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今村昭秀学校長のコラム

(イラスト:マンガ科 小日向一葉)
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2019.8.15 New!

冷夏と思っていたら、一転して猛暑日が続き、セミが鳴きたてる蝉時雨(せみしぐれ)の盛夏となりましたが、こんな暑い日は街(まち)の緑陰(りょくいん)ともいえる喫茶店で、ひと休みしたくなります。この暑さで、金魚すくいもできる本郷の「珈琲・金魚坂」が思い浮かびます。茗荷谷にいたころ通ったところですが、こゝは350年以上続いている金魚問屋で、数万匹の金魚がいて大きな金魚池だったところを、2000年に喫茶店にしたという、夏が似合う涼みどころでした。
私が若かった1960年代〜1970年代は、純喫茶、名曲喫茶、ジャズ喫茶、タンゴ喫茶、シャンソン喫茶、歌声喫茶、美人喫茶。などなどの喫茶店が数多くありました。純喫茶は商談、喫煙、待ち合わせなどの場でしたが、私はコーヒーが飲みたいというよりは、仲間と議論を交わしたり、制作の構想をねったり、ふくらますところでした。こうした喫茶店は1980年代がピークで、全国に15万店ほどあったものが、いまでは7万店ほどになり、街の個人営業の喫茶店は次々と閉店しているようです。鳥取県知事が「スタバはないけどスナバ(砂丘)はあるよ」と言ったことが話題になりましたが、いまは、カウンター越しに使い捨ての容器に入ったコーヒーを手渡される便利で合理的なカフェや、自販機、コンビニ、自宅など気軽に飲めるところが増え、コーヒーの消費量は大幅に伸びているそうです。
コーヒーは、日本茶と同じように最初は中東で薬としてつかわれ、とくに寺院では門外不出(もんがいふしゅつ)の秘薬だったそうで、当初は豆を煮て出した汁が用いられていたのが、やがて焙煎(ばいせん)された豆が、嗜好品(しこうひん)として広まったのだそうです。そんなコーヒーが飲める店は、560年ほど前にトルコのイスタンブールにでき、その後ヨーロッパに広まったのだそうです。
日本では明治21年、上野に開店した「可否茶館(かひさかん)」がそのさきがけで、だんだんコーヒーが飲める喫茶文化が進化していったようです。
私はコーヒー党でもコーヒー通でもありません。あの苦(にが)い飲み物を長い間おいしいとは思えなかったのですが、やっとこのごろ「魔法の苦水」というのがわかるようになりました。この苦みはストレスを感じた時や、その後に苦味の感知機能が低下し、苦いものも美味しく感じる傾向があるのだそうです。お茶やコーヒーの渋みや苦みを旨味(うまみ)として感じるようになるのは大人の証(あかし)なのかも知れません。私もやっと大人になったということでしょうか。それにしてもあまりに遅すぎますが…。
コーヒーやお茶、カカオなどの植物がカフェインを含(ふく)んでいるのは、その抗菌作用が細菌や害虫から身を守るため、ということですから、こうしたものを飲むことは、なんらかからガードをしていることになるのでしょうか。
カフェと呼ばれるところは、明るい照明のところが多く、その明るさは健康的ですが、私は薄暗い照明の、昭和の匂いやその陰影を醸(かも)し出す雰囲気のレトロ感ある喫茶店が好きです。が、そうしたところは少なくなり、絶滅危惧種のようになってしまいました。昭和8年に発売された谷崎潤一郎の「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」には、かつての日本人は薄暗さに美の本質を感じるセンスがあった。とあります。私もかつての日本人のくくりになるのでしょうか…。

2019.7.30 New!

Ⅰ期の授業が終わり、補習期間も過ぎ、夏休みに入った校内は、どこまでも静かで、芭蕉(ばしょう)に模(も)していえば「静けさや 壁に染(し)み入る 独(ひと)り言(ごと)」。そんな空気が漂っています。

