
HOME > 今村昭秀学校長のショートコラム
[2010.8.30](New!)
夏でお盆(ぼん)となれば、妖怪(ようかい)がにあう季節であり、妖怪といえば、妖怪の聖典(せいてん)ともいえる柳田国男の「遠野物語」が発刊されて100周年になることもあり、岩手県の遠野に行ってきました。「遠野物語」は、この地方に親から子へと家族間で口伝(くちづた)えで語りつがれてきた昔話や民話の民間伝承(でんしょう)を、そのまま聞き書きしたものですが、100周年ということで「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるさんが遠野に出向いて取材をしてコミック化した「遠野物語」が記念出版されました。そこには、ザシキワラシ、カッパ、オシラサマなど怪異(かいい)な妖怪たちが水木流の親しみのある愛らしい妖怪に描かれていて、登場する妖怪たちに会いたくなるような妖怪絵巻がくりひろげられていました。「みちのく」という言葉のひびきが好きで、東北地方には何度も行っているのですが、遠野は初めてでした。「みちのく」は「みちのおく」の意味だそうですが、40数年前に訪れた北上山地は日本のチベットなどといわれていたころで、「北上夜曲」というさびしげな歌がはやっていました。山間(さんかん)の寒冷地では米がとれなく、ヒエ、アワ、キビ、ソバなど冷害につよい「雑穀(ざっこく)」が食べられていました。今では米もとれるようになり、それらは生活習慣病を予防する健康食品といわれていて、時の流れを感じます。北上山地の南部にある遠野は、深田久弥の「日本百名山」にも選ばれている霊峰(れいほう)早池峰山(はやちねさん)など周囲を山にかこまれた盆地で、自然、神、人がおりなす伝承文学の原風景が広がっていました。そんな風景の中を「遠野ふるさと村」語り部(かたりべ)の昔話が聞ける「伝承園」「とおの昔話村」などをめぐり、現実社会でおきている事件のむごい、やりきれなさから、しばし愛しい妖怪たちに思いをはせることができました。私が最も興味と関心があったのは河童(かっぱ)についてでした。各地にカッパ伝説はありますが(水木マンガにも「河童の三平」があります。)ここ遠野がカッパに関する情報、もっともらしい話題が多く、カッパ釣りを指南するマブリット(守り人)がいるほどです。遠野観光協会で「カッパ捕獲許可証」を発行していると聞き、それを手に入れるのが一番の目的でした。いま、手元に「カッパ捕獲許可証」があります。それには許可番号があり、許可期間もきめられていて、それ以外で捕えると密漁になってしまいます。許可証にはカッパ捕獲7カ条があり、
1.カッパを生捕りにし、傷をつけないで捕えること。
2.頭の皿を傷つけず、皿の中の水をこぼさないで捕えること。
3.捕獲場所はカッパ淵に限ること。
4.捕えるカッパは真赤な頭と大きな口であること。
5.金具を使った道具でカッパを捕えないこと。
6.餌は新鮮な野菜を使って捕えること。
7.捕えたときには観光協会の承認を得ること。
とあります。今回は、カッパ淵(ふち)の周辺を念入りに調査してきたので、なんとしてもカッパを捕獲したいと思っています。ただ心配なのは、私のこの風貌(ふうぼう)から、私自身がカッパと見誤(みあやま)られて、捕えられてしまうのではないかということです。人がいないときに、人知れず捕獲しなくては、と心と体をきたえているところです。
[2010.8.12]
あちこちで最高気温がぬりかえられている猛暑の中、夏休みに入っている学校では、体験入学、説明会など、オープンキャンパスのイベントを行っています。私もできるだけ出校して、全国から参加してくださった方々に、直接お会いしてアイサツをさせていただいています。先日、そうしたイベントに、20年ほど前の教え子が母親となって、高校3年生と中学生の娘さんを伴(とも)なって、山口県から参加してくれました。卒業して初めての再会が、高校生の娘の母親として母校にきてくれたことの、うれしさとおどろきは不思議な感覚で、卒業以来の空白の時間をうめるのに、少しの時間が必要でした。同級生の名前が次から次へと出てくることで、当時の教室の光景やエピソードがよみがってきました。なつかしい思い出の話をしている間、娘さんは母親の学生時代をニコニコと楽しそうに聞いていました。「極楽(ごくらく)の余(あま)り風」という言葉があるのを知りました。暑い夏に吹く心地よい涼風のことだそうですが、こうして卒業生が親となり、子供をつれて来校してくれたのは、まさに「極楽の余り風」のようでした。本校の講師になって最初のころの教え子が50才前後になることを思うと私も年をとるのは当然ですが、多くの卒業生との色々な交流も楽しんでいます。結婚式に呼ばれたり(同級生、同窓生同士の結婚も多いです。)結婚披露パーティー、新年会、忘年会、食事会、飲み会、個展、グループ展を見に行くことなどですが、子供づれで出席する集まりもあります。キャリアコース(夜間講座)の修了生は「今村塾」なる集まりをつくって呼んでくれます。タイミングや、都合によって出席できないこともあり、残念ですし、申し訳なく思っています。OB・OG会では忘れかけていたり、忘れていたりした卒業生が出席してくれることもあり、楽しみにしています。また、セミナーや特別講義などの講師もお願いすることもあります。校長室にもときおり卒業生が訪れてくれたりもします。長く教師をしているおかげで、こうしてさまざまな卒業生との交流があり、そうしたことで過去と現在がつながり、浮き彫りにされ、懐(なつ)かしい日々を「生き直す」ことで「現在を生きる」ことの豊かさとは、こういうことでもある。ということも教えてくれた「極楽の余り風」でした。
[2010.7.30]
本校のギャラリー「アミ」で「ニューヨークタイポディレクターズクラブポスター展」を開催しました。これは本校の近くにお住まいの日本タイポグラフィー協会の会長をされ、国際タイポグラフィ-協会の会員でもある、篠原栄太氏よりニューヨークタイポディレクターズクラブの会員作品を寄贈(きぞう)していただいたことからですが、篠原さんが大学で講師をしていたころの教え子が本校の講師をしているご縁でもありました。この機会にその講師と一緒にお礼をかねて、ご自宅に伺(うかが)いました。篠原さんが本校の近くにお住まいのことはずいぶん前から知っていました。私の年長の友人がTBSテレビの開局のころから番組のタイトルデザインを篠原さんと一緒にしていた同僚で、その後友人は赤坂のTBS近くにテレビタイトルの制作会社をつくり独立しました。この制作会社には卒業生が何人もお世話になりました。主にTBSテレビの仕事をしていて篠原さんとは今日まで親交が続いていることから、篠原さんを紹介するといわれていて、数10年がたっていました。そんなエピソードを篠原さんのお宅でしていたら、篠原さんの奥さんが私が代表をしている会の年長の仲間と大学の同級生であったことも初めて知りおどろきました。 篠原さんが会長をしている日本タイポグラフィー協会は1964年にできた日本レタリングデザイナー協会が母体となっていて、そのレタリングデザイナー協会の設立に関わった共通の知人が多く、懐かしい名前が飛び交いました。そのころレタリングブームがおこり、文部省認定レタリング技能検定などもでき、私の知人や篠原さんも中央試験委員でした。このブームはレタリングの通信教育の広がりによるものでした。その教科書を監修したのがレタリング協会設立の中心メンバーで、私の2代前の二科会デザイン部の代表をした先輩でした。その教科書の見本書体を書いたのが二科展デザイン部の出品者でもあったアシスタントでした。そのアシスタントはアメリカにわたり、一流スタジオであったグラフィックデザイナー・ソールバスのスタッフになりアメリカで活躍しました。ソールバスは読めれば良いとされていた映画タイトルを、斬新で魅力的な見せる映画タイトルにデザインして話題になったデザイナーです。「悲しみよこんにちは。」「ウエストサイド物語」などのタイトルは今でも鮮明に思い出します。楽しい語らいもあっという間に過ぎ、帰りぎわ篠原さんの著書を2冊もいただいてしまいました。そこには篠原さんがデザインしたテレビタイトル、ロゴタイプなどの人気番組の数々「渡る世間は鬼ばかり」「風雲たけし城」「3年B組金八先生」「遠くへ行きたい」などがありました。その著書にプロデューサーの石井ふく子さんが寄せた文に「タイトルはドラマの表紙である」とありました。篠原さんのおだやかで、温かく、謙虚なお人柄は、もっと見たい、知りたいと思わせる番組のタイトル(表紙)のようでした。
