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今村昭秀学校長のコラム

今村昭秀学校長のコラム 2015年度

今村昭秀学校長イラスト

(イラスト:マンガ科 小日向一葉)
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2015年度

2016.3.31(New!)

ちらほらと桜の花がほころび、咲き始めた過ぎゆくこの3月弥生(やよい)の「弥(いや)」は「いよいよ」「生(おい)」は「生い茂る」弥生(いやよい)が変化したともいわれます。いよいよ草が萌(も)え、花が咲き、木々が芽吹き、生い茂る春を誘(いざな)うという弥生ですが、そうした草木ではない春の季語に「百千鳥(ももちどり)」があります。これは春になると、たくさんの鳥が野山で鳴き交(か)わしているさまをいう言葉ですが、いま、春休みの本校の校舎はしぃ〜んとしていて静寂(せいじゃく)そのものです。新学期が始まれば学生たちのにぎやかなおしゃべりが、さえずりのように校内にひびき「百千鳥」になるであろうと、心待ちにしているところです。
雪の多い北国の3月は、まだまだきびしく、冬をのり越えた先にくる春を待ちのぞみ、春を呼ぶ童謡<春よ来い 早く来い 歩きはじめたみいちゃんが おんも(家の外)へ出たいと待っている……>の「春よ来い」が歌いつがれる心情がわかる気がします。松任谷由実の歌にも「春よ、来い」があり、その詞には<春よ 遠き春よ 瞼(まぶた)閉じればそこに 愛をくれし君のなつかしき声がする 春よ まだ見ぬ春……>とあります。
雪深いところの人々が心待ちにする春の訪れは(若い世代は違うと思いますが)サクラが咲く遠い春より、日差しに温(ぬく)もりが増し、雪が解(と)け、野山やせせらぎのそばに顔を出す、たくさんの山菜や野草です。フキノトウ、セリ、ウド、タラの芽、ワラビ、ヨモギ、ノビル、山ワサビ、ヨメナ、カタクリ、行者ニンニク、ヤブカンゾウ、アサツキ、ギシギシ、ツクシ、コゴミ、シドケ、ミズ、アマナ、ウルイ、ネマガリタケ、コシアブラ、イタドリなどなどですが、これらの自然の恵みを摘(つ)み、和(あ)えもの、おひたし、炒(いた)めるなどもうまいのですが、アクが強く、えぐみのあるほろ苦(にが)い山菜や野草は、やはり天ぷらが一番です。卵をつかわず、打ち粉をして衣をつけて2度揚げするとカラッと仕上がり、かんだときのサクッとした食感とその香りは、春を丸かじりしているかのようです。その天ぷらの衣(ころも)は小麦粉ですが、小麦粉のブランドに「春よ恋」があることを知りうれしく?なりました。春は恋の季節ともいゝますが「恋は下心、愛は真心」ともいゝ、万葉人は「孤悲」と当てたようです。かつて恋は「戀」と書き「いと(糸)し、いと(糸)しと言う心」と分解して覚えたそうです。
かなり前、学生からヨーロッパの都市でどこが好きか、と聞かれ、東京が本妻で、パリが恋人で、バルセロナが愛人だ。といったら、その話が学生たちの間に伝わり、どうやらパリに恋人がいて、バルセロナに愛人がいるそうだ。という話になってしまい、例(たと)えが悪かった。と反省しきりでした。
恋や恋ごころに胸をときめかせたのは、はるか遠い遠い記憶の彼方(かなた)の春霞(はるがすみ)のようになってしまいました。

