が芥川賞となるなど活躍されました。
ご自宅の屋根には全面にニラが生えていて、ニラハウスと呼ばれ、そんな生き方の赤瀬川さんの興味や関心が私も似ていると勝手に思い敬愛し、私も同じように個展やグループ展、パフォーマンスをやっていましたが、いま思えば軽佻浮薄(けいちょうふはく)に若さにまかせ時代の熱病にかかっていただけのような気がします。少しでも赤瀬川さんに近づきたいとすれば、もはや私の頭にニラを生やすしかない。などと思いつめています。

2014.11.17

11月に入り、冷え込む日が多くなり、木々の葉も急に色づき、都心もいよいよ紅葉シーズンですが、まだわずかに黄葉しはじめたばかりのイチョウ並木の先にある、神宮外苑絵画館前で「TOKYO DESIGNERS WEEK」が開催されました。これはプロから学生までが出展するデザイン・アートの最先端の「今」がわかる国内最大級のイベントで、本校はビジュアルデザイン科、グラフィックデザイン科、インテリアデザイン科、イラストレーション科の学生がグループ制作した作品で今年も参加しました。その作品は「思案」というタイトルで、私たちの脳内は9割のぐちゃぐちゃ、1割の閃(ひらめ)き、わずかな偶然性で出来ている」として、それを大きなオブジェにしたものでした。顔の部分は多くのハリガネを巻いてつくり、脳の部分は三井化学さんが開発した新素材の応力吸収ポリマー(ポリオレフィン)を提供していただきました。それは手のひらの熱でやわらかくなるという透明な管状(くだじょう)のもので、それがおびただしい数と量で複雑にからみ合いうねり、照明によって七色に輝いて、コンセプトと素材が見事に融合し、その存在感は屋外の広い会場で異彩を放っていました。
アート・デザインの「今」に浸った数日後、立冬になり秋と冬の狭間(はざま)のような陽気のなか、久しぶりに砧(きぬた)公園にある世田谷美術館に行ってきました。松本留樹コレクション「ユートピアを求めて」(ポスターに見るロシア・アヴァンギャルドとソヴィエト・モダニズム)という展覧会が目的でした。第一次世界大戦が始まった、いまから100年ほど前、ロシア革命が起こり、その政治的・社会的革命と前衛芸術の可能性を切り拓こうとした芸術の革命が呼応(こおう)して、既成の芸術を破壊し、造形芸術のジャンルはこうしたアバンギャルド(前衛)の洗礼を受けることになりました。なかでもレーニンはその政治宣伝(プロパガンダ)のためにはポスターが大きな役割をはたすと考え、そのことが反映して、メッセージを伝えるタイポグラフィー(文字デザイン)やフォトモンタージュ(合成写真)など斬新(ざんしん)で力強いグラフィック表現が生まれ、ロシア構成主義と呼ばれる特長となりました。そのほとんどがリトグラフ(石版印刷)による大型ポスターで、ソヴィエトの芸術政策が大きく変わる1930年代前半までの映画ポスター、政治ポスター約180点が展示されていました。このロシア革命の申し子ともいえる貴重なポスターに魅せられ生涯をかけて蒐集(しゅうしゅう)されたのが本校の近くにあったDCブランド「BA-TSU」の創業者であり、デザイナーの松本留樹さんでした。松本さんは2012年に亡くなられましたが、息子さんで同じ名前の松本ルキさんがその意志をついでこのコレクションを保存され、ときおりこのように公開されています。DCブランドとは、デザイナー(Designer’s)&キャラクター(Character’s)の略で、1980年代(いわゆるバブル期)に日本国内でブームになったファッションメーカーブランドの総称で、DCブランドショップの販売員が「ハウスマヌカン」と呼ばれていました。松本ルキさんは「原宿表参道欅会」の副理事長で、本校の学校自己評価の関係者評価委員などをしていただいております。
自由平等な理想国家、理想社会を目指しながら、非人間的な管理社会であった、あのユートピアとはなんだったのでしょうか。グラフィックデザインの原点とも言える、見せる読ませる社会性と文化性への華(はな)が咲いた当時の魅力的なポスターの数々は、枯れた花にも華があり、それはやはり時代の徒花(あだばな)だったのでしょうか。プロパガンダ(宣伝)とアドバタイジング(広告)の違いを改めて考えさせられました。

2014.10.31

そこかしこで「ちいさい秋」が見つかり、言い知れぬ秋を感じていましたが、このところ深まる秋の気配が、日一日と広がり濃(こ)くなってきました。秋は芸術の秋、読書の秋、スポーツの秋、実りの秋、食欲の秋、など○○の秋、と呼ばれるものが多いのですが、その中でも、海、山、里の幸の旬(しゅん)が豊富な「食欲の秋」が思い浮かびます。秋の味覚の代表格であり、定番と言えば「秋刀魚」と書く「さんま」ではないでしょうか。秋のさんまは脂肪分が多く、とくに塩焼きはこの時期が最も美味しいとされています。「秋刀魚」は秋に旬を迎え、銀色に輝く魚体が刀を連想させることから「秋に獲(と)れる刀のような形をした魚」というところからの名だそうですが、古くは「サイラ(佐伊羅)」「サマナ(狭真魚)」などと読み書きされていたようです。夏目漱石は「吾輩は猫である」の中で秋刀魚を「三馬(サンマ)」と記しています。詩人の佐藤春夫が作家の谷崎潤一郎との有名な「妻譲渡事件(つまじょうとじけん)」などで苦悩する孤独な男の心情を、自嘲的(じちょうてき)に書いたものといわれる「あはれ 秋風よ 情(こころ)あらば伝へてよ…男ありて 今日の夕餉(ゆうげ)に ひとり さんまを食(くら)ひて 思ひにふける と。」中略「さんま さんま さんま苦いか塩っぱいか。 そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。あはれ。げにそは問はまほしくをかし。」この佐藤春夫の詩「秋刀魚の歌」で、広くこの漢字が知れわたるようになったのだそうです。
日本映画を代表する映画監督の小津安二郎が、1962年に撮り遺作となった作品に「秋刀魚の味」があります。「東京物語」「晩春」「お早よう」「彼岸花」「秋日和」「小早川家の秋」などの名作を数多く残し、世界的にも高い評価を得ています。(この日本映画界の巨匠といわれる小津安二郎の「東京物語」をベースに、小津監督に捧げる作品として、山田洋次が監督した、今の家族の物語を描いた「東京家族」があります。)小津調といわれるその映像は、日常生活の静かでおだやかな表現の中に、深遠(しんえん)な人生ドラマが独特の淡々としたテンポのセリフ回しで、そこはかとない哀愁(あいしゅう)が漂っています。「秋刀魚の味」も、娘(岩下志麻)を嫁にやり、あとは一人になる初老の父親(笠智衆)の心情を「人生って秋刀魚の味だと言うことなんでしょうね。」というセリフで、美味しいけれど、はらわたの苦味(にがみ)もある秋刀魚の味に例(たと)えているのですが、この映画には秋刀魚が出てきません。
秋は雨や風、草木のそよぎなどもろもろの気配が、深い寂(さび)しさと侘(わび)しさをともない、そんな情景が多くあり、秋風は身にしみ、哀れをそそるなどの風ともいわれます。定(さだ)めなき移り気の天気のたとえに「女心と秋の空」などと言いますが、「男心は上(うわ)の空」でしょうか。秋の空に現れる雲はなぜか、秋刀魚雲(さんまぐも)ではなく、鰯雲(いわしぐも)といわれます。季節の黄昏(たそがれ)の秋は「秋刀魚の味」のようです。(蛇足(だそく)ですが、お笑いタレントの明石家さんまのさんまは、実家が水産加工業だったところからの芸名だそうです。)