やっと梅雨も明けて、いよいよ大暑(たいしょ)と言われる本格的な暑さになりましたが、日照不足による梅雨寒(つゆざむ)が続いていた11日、築地の朝日新聞東京本社新館の、浜離宮朝日ホールで行われた「2018年度第67回朝日広告賞贈呈式」に受賞した学生と共に出席しました。

優れた広告活動を顕彰(けんしょう)し、才能ある若いクリエイターを発掘することを目的に、1952年(昭和27年)にスタートしたこの賞は、「広告主参加の部」と「一般公募の部」があり、一般公募の部で、本校ビジュアルデザイン科の和田彩花さんが、「審査委員賞」を受賞しました。応募点数1724点から、朝日広告賞。準朝日広告賞。小型広告賞。審査委員賞。学生奨励賞。朝日新聞読者賞。が選ばれ、和田さんはアイデアが優れた企画が評価されたようです。式は朝日新聞社、社長挨拶に始まり、各部門ごとに審査員から受賞者に賞状と副賞が渡され、審査総評、受賞者のスピーチなどがあり、1時間30分ほどで4Fの音楽ホールから1Fの小ホールに移り、懇親会に臨(のぞ)みました。華(はな)やいだ雰囲気の中、和田さんは受賞作品の課題提供会社のテーブルで皆さんから祝福されたり、別のテーブルではインターンシップでお世話になったデザイン制作会社の社長さんもおられ、一緒にお礼をいうことができるなど有意義な時間を過ごしながら、朝日新聞本社が有楽町にあった頃が思い出されました。私はそのころ20代で、友人が勤めていたこともあり、ときおり訪れていました。そのころ私はボール紙を合紙した1cmほどの厚みのある名刺を使っていて、受付にその名刺を出して友人に会いに来たことをつげ、受付嬢がいかにも不審者が来たかのような戸惑(とまど)いを見せ、友人につなぐのをためらっている姿を見て楽しむ、など人としていかがなものか。というようなバカをしていました。その類(たぐい)のことは数(かず)限(かぎ)りなくあり、このころ交流のあったクリエイターは私も含めてこゝには書けないようなエピソードがある変わり者ぞろいでした。

そんななかでも、特に濃(こ)い付き合いがあったのが、今は亡きイラストレーターの牧朗でした。彼の父親は美空ひばりも楽屋にアイサツに来るという紅白常連の有名歌手で、中野区にあったその家は日本庭園のあるいわゆるお屋敷で、その離れにある茶室がなんと彼の部屋でした。大胆にもそこの畳(たたみ)にお茶をかけ(茶道ではありません)腐(くさ)らせ養分とし、そこに朝顔の種を埋(う)め発芽させ、窓の上に糸をつなげそこにツルをはわせ花を咲かせるという、茶人の利久もびっくりの画期的(かっきてき)な茶室風景をクリエイトした、とも言えますが、それは彼が茶道に興味がなく、お茶の作法も知らないことからでした。

下谷二助は、世界各国のネズミ捕り。を集めていて、仕事部屋には上からネズミ捕りがブラ下がっていて、下にはあちこちにネズミ捕りがところせましと置かれている、という珍風景でした。下谷二助は「毎日商業デザイン賞」を受賞していました。その後、同じ賞を受賞した山口マサルは、「ハケに毛があり、ハゲに毛がない」というタイトルの作品集を出版していて、ハケとハゲ、同じ言葉でも濁点(だくてん)がつくかつかないかで大違い。という言葉遊びのイラストレーションでしたが、そのころは私の頭毛(とうもう)もフサフサあり、イヤな毛(気)は毛頭(もうとう)ありませんでした。が、いまや毛(もう)、頭(とう)にありません。