[2010.7.16]
公開中の映画「Flowers(フラワーズ)」をみてきました。資生堂が特別協賛をしていることで、日本の女性たちへ向けた映画であることはわかっていたのですが、この映画の企画制作総指揮にアートディレクター大貫卓也氏の名があったからでした。大貫さんは博報堂時代にラフォーレやカップヌードル、<日本一面白くない遊園地>をキャッチコピーにした豊島園などの広告で世間(せけん)をあっといわせ、その後もつねに旬(しゅん)な広告をつくり、資生堂の「TSUBAKI」の広告では、女性向けの広告も手がけています。そんな大貫さんが企画した映画はどんな映画なんだろうとの興味がありました。それは、美しい日本の四季の風景をバックに昭和の初めから平成までの3世代にわたる6人の女性たちが、それぞれの時代を世間(せけん)の抑圧(よくあつ)に苦しみ、悩みながら自分らしくひたむきに時代を生きぬく、静かで、芯(しん)の強い日本女性の、平凡でありながら、波瀾万丈(はらんばんじょう)な人生を描いていました。6人の女性の物語が、単なるオムニバスではなく、時代を超えて、命とともに愛がつながっていくストーリーが、1本の糸に紡(つむ)がれて、つながって、作品になっていく、タペストリーのようでした。人は、血縁関係や、出合い関わりあった人たちだけでなく、すべての人々とのつながりが、自らを生かしてくれているということや、幸せの形も人それぞれであり、客観的な幸せなどというものはないのでは、と改めて思わされました。日本女性が耐え忍んできた世間の抑圧の多くは、男性社会に都合のよい価値観によるものであり、これは男性に向けた映画であるともいえそうです。「苦しみて後に楽こそ知らるなり、苦労知らずに楽に味なし」という古歌がありますが、辛いことや苦しみや、忍(しの)び耐(た)えることなどを多く経験してこそ、感謝とか感動がおこってくるという意味だそうですが、大貫さんの斬新で洗練された、明るくて軽妙で苦労のかけらも感じさせない広告表現も、その制作プロセスでは、人には見せない。見えない、生みの苦しみ、悩みがあるからこそだということが見えてきた映画でもありました。
[2010.6.30]
前回、書道的タイポグラフィのさきがけなどと書きましたが、1950~70年代にかけて、画家の佐野繁次郎さんがユニークな書体で描くタウン誌「銀座百点」や単行本の表紙、パッケージ、手さげ袋、広告などのデザインが好きで、それらに触発(しょくはつ)されてのことでした。2年ほど前に「佐野繁次郎の装丁展」が豊島区と千代田区立図書館で企画されたことがあり、見に行ってきました。装丁(そうてい)は、いまでいうブックジャケットデザインですが、佐野さんの書をつかったデザインは装丁が似合います。前衛書道をやっていた社長が二科展に絵画を出品したいといいだし、先輩デザイナーが退社して、彫刻家の奥さんとニューヨークへ行ったことで、私がアシスタントと、マネージャー的な役目をすることになりました。キャンバスに前衛書道を生かした抽象表現の作品が二科展に入選したことでいっきに熱が入り、アトリエを設けて制作するなどして、連続入選するようになった作品が、アンフォルメル運動を提唱(ていしょう)して来日中の国際的に知られたフランスの美術評論家ミッシェル・タピエ氏の目にとまり、イタリア・トリノの国際美学センターでの国際展に岡本太郎、吉原治良、具体美術のメンバーなどと招待されるようになりました。具体美術協会や指導した吉原治良さんの活動が国際的に評価され、日本にフィードバックされ、評価が過熱したのは、ミッシェル・タピエ氏が海外で紹介したことによるものでした。私はメッセンジャーボーイとして、タピエ氏を通じて岡本太郎、吉原治良さんとも関わることができました。吉原治良さんが体を悪くされ、大阪のご自宅で(芦屋にもお宅がありました。)静養されているとき、社長と2人でお見舞いにうかがったり、土蔵(どぞう)を改造した具体の美術館「グタイピナコテカ」ができたときも案内をいただき見学に行ったことがありました。
その社長が銀座のギャラリーで個展をやることになり、パンフレットの紹介文をミッシェル・タピエ氏が書いてくれ、送られてできたフランス語を訳してもらいに私が国立西洋美術館の館長室をたずね、館長の富永惣一さんに訳してもらいました。富永館長は美術評論家であり、タピエ氏とは友人でした。タピエ氏の紹介文のおかげで、個展には岡本太郎さんをはじめ多くの抽象系画家がきてくれました。あのころは私も若く、生意気だったので、吉原さんも大阪の大きな会社の社長であり、ブルジョアの遊び、道楽ではないかとの思いがありました。’70年の大阪万博で岡本太郎は、テーマ館のプロデューサーとして万博のシンボルとなった「太陽の塔」を制作し、吉原治良は万博美術館委員として、お祭り広場で「具体美術まつり」を行い、私も出張あつかいで仕事として見学に行ってきました。そのとき吉原さんは63才、岡本さんは59才でした。下着のアバンギャルド鴨下羊子と岡本太郎、吉原治良と具体美術協会の共通する挑戦的な姿勢に、リアルタイムでほんの少しですがつながることができ、20代の単なるメッセンジャーボーイであったあの日々の、なんと豊かで、ぜいたくな時間であったことかと、しみじみと感慨(かんがい)にひたらせてくれた岡本太郎美術館でした。
[2010.6.23]
先日、川崎の生田緑地にある岡本太郎美術館へ行ってきました。多摩丘陵(きゅうりょう)の一角に位置するゆたかな樹木(じゅもく)にかこまれた静かな環境が好きで、ときおり訪れ、時間があるときは、となりの日本民家園にも足をのばしています。帰りに多摩川べりにある太郎の母、岡本かの子の生家あとにも寄りましたが、岡本太郎の彫刻と記念碑があるだけの空地(あきち)でした。今回は「前衛下着道・鴨居羊子とその時代」展で、1950年代から80年代、主に関西で活躍した鴨居羊子の「言葉」「絵画」「下着」と彼女を励まし、支え、関わった岡本太郎、今東光、司馬遼太郎、吉原治良と具体美術協会などの資料、作品、写真、記録映像などが紹介されていました。下着は白という意識のつよかった時代に、今でこそあたりまえのファッション性、機能性のある華やかな色合いや、見せる下着などを、下着のショーや個展で発表するという斬新な方法が大きな反響を呼び、髪を金色に染めるなど、そのライフスタイルにも注目された女性の意識革命のパイオニア的存在でした。下着ショーの会場構成に、そのころ関西で活躍していたグラフィックデザイナー早川良雄の名があり、演出に関わった関西の前衛グループ具体美術協会のメンバーや吉原治良の名もあり、私が20代であった1960年代から70年代にかけての当時をなつかしく思いだしました。岡本太郎と吉原治良は二科会会員で、期待されたホープでした。