2014.10.16

急に涼しくなり、スムーズに秋に移行したと思っていたら、10月に入って夏日があり、夏の散り際(ぎわ)、往生際(おうじょうぎわ)の悪さを感じます。季節を忘れたように咲く花や、返り咲きのような時節を過ぎてから咲く花を「忘れ花」と言うそうですが、井上陽水の「少年時代」の歌詞にある<夏が過ぎ風あざみ 誰のあこがれにさまよう 青空に残された私の心は夏模様>の「風あざみ」は忘れ花でしょうか。10月の夏日は「忘れ夏」「返り夏」といえそうです。そんな夏の余韻が残る10月10日〜12日の3日間「原宿祭」を開催しました。初日の朝、1号館前でオープニングセレモニーのテープカットを行いましたが、昨年はこのとき、目の前の宮廷(皇室)ホームの庭にあるキンモクセイ(金木犀)の花が咲いていて、その甘い香りが風に混じっていました。今年は秋の訪れが早く涼しかったせいか、例年より早く咲いたのか、すでに花はありませんでした。
原宿祭は学生が主体となって企画運営する学園祭ですが、今年のテーマは原宿にchargeされ、原宿にchargeする。という「Charge!(チャージ!)」で、各科の作品展示や全員参加のインスタレーション、ワークショップ、デザインライブ、仮装・コスプレコンテスト、フリーパフォーマンス、ライブ、アート・デザインフリーマーケットなどが多彩にくりひろげられました。そこには流行の最先端が集まる原宿文化を取り入れ、チャージされ、新たな個性でモノ、コト、コトバで原宿をデザイニングし、チャージしたこれからの「原宿」がありました。最終日の午前、ホールで「HARAJUKU竹下通りアートフェス2014」の公開審査があり、竹下通り商店会の役員の方々と私も審査員として加わりました。これは本校学生のデザインが原案になっている、竹下通り入口にあるアーチ上部のパノラマビジョンで放映される作品を公募したものです。本校の学生も多数応募しました。テーマは「カラフル・HAPPY」で、このテーマで感じるイメージを竹下通りで発表したい、という想いを表現して欲しいというものでした。寄せられた作品は、原宿カワイイ的な、いかにも原宿にふさわしい表現や、ネガティブなアンチ原宿的な表現もありましたが、それはそれで「原宿が好き」が見え隠れしていて面白く、楽しく見させてもらいました。そうした若い感性に拒否感や違和感はなく、むしろワクワク感の方がつよく、竹下通りのシンボルともいえるアーチで流れることを思い浮かべながらの審査でした。11月に審査結果を発表して、これらの作品が放映されることになっているので楽しみです。毎年「原宿祭」のフリーマーケットで学生のポストカードを色々と買い求め、それを時折(ときおり)使用しているのですが、それがあらぬ誤解を生んで、その波紋が広がっていることを知り、唖然(あぜん)としました。曰(いわ)く、私の作風が激変し、今風の若い人が描く萌(もえ)系のイラストを描くようになった、やはり原宿に通っているとそうなるのか。というものですが、それはそれで面白いのでそのまゝにしておこうとも思ったのですが、このごろは(このポストカードは学生の作品です)と付記するようにしています。台風の影響が懸念(けねん)されていた原宿祭も無事に終わり、台風一過(たいふういっか)の秋晴れの朝、原宿駅から1号館に近づくにつれ、あの甘い芳香(ほうこう)が漂っているのに気づき、もしかして…、やはりあのキンモクセイが満開でした。9月に咲いているのをみていたので、これは忘れ咲き、返り咲きの「忘れ花」ではないか、と思ったのですが、キンモクセイの2度咲き、というのを思い出しました。数年前、三島神社の国の天然記念物に指定されているキンモクセイを見に行ったとき、その説明板に9月と10月に開花する2度咲き。とありました。樹齢は1200年を越えていると推定される巨木で、オレンジ色の小さな花が咲いている姿はそれは見事でした。もともとモクセイ(木犀)は白い花のギンモクセイ(銀木犀)を指し、ギンモクセイの変種がキンモクセイなのだそうです。キンモクセイはどの木も2度咲きなのでしょうか。気になるところです。
人間も「返り咲き」と言われることがありますが、私がポストカードで勘違いされたときは多分「狂い咲き」したと思われていたのではないでしょうか。

2014.9.30

暑さ寒さも彼岸(ひがん)まで。といわれる彼岸は、秋分の日(春分の日)の前後3日間を合わせた7日間をいうのですが、ここ数年は彼岸が過ぎても暑い日が続き、昨年は10月に入っても夏日がありました。今年は彼岸より前に涼しくなり、久し振りに夏から秋へ、自然な季節の移ろいを感じます。このお彼岸のころに咲く彼岸花(ひがんばな)の群生地からは、赤く染まり見頃を迎えていることが報道されていましたが、私の子供のころは墓地や田んぼの畦道(あぜみち)などで見かける花でした。今では観光のために植えられた群生地が各地にあり、日常的にもいたるところでこの花を目にすることができます。彼岸花は曼珠沙華(まんじゅしゃげ)ともいい、その妖(あや)しい雰囲気に、「なんだか不気味」と思う人と、その「妖艶(ようえん)さ」が好き、この花を見ると「癒(いや)される」などと、好き嫌いが別れるようです。わたしもこのヒガンバナは苦手(にがて)です。墓地にあった花という印象が強いことからですが、50センチほどすっと伸びた茎に鮮やかな赤い花が咲き、咲いているときには葉がなく、葉のあるときはすでに花はなく、そのたたずまいがこの世の花ではない、異界に咲く花のように見えるからです。マンジュシャゲ(曼珠沙華)はサンスクリット語で、天界に咲く花。という意味だそうです。この花にはアルカロイドという毒があることから、モグラや野ネズミなどから守るために、畦道や墓地などに植えられ、そのため「毒花」「痺(しび)れ花」とか、「地獄花」「幽霊花」とも呼ばれているようです。その反面、デンプンを多く含(ふく)んでいるため、飢餓(きが)に苦しんだとき、水にさらして毒を抜いて食用にすることもあったことから、飢餓に備(そな)えて植えたという説もあるようです。ときおり白い花、黄色の花を見かけることがありますが、やはり真赤な花が彼岸花らしいです。
秋の彼岸に供(そな)え食べるものに「おはぎ」がありますが、これは秋の字に草冠(くさかんむり)をつけた萩(はぎ)の花が咲いているさまが、小豆(あずき)の粒(つぶ)に似ていることから「萩の餅」と呼ばれるようになり、「御萩(おはぎ)」となったのだそうです。春の彼岸は「ぼたもち」ですが、これは春に咲く牡丹(ぼたん)の花にちなみ「牡丹餅」からの名だそうです。「おはぎ」と「ぼたもち」は同じものですが、花の形に似せて「おはぎ」は小ぶりで俵(たわら)の形にし、「ぼたもち」は大きめで丸い形にするようです。材料となる小豆(あずき)は、秋に収穫されるため、とれたての小豆を使える秋の「おはぎ」は皮ごと使った粒餡(つぶあん)に、冬を越した春の「ぼたもち」は、かたくなった皮を取った漉餡(こしあん)になったそうです。春と秋のお彼岸に供えて食べる風習は、古くから赤い色が邪気(じゃき)を祓(はら)う色とされていたことから、赤小豆とも書く、あずきが使われたのだそうです。鮮烈な赤い花で目立つ彼岸花に比べ、小さな花の萩は地味ですが、「万葉集」には、有名な山上憶良(やまのうえのおくら)の秋の七草を詠(よ)んだ歌を初めとし、萩を詠んだ歌が141首もあり、最も万葉歌人に好まれた花のようです。「徒然草」では家に植えておきたい木のひとつに数えられています。萩は最初の花が散りはじめても、次々に花が咲き、散りながら花ざかりを迎える、この咲きぶりのはかなさが好まれたのではないか、と思われます。
労せずして思いがけない幸運がめぐってくる、ことのたとえに「棚(たな)からぼたもち」がありますが、「ぼたもち」は春ですから、季節のたそがれの秋は、もう少し小さくて地味でよいので「棚からおはぎ」ぐらいは落ちてこないものか、と静かに待っているところです。