学生のおかげで、過ぎし日を交錯(こうさく)する豊かな時間を得(え)ることができ、高揚感のまゝ会場を後にしました。

2019.7.12

梅雨前線による記録的な大雨が、災害をもたらすなど、身も心もどんよりと澱(よど)んでくるようなこの時期ですが、一方(いっぽう)では、すべての草木が滴(したた)るような緑におゝわれて、植物にとっては恵みの雨であり、最もエネルギーに満ちている季節とも言えそうです。エデュケーション(教育)は、植物の成長という意味もあり、学生を植物になぞらえば、我々教職員がその成長のための、恵みの雨。でなくては、との思いです。
以前、あえてそんな雨の日に、西武池袋線の大泉学園駅からほど近い「牧野記念庭園」に出かけたことがありました。そこは独学で植物学の研究に生涯を捧げた、植物学の父。と言われる牧野富太郎博士の住まいだったところで、生活空間や仕事部屋などを見ることができ、庭には「雑草という名の草はない」と、新種、変種約2500種を発見したゆかりの植物のうち、340種ほどが植えられていて、大きな植物園とは異(こと)なる趣(おもむき)の魅力があり、雨の日ならではの、しっとりとした色と雨音(あまおと)を感じました。牧野博士は、幼(おさな)いころから植物が好きで、自分のことを「草木の精」と言っていたようです。いまでも「植物記」や「牧野植物図鑑」は、研究者の間で親しまれているそうです。誕生日の4月24日は「植物学の日」となっています。
植物学といえば、作家の三浦しをんさんが「植物学会特別賞」を受賞しています。これは植物学を専攻する大学院生を主人公にした小説「愛なき世界」で、植物研究活動の正確な描写と、一般社会への植物化学の啓発が評価されたというもので、小説家の受賞は初めてだそうです。私も読んでみましたが、洋食屋の青年が恋をした相手が、植物の研究に没頭(ぼっとう)する植物学者の卵で、大学院生だったことから、ライバルは「植物」だった。という風変わりな理系女子と、お料理男子の不器用な青春小説でした。この小説を広告するキャッチコピーに、草食系恋愛小説の名手。とありました。
平成では、「草食系」とか「草食男子」という言葉が生まれ、流行語にもなったのですが、そもそも「草食男子」と名付けたのは、2006年、ある雑誌のコラムで、異性にガツガツせず、男らしさにこだわらない、男女平等を自然に受け入れ、家族や友人を大切にする、そんな新しい世代の若い男性に対する「ほめ言葉」だったのだそうです。それが否定的に受け止められ、女性誌やメディアでは恋愛ぎらい、内向き、頼りない、などそんな情けない「草食男子」のせいで女性が恋愛できない。とか、少子化まで「草食男子」のせいにされるなどしましたが、そんな弱々しい男性に対して、その逆に積極的な行動を起こす女性のことを「肉食系女子」などと呼び、社会現象にもなりました。原宿などでは、若い男性がその装いをよりオシャレに着こなすため、積極的に着飾ることを「装飾系」「装飾男子」と呼んでいるようです。
私はこのコラムでも植物のことを書くことが割合多く、折にふれて通うため、文京区の「小石川植物園」の近くに移り住んだり、野草や山菜に興味や関心があり、好んで草を食することからすれば、紛(まぎ)れもない、正真正銘(しょうしんしょうめい)の、正統派の「草食系爺(じじい)」です。