二科会の中でより前衛的な表現を求めた「九室会」を結成し、「日本アバンギャルド美術家クラブ」の結成にも参加して、二科会会員でありながら、さまざまな分野の芸術家と交流し、その後岡本太郎は二科会を退会し、吉原治良は具体美術協会を結成して、その表現をより先鋭的にしているころ、私はアパレルメーカーのデザイン室に勤めていて、前衛を気どった作品を本名ではない名前で個展やグループ展などで発表し、二科展の商業美術部(現デザイン部)にも出品していました。デザイン室の先輩デザイナーも二科展の絵画部と商業美術部の両方に出品し、奥さんも彫刻部に出品していたこともあり、社長が二科展を見にいくときは説明役で同行していました。その社長は前衛書道をやっており、前衛書道展に出品していて、なかなか魅力的な書で、当時の広告や商品ロゴなどを社長の書と私のデザインで制作したものでした。今は書道的表現のタイポグラフィーが多く見られますが、そのさきがけでした。こう書きながらまだ先が見えてきません。前々回も長くなってしまい、なにがショートコラムだ、あのタイトルはジョークか、などといわれているような気がします。(こう見えても気が小さいのです。)まとめる力がありません。次回につづきを書かせてください。スミマセン。
[2010.6.10]
6月に入ったばかりの先週、国立オリンピック記念青少年総合センターの体育館で、今年もスポーツ大会を開催しました。AMは2・3年生。PMは1年生の学年別クラス対抗ドッジボール競技で、今回は敗者復活の<つなひき合戦>も行いました。梅雨(つゆ)入り前の会場は、学生の熱気と夏日(なつび)の気温でむし暑く、私は開会式のアイサツと閉会式で賞状を授与するほかは座って観戦すだけでしたが、それでもじっとり汗ばむほどでした。競技をする学生と応援合戦をくりひろげる学生も、ともに汗だくでした。熱戦の結果、1年生のドッジボ―ルで優勝したのは、ディスプレイデザイン科Aクラスで、準優勝はグラフィックデザイン科Cクラス。3位がグラフィックデザイン科Aクラス、アニメーション科Aクラス。つなひきの優勝は、イラストレーション科Aクラス。2・3年生は、ドッジボールの優勝がインテリアデザイン科Bクラス。準優勝がビジュアルデザイン科3年Aクラス。3位がグラフィックデザイン科Bクラス、Dクラス。つなひきの優勝はクラフト・アクセサリー科Aクラスでした。4月に留学生交流パーティで会った各国の留学生も、競技と応援に参加しており、元気な姿が見られました。クラス、学科が一体化してもりあがったこの会場は、東京オリンピックの時の各国の選手が集(つど)った選手村だったところです。スポーツの祭典であるオリンピックは、世界平和を目的としているわけですから、私の中では、本校のスポーツ大会は超(ちょう)ミニオリンピックとの思いで、うれしく、たのしく観戦させてもらいました。
梅の実の熟するこの6月に降りつづく雨のことを、梅雨(ばいう)とか梅雨(つゆ)とかいいますが、「水無月(みなづき)」ともいい、梅雨(つゆ)の月が「水無月」とは不思議です(京都ではこの6月に「水無月」という和菓子を食べる習慣があるそうです)。これは旧暦では5月のことだからだそうです。5月も、五月雨(さみだれ)とか、五月晴れ(さつきばれ)など矛盾(むじゅん)した言葉がありますが、<さみだれ>は、少しずつくりかえしふる雨のことで、<さつきばれ>は、雨の間に一瞬晴れわたった珍しい晴天のことをいうのだそうです。去年は雨が降ったスポーツ大会も今年は晴天に恵まれ、学生にとっても身(み)も心(こころ)も<さつきばれ>のような一日になったのではないかと思います。日々の学校生活でもときおり心と体に<さつきばれ>があって欲しいものです。
[2010.5.25]
この5月は、若葉や、青葉などのさまざまな緑が美しく、これを吹きぬけ、緑のかおりをはこんでくれる風を薫風(くんぷう)といいますが、木に風と書くこの季節の楓(かえで)をそのみずみずしい青葉から<青もみじ>と呼ぶそうです。5月に入ってからも住まい近くの公園の緑の木々の間から、ウグイスの鳴く声がきこえました。山に戻っているはずのウグイスがまだいたのは、寒い日が続いたことからかも知れません。季節はずれに咲く花を<帰り花>というそうですが、このウグイスは<帰り鳥>とでもいうのでしょうか。ウグイス(鶯)といえばJR鶯谷(うぐいすだに)駅から歩いて5分ほどのところに俳人・正岡子規が住んでいた家が子規庵(しきあん)として再建されていると聞き、訪ねてみました。体を病んでいた子規は、松山から母と妹をよびよせ、亡くなるまでの8年半をこの家でくらしたそうです。元気なころはベースボールに夢中になり「野球」など、野球用語のほとんどを訳したことでも知られていますが、その生活ぶりは、明治の青春群像として、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に書かれており、NHKのスペシャルドラマでも放映されたこともあり、多くの人がきていました。正岡子規は香川照之、妹は菅野美穂が演じていました。そのドラマで見た庭に面した病室をかねた書斎もそのまま再現されていました。子規のファンでしょうか、庭先や部屋で、じっと佇(たたず)んでいる姿も見られました。このあたりは、江戸時代から明治にかけ「根岸の里」といわれ、川が流れ、鶯溪(うぐいすけい)とか鶯谷(うぐいすだに)とも呼ばれたウグイスの名所でもあり、これが駅名になったようです。子規も「鶯の遠のいてなく汽車の音」などと詠(よ)んでいます。この家には、夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、伊藤左千夫など多くの文人、画家が訪れていたそうです。近くには、江戸で初めて絹ごし豆腐をつくったといわれる豆腐料理の「笹の雪」が今もあり、この絹ごし豆腐は、笹の上につもった雪のような美しさだといわれ、笹の雪を屋号にしたのだそうです。子規も友人たちと通っており「うつくしき根岸の春やささの雪」の句も残っています。この「笹の雪」には私もおりにふれきていたのですが、俳句に関心をもつようになったのはごく最近のことですから、正岡子規が近くに住んでいたことなど興味がありませんでした。関東と関西ではウグイスの鳴き声が違うとかで、京都のウグイスをこの地に放し、ウグイスの鳴き合わせをしたといわれている料亭「鶯春亭(おうしゅんてい)」もこの近くでしたが、今はなく、子規が妹に買いにいかせたという「羽二重団子(はぶたえだんご)」は今もあり「名月や月の根岸の串団子」などの句を詠(よ)んでいます。(司馬遼太郎も訪れているそうです。)子規が学生のころ、向島(むこうじま)の桜餅で有名な長命寺の2階を「月香楼(げっこうろう)」と称して、ひと夏をすごし、そこの娘に淡い恋心をいだいたことがあったことを知り、隅田川のほとりの長命寺と子規も通ったといわれる近くの「言問団子(ことといだんご)」にも行ってきました。「葉隠れに小さし夏の桜餅」の句から、ロマンスのエピソードがほとんどなかったといわれる子規の青春の想いを偲(しの)んできました。すぐうしろには、いま建設中で話題の東京スカイツリーがそびえ立っていて、江戸と明治、大正、昭和、平成が混在(こんざい)し交錯(こうさく)する風景の中を漂(ただ)よいながら、子規の友人であった鴎外や漱石の青春成長小説のテーマである「近代的自我の目覚め」の世界も見えてきて、平成の学生達の青春も思いながら、人はみな、失われたもの、いまあるもの、これから現れるものの、変化の中を生きてきて、いまを生きているのだという、あたりまえのことを改めて教えられた下町散策(さんさく)でした。「坂の上の雲」で正岡子規を演じ「龍馬伝(りょうまでん)」では岩崎弥太郎を熱演している香川照之の顔がごっちゃになり、ちらつき、まとわりついてはなれず、こまりました。