2014.9.18

かつては、上野の東京都美術館で9月1日〜20日まで開催される二科展が「芸術の秋」の代名詞のように、その始まりを報道されたものですが、六本木の国立新美術館に移ってからは、秋になるという日付の9月1日から始まることがなくなり、日程も毎年変わることなどもあり、報道は少なくなってしまいました。例年、夏の置土産(おきみやげ)のような残暑の中で開催されていた二科展ですが、今年は珍しく秋風が運ぶ涼しい日々の9月3日〜15日まで開催されました。今回は第99回展で、来年が100回記念展となることから、そのプレ展示として昨年の岡本太郎作品に続き今年は東郷青児作品を特別展示しました。初日はオープニングセレモニーのテープカット。美術館ホールでの絵画部、彫刻部の授賞式。夜はミッドタウンにあるザ・リッツカールトンホテルでの懇親パーティー。5日は芝の東京プリンスホテルでの写真部授賞式に出席し、祝辞もたのまれましたが、大竹省二代表が体調がすぐれず欠席されお目にかかれなかったことが残念でした。6日はデザイン部の授賞式があり、代表アイサツ、賞状授与などの役割を努め、パーティーでは全国から参加された出品者、会員、会友、入選した本校の在校生、卒業生とのうれしい出会いと交流ができ、豊かな時間を過ごすことができました。翌(よく)7日は秋季保護者会がありました。保護者の最大の関心事である就職状況と指導について。学科別の説明、クラス別の個別面談、専門家の講演「就職活動を保護者がどうサポートするか」などのプログラムがありました。私は開会挨拶の初めに、本校に近い代々木公園で蚊に刺されデング熱に感染した3名が、ダンスの練習をしていた同じ学校の学生であることが報じられ、もしや本校の学生ではないか、と心配したこと。それは本校にもダンス同好会があり、10月の学園祭に向けてダンスの練習をしていたのではないか、と思ったからですが、本校の学生ではなかったこと、代々木公園は授業でスケッチに行く学科もあり、その後、明治神宮や新宿の公園などにも広がり、なにかと身近なところですから保護者の方もご心配されているであろうとの思いからでした。学内的には学生への注意喚起、各校舎入口に虫除けプレートを吊るし、場所によっては電気蚊取り線香、スプレーを置くなどの対応をしていることなどを話しました。
わたしはこのデング熱をこの報道があるまで恥ずかしながらテング熱と思い込んでいました。ガキのころ、その名を聞いたことがあり、そのころから熱が出ることでテング(天狗)のように赤い顔になり、鼻もハレ大きくなることからの名だと思っていました。蚊によって人から人へ感染するデングウイルスによるデング熱は、亜熱帯地方の熱帯病でしたが、温暖化により日本も亜熱帯化しているからのようです。デング熱は、発症すると背中が痛くなり、その痛みをかばって背筋を伸ばした歩き方がダンディに見えることから、英語の「ダンディdandy」にあたるスペイン語の「デングエロdenguero」からデング熱になったのだそうです。かつては日が暮れると、どこの家でも蚊取り線香をたいて、夜は蚊帳(かや)を吊って眠ったものでした。平安朝の昔から日本では「蚊遣(かや)り火」というよもぎの葉や松葉や、かやの木を火にくべて煙を出し、蚊をいぶしたり、蚊を追い払う方法があったのですが、今では夏の風物詩のように「金鳥の夏」「日本の夏」などとテレビCMで流れる渦巻型の蚊取り線香が主流です。蚊取り線香は明治時代に日本で作られ、初めは棒状であったものが燃焼時間が短く、長くするために渦巻型になったのだそうです。この原料は除虫菊で、もともとは観賞用であったシロバナムシヨケギク(原産地クロアチア)でしたが、この花を捨てたところだけ虫が死んでいることから、殺虫作用がある成分が含まれていることがわかったのだそうです。数年前、同じ保護者会で「蚊の日」というのがある、ということを話したことがありましたが、皆さんポカンとしてまったく興味を示してくれなかったのですが、今回は話しの流れとしてはタイムリーだと思い、又こりずに「蚊の日」があることを話してしまいました。が、保護者の方々の表情はまったくゆるみませんでした。興味や関心は人によって違うのだということを思い知らされました。秋の季語に「哀(あわ)れ蚊」があります。これは弱々しく人を刺す力もないような蚊のことを言うそうですが、挨拶の最後の方は、蚊の鳴くような、弱々しい声になってしまい、まさに私は「哀れ蚊」そのものでした。

2014.9.1

立秋も過ぎ、暦の上では秋。と思いつつも暑い日が続いていて秋の気配はまだ遠いと思っていたら、月末になると急に涼しくなって、いつの間にかセミに変わって秋の虫が鳴き出して、夏の終わり。を感じます。そんな夏の終わり。を意識する日付の8月31日、体験入学と説明会のオープンキャンパスがあり、夏休み最後の日となる高校生の参加者も多く、そんなこともからめながらアイサツをさせていただきました。ここ原宿表参道の夏は多くの人が国内外から集(つど)い、連日「夏祭り」状態でした。そんな中、原宿表参道の夏の風物詩ともなっている「原宿表参道元氣祭」スーパーよさこい2014。が23・24日に行われ、今年も審査委員をたのまれました。全国から参加した98チーム約6000人の踊り子がくりひろげる、その躍動感あふれる元気が原宿表参道にひびきわたりました。NHKホール前ストリートの審査員席でその踊りを見ながらの審査は大変で、事前に提出された各チームのコンセプトシートに目を通しながら、「楽曲」「衣装デザイン」「振付」「鳴子の鳴らし方」「進行スピード」「元気」「全体のバランス」などのチェック項目に点数を記入していくわけですが、そのエネルギーを受けとめるだけで精一杯でした。「祭り」は豊穣(ほうじょう)への感謝、祈りであり、よさこい踊りは鳴子(なるこ)を手にもって音を鳴らしながら踊るのですが、この鳴子は稲に群がるスズメを追い払うための道具として作られたものだそうです。審査をしながら、活力と元気印の魂を吹き込んでもらいました。なのに、なのに、帰りの山手線で年配の女性に席をゆずられて、かなりのショックをうけました。若い人にゆずられるのならともかく、よほどその姿から席を譲らざるを得ないほどの人生の疲れ、生活の疲れが漂っていたのかと思うと情けなく、これまで夏バテなど自分には関係ないと思っていましたし、その実感もなく、ましてよさこい踊りでエネルギーをもらい元気になっているつもりであったのに、でした。それなりにあった自信がそのことでくずれてしまい、これから何を糧(かて)に生きていけば良いのか途方(とほう)にくれています。私はよく肌のツヤがいいですね。といわれるほど、そのうるおいのあるツヤとハリが秘(ひそ)かな自慢でした。何度かあったお肌の曲がり角?をのりこえて、その美肌?のケア?をそれなりにしてきましたので、その年配の女性はこの美肌に嫉妬(しっと)して、イヤガラセをしたのではないか。などとの思いもあります。これからはできるだけ座っている人の前には立たないように心がけるつもりです。かろうじて自信のあるこの肌以外は、耳[み]み、喉[の]ど、歯[は]、目[め]、爪[つ]め。が弱く悪くなり、これを身の破滅(みのはめつ)というそうです。お肌に疲れがでる夏の終わり。ハリ、ツヤのあるお肌をとりもどすべく、しっかりケアをして、辛齢者ならぬ幸齢者で秋を迎えたいと思います。