2019.6.28

先日、帰宅すべく本校2号館を出て、原宿駅に向かっていると、一瞬(いっしゅん)頭上をさっとよぎって行った鳥に、ん?ツバメでは、と思うと同時に頭をよぎったのは、前回のコラムでした。そこには「東京都心では都市化の影響で2015年からツバメが姿を見せなくなっているそうです。」と書いていたからです。あの文章は間違っていますよ。と言わんばかりの接近でした。その後、姿を見ていないのですが、あの空(くう)を切るような飛び方はツバメ以外に知りません。
ツバメが姿を見せなくなったことを書いたのは、気象庁の「生物季節観測」からの記事を見たことや、数年前までは本校近くのマンションの駐車場などで、巣づくりをしてヒナを育てゝいる光景を目にしていたのが、いつの間にかその姿を見なくなっていたことや、春先には1号館前の宮廷ホームを囲む塀(へい)の中から、ウグイスの鳴き声が聞こえていたのが、数年前から聞かれなくなり、ツバメもか。との思いからでした。環境の変化にもしたゝかに生きているかのカラスやスズメは、むしろ増えてきているように思えます。
いさゝか強引(ごういん)ですが、トリつながりで、最近話題になった「妻のトリセツ」という本の名が浮かんできました。トリセツは「取り扱い説明」のことで、世のご主人のために、理不尽(りふじん)な妻との上手な付き合い方が書いてあるのですが、これとは逆の女性のための男性のトリセツともいえる「男性飼育法」というユニークなタイトルの本が60年ほど前に発行され、女性の人気を呼び、ベストセラーになり映画化されるなどしました。私はこれを古本屋で求め読んだことがあります。作者は戦後女性の新しい生き方の実践者として行動する吉屋信子、林芙美子、宇野千代、村岡花子などと交流のあった、作家であり評論家の三宅艶子という人でした。この三宅は旧姓で、阿部艶子の名での執筆活動の方が多く、その中には「結婚なんて」「良妻・悪妻」などもあります。画家、阿部金剛と結婚して阿部姓になり、離婚して昭和33年以降三宅姓に戻ったからですが、自らは男性飼育がうまくいかなかったということでしょうか。この阿部金剛という画家は若い頃フランスへ留学し、藤田嗣治、東郷青児などと親交を深め、帰国して東郷青児とともに「新傾向」絵画の代表として注目され、東郷青児と二人展を新宿紀伊国屋画廊で開催し、シュールレアリズム的な作品で脚光を浴び、二科会会員として二科展を発表の場にした方で、私が二科展の商業美術部(現デザイン部)へ出品を始めた頃、縁あって、絵の指導を受けることになりました。当時、阿部先生は60歳前後だったと思いますが、なんともおだやかでやさしい紳士で、芸術家肌ではありませんでした。後から知ったのですが、父親は東京府知事だったそうです。調布の深大寺へのスケッチにお伴したり「シュールリアリズム論」などの著書もある川端康成の「小説の研究」他の装幀など見せてもらったことなど、思い出されます。
結婚したのは大正から昭和にかけて作家、評論家として活躍した三宅やす子の娘の艶子であったことから、その交際は、スキャンダラスで新聞ざたになるほどだったそうです。私が指導をうけていたころは離婚した後でした。先生はモダンボーイなどと言われていて、その結婚式は帝国ホテルで行われ、それが日本で最初のホテルでの結婚式だったそうです。雑誌に載っていたその時の写真を見たことがありますが、先生は燕尾服(えんびふく)姿でした。なんと、こゝでツバメつながりになりました。先生は離婚後も、今ならワイドショーがトリあげるような、若い女性との諸々(もろもろ)があったようですが、私には微塵(みじん)も感じませんでした。 私も、トリとめのない日常ではなく、先生のようにとはいかないまでも、少しはトリ乱(みだ)してみたいものです。