[2010.5.11]
4月いっぱいで閉館となった歌舞伎座のさよなら公演が、多くのメディアでとりあげられていましたが、私も、あわてて、さよなら公演「御名残(おなごり)四月大歌舞伎」の「実録先代萩(じつろくせんだいはぎ)」と「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」を観に行ってきました。「先代萩」は、芝翫、橋之助、幸四郎、扇雀、芝雀など。「助六」は、口上(こうじょう)が海老蔵で、団十郎、玉三郎、勘三郎、三津五郎、福助、左団次、仁左衛門、菊五郎などなどの人気役者が演じる華やかな舞台に酔い、幕間には、歌舞伎座内で夕食の花籠膳(はなかごぜん)をいただいて、文字どおり心身ともに満喫(まんきつ)してきました。「先代萩(せんだいはぎ)」で思いだしたのですが、かなり前に、当時教えていた仙台(せんだい)出身の学生が帰省し、お土産といって仙台のお菓子「萩(はぎ)の月」を教室に持ってきたとき、「禿(はげ)の月」といっているようにしか聞こえなくて、今なんていった!!というと「はぎ(萩)の月」といい、間をおいて又「はげ(禿)の月」ときこえ、今なんていった!!というと「はぎ(萩)の月」とこたえ、先生、被害妄想(ひがいもうそう)だよ。などとからかわれたことがありました。銀座で異彩を放つ歌舞伎座は、桃山風建築の正面の外観が異空間の入口のようで、いづれは入って舞台を観たいと思いながら、そこにあるという安心感と、いつでもいけるとの思いから、時が過ぎてしまいました。建てかえられる新歌舞伎座は、新劇場と29階のオフィスビルの複合施設で3年後にオープンするそうです。現在の歌舞伎座が、1951年(昭和26年)に開場してから60年の幕を閉じるとなれば、なんとしても観ておきたいとの思いでした。さよなら公演は超満員の盛況で、私のような、にわかファンも多かったのではないかと思います。数日後、新宿の東郷青児美術館へ、<パリを愛した孤独な画家>というタイトルの「モーリス・ユトリロ展」を見に行き、ユトリロのパリ風景にひたりながら、パリにはオペラ座があり、東京には歌舞伎座があることや、歌舞伎役者を描いた浮世絵がフランスの画家たちに影響をあたえたことなどを、ぼんやりと思いながら、ユトリロのパリの街をめぐり終えて、東郷青児の作品が展示されているコーナーで見た年表に、1951年(昭和26年)新装となった東京・歌舞伎座の緞帳(どんちょう)「女の四季」を完成。とあるのをみつけ、うれしくなりました。20年に及ぶフランス時代にパリでピカソやキスリングなどと交流する中で、ヨーロッパの新しい風を身をもって知り、二科展を発表の場として新風を吹かせた東郷青児が、歌舞伎座のどん帳を制作していたことは、伝統芸であっても、低迷期には、新しい試みなどにより人気を回復してきた歌舞伎と東郷青児の歩みの共通性が伝統につながって見えてきて、時代がどう変化しても、現在は過去の続きであり、変わらないためには、変わることで人と人をつなげて伝統になるのだということを、おぼろげですが感じることができました。
[2010.4.27]
新入生を迎え、新学期が始まり、オリエンテーション期間の校内は新たな活気がみなぎっています。今年も新入生全員が参加するフレッシュマン・レクリエーションに同行しました。「春に3日の晴れなし」などといわれるこの季節は、気候の変化が激しいときであり、天気予報では、当日雨が降るなどといわれていたのですが、うれしいことに予報がはずれ、あたたかく、おだやかな春の陽光に恵まれました。バスが走る道沿いの木々の緑もひところより、濃く深くなっていました。現地(相模湖プレジャーフォレスト)に着いて、教職員と学生406名が学科、クラスごとに別れ、ピザづくりに挑戦しました。山の中腹のこのあたりは、やわらかい春風がここちよく吹きわたっていて、カマドの火かげんもコントロールしやすく、それぞれ順調に焼けていました。まわりの木々の緑はまだ浅く、芽吹いたばかりの若葉は淡い緑のもえぎ(萌黄)色そのものでした。いろんな食材がトッピングされた、ほどよい焼きかげんのピザをいただきながら、新入生がピザづくりでくりひろげているにぎやかな光景と、ワーとかキャーとか、明るく清らかにこだまする声を聞きながら、春という季節は、まさに青春なのだとの思いがよりつよくなりました。若い日の人生がひときわ輝いて見えるのは、未知の部分が多く、自由に夢を思い描くことができるからだといわれます。その純粋さに加えて、若さを信じきった幸福感、未来への希望があったからこそ、輝いて見える若いときの青春は、短かいものですが、季節の青春は、春がくるたびに訪れてくれます。まぶしいほどの若さと、躍動感あふれる学生たちの姿を追いながら「大いなる羨望と大いなる期待」という、山口瞳さんのキャッチコピーを思いだしました。学生もそれぞれが調理して焼きあがったピザを食べ、片づけを終えて、プレイランドでのフリータイムであそび、仲間と先生方とのコミュニケーションをはかるという目的は、充分にはたせたのではないかと思います。原宿に戻る帰りの車中では、満ちたりた青春の疲れに、ほとんどの学生が眠っていました。そんな学生を見ながら、人間は年とともに変わるようでいて、その本質は少しも変わらないような気がしました。私の青春も、まだ心の中で、ひそかに息づいています。
[2010.4.14]
三寒四温(さんかんしおん)をくり返す日々の温かい、おだやかな春らしい天気に恵まれた9日、明治神宮会館で入学式を行いました。期待と不安が入りまじりながらも、心はなやぐ空気がただようなか、卒業式で失態(しったい)を演じた声もスムーズに出て、式辞など無事に進行することができました。新入生が期待するところの、好きな分野で自立、自活し、自分の将来を切り開く力。をつけるため、私たち教職員が全員で応援、サポートすることなどを話しました。式を終えて、新入生はそのまま、新学期のスタートのための全体ガイダンスになり、保護者の方々には参集殿(さんしゅうでん)に移っていただいて、本校の教育目標、方針などの保護者説明会を行いました。毎年、入学式のころ会場の庭に咲く、薄紅色(うすべにいろ)の”しだれ桜”も、まだ鮮やかな姿を見せていてくれました。桜が咲く、この花時(はなどき)は、別れと出会いの季節(とき)でもあり、別れは卒業式で、出会いは入学式で、<会うは別れの初め>を実感させられています。もの悲しい、淋(さび)しさと、華(はな)やいだ高揚する気持が交錯(こうさく)するのは、桜の花のもつあやしい美しさの魅力そのものではないか、と思いいたりました。「花のかたち日本人と桜」という本の中に、日本人が桜を美しいと感じるのはなぜか。その美は「たまゆら」すなわち一瞬であるがゆえに「凝縮(ぎょうしゅく)された美が極上をきわめる」それだけではない桜吹雪(さくらふぶき)や咲き誇る桜は人々の心を乱し、おそれさせもする。そんな「神秘」のなかにも桜の美はある。とあります。桜の花も日ごとに少しづつ花を咲かせ、満開になったときは、圧倒的な美しさで咲き、ひとときの栄華(えいが)を誇り、風や、雨で散る、散りぎわの散華(さんげ)も、風が吹けば「桜吹雪」、雨が降れば、「花散(ちら)しの雨」とか、「花冷え」、「花曇り」など風雅な言葉もあり、人々はそのはかなさを愛(め)で、自分の人生を重ねて、それぞれの花見をしているのではないでしょうか。私も桜が好きで、思い入れがあるのは、ささやかな自分の人生を、そのおりおりに桜に重ねてきたからかも知れません。