2014.8.15

夏の陽光がギラギラと照りつけ、見馴(みな)れた風景や光景が明るく健康的に見えますが、体の方は健康的とはいかず、痛風(つうふう)になってしまいました。これで3度目になりますが、いずれも夏に発症しています。靴をはくのも辛い激痛ですが、3度目ともなると、もうこれは天罰(てんばつ)なのだ。と(思いあたるふしもないではなく)素直に受けとめ、歩くのもいつもの倍以上はかかりましたが、この痛さに耐(た)えることも天が与えた試練(しれん)であり、修行(しゅぎょう)なのだ。との思いと、その先にはなんらかの悟(さと)りが待っているのではないか。と、希望の明かりがちらついて、なんとかのりきったのですが、数日後、人間ドックの予定があり、その日までのガマンとの思いもありました。ドックは船の修理や点検をするための設備ですから、あまり言葉のひびきは良くありませんが、健康診断よりはインパクトがあり、それなりの心構(こころがま)えになります。そのドックの日、最初に測った血圧が180と出て、看護師さんがおどろいて、診察室に移らされ、女医さんが改めて3回ほど測り、それなりに落ちついたのですが、私は病院がキライでこういうところにくると緊張して上がってしまうのです。ふだんは140くらいで(それでも高いのですが)心配ないです。と言ったら、病院が好きな人などいません。ここに来たぐらいでこんなに上がるようでは、何か強いショックをうけたらアチラ(あの世)に行ってしまいますよ!!とたしなめられ、それもそうだ。と納得しました。いくつかの検査の中でもにがてなのは、X線写真によく映るように石膏を液体にしたような造影剤のバリウムを飲んで、マイク越しに右向いて、左向いて、息を吸って、息を止めて、とか、ぐるっと回って下さい。などとやさしく指示されるのですが、これが甘い悪魔のささやきに聞こえ、もてあそばれているような感がないでもありません。筋力が衰えてきた私にとって、逆(さか)さになったり回転したりすることは、かなりの苦痛で、まるで拷問(ごうもん)をうけているかのごとくです。途中で手をはなして落下しておどろかせてみようか。とも思いましたが、このクリニックは本校の校医であり、毎年学生の健康診断をお願いしていることもあり、その雑念や妄想を打ち消しながらなんとか思いとどまり耐えました。この検査を初めてうけたとき、横を向いて下さい。といわれ顔がジャマなのかと思い、一生懸命、顔を横に向けたら、ちゃんとして下さい。と声があり、まだ足りないのか。と思い、あらんかぎりの力で顔を横に向けたのですが、やさしかったその声がいくぶん荒々しくなり、ちゃんと横に向いて下さい!!で、あっそうか、体を横に向けるのか。とわかったのですが、初めてのときは緊張していて(なにしろ気が小さいのです)そのプロセスがわからず、顔がジャマなのかと思い込んでいたからでした。そんな苦(にが)い思いをしたこともあり、何回やってもにがてです。検査が終わり、これから毎日血圧を測って記入するように。と血圧手帳なるものを渡されてしまいました。若いころから数年前までは、よほどのことがないかぎり病院に行ったことがなく、健康診断もうけずにいたのですが、校長になると人間ドックを受けることが義務となり毎年うけています。その結果は要注意の生活習慣病がいくつかあり、かつての成人病と言われるより、この生活習慣病は言葉のひびきがやわらかく、生活習慣に気をつければ良いのだ。と軽くうけとめてしまい、なかなか改善されません。私は見た目は元気そうに見られているようですが、年を重ねるごとに当然のように劣化(れっか)し消耗(しょうもう)し、肉体疲労しているのがわかります。
夏は妖怪(ようかい)の季節でもあります。妖怪とは「人間と人間の関係のなかから立ち現れてくる幻想で、自分たちの否定的分身である」。と「日本妖怪異聞録」にありますが、ときどき顔を出す生活習慣病も私には妖怪のごとく思えます。ある高齢者に長生きの秘訣はなんですか。と聞いたところ、「死なないように気をつけることだ」。と言ったそうですが、なんだかんだと言っても、これにつきるような気がします。

2014.7.31

梅雨(つゆ)明けしたとみられる。と気象庁が言ったことで、本格的な夏になった感がありますが、かつて気象庁は「梅雨入り宣言」「梅雨明け宣言」などと発表していました。宣言したとたんに雨が降り出したこともあり、いまのようなあいまいな推測調の表現になったようです。梅雨明けしたとみられる。と言われたことで、気のせいか早朝から多くのセミがいっせいに鳴きたてる、蝉時雨(せみしぐれ)がより強くなっているように感じます。夏の太陽に似合う花はヒマワリですが、夕方からひっそりと咲く黄色い花の月見草も夏の花です。その名のとおり太陽を好まない月を見る草、待宵草(まつよいぐさ)とも呼ばれますが、あちこちに自生しているこの花は、北アメリカ原産の帰化植物で明治初期に入ってきたもので、オオマツヨイグサ(大待宵草)といい、この花と似ているアレチマツヨイグサ(荒地待宵草)とを一般的には月見草と呼んでいるのですが、どうもこれは誤りのようです。私もこの花を月見草と思っていましたが、本当の月見草は、江戸時代に観賞用として入った、夕方に純白で開花し、夜半には薄いピンク色に変わって朝にはしぼんでしまう可憐(かれん)な小さな花のことのようです。
太宰治が山梨県の御坂峠にある、旅館と土産物屋をかねた、天下茶屋というところに滞在したときのことを書いた、短編小説「富嶽百景(ふがくひゃっけい)」で富士に対する想いと、個人的な心境の変化を綴った中で「けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には月見草がよく似合う」と書いたことで、このフレーズが有名になり、広まったのですが、これも黄色い花のオオマツヨイグサを月見草と言っているようです。大正ロマンを代表する画家であり、詩人でもある竹久夢二も月見草を「宵待草(よいまちぐさ)」として作詞し、大正時代に大ヒットしています。実ることなく終わった夏の恋によってこの詩がつくられたと言われる、それは「待てど 暮らせど 来(こ)ぬ人を 宵待草の やるせなさ 今宵は 月も出ぬそうな」ですが、この宵待草という名の草はなく、月見草と呼ばれている大待宵草の待宵草を単純に間違えたのではないか。と言う説と待宵草では語感がよくないので、詩の語感をよくするため夢二が宵待草とした。という造語説もあるようです。待宵とは、陰暦の8月14日の夜のことで、翌15日の満月を待つ宵という意味だそうです。「再発見 竹久夢二の世界」のタイトルにひかれ、久し振りに文京区の竹久夢二美術館に行ってきました。茗荷谷にいたころの散歩コースのひとつであったことからよく通ったのですが、姉妹館の弥生美術館とも小さな私設美術館で、来館者もあまり多くなくいつも静かでした。その日は今まで見たこともない多くの入館者があり、おどろきましたが、となりの弥生美術館で、村岡花子と「赤毛のアン」の世界展をやっていたからでした。NHK連続テレビ小説「花子とアン」の放送により「赤毛のアン」の翻訳者として広く知られる村岡花子の波瀾(はらん)に満ちた生涯に注目が集まっていることからのようですが、二館伴(あわ)せて見ることができる共通券で、こちらも見ました。そういえば、日本ジュエリー協会のパーティーに出席したおり、アイサツされた中に「こぴっと」という言葉があり、出席者の笑いを誘っていたのですが、私はこのドラマを視ていなかったので、そのとき、それを知りませんでした。ジュエリー、アクセサリーの加工会社が甲府あたりに多くあり、その地からの出席者もいたことからのようでした。それは甲州弁(山梨の方言)で、東京と甲府が舞台の「花子とアン」で使われていて「こぴんと」ともいうそうですが、「しっかり」とか「きちん」とか「ちゃんと」とかのような意味だそうです。ことばのひびきがカワイイことから話題になったようです。レトロカワイイの殿堂ともいわれる弥生美術館には「こぴっと」は似合います。このあと連ドラ「花子とアン」を何回か視てみました。私は村岡花子の腹心の友、柳原白蓮(びゃくれん)がモデルの蓮子の方に関心と興味があります。山梨県出身の林真理子さんの評伝小説「白蓮れんれん」がこのドラマの放送開始後ベストセラーになっているようです。
元プロ野球監督の野村克也氏が、早くからスターであった王や長嶋がヒマワリなら、テスト生から球界入りしたオレは、ひっそりと日本海に咲く月見草。と言ったことがあります。私もどちらかに例(たと)えればヒマワリではなく、月見草であろうと思います。見る月ではなく、運のつき(尽き)にならないように「こぴっと」しなくては……。