2019.6.14

青葉に包まれ、露(つゆ)に濡(ぬ)れ、鮮(あざ)やかな緑の青梅の初もぎや、収穫が始まったなどのたよりが、ついこの間あった、と思っていたら関東地方も梅雨入(つゆい)りした、との報がありました。この梅雨は、本格的な夏になる前の露払(つゆばら)いのようなものですが、真夏日があるなどして、初夏を惜(お)しむまもなく、夏がきてしまった感があります。
雨の多いこの6月を「水無月(みなづき)」という、和名がありますが、これは水が無(な)いのではなく、無(な)が「の」にあたり、「水の月」であるという意味で、京都などでは、このころに「水無月」という名の和菓子を食べる習慣が、平安時代から続いているそうです。
針葉樹の濃い緑と広葉樹の浅い緑が、まるでパッチワークのようだった湯河原の里山は、その差がなくなり、万緑(ばんりょく)の夏の景色になってきました。ときおり、夏ウグイスの鳴き声が聞こえるなか、空(くう)を切るようにいきおいよく急旋回(きゅうせんかい)し、頭上をさっとよぎっていくツバメの姿が目につきます。毎年6月に入ると地元の小・中学生向けに「ツバメ観察会」を行っていて、その目的は、豊かな自然に興味をもち、鳥や自然を大切にする心を育むとともに、観察、調査をすることにより、ツバメの生態から環境の変化を探る。ということだそうです。
寒い冬、南方で過ごした燕(つばめ)が春には日本に戻ることから、「初燕」や「燕来る」は、春の季語ですが、「燕の子」は夏の季語です。それは、人家の梁(はり)や軒先(のきさき)に巣づくりをして、7月ごろまでに1、2回産卵と子育てをするからですが、このことからかつてはツバメが来ると縁起がいい、といわれました。毎年ほとんど同じ場所に戻るのは、古巣を利用してリホームするためともいわれます。ツバメは外敵をさけるため、人の出入りの多いところに巣をつくることから、温かく見守る人も多いのですが、不衛生、鳥インフルエンザが怖い、などイヤがる人も増え、巣づくりの途中で落とされてしまったり、建物の構造も変化して、巣づくりに向かなくなってきているなどで、全国的にツバメの生態数が減ってきているようです。
東京の都心では、都市化の影響で2015年からツバメが姿を見せなくなっているそうです。ツバメといえば、プロ野球の「ヤクルトスワローズ」は最初の球団名が「国鉄スワローズ」でした。当時は国鉄の球団だったことから、国鉄の唯一(ゆいいつ)の特急列車であった「つばめ」号に由来しているのですが、候補の中では「コンドル」が有力だったところ、国鉄が「混(こ)んどる」ではまずい、という意見があり「座(すわ)ろうず」にしたという説もあるようです。本当かどうかは?です。
ツバメに限らず多くの身近な動植物が姿を消しているのは、とりもなおさず人間のせいですから、そのうちしっぺ返しが来ることは自明(じめい)の理(り)です。おだやかな季節の移ろいが極端に変化するようになっているのはその兆(きざ)しのように思えます。
佐々木小次郎が修練(しゅうれん)の末、編(あ)みだしたといわれる必殺剣に、空を飛ぶツバメを斬(き)るがごときの「ツバメ返し」がありますが、いずれツバメの方から「ツバメの倍返し」があるような気がしてなりません。

2019.5.30

その辺(あた)りに咲く、野生の草花や、公園、ガーデニングの花など、いろいろな花が咲き乱れている、百花繚乱(ひゃっかりょうらん)のいまは、養蜂(ようほう)の最盛期なのだそうです。その花の蜜(みつ)を求めて飛び交う小さなミツバチの姿は、健気(けなげ)で愛(いと)おしくさえ思えます。

かつては、この時期の代表的なはちみつの蜜源(みつげん)は、レンゲ草の花でした。どこの田んぼでも、緑肥にするためタネをまいて、紅紫色の花のじゅうたんの田園風景がみられ、<ひらいた ひらいた なんの花が ひらいた れんげの花が ひらいた>。<春の小川は さらさら行くよ 岸のすみれや れんげの花に>。など、童謡にも歌われました。「手に取るな、やはり野におけ、れんげ草」は、れんげ草のような野の花は、やはり野原に咲いているのが似つかわしい。ものにはそれにふさわしい場所というものがある。れんげは、野に咲いているからこそ、美しく眺められる。家の中に飾っても不似合いで、その美しさが失われてしまう。という、人や物への例(たと)えにも使われるほどでしたが、化学肥料を使うようになったことから、その役割が終わり、記憶の中の懐かしい風景となってしまいました。