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夏でお盆(ぼん)となれば、妖怪(ようかい)がにあう季節であり、妖怪といえば、妖怪の聖典(せいてん)ともいえる柳田国男の「遠野物語」が発刊されて100周年になることもあり、岩手県の遠野に行ってきました。「遠野物語」は、この地方に親から子へと家族間で口伝(くちづた)えで語りつがれてきた昔話や民話の民間伝承(でんしょう)を、そのまま聞き書きしたものですが、100周年ということで「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるさんが遠野に出向いて取材をしてコミック化した「遠野物語」が記念出版されました。そこには、ザシキワラシ、カッパ、オシラサマなど怪異(かいい)な妖怪たちが水木流の親しみのある愛らしい妖怪に描かれていて、登場する妖怪たちに会いたくなるような妖怪絵巻がくりひろげられていました。「みちのく」という言葉のひびきが好きで、東北地方には何度も行っているのですが、遠野は初めてでした。「みちのく」は「みちのおく」の意味だそうですが、40数年前に訪れた北上山地は日本のチベットなどといわれていたころで、「北上夜曲」というさびしげな歌がはやっていました。山間(さんかん)の寒冷地では米がとれなく、ヒエ、アワ、キビ、ソバなど冷害につよい「雑穀(ざっこく)」が食べられていました。今では米もとれるようになり、それらは生活習慣病を予防する健康食品といわれていて、時の流れを感じます。北上山地の南部にある遠野は、深田久弥の「日本百名山」にも選ばれている霊峰(れいほう)早池峰山(はやちねさん)など周囲を山にかこまれた盆地で、自然、神、人がおりなす伝承文学の原風景が広がっていました。そんな風景の中を「遠野ふるさと村」語り部(かたりべ)の昔話が聞ける「伝承園」「とおの昔話村」などをめぐり、現実社会でおきている事件のむごい、やりきれなさから、しばし愛しい妖怪たちに思いをはせることができました。私が最も興味と関心があったのは河童(かっぱ)についてでした。各地にカッパ伝説はありますが(水木マンガにも「河童の三平」があります。)ここ遠野がカッパに関する情報、もっともらしい話題が多く、カッパ釣りを指南するマブリット(守り人)がいるほどです。遠野観光協会で「カッパ捕獲許可証」を発行していると聞き、それを手に入れるのが一番の目的でした。いま、手元に「カッパ捕獲許可証」があります。それには許可番号があり、許可期間もきめられていて、それ以外で捕えると密漁になってしまいます。許可証にはカッパ捕獲7カ条があり、
1.カッパを生捕りにし、傷をつけないで捕えること。
2.頭の皿を傷つけず、皿の中の水をこぼさないで捕えること。
3.捕獲場所はカッパ淵に限ること。
4.捕えるカッパは真赤な頭と大きな口であること。
5.金具を使った道具でカッパを捕えないこと。
6.餌は新鮮な野菜を使って捕えること。
7.捕えたときには観光協会の承認を得ること。
とあります。今回は、カッパ淵(ふち)の周辺を念入りに調査してきたので、なんとしてもカッパを捕獲したいと思っています。ただ心配なのは、私のこの風貌(ふうぼう)から、私自身がカッパと見誤(みあやま)られて、捕えられてしまうのではないかということです。人がいないときに、人知れず捕獲しなくては、と心と体をきたえているところです。
[2010.8.12]
あちこちで最高気温がぬりかえられている猛暑の中、夏休みに入っている学校では、体験入学、説明会など、オープンキャンパスのイベントを行っています。私もできるだけ出校して、全国から参加してくださった方々に、直接お会いしてアイサツをさせていただいています。先日、そうしたイベントに、20年ほど前の教え子が母親となって、高校3年生と中学生の娘さんを伴(とも)なって、山口県から参加してくれました。卒業して初めての再会が、高校生の娘の母親として母校にきてくれたことの、うれしさとおどろきは不思議な感覚で、卒業以来の空白の時間をうめるのに、少しの時間が必要でした。同級生の名前が次から次へと出てくることで、当時の教室の光景やエピソードがよみがってきました。なつかしい思い出の話をしている間、娘さんは母親の学生時代をニコニコと楽しそうに聞いていました。「極楽(ごくらく)の余(あま)り風」という言葉があるのを知りました。暑い夏に吹く心地よい涼風のことだそうですが、こうして卒業生が親となり、子供をつれて来校してくれたのは、まさに「極楽の余り風」のようでした。本校の講師になって最初のころの教え子が50才前後になることを思うと私も年をとるのは当然ですが、多くの卒業生との色々な交流も楽しんでいます。結婚式に呼ばれたり(同級生、同窓生同士の結婚も多いです。)結婚披露パーティー、新年会、忘年会、食事会、飲み会、個展、グループ展を見に行くことなどですが、子供づれで出席する集まりもあります。キャリアコース(夜間講座)の修了生は「今村塾」なる集まりをつくって呼んでくれます。タイミングや、都合によって出席できないこともあり、残念ですし、申し訳なく思っています。OB・OG会では忘れかけていたり、忘れていたりした卒業生が出席してくれることもあり、楽しみにしています。また、セミナーや特別講義などの講師もお願いすることもあります。校長室にもときおり卒業生が訪れてくれたりもします。長く教師をしているおかげで、こうしてさまざまな卒業生との交流があり、そうしたことで過去と現在がつながり、浮き彫りにされ、懐(なつ)かしい日々を「生き直す」ことで「現在を生きる」ことの豊かさとは、こういうことでもある。ということも教えてくれた「極楽の余り風」でした。
[2010.7.30]
本校のギャラリー「アミ」で「ニューヨークタイポディレクターズクラブポスター展」を開催しました。これは本校の近くにお住まいの日本タイポグラフィー協会の会長をされ、国際タイポグラフィ-協会の会員でもある、篠原栄太氏よりニューヨークタイポディレクターズクラブの会員作品を寄贈(きぞう)していただいたことからですが、篠原さんが大学で講師をしていたころの教え子が本校の講師をしているご縁でもありました。この機会にその講師と一緒にお礼をかねて、ご自宅に伺(うかが)いました。篠原さんが本校の近くにお住まいのことはずいぶん前から知っていました。私の年長の友人がTBSテレビの開局のころから番組のタイトルデザインを篠原さんと一緒にしていた同僚で、その後友人は赤坂のTBS近くにテレビタイトルの制作会社をつくり独立しました。この制作会社には卒業生が何人もお世話になりました。主にTBSテレビの仕事をしていて篠原さんとは今日まで親交が続いていることから、篠原さんを紹介するといわれていて、数10年がたっていました。そんなエピソードを篠原さんのお宅でしていたら、篠原さんの奥さんが私が代表をしている会の年長の仲間と大学の同級生であったことも初めて知りおどろきました。 篠原さんが会長をしている日本タイポグラフィー協会は1964年にできた日本レタリングデザイナー協会が母体となっていて、そのレタリングデザイナー協会の設立に関わった共通の知人が多く、懐かしい名前が飛び交いました。そのころレタリングブームがおこり、文部省認定レタリング技能検定などもでき、私の知人や篠原さんも中央試験委員でした。このブームはレタリングの通信教育の広がりによるものでした。その教科書を監修したのがレタリング協会設立の中心メンバーで、私の2代前の二科会デザイン部の代表をした先輩でした。その教科書の見本書体を書いたのが二科展デザイン部の出品者でもあったアシスタントでした。そのアシスタントはアメリカにわたり、一流スタジオであったグラフィックデザイナー・ソールバスのスタッフになりアメリカで活躍しました。ソールバスは読めれば良いとされていた映画タイトルを、斬新で魅力的な見せる映画タイトルにデザインして話題になったデザイナーです。「悲しみよこんにちは。」「ウエストサイド物語」などのタイトルは今でも鮮明に思い出します。楽しい語らいもあっという間に過ぎ、帰りぎわ篠原さんの著書を2冊もいただいてしまいました。そこには篠原さんがデザインしたテレビタイトル、ロゴタイプなどの人気番組の数々「渡る世間は鬼ばかり」「風雲たけし城」「3年B組金八先生」「遠くへ行きたい」などがありました。その著書にプロデューサーの石井ふく子さんが寄せた文に「タイトルはドラマの表紙である」とありました。篠原さんのおだやかで、温かく、謙虚なお人柄は、もっと見たい、知りたいと思わせる番組のタイトル(表紙)のようでした。