2014.7.17

JRの「大人の休日倶楽部」というCMで、吉永小百合さんが見に行ったシーンが印象的であった、巨大壁画「秋田の行事」を見たいと思っていたところへ、タイミングよく秋田県美術展覧会(県展)の審査員を委嘱(いしょく)され、先月の末、秋田に行ってきました。秋田県展の審査は2度目で、前回は20数年前でまだ秋田新幹線は開通しておらず、盛岡から田沢湖線に乗り換えていました。他の審査員はほとんど飛行機での秋田入りでしたが、私は飛行機ぎらいで、国内はできるだけ鉄道を利用することにしていますが、今回は「こまち」に乗りたいとの思いもありました。久しぶりの秋田は暑くなく、涼しすぎずのくもり空で駅には「秋田さきがけ新聞」の方が出迎えてくれ、その日の夜はホテルで主催者側と審査員の打合せと親睦をかねた食事会がありました。事前に各審査員(絵画、彫刻、デザイン、写真、書道、工芸)の作品と顔写真入りの紹介記事、審査に向けてのメッセージが新聞に掲載されていたこともあり、旧知(きゅうち)のごとくなごやかな雰囲気で、秋田の銘酒を飲み比べながら翌日の審査に向け、英気(えいき)を養うことができました。審査は会場となる秋田市立千秋美術館で行いましたが、デザイン部門は「秋田」をテーマにしたポスターとイラストで、高校生の出品が多くあり、完成度は低くても、一般出品にはない、新鮮な魅力がある表現の、それらを選外にするのは辛く、とはいえ壁面が限られていることから絞らざるをえず、悩みながら再審査を繰り返し、やっと入選、授賞作品を決めることができました。新聞やカタログに掲載するための審査総評、授賞作品へのコメントなどの取材を受けて役割を終え、県立美術館に案内してもらいました。見たかった巨大壁画「秋田の行事」はフランスで最も有名な日本人画家と言われた藤田嗣治が描いたもので、想像していたよりはるかに大きく、ただ大きいだけではなく、その筆力は心身ともに活力がみなぎっていたときだからこそ、描けたのであろうと思わせるものでした。夜は秋田県芸術文化協会の会長をしている友人や地元のデザイナー、美術家、教育関係者が集まってくれ、秋田の旬(しゅん)であるジュンサイや岩ガキなどを肴(さかな)に地酒を酌(く)み交(か)わし、閉(し)めは稲庭うどんでした。楽しくうれしい豊かな時間を過ごしながら、20数年前を想いだしました。そのころ私は40代後半で、審査員のほとんどが60代〜70代で、私と写真部門の沼田早苗さんが40代だったことから主催者側が気をきかしてくれ、私と沼田さんを年長の審査員とは別に郷土料理の店に連れていってくれました。沼田さんは大竹省二先生の門下(もんか)で「財界」の表紙を担当している女流写真家として、マスコミでも話題の人でしたが、女流がつくなど男社会の写真界ではまだ偏見(へんけん)がある時代でした。審査日の夜は地元の名士も出席するパーティーがあり、そこで審査講評などしたのですが、受付を済ませ、名札のあるテーブルにつこうとしたら、すでに座っている名士らしき年配の方が、私が間違って座ろうとしているかのように、そこは今村先生の席ですので、といわれ一瞬、私もあっそうですか。と離れかけたのですが、フルネームで私の名があり、気をとりなおして、私、今村ですが!と言ったら、その方は失礼しました。と最敬礼され、かえって恐縮したことなどありました。私は審査員としては若く、小柄で貫禄(かんろく)がなかったことから仕方がないことだとの思いでした。
秋田といえば秋田杉に代表される森林や、木材、林業がさかんな県として知られています。そういうこともあり、新聞掲載の私の作品は2011年に制作した「国際森林年」のポスターで、キャッチコピーが「森を想うことは地球を想うことです。」でした。森を「循環(じゅんかん)出来る資源」として若い世代が「森ではたらく」に関心をもち、仕事に選ぶ人が増えてきているようです。「神去(かむさり)なあなあ日常」という変わったタイトルの三浦しをんの小説が映画化されましたが、これも都会育ちの青年が林業の現場を体験するという青春林業エンターテイメントです。森の仕事に将来性を見いだし、仕事先に森を選ぶ女性たち「林業女子」も増えていて「林業女子会」なる集いも各地にあるようです。そういえば原宿で「森ガール」なるファンタスティックな、森にいそうな、ゆるく空想的な雰囲気のファッションが話題になったことがありました。その原宿地域の安全、防犯活動に本校が貢献(こうけん)功労があったとして警視庁から表彰されることになり、原宿防犯協会の総会で表彰式があり、私が出席し原宿警察署長より感謝状を受けました。原宿防犯協会の会長さんのところの社名が「秋田木材」であり、秋田出身の方かと思っていたら、秋田の木材を扱っていることからとのことでした。秋田杉やヒノキ、サワラなどは吸湿性、芳香、殺菌効果などがあることから、秋田の「曲(ま)げわっぱ」が見直されているようです。この「まげわっぱ」は板を円形に曲げて底をつけた容器の総称ですが、警察の隠(いん)語で手錠(てじょう)も「わっぱ」と言うようです。木製の「わっぱ」はともかく、鉄製の「わっぱ」をかけられないよう、まっとうに生きなければ。との思いを強くしました。このところ、米は「あきたこまち」にしています。