数年前から、日本橋、銀座、原宿などの都心のビルの屋上でミツバチを育て、蜂蜜を採取する都市養蜂というスタイルが話題になっています。こゝ原宿表参道にある老舗(しにせ)の洋菓子店「コロンバン原宿本店」でも、近くにパワースポットの明治神宮や代々木公園、新宿御苑、青山公園などがあることから、屋上を養蜂場として「原宿はちみつ」をつかった「原宿はちみつプリン」など、限定のスイーツが人気だそうです。華(はな)の都(みやこ)パリ。などといいますが、都市養蜂がさかんになった東京は「花の都」と言えそうです。

そんな東京で、花の都とはいえないような、戦後最大の汚職事件が、昭和51年(1976)にありました。時の総理大臣、田中角栄が逮捕され、有罪になったというものですが、これはアメリカの航空機メーカーのロッキード社が、日本に旅客機を売り込むため、賄賂(わいろ)を渡したというものでした。その決定的な証拠がなく、裁判が行き詰まっていたところを、田中角栄元首相秘書の元夫人が、決定的な証言をしたことで、田中首相は失脚(しっきゃく)することになったわけです。その証言をしたことへの覚悟を記者から聞かれ、「ハチは一度刺(さ)したら命を失うが、人を刺す行為でも失うものが大きい、私もハチと同じ気持ちです」と答え、これをマスコミが「ハチの一刺(ひとさ)し」と伝え、流行語にもなりました。

まだ5月だというのに真夏日があり、私にとって、夏の風物詩になっているかの痛風が、忘れてはいませんよ。と早くも義理がたくやってきました。「他人の不幸は蜜の味」などという言葉がありますが、無数の細かいガラス片で刺されるようなその痛さは、思い当たるふしがないでもなく、天罰(てんばつ)との思いで受け入れていますので、私と痛風は、しばらく蜜月(みつげつ)の日々です。私は刺される方で、刺す方ではありませんから、ミツバチではなくミツバツです。

2019.5.15

みずみずしい緑が萌(も)える、から、燃(も)えるようになり、陽光に映え輝いて、その間を吹きぬけ、緑や花の香りをはこぶ、風薫(かぜかお)るこの5月は、若々しく力強く、成長や生命力を感じるその景色に、学生たちの姿を重ねてしまいます。
青葉若葉の季節を賛美する「新緑の頃」という高村光太郎の詩があります。<植物はもう一度 少年となり少女となり 5月6月の日本列島は隅から隅まで 濡(ぬ)れて出たやうな緑のお祭>。そんなときめくような季節の大型連休明けは、出席率が悪くなるなど要注意のときでもありますが、憂(うれ)いを払い、悩める心を優しく励ますような「5月」と題された室生犀星の詩もあります。<悲しめるもののために みどりかがやく くるしみ生きむとするもののために ああ みどりは輝く>。ときめきと、憂いの薫風(くんぷう)にのって「令和」という時代がはこばれてきました。
天皇陛下が退位され、新天皇陛下が即位された皇室の儀式での装束は、天皇のみが着ることを許される「黄櫨染御袍(こうろぜんのごぼう)」という、いかにも伝統を感じるものでした。黄櫨(こうろ)とは、ハゼの木の古名で、黄櫨染はハゼの樹皮と植物の蘇芳(すおう)から染められ、その色は赤みや黄色みをおびた深みのある褐色(かっしょく)で、同じ色を染めるのはむずかしく、謎の色とも言われる高貴な色で、天皇以外は着れない禁色なのだそうです。
草木染は縄文時代にその形跡(けいせき)があるようですが、大陸から染色技術が伝わった、飛鳥時代から広まったようです。すべての植物は草木染の原料になるそうですが、植物の中を流れる成分は、季節によって変わるようです。みどりは豊かな自然の象徴ですが、新緑のころは細胞を紫外線から守るため、葉緑素が水に溶けにくく、緑の植物を煮ても液が緑色にはならず、黄色になるのが多いようです。明治以降は、科学的な合成染料が使われるようになり、草木染は稀少(きしょう)になってしまいましたが、天然素材であるため、人体にも環境にもやさしい、として見直されてきているようです。
今年の新入生は平成で入学式、令和で卒業式を行うことになり、本人たちはそれほどではないと思いますが、昭和、平成、令和。と、ゆく元号、くる元号を体感した私には感慨深いものがあります。30年前に昭和が幕を下ろし、「平成」の元号を発表したのは時の官房長官、小渕恵三さんでした。「平成おじさん」などと呼ばれ話題になった後に総理大臣になり、お会いしたことがありました。通産大臣であった深谷隆司さんが二科展デザイン部に出品し入選したことから、その作品を見に上野の東京都美術館に来られ、ご案内しました。深谷さんは絵が趣味で、ヨーロッパ風景をスケッチした画文集を出版するほどで、デザイン部には観光ポスターとして出品し、4回ほど入選しています。昨年、日本ジュエリー協会の創立30周年記念祝賀会で、久し振りに深谷さんとお会いし、お互い近況(きんきょう)報告となりました。二科展といえば、上皇となられた陛下が皇太子時代おひとりで二科展鑑賞に来られ、美智子さまとご結婚されてからもご夫妻で二科展にほぼ一年おきに来られ、私がデザイン部代表になってからは都美術館、六本木に移った国立新美術館で絵画部、彫刻部、写真部代表とともにお出迎え、お見送りをさせていただいたことなど、ありがたく思い出します。 平成は必ずしも平静ではありませんでしたが、「令和」は聞きようによっては「平和」とも聞こえ、そのひびきは心地よく、そうありたいとの思いです。