[2010.7.16]
公開中の映画「Flowers(フラワーズ)」をみてきました。資生堂が特別協賛をしていることで、日本の女性たちへ向けた映画であることはわかっていたのですが、この映画の企画制作総指揮にアートディレクター大貫卓也氏の名があったからでした。大貫さんは博報堂時代にラフォーレやカップヌードル、<日本一面白くない遊園地>をキャッチコピーにした豊島園などの広告で世間(せけん)をあっといわせ、その後もつねに旬(しゅん)な広告をつくり、資生堂の「TSUBAKI」の広告では、女性向けの広告も手がけています。そんな大貫さんが企画した映画はどんな映画なんだろうとの興味がありました。それは、美しい日本の四季の風景をバックに昭和の初めから平成までの3世代にわたる6人の女性たちが、それぞれの時代を世間(せけん)の抑圧(よくあつ)に苦しみ、悩みながら自分らしくひたむきに時代を生きぬく、静かで、芯(しん)の強い日本女性の、平凡でありながら、波瀾万丈(はらんばんじょう)な人生を描いていました。6人の女性の物語が、単なるオムニバスではなく、時代を超えて、命とともに愛がつながっていくストーリーが、1本の糸に紡(つむ)がれて、つながって、作品になっていく、タペストリーのようでした。人は、血縁関係や、出合い関わりあった人たちだけでなく、すべての人々とのつながりが、自らを生かしてくれているということや、幸せの形も人それぞれであり、客観的な幸せなどというものはないのでは、と改めて思わされました。日本女性が耐え忍んできた世間の抑圧の多くは、男性社会に都合のよい価値観によるものであり、これは男性に向けた映画であるともいえそうです。「苦しみて後に楽こそ知らるなり、苦労知らずに楽に味なし」という古歌がありますが、辛いことや苦しみや、忍(しの)び耐(た)えることなどを多く経験してこそ、感謝とか感動がおこってくるという意味だそうですが、大貫さんの斬新で洗練された、明るくて軽妙で苦労のかけらも感じさせない広告表現も、その制作プロセスでは、人には見せない。見えない、生みの苦しみ、悩みがあるからこそだということが見えてきた映画でもありました。
[2010.6.30]
前回、書道的タイポグラフィのさきがけなどと書きましたが、1950~70年代にかけて、画家の佐野繁次郎さんがユニークな書体で描くタウン誌「銀座百点」や単行本の表紙、パッケージ、手さげ袋、広告などのデザインが好きで、それらに触発(しょくはつ)されてのことでした。2年ほど前に「佐野繁次郎の装丁展」が豊島区と千代田区立図書館で企画されたことがあり、見に行ってきました。装丁(そうてい)は、いまでいうブックジャケットデザインですが、佐野さんの書をつかったデザインは装丁が似合います。前衛書道をやっていた社長が二科展に絵画を出品したいといいだし、先輩デザイナーが退社して、彫刻家の奥さんとニューヨークへ行ったことで、私がアシスタントと、マネージャー的な役目をすることになりました。キャンバスに前衛書道を生かした抽象表現の作品が二科展に入選したことでいっきに熱が入り、アトリエを設けて制作するなどして、連続入選するようになった作品が、アンフォルメル運動を提唱(ていしょう)して来日中の国際的に知られたフランスの美術評論家ミッシェル・タピエ氏の目にとまり、イタリア・トリノの国際美学センターでの国際展に岡本太郎、吉原治良、具体美術のメンバーなどと招待されるようになりました。具体美術協会や指導した吉原治良さんの活動が国際的に評価され、日本にフィードバックされ、評価が過熱したのは、ミッシェル・タピエ氏が海外で紹介したことによるものでした。私はメッセンジャーボーイとして、タピエ氏を通じて岡本太郎、吉原治良さんとも関わることができました。吉原治良さんが体を悪くされ、大阪のご自宅で(芦屋にもお宅がありました。)静養されているとき、社長と2人でお見舞いにうかがったり、土蔵(どぞう)を改造した具体の美術館「グタイピナコテカ」ができたときも案内をいただき見学に行ったことがありました。
その社長が銀座のギャラリーで個展をやることになり、パンフレットの紹介文をミッシェル・タピエ氏が書いてくれ、送られてできたフランス語を訳してもらいに私が国立西洋美術館の館長室をたずね、館長の富永惣一さんに訳してもらいました。富永館長は美術評論家であり、タピエ氏とは友人でした。タピエ氏の紹介文のおかげで、個展には岡本太郎さんをはじめ多くの抽象系画家がきてくれました。あのころは私も若く、生意気だったので、吉原さんも大阪の大きな会社の社長であり、ブルジョアの遊び、道楽ではないかとの思いがありました。’70年の大阪万博で岡本太郎は、テーマ館のプロデューサーとして万博のシンボルとなった「太陽の塔」を制作し、吉原治良は万博美術館委員として、お祭り広場で「具体美術まつり」を行い、私も出張あつかいで仕事として見学に行ってきました。そのとき吉原さんは63才、岡本さんは59才でした。下着のアバンギャルド鴨下羊子と岡本太郎、吉原治良と具体美術協会の共通する挑戦的な姿勢に、リアルタイムでほんの少しですがつながることができ、20代の単なるメッセンジャーボーイであったあの日々の、なんと豊かで、ぜいたくな時間であったことかと、しみじみと感慨(かんがい)にひたらせてくれた岡本太郎美術館でした。
[2010.6.23]
先日、川崎の生田緑地にある岡本太郎美術館へ行ってきました。多摩丘陵(きゅうりょう)の一角に位置するゆたかな樹木(じゅもく)にかこまれた静かな環境が好きで、ときおり訪れ、時間があるときは、となりの日本民家園にも足をのばしています。帰りに多摩川べりにある太郎の母、岡本かの子の生家あとにも寄りましたが、岡本太郎の彫刻と記念碑があるだけの空地(あきち)でした。今回は「前衛下着道・鴨居羊子とその時代」展で、1950年代から80年代、主に関西で活躍した鴨居羊子の「言葉」「絵画」「下着」と彼女を励まし、支え、関わった岡本太郎、今東光、司馬遼太郎、吉原治良と具体美術協会などの資料、作品、写真、記録映像などが紹介されていました。下着は白という意識のつよかった時代に、今でこそあたりまえのファッション性、機能性のある華やかな色合いや、見せる下着などを、下着のショーや個展で発表するという斬新な方法が大きな反響を呼び、髪を金色に染めるなど、そのライフスタイルにも注目された女性の意識革命のパイオニア的存在でした。下着ショーの会場構成に、そのころ関西で活躍していたグラフィックデザイナー早川良雄の名があり、演出に関わった関西の前衛グループ具体美術協会のメンバーや吉原治良の名もあり、私が20代であった1960年代から70年代にかけての当時をなつかしく思いだしました。岡本太郎と吉原治良は二科会会員で、期待されたホープでした。