2014.6.30

そのうち行ってみたい、と思っていたところのひとつであった、群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、世界文化遺産に登録されることになった。との報道があってから観光客のにぎわいが伝えられているところへ、先日それが決定されたことでより増えているようですので、しばらくは先(さき)のばしになりそうです。弥生時代に始まっていたといわれる日本の養蚕(ようさん)は、江戸末期から絹産業として急速に発展したのですが、そのころシルク(絹)の主な生産地は欧州で、明治の初めに政府がその技術を取り入れ、全国の製糸工場のお手本となるべく建てられたのが、この「富岡製糸場」でした。ここで培(つちか)われた技術によって、日本の工業の近代化と絹産業の発展と、日本の生糸(きいと)輸出が世界最大に育ち、日本の重要な輸出品として世界市場の8割を占(し)めるほどになったのだそうです。そんな生糸の生産を支えた若き女性たち、というより、少女たちを描いた映画「あゝ野麦峠」(主演:大竹しのぶ)が1979年(昭和54年)に公開され、日本アカデミー賞を総なめにするほど話題になりました。それは飛騨(岐阜)の農家の娘たちが信州(長野)の岡谷、諏訪の製糸工場へ働きに向かうため、雪の中を列をなして命がけで、けわしい野麦峠を越えていったその先は、過酷(かこく)で劣悪(れつあく)な労働環境の「女工哀史」のストーリーでした。そうした側面もあり、光と影がつきまといますが、富岡製糸場は政府直営のため待遇や環境は良かったようです。ここに興味や関心があるのは、私が育った信州も養蚕が盛んだったことから、懐かしさもともなってのことです。小学生のころ学年全員が学校から蚕(かいこ)を数匹もらい、自宅で飼って何回か脱皮させ、繭(まゆ)にしたのですが、餌(えさ)は桑(くわ)の葉で、できた繭を学校に集め、その繭を製糸工場に持って行き、繭から絹糸を取り、紡(つむ)いでいく工程を見学するのが教育の一環(いっかん)でした。クラスの半分ぐらいが養蚕農家でしたが、そうではない子供にとっては、蚕は気持ち悪いのですが、好奇心もあり、飼っているうちにカワイくもなり、触れるのも平気になりペットのようでした。蚕(かいこ)とは「飼(か)い蚕(こ)」の意だそうです。そのころは、いたるところに飼料になる桑畑があり、夏になると学校帰りの道草で、赤から黒紫に熟した甘酸っぱい桑の実を食べるのが楽しみでした。童謡「赤とんぼ」に歌われている<夕やけ小焼け(こやけ)の 赤とんぼ 負(お)われて見たのは いつの日か。 山の畑の 桑の実を 小籠(こかご)に摘(つ)んだは まぼろしか。>のような、遠い昔の記憶がよみがえってきます。食べると言えば、繭から糸をとったあとにのこるサナギも食用として活用されました。戦後の食糧事情の悪いときでもあり、当たり前のように食していたのですが、後年(こうねん)それは珍しいことであったことを知りました。サナギや虫を食べるというと顔をしかめる人が多いのですが、韓国ではポンデキという蚕のサナギを屋台などで売っていて、若い女性が、ソウルの街中(まちなか)をファーストフード感覚で、サナギの入った紙コップを手にして、歩きながら食べているのをよく目にしましたが、違和感はなく、むしろオシャレ感がありました。このサナギは中国や東南アジアから輸入したものだそうです。
遠からず食糧不足が訪れるといわれ、いま、こうしたアジア諸国で食べられている伝統食の食用昆虫が、良質のタンパク質など栄養価が高いことから、極(きわ)めて有効な栄養供給源として注目されているようです。食料事情と言えば、経済連携やパートナーシップ協定のTPP交渉が、アメリカとの間で合意できず長期化していて、とくに安い農産物の輸入による農業への打撃が懸念(けねん)されているようですが、パンを主食とするアメリカが米国で、米を主食とする日本がJAPAN(ジャパン)では、そもそもがむずかしいのではないでしょうか。

2014.6.16

6月と言えば梅雨(ばいう)ですが、関東地方も早々に梅雨(つゆ)入りし、局地的に激しい雨が降り、梅雨とか梅雨入りとかの言葉のイメージとは、かけはなれていますが、田植(たうえ)がすんだ田圃(たんぼ)を水田(すいでん)というように、稲作(いなさく)ではこの梅雨は恵みの雨であり、慈雨(じう)でもあります。梅雨(ばいう)というのは中国からの言葉で、中国では梅の実が熟する時期に雨期があり、よく熟していることを熟(つ)ゆということから、この名がついたのだそうです。(長雨によって黴(かび)が生えることから「黴雨(ばいう)」と言っていたのが語感が悪いので、梅雨になったという説もあるようです。)日本ではその実がまだ青々としていることから、江戸時代ごろより露(つゆ)からの連想で梅雨(つゆ)と呼ばれるようになったともいわれます。入梅(にゅうばい)は梅雨の季節全体をいうのだそうです。そんな梅雨の中、たわわに実る青々とした梅の実、青梅を見るのも趣(おもむき)があって好きです。緑色なのに青々とした、とか、青梅とか表現しますが、青はブルーであり、緑のグリーンではありません。遠い昔は色を表す言葉が少なく、グリーン(緑)もブルー(青)も共に「青」と言い表していたことからのようです。雨過天晴(うかてんせい)とはならなかった、文字通りの梅雨(つゆ)空のなか、恒例のスポーツ大会を行いました。会場は同じ「国立オリンピック記念青少年総合センター」でした。午前は2・3年生、午後が1年生で、それぞれ開会式、閉会式があり、私は大会会長としてアイサツをし、選手宣誓をうけるなどしました。今年もドッジボールと綱引きのクラス対抗で、ふだん学校では見せない、見えない表情での熱戦がくりひろげられ、学生達のエネルギーが、うっとうしい湿気の多い、ジメジメした空気を吹きとばしてくれました。私はアイサツの中で、この会場は1964年の東京オリンピックの選手村であったこと、この選手村をつくるにあたり、この周辺の道路を整備することになり、近くを流れている小川にフタをして暗渠(あんきょ)にしたのが<春の小川は さらさら行くよ 岸のすみれや れんげの花に すがたやさしく 色うつくしく 咲いているねと ささやきながら>と歌いつがれている「春の小川」の詞になったところです。と由来を話しました。この歌ができた1912年ごろ、この一帯はのどかな田園地帯だったそうです。この歌の小川は、宇田川の支流のひとつである河骨川(こうほねがわ)といい、この川には河骨(こうほね)という黄色いかわいらしい花が咲いていたことから、その名がついたのだそうです。その愛らしい花には似合わない「河骨」は根と茎(くき)が白くゴツゴツしていて骨のように見えるところからの名だそうです。それにしても、もう少しなんとかならなかったのか。と、その名を気の毒に思います。
食べものの味つけ、味かげんがうまくいったことをいう言葉に、塩梅(あんばい)がありますが、本来の読みは「えんばい」で塩と梅酢を合わせた調味料を意味していて、梅酢は塩とともに最も古い調味料だそうです。こうほね(河骨)は夏の花で、いまごろ咲いていたんだろうな。とその花に思いをはせながら、「河骨」という花の命名(めいめい)も、いい塩梅に、ほどよい味かげんで折合いをつけて、花の姿に合うような名にできなかったのか。との思いが募(つの)ります。河骨の花はそんな名をつけられたことなど、梅雨(つゆ)知らず。でしょうが…。