2019.4.26

始まりの季節、春。本校も新入生を迎え、新学期がスタートし、静かだった校内は春の光が満ちあふれ、色とりどりの花が咲き競うかのように、心はずむにぎやかな声が飛び交(か)い、まさに春らんまんです。
そんな新入生が自然とふれあい、クラスメイトや教職員とのコミュニケーションをはかる、恒例(こうれい)の行事であるデーキャンプ「フレッシャーズ・レクリエーション」に、今年も同行しました。4月19日の朝9時、新入生479名、教職員25名が大型バス12台を連ねて原宿を出発し、「相模湖プレジャーフォレスト」に向かいました。晴天に恵まれ、四方を山に囲まれたキャンプ場は、常緑樹の濃い緑と、萌える若葉の新緑の鮮やかなグラデーションの木々の葉色をのせた、清々(すがすが)しい春の風がのどかに吹き、おだやかな日和(ひより)をいう、「春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)」の春景色でした。萌黄色(もえぎいろ)のような若さの学生たちが、ワイワイとビザづくりに興じる姿は、春になっていろんな鳥が野山でさえずり、鳴き交わしていることをいう「百千鳥(ももちどり)」のようで、それに呼応(こおう)するかのように、新緑の木々の間から、ウグイスや野鳥の鳴き声が聞かれ、学生たちの姿と相(あい)まって、ふと希望とか幸せ感のようなものが湧(わ)いてきました。年を重ねても、希望とか幸福感というものは、ちょっとした弾みに湧いてくるようです。
山裾(やますそ)には、ヤマフジ、ヤマブキ、ツツジなどが咲き、キャンプ場ではボタン桜ともいう八重桜が満開で、足もとには黄色いタンポポ、紫色のスミレや名も知れぬ雑草などともいわれる、野草の小さな花が咲き、そうした草は踏(ふ)みつけられながらも、健気(けなげ)に無心に、春を告げてくれているかのようでした。そうした草を「雑草」と、ひとからげにしては申しわけない気がします。
アメリカには「雑草学会」という研究者の集まりがあるそうですが、そこでは雑草のことを次のように定義(ていぎ)しているようです。<人類の活動と幸福・繁栄に対して、逆(さか)らい、妨害する植物>として、幸福論までもちだす敵視ぶりですが、日本では、雑草を、生命力が強い、たくましさ。のたとえで「雑草のような人」などといゝ、日本人は自然への眼差(まなざ)しがやさしいようです。
ピザづくりやフリータイムのプレイランドで、遊び疲れ、帰りのバスでは「春眠(しゅんみん)」状態の学生たちを見ながら、雑草のように強くたくましく生きていって欲しい、と思う一方(いっぽう)、誰でも雑草のように生きられるわけではないので、同じように見える学生もそれぞれ違う色を秘(ひ)めていて、それぞれ違う花を咲かせるべく、その成長を辛抱(しんぼう)強く育(はぐく)まなければ、との思いを強くしました。
教育を意味する「エデュケーション」はラテン語まで遡(さかのぼ)ると「植物の成長」という意味があって、教育のベースには「命を育む」という概念があり、教え育む教育は、鍛(きた)えたり、調教することゝは違うことなどに想いをめぐらせながら、心地よい睡魔(すいま)に襲(おそ)われ、「春眠」がうっかり「永眠」にならないよう、つねったり、ひっかいたりしながら、なんとかがんばって原宿に戻りました。