二科会の中でより前衛的な表現を求めた「九室会」を結成し、「日本アバンギャルド美術家クラブ」の結成にも参加して、二科会会員でありながら、さまざまな分野の芸術家と交流し、その後岡本太郎は二科会を退会し、吉原治良は具体美術協会を結成して、その表現をより先鋭的にしているころ、私はアパレルメーカーのデザイン室に勤めていて、前衛を気どった作品を本名ではない名前で個展やグループ展などで発表し、二科展の商業美術部(現デザイン部)にも出品していました。デザイン室の先輩デザイナーも二科展の絵画部と商業美術部の両方に出品し、奥さんも彫刻部に出品していたこともあり、社長が二科展を見にいくときは説明役で同行していました。その社長は前衛書道をやっており、前衛書道展に出品していて、なかなか魅力的な書で、当時の広告や商品ロゴなどを社長の書と私のデザインで制作したものでした。今は書道的表現のタイポグラフィーが多く見られますが、そのさきがけでした。こう書きながらまだ先が見えてきません。前々回も長くなってしまい、なにがショートコラムだ、あのタイトルはジョークか、などといわれているような気がします。(こう見えても気が小さいのです。)まとめる力がありません。次回につづきを書かせてください。スミマセン。
[2010.6.10]
6月に入ったばかりの先週、国立オリンピック記念青少年総合センターの体育館で、今年もスポーツ大会を開催しました。AMは2・3年生。PMは1年生の学年別クラス対抗ドッジボール競技で、今回は敗者復活の<つなひき合戦>も行いました。梅雨(つゆ)入り前の会場は、学生の熱気と夏日(なつび)の気温でむし暑く、私は開会式のアイサツと閉会式で賞状を授与するほかは座って観戦すだけでしたが、それでもじっとり汗ばむほどでした。競技をする学生と応援合戦をくりひろげる学生も、ともに汗だくでした。熱戦の結果、1年生のドッジボ―ルで優勝したのは、ディスプレイデザイン科Aクラスで、準優勝はグラフィックデザイン科Cクラス。3位がグラフィックデザイン科Aクラス、アニメーション科Aクラス。つなひきの優勝は、イラストレーション科Aクラス。2・3年生は、ドッジボールの優勝がインテリアデザイン科Bクラス。準優勝がビジュアルデザイン科3年Aクラス。3位がグラフィックデザイン科Bクラス、Dクラス。つなひきの優勝はクラフト・アクセサリー科Aクラスでした。4月に留学生交流パーティで会った各国の留学生も、競技と応援に参加しており、元気な姿が見られました。クラス、学科が一体化してもりあがったこの会場は、東京オリンピックの時の各国の選手が集(つど)った選手村だったところです。スポーツの祭典であるオリンピックは、世界平和を目的としているわけですから、私の中では、本校のスポーツ大会は超(ちょう)ミニオリンピックとの思いで、うれしく、たのしく観戦させてもらいました。
梅の実の熟するこの6月に降りつづく雨のことを、梅雨(ばいう)とか梅雨(つゆ)とかいいますが、「水無月(みなづき)」ともいい、梅雨(つゆ)の月が「水無月」とは不思議です(京都ではこの6月に「水無月」という和菓子を食べる習慣があるそうです)。これは旧暦では5月のことだからだそうです。5月も、五月雨(さみだれ)とか、五月晴れ(さつきばれ)など矛盾(むじゅん)した言葉がありますが、<さみだれ>は、少しずつくりかえしふる雨のことで、<さつきばれ>は、雨の間に一瞬晴れわたった珍しい晴天のことをいうのだそうです。去年は雨が降ったスポーツ大会も今年は晴天に恵まれ、学生にとっても身(み)も心(こころ)も<さつきばれ>のような一日になったのではないかと思います。日々の学校生活でもときおり心と体に<さつきばれ>があって欲しいものです。
[2010.5.25]
この5月は、若葉や、青葉などのさまざまな緑が美しく、これを吹きぬけ、緑のかおりをはこんでくれる風を薫風(くんぷう)といいますが、木に風と書くこの季節の楓(かえで)をそのみずみずしい青葉から<青もみじ>と呼ぶそうです。5月に入ってからも住まい近くの公園の緑の木々の間から、ウグイスの鳴く声がきこえました。山に戻っているはずのウグイスがまだいたのは、寒い日が続いたことからかも知れません。季節はずれに咲く花を<帰り花>というそうですが、このウグイスは<帰り鳥>とでもいうのでしょうか。ウグイス(鶯)といえばJR鶯谷(うぐいすだに)駅から歩いて5分ほどのところに俳人・正岡子規が住んでいた家が子規庵(しきあん)として再建されていると聞き、訪ねてみました。体を病んでいた子規は、松山から母と妹をよびよせ、亡くなるまでの8年半をこの家でくらしたそうです。元気なころはベースボールに夢中になり「野球」など、野球用語のほとんどを訳したことでも知られていますが、その生活ぶりは、明治の青春群像として、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に書かれており、NHKのスペシャルドラマでも放映されたこともあり、多くの人がきていました。正岡子規は香川照之、妹は菅野美穂が演じていました。そのドラマで見た庭に面した病室をかねた書斎もそのまま再現されていました。子規のファンでしょうか、庭先や部屋で、じっと佇(たたず)んでいる姿も見られました。このあたりは、江戸時代から明治にかけ「根岸の里」といわれ、川が流れ、鶯溪(うぐいすけい)とか鶯谷(うぐいすだに)とも呼ばれたウグイスの名所でもあり、これが駅名になったようです。子規も「鶯の遠のいてなく汽車の音」などと詠(よ)んでいます。この家には、夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、伊藤左千夫など多くの文人、画家が訪れていたそうです。近くには、江戸で初めて絹ごし豆腐をつくったといわれる豆腐料理の「笹の雪」が今もあり、この絹ごし豆腐は、笹の上につもった雪のような美しさだといわれ、笹の雪を屋号にしたのだそうです。子規も友人たちと通っており「うつくしき根岸の春やささの雪」の句も残っています。この「笹の雪」には私もおりにふれきていたのですが、俳句に関心をもつようになったのはごく最近のことですから、正岡子規が近くに住んでいたことなど興味がありませんでした。関東と関西ではウグイスの鳴き声が違うとかで、京都のウグイスをこの地に放し、ウグイスの鳴き合わせをしたといわれている料亭「鶯春亭(おうしゅんてい)」もこの近くでしたが、今はなく、子規が妹に買いにいかせたという「羽二重団子(はぶたえだんご)」は今もあり「名月や月の根岸の串団子」などの句を詠(よ)んでいます。(司馬遼太郎も訪れているそうです。)子規が学生のころ、向島(むこうじま)の桜餅で有名な長命寺の2階を「月香楼(げっこうろう)」と称して、ひと夏をすごし、そこの娘に淡い恋心をいだいたことがあったことを知り、隅田川のほとりの長命寺と子規も通ったといわれる近くの「言問団子(ことといだんご)」にも行ってきました。「葉隠れに小さし夏の桜餅」の句から、ロマンスのエピソードがほとんどなかったといわれる子規の青春の想いを偲(しの)んできました。すぐうしろには、いま建設中で話題の東京スカイツリーがそびえ立っていて、江戸と明治、大正、昭和、平成が混在(こんざい)し交錯(こうさく)する風景の中を漂(ただ)よいながら、子規の友人であった鴎外や漱石の青春成長小説のテーマである「近代的自我の目覚め」の世界も見えてきて、平成の学生達の青春も思いながら、人はみな、失われたもの、いまあるもの、これから現れるものの、変化の中を生きてきて、いまを生きているのだという、あたりまえのことを改めて教えられた下町散策(さんさく)でした。「坂の上の雲」で正岡子規を演じ「龍馬伝(りょうまでん)」では岩崎弥太郎を熱演している香川照之の顔がごっちゃになり、ちらつき、まとわりついてはなれず、こまりました。