2014.5.29

緑が深まり、陽光がきらめく湯河原は、初夏の風にのって、みかんの花の甘酸(あまず)っぱい香りが町中に漂っています。私は、りんご、なし、ぶどう、もも、かき、など果樹(かじゅ)は多いのですが、みかんの樹(き)は育たない海のない長野で育ってしまったので、ガキのころは海もみかんの花も見たことがなく、ラジオから(そのころはまだテレビはありませんでした)流れてくる「みかんの花咲く丘」の<みかんの花が 咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える 青い海 お船がとおく 霞(かす)んでる>。の歌詞の風景を子供心に想像して憧(あこが)れていました。この可憐(かれん)な白いみかんの花「花みかん」をまじまじと目にしたのは湯河原に移ってからでした。この歌は、終戦間もない1946年(昭和21年)に、伊豆の伊東市でNHKラジオの公開放送があり、少女歌手の川田正子さんが歌い電波に乗り大反響を呼び、この一回だけのための歌であったのが、その後大ヒットし歌いつがれたのだそうです。そのため歌碑(かひ)は伊東市にありますが、このゆったりしたリズムが心地よい童謡の名曲「みかんの花咲く丘」が生まれた場所は、JR東海道線の国府津付近(ふきん)を過ぎたころ、車窓からの眺めがぱっと開けて、相模湾の海原(うなばら)がきらきら光り、遠く前方にかすむ真鶴半島が見えてきて、このメロディーが浮かんだのだそうです。私には、この東海道線の小田原を過ぎて早川の先、真鶴の前の根府川あたりの方がこの歌のイメージに近い風景に見えます。私はときおり内田百間(うちだひゃっけん)の「阿房列車(あほうれっしゃ)」のように、用事や目的がないまま、東海道線や伊豆急線に乗り、てきとうな駅で降りたりしていますが、この沿線はどこも「みかんの花咲く丘」のような風光でウキウキします。
このみかんは、甘い柑橘(かんきつ)というところから「蜜柑」と表記されますが、古くは「みつかん」と読まれたそうです。柑橘の橘(きつ)は橘(たちばな)のことですが、この橘は古くから日本に野生している固有の柑橘で、常緑の葉が永劫(えいごう)悠久(ゆうきゅう)を意味することからその実より花と葉が尊重され、家紋や紋様のデザインに用いられ、文化の永久性を表現するのに最も適しているとして、文化勲章にもデザインされています。みかんの花を「花みかん」ともいいますが、みかんの花の古名は花橘(はなたちばな)だそうです。このタチバナは生食には向かないのですが、そうした仲間にユズ(柚子)ユコウ(柚香)ダイダイ(橙)カボス(香母酢)スダチ(酢橘)カラタチ(枸橘)などがあり、ダイダイの一種には「カブチ」「カブス」と呼ばれるものもあるそうです。これらの花はミカンと同じ白い花で、果実は緑色のうちに収穫し果汁は酸味に富(と)んでいて、独特のさわやかな香りがあり、刺身や焼き魚、鍋料理などの薬味(やくみ)として用いられ、こうした生食には向かない柑橘類を「香酸柑橘(こうさんかんきつ)」といい、「酢みかん」とも言うそうです。代表的なものはスダチ、カボスですがカボスより小さいスダチは四国の徳島、カボスは九州の大分が主産地で、かつて大分の産地にいた友人が毎年このカボスを送ってくれ、薬味に使うには数が多く、大皿に盛り、その緑色の実が黄熟(おうじゅく)していく変化が好きで、楽しませてもらいました。ちなみに大分県のマスコットのゆるキャラは「カボたん」だそうです。
純真で汚れを知らない?ガキのころ、山の彼方(あなた)の空遠く、のように山の向こうには「みかんの花咲く丘」のような、明るく楽しそうな景色が広がっているのではないか。と思い描いて憧れ夢想した、そのみかんの花が香り匂う、歌の光景そのもののようなところにいるいま、あたかも「阿房列車」の用事のない旅のように、たまたま立ち寄った湯河原で、子供のころ思い描いた夢と現(うつつ)が行き来して、まどろみ、まだ旅の途中のような不思議な気分です。

2014.5.15

<あたふたと若葉青葉の日の光>この芭蕉の句のように5月は、「風ひかる」から「風薫る」へと、春から夏に移ろうときですが、連休明けの校内も、初々(ういうい)しくて若葉のようだった新入生が青葉のような在校生となり、まぶしくて、はじけるような声が飛び交(か)いひびき、初夏のひかりあふれる五月晴れが続いています。かつていわれた「五月病」という言葉はどこへ。という感じですが、学生たちの心の移ろいも気になるときでもあります。若葉青葉といえば緑が香る新茶の季節でもあり、産地からは昔ながらの新茶の茶摘(つ)み風景が伝えられています。<夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘みじゃないか あかねだすきに 菅(すげ)の笠>これは「茶摘み」の歌詞ですが、八十八夜は立春から数えて88日目の5月2日ごろのことで、このころ一番茶の葉が摘まれたことからだそうです。いまは大量生産の動力摘みになっているため、この歌よりもう少し早くなっていて、茶摘みも娘たちがかすりの着物姿で、手で摘む風物詩的な風景は、観光絵葉書やメディアへの広報や宣伝のためのものになっているようです。茜(あかね)色や、かすりの着物、たすきがけ、菅の笠などは、大人でも知らない人が多いのではないでしょうか。新茶の季節のいま、茶畑が最も美しいときであり、そのかぐわしい新茶のかおりと、20数年前の記憶に誘われて、静岡の茶畑が見たくなり、この連休はそれぞれの名前がついたお茶の産地である、掛川、菊川、金谷、川根、などの茶畑を巡ってきました。とくに金谷から菊川にかけては、牧の原台地と言われる広大な土地に、土を幾筋(いくすじ)も盛り上げ、畝状(うねじょう)に連(つら)なり広がる見渡す限りの茶畑の、その眺望(ちょうぼう)は記憶の中の心にのこるとっておきの風景でもありました。みずみずしい緑とさわやかな風のなか、ただただ眺めるだけのゆったりとした時間の流れは、甦(よみがえ)る遠い記憶の時間を旅しているかのようでした。このように静岡が日本一のお茶の産地になったのは、幕末に最後の将軍徳川慶喜と共に徳川家にしたがって駿府(静岡)に移住し、職を失った家臣(かしん)たちが、荒地を開墾(かいこん)して茶畑にしたからだそうです。そんな茶畑をめぐるなか、あちこちで「深蒸し茶」という看板やパッケージが目につきました。この深蒸(ふかむ)し茶は、蒸し時間を長くすることで少ない茶葉でも早く濃く出て、まろやかでコクのある甘みが特長だそうですが、長い蒸し時間に耐えられる力が茶葉に必要で、柔らかい芽で葉が大きく、肉厚な静岡の茶葉がこの深蒸し茶に適しているのだそうです。かなり前、川根茶の生産農家が実家の学生が帰省したおり、新茶の深蒸し茶を持ってきてくれ、教員室でおいしくいただいたことなども思い出しました。
お茶にまつわる言葉に「お茶をにごす」「お茶目」「無茶苦茶」「滅茶苦茶」「目茶目茶」「茶番」「茶坊主」「茶化す」「茶々を入れる」などの他にもたくさんありますが、「茶化す」と「茶々を入れる」は、水をさす、じゃまをする、ひやかす、冗談を言う、ふざける、はぐらかす、など同じような意味ですが、私はあらぬときに、条件反射のように茶化したり、茶々を入れてしまうことがあります。かなり真面目な会合で、「今村さんの顔が広いところでよろしくお願いします。」といわれ、とっさに「私は顔が広いのではなく、額(ひたい)が広いのです。」などといってしまい。しまった!!と思ったときはすでに遅く、茶々を入れたことで「万事急須(ばんじきゅうす)」ならぬ「万事休す」になったような失態(しったい)は数(かず)かぎりなくあります。自制(じせい)はしているのですが、悲しい性(さが)です。もう治りそうにありません。