2019.4.15

寒の戻り、花冷え、などがあり、桜の花も長く咲き、各地の花見風景が報じられる中、4月1日に新元号が「令和」と発表された数日後の4月8日、明治神宮会館で、昨年より多い新入生を迎えて入学式を行いました。期待と不安に満ちた初々(ういうい)しい瞳(ひとみ)が向けられている式辞で、この平成最後の入学式は記憶にのこる入学式になると思います。と話しました。

いま、花見といえば桜ですが、桜の花見は農作業にとりかゝるというこのころに、山の神が降りてくるとされ、桜はその農耕(のうこう)の神が降りてくる代(か)わりであり、その神のもとで飲食を共にするという行事が花見になったのだそうです。そのころの桜といえば主(おも)に山桜を愛(め)でていたようです。この桜の花見は平安時代ごろからで、それ以前は花見といえば梅の花の宴(うたげ)で、万葉集には梅の歌が桜の3倍もあるそうです。

新元号の「令和」は、天皇、皇族、歌人、役人、庶民など幅(はば)広い人たちが詠(よ)んでいる日本最古の歌集「万葉集」の「梅花の宴」の序文「初春の令月にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き」から引用されたのだそうですが、令月は「万事をなすのによい月」で「よい月に天気がよく、風も優しく梅が咲いて」という意味だそうです。梅といえば、私がいま住んでいる、神奈川県足柄下郡湯河原町でも毎年3月、約4000本の紅梅、白梅が山の斜面に咲き誇る、湯河原梅林「梅の宴」が観光名所になっています。

湯河原はかつて土肥(とひ)と呼ばれ、「あしかり(足柄)のとひ(土肥)のかふち(河内)にいづ(出)るゆ(湯)のよ(世)にもたよらにこ(子)ろがい(言)わなくに」万葉集に詠(よ)まれている温泉の歌はこの一首のみで、それが湯河原の由来ともいわれていることから、新元号の「令和」が万葉集からきていることに町は温泉が湧(わ)いている上に万葉という言葉に湧いています。

日本一と言われる足湯がある万葉公園には、万葉集に詠まれている草木が植えられている万葉植物園、万葉広場、万葉の歌碑があり、公園入口には「万葉洞門」があり、その近くには茶室の「万葉亭」があり、その手前の観光会館はかつて「万葉館」、そこに渡る落合橋も「万葉橋」と呼んでいて、町所有の宿泊施設も「万葉荘」で、湯河原の温泉を配湯し、各地に温泉施設を展開する「万葉倶楽部」もあるなど、万葉づくしです。

万葉とは多くの木の葉、あらゆる草木の葉のことですが、湯河原の里山の木々の葉も、草の葉も萌(も)え出る若葉のこの季節ならではの、萌黄色(もえぎいろ)が湧いています。多くの花々も咲きはじめ、春の花ざかりは、すぐそこまできていますが、私はすでに鼻ざかりです。

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