[2010.5.11]
4月いっぱいで閉館となった歌舞伎座のさよなら公演が、多くのメディアでとりあげられていましたが、私も、あわてて、さよなら公演「御名残(おなごり)四月大歌舞伎」の「実録先代萩(じつろくせんだいはぎ)」と「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」を観に行ってきました。「先代萩」は、芝翫、橋之助、幸四郎、扇雀、芝雀など。「助六」は、口上(こうじょう)が海老蔵で、団十郎、玉三郎、勘三郎、三津五郎、福助、左団次、仁左衛門、菊五郎などなどの人気役者が演じる華やかな舞台に酔い、幕間には、歌舞伎座内で夕食の花籠膳(はなかごぜん)をいただいて、文字どおり心身ともに満喫(まんきつ)してきました。「先代萩(せんだいはぎ)」で思いだしたのですが、かなり前に、当時教えていた仙台(せんだい)出身の学生が帰省し、お土産といって仙台のお菓子「萩(はぎ)の月」を教室に持ってきたとき、「禿(はげ)の月」といっているようにしか聞こえなくて、今なんていった!!というと「はぎ(萩)の月」といい、間をおいて又「はげ(禿)の月」ときこえ、今なんていった!!というと「はぎ(萩)の月」とこたえ、先生、被害妄想(ひがいもうそう)だよ。などとからかわれたことがありました。銀座で異彩を放つ歌舞伎座は、桃山風建築の正面の外観が異空間の入口のようで、いづれは入って舞台を観たいと思いながら、そこにあるという安心感と、いつでもいけるとの思いから、時が過ぎてしまいました。建てかえられる新歌舞伎座は、新劇場と29階のオフィスビルの複合施設で3年後にオープンするそうです。現在の歌舞伎座が、1951年(昭和26年)に開場してから60年の幕を閉じるとなれば、なんとしても観ておきたいとの思いでした。さよなら公演は超満員の盛況で、私のような、にわかファンも多かったのではないかと思います。数日後、新宿の東郷青児美術館へ、<パリを愛した孤独な画家>というタイトルの「モーリス・ユトリロ展」を見に行き、ユトリロのパリ風景にひたりながら、パリにはオペラ座があり、東京には歌舞伎座があることや、歌舞伎役者を描いた浮世絵がフランスの画家たちに影響をあたえたことなどを、ぼんやりと思いながら、ユトリロのパリの街をめぐり終えて、東郷青児の作品が展示されているコーナーで見た年表に、1951年(昭和26年)新装となった東京・歌舞伎座の緞帳(どんちょう)「女の四季」を完成。とあるのをみつけ、うれしくなりました。20年に及ぶフランス時代にパリでピカソやキスリングなどと交流する中で、ヨーロッパの新しい風を身をもって知り、二科展を発表の場として新風を吹かせた東郷青児が、歌舞伎座のどん帳を制作していたことは、伝統芸であっても、低迷期には、新しい試みなどにより人気を回復してきた歌舞伎と東郷青児の歩みの共通性が伝統につながって見えてきて、時代がどう変化しても、現在は過去の続きであり、変わらないためには、変わることで人と人をつなげて伝統になるのだということを、おぼろげですが感じることができました。
[2010.4.27]
新入生を迎え、新学期が始まり、オリエンテーション期間の校内は新たな活気がみなぎっています。今年も新入生全員が参加するフレッシュマン・レクリエーションに同行しました。「春に3日の晴れなし」などといわれるこの季節は、気候の変化が激しいときであり、天気予報では、当日雨が降るなどといわれていたのですが、うれしいことに予報がはずれ、あたたかく、おだやかな春の陽光に恵まれました。バスが走る道沿いの木々の緑もひところより、濃く深くなっていました。現地(相模湖プレジャーフォレスト)に着いて、教職員と学生406名が学科、クラスごとに別れ、ピザづくりに挑戦しました。山の中腹のこのあたりは、やわらかい春風がここちよく吹きわたっていて、カマドの火かげんもコントロールしやすく、それぞれ順調に焼けていました。まわりの木々の緑はまだ浅く、芽吹いたばかりの若葉は淡い緑のもえぎ(萌黄)色そのものでした。いろんな食材がトッピングされた、ほどよい焼きかげんのピザをいただきながら、新入生がピザづくりでくりひろげているにぎやかな光景と、ワーとかキャーとか、明るく清らかにこだまする声を聞きながら、春という季節は、まさに青春なのだとの思いがよりつよくなりました。若い日の人生がひときわ輝いて見えるのは、未知の部分が多く、自由に夢を思い描くことができるからだといわれます。その純粋さに加えて、若さを信じきった幸福感、未来への希望があったからこそ、輝いて見える若いときの青春は、短かいものですが、季節の青春は、春がくるたびに訪れてくれます。まぶしいほどの若さと、躍動感あふれる学生たちの姿を追いながら「大いなる羨望と大いなる期待」という、山口瞳さんのキャッチコピーを思いだしました。学生もそれぞれが調理して焼きあがったピザを食べ、片づけを終えて、プレイランドでのフリータイムであそび、仲間と先生方とのコミュニケーションをはかるという目的は、充分にはたせたのではないかと思います。原宿に戻る帰りの車中では、満ちたりた青春の疲れに、ほとんどの学生が眠っていました。そんな学生を見ながら、人間は年とともに変わるようでいて、その本質は少しも変わらないような気がしました。私の青春も、まだ心の中で、ひそかに息づいています。
[2010.4.14]
三寒四温(さんかんしおん)をくり返す日々の温かい、おだやかな春らしい天気に恵まれた9日、明治神宮会館で入学式を行いました。期待と不安が入りまじりながらも、心はなやぐ空気がただようなか、卒業式で失態(しったい)を演じた声もスムーズに出て、式辞など無事に進行することができました。新入生が期待するところの、好きな分野で自立、自活し、自分の将来を切り開く力。をつけるため、私たち教職員が全員で応援、サポートすることなどを話しました。式を終えて、新入生はそのまま、新学期のスタートのための全体ガイダンスになり、保護者の方々には参集殿(さんしゅうでん)に移っていただいて、本校の教育目標、方針などの保護者説明会を行いました。毎年、入学式のころ会場の庭に咲く、薄紅色(うすべにいろ)の”しだれ桜”も、まだ鮮やかな姿を見せていてくれました。桜が咲く、この花時(はなどき)は、別れと出会いの季節(とき)でもあり、別れは卒業式で、出会いは入学式で、<会うは別れの初め>を実感させられています。もの悲しい、淋(さび)しさと、華(はな)やいだ高揚する気持が交錯(こうさく)するのは、桜の花のもつあやしい美しさの魅力そのものではないか、と思いいたりました。「花のかたち日本人と桜」という本の中に、日本人が桜を美しいと感じるのはなぜか。その美は「たまゆら」すなわち一瞬であるがゆえに「凝縮(ぎょうしゅく)された美が極上をきわめる」それだけではない桜吹雪(さくらふぶき)や咲き誇る桜は人々の心を乱し、おそれさせもする。そんな「神秘」のなかにも桜の美はある。とあります。桜の花も日ごとに少しづつ花を咲かせ、満開になったときは、圧倒的な美しさで咲き、ひとときの栄華(えいが)を誇り、風や、雨で散る、散りぎわの散華(さんげ)も、風が吹けば「桜吹雪」、雨が降れば、「花散(ちら)しの雨」とか、「花冷え」、「花曇り」など風雅な言葉もあり、人々はそのはかなさを愛(め)で、自分の人生を重ねて、それぞれの花見をしているのではないでしょうか。私も桜が好きで、思い入れがあるのは、ささやかな自分の人生を、そのおりおりに桜に重ねてきたからかも知れません。
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(イラスト:マンガ科 小日向一葉)