2014.4.28

いま、新入生は学校生活になれるため、さまざまなプログラムがあるオリエンテーション期間ですが、そのひとつであるフレッシュマン・レクリエーションの、相模湖プレジャーフォレストでのデーキャンプ「ダッチオーブンでピザ作り&コーンスープ」に今年も同行しました。華(はな)やかなソメイヨシノの花が散り、わずかにのこった残花もなくなり、すっかり若葉の葉桜になっている4月18日の朝、小雨が降る肌寒いなか、大型バス9台で原宿を出発しました。相模湖近くの里では八重桜が咲き、春の山々は木の芽が萌(も)え、黄と緑の間の萌黄色(もえぎいろ)の若葉の新緑がつらなるなか、ところどころに山桜が咲いていて、毎年この山桜を見るのと、春告げ鳥のウグイスの鳴き声を聞くのが楽しみでしたが、寒さのせいでまだ山に上ってきていないのか、鳴き声を聞くことはできませんでした。その年に初めて聞くウグイスの声を初音(はつね)というそうですが、湯河原では3月下旬ごろでした。ウグイスといえば若葉の小松菜を鶯菜(うぐいすな)といい、この季節の寒さを若葉寒(わかばざむ)というそうです。若者(わかもの)とか若人(わこうど)といわれるこの世代の学生にとっては、寒さより仲間とにぎやかにピザ作りに興じている熱と、カマドの熱の方が若葉寒をはるかに超えているようでした。若(も)しかして。というように「若」という字には春の若葉のように青春の可能性が秘(ひ)められていて、学生たちのそのきらめきに、心の中でほんのひとときですが、懐かしい青春が戻ってきたような気がしました。もちろん青春は必ずしも明るく、楽しく、輝きに満ちていることばかりではありませんが、やはりその若さには羨望(せんぼう)をおぼえました。
春の若葉は「木の芽(きのめ)」とか木の芽どき。とか呼ばれ、この「木の芽」は山椒(さんしょう)の若葉のことをいい、蝶(ちょう)の幼虫の食草でもありますが、食材としても吸い物に浮かしたり、煮物の香り付けに添えたり、刻(きざ)んでみそに入れ、木の芽田楽(でんがく)にしたり、つくだ煮にしたり、木の芽や実を塩漬にしたり、緑あざやかな香り高い春の料理として、みそ、さとうをすりまぜた和(あ)えものに「木の芽和え」などがあります。(山椒の木は「すりこ木」に向いているそうです。)「木の芽」は地方によってはアケビのつるの新芽のことをいうそうです。山椒の実をつぶした粉山椒(こなさんしょう)は、うなぎの蒲焼などにつかったり、その辛(から)みと芳香(ほうこう)は、古くから利用されている日本の代表的な香辛料で「七味唐辛子」にも入っています。七味唐辛子にゴミ(五味)が混ざれば「十二味唐辛子」だ。などとつまらないことを言ったりしたこともありました。山椒の実は薬効(やっこう)もあり古くから服用もされているようです。「実山椒」「花山椒」という言葉もあります。全国有数の産地は和歌山県の有田町というところだそうですが、最近は中国産が多くなっているようです。あいにくの小雨もようでしたが、学生たちのはじける若さと、山野草の花や新緑を見ることで、なんとはなしに心が高揚(こうよう)し、若さの「おすそわけ」をもらったような気がしました。帰りのバスは「春眠」という言葉のようにほとんどの学生が心地よい眠りについていて、そこには、ささやかな幸せ感が漂(ただよ)っていました。そんな空気に身も心も委(ゆだ)ねながら、私は背も低く、貫禄(かんろく)がないので、せめて、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」。ぐらいは言われてみたいものだ。との思いもしました。

2014.4.15

4月は始まりの季節。そんな何かを予感させるような、まれにみる、うららかな、春らしい好天に恵まれた、8日の午前10時より、明治神宮会館で入学式を行いました。期待と不安が入り混じっているであろう新入生を迎え、その清々(すがすが)しい、さわやかな表情に、新しい春を実感し、新鮮な気持ちになって、式を終えることができました。新入生はその場でガイダンスがあり、保護者の方には参集殿に移っていただいて、今後の学校生活について説明会を行いました。入学式と桜はセットになっているようなイメージがありますが、ソメイヨシノは、ほとんど散っていて式場の庭にあるシダレザクラは、まだ見ごろでした。池にはいくつもの「花いかだ」が優雅に浮き漂(ただよ)っていました。春先の雨は降るごとに暖かくなり、次々に桜が咲くことから「花起こしの雨」、桜が咲いてから降る雨を「花散らしの雨」といい、この雨で桜の花がはかなく、たちまち散って、その花びらが川や池にかたまって浮いているのを、筏(いかだ)に見たてて「花筏」と表すなどは、日本の美しい旬(しゅん)の言葉です。よく間違ってつかわれる言葉に「はなむけのことば」があります。これは「花向け」ではなく「鼻向け」で「これから去って行く人」に送るもので、歓迎の意味ではなく、かつて旅立つ人の道中の無事を祈って、その人の馬の「鼻」を、これから向かう目的地の方に向けてやる習慣があったことからだそうです。馬という文字から、横光利一の短編、「春は馬車に乗って」が浮かんできて、春と桜と馬は意外につながりがあることに気がつきました。桜が散ることから「桜に馬をつなぐ馬鹿」とか、桜を切ると切り口から腐(くさ)りやすいので、切らない方がよく、梅の枝は切った方が花実がつく。ということから「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われるなど、なにかと桜と馬がつながります。馬鹿という字も馬ですが、馬鹿はサンスクリット語で「無知」や「迷走」を意味する莫迦(ばくか)が転じたもので、馬鹿と書くのは当て字だそうです。
入学式の数日前、馬つながりで用賀にある「馬事公苑」に桜を見に行ってきました。桜の種類も多く、満開の桜の下ではそれぞれ静かで落ちついた花見をしていて、馬車道では馬車の試乗もでき、馬とふれ合う体験乗馬もあり、苑内は「春は馬車に乗って」そのものでした。私は「しつこい」ので、もうひとつ馬つながりで、森下の馬肉料理専門店の「みの家」に久しぶりに行ってきました。この「みの家」は、創業明治30年の歴史を感じさせるたたずまいで、玄関には下足番のおじさんがいて、タタミの大広間で桜鍋(さくらなべ)を、味噌を加えたワリシタで食べる、その雰囲気も好きで通ったものでした。馬肉を「さくら」というのは、肉の色が切ってすぐは桜色であることから、とか、桜の咲くころの馬肉は脂がのっていてうまい。とか、仏教伝来以降は獣肉が敬遠されたことから、その隠語(いんご)で、馬肉を「さくら」猪肉を「ぼたん」鹿肉を「もみじ」としてつかったという説などがあるようです。卒業生との飲み会をこの「みの家」でやったことがありましたが、あまり評判はよくありませんでした。それは、どうも馬肉を食べることへの抵抗感のようでした。低カロリー、高タンパクでヘルシーなんだよ。とか、フランスではポピュラーなんだよ。とか、いったのですが、馬耳東風(ばじとうふう)、馬の耳に念仏(ねんぶつ)状態でした。数年ぶりの「みの家」も馬事公苑で馬と親しんできたあとでもあり、桜鍋をつつきながら馬の顔がチラついて順序が逆だったことを悔(く)やみ、(そういう問題ではないとは思いますが)馬鹿、馬鹿と、己(おのれ)の馬鹿を知らぬ馬鹿。と自らに言い聞かせました。

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