2016.3.16

より春めいてくるこの弥生(3月)は、春の水、水温(みずぬる)む、などの言葉があるように、雨水、雪解(ゆきど)け水などが加わって水が豊かになり、水温に、水の色に、さらに水の音までが春の訪れを感じさせてくれます。 そんな早春の水辺に咲く花に猫柳(ねこやなぎ)があります。その銀白色の花穂が猫のシッポに似ているところから、その名がついたようですが、冬の寒さに耐(た)えてやっと顔を出したようなネコヤナギは、色とりどりの花々に先がけて咲くことから、春告げ花ともいわれますが、花というにはあまりにも地味で花芽のようにも見えます。犬派の私ですが、ナゼかこの地味〜な猫ヤナギが好きです。
水温む春の川に人形(ひとがた)を流す「流し雛(びな)」という行事がありますが、これは「雛(ひな)流し」ともいわれる日本古来の伝統行事で「雛祭り」のもとになったともいわれます。女の子の健(すこ)やかな成長を願い、ひな人形を飾ってお祝いする「ひな祭り」は、もともとは女の子のための祭りではなく、邪気(じゃき)が入りやすいこの季節に、子供の無病息災を願って、それを紙や草木で作った人形に託(たく)して、川に流して祓(はら)い清めたのだそうです。
3月3日は「ひな祭り」ですが、古くは宮廷・貴族のあいだで行われた「ひな遊び」が江戸中期ごろから春の風物詩として各地に広がり、武家のあいだでもひな人形の大きさや豪華(ごうか)さを競うようになり、その贅沢(ぜいたく)さが禁止され、小さいものになったのだそうです。ひな壇(だん)に飾るようになったのは、そのころからで、それまでは畳(たたみ)に直(じか)に敷物の上に飾っていたそうです。雛(ひな)は小さなものを表す言葉で、生まれたばかりの小鳥やひよこなどのことですが「ひな」の古語は「ひいな」で、小さくてかわいらしいものという意味だそうです。「うつくしい」という言葉は、奈良時代までは小さいもの、可憐(かれん)なものに対する愛情を表す表現だったようです。
小さくて美しいひな人形は、優美な色彩を愛する平安貴族の文化「雅(みやび)」の美意識と鎌倉時代以降の「目に映る美しさだけではなく、その奥にひそむ本質を心で感じ、不足の中に充足を見出そう」とする「禅(ぜん)」の精神が融合(ゆうごう)され、凝縮(ぎょうしゅく)されているようです。そんな「雅」が似合う荘厳(そうごん)な空気が漂(ただよ)う明治神宮会館で、10日の朝10時より本校の卒業式を行いました。
今年は女子学生のキモノ姿が多く、小さなものゝなかに無限の広がりを見る雛人形と、キモノ姿の卒業生が重なって見えました。私の目の前で答辞を読んでくれたキモノ姿の卒業生が、こみあげてくるものがあったのでしょう、最初から涙声(なみだごえ)でときおり言葉につまるその姿が「雅」で美しく、これぞ「雛の美学」と、その気持がうれしく伝わってきて、私の、この汚(けが)れを知らない澄(す)みきった、つぶらな瞳(ひとみ)???の涙腺(るいせん)もゆるんでしまいました。

2016.2.29

冬から春へと移ろう日々の先日、春一番と呼ばれる暖かい南風が強く吹き、気温が急上昇しましたが、次の日には真冬の寒さになるなど、寒暖差の激しいこのところの気候を、余寒(よかん)とか春寒(しゅんかん)というのでしょうか。湯河原では、冬枯れの茶褐色(ちゃかっしょく)の山合いのところどころに、そこだけ絵具をつけたかのように早咲き桜のピンクの明るい色が浮き上がっています。
新春、初春などの言葉が飛び交った1月から、JRで「伊豆・箱根・湯河原 温泉いっぱい花いっぱいキャンペーン」が始まり、湯河原や東海道線の各駅に、早咲き桜や菜の花がレイアウトされたポスターが張られ、ひとあし早い春が訪れていました。それにちなんで駅弁「美味いっぱい 伊豆の春」「春の彩りちらし弁当」が限定販売され、小田原と熱海でそれぞれ求めました。そこには相模湾や伊豆の海、山・里の幸(さち)がコンパクトに詰(つ)められていて、春色の光景が広がり浮かんで、春を先取りしました。
この2月は、旧暦の正月で中華圏では最も重要とされる祝祭日で、新暦の正月(1月)と比べより盛大に祝賀する春節(しゅんせつ)があり、この休みを利用した中国からの観光客による爆買(ばくが)いが話題になりました。今年もこの旧正月に合わせて15〜20数年前に留学していた台湾、香港、シンガポールなどからの卒業生から賀状が届き、うれしく懐かしく、そのころが思い出されます。その賀状は日本のそれに比べると封筒も賀状も大きく、赤い色を多くつかい金銀の箔押(はくお)しがされている華美(かび)なものです。そんな留学生や外国人に人気の日本的スポット、原宿表参道の一本裏手にある浮世絵専門の太田記念美術館に「春」を求め訪ねました。北斎誕生の系譜と銘打(めいう)った「勝川春章」展で、葛飾北斎の師匠であり写楽のルーツといわれ、その門下から春好、春英、春潮など「春」がつく人気絵師が出て活躍し、勝川の名は浮世絵界で大きな勢力を誇り、北斎も若いころ春章の門を叩(たゝ)き勝川春朗という名前で青年時代を過ごしたそうです。春章が発展させた役者絵の手法は、東州斎写楽や歌川豊國ら後の浮世絵師に影響を与え、春章なくして北斎や写楽は世に出なかったといえることから会場には北斎、豊國、写楽などの浮世絵もあり、その一角(いっかく)に本校の特別コーナーを設(もう)けていただきました。そこでは北斎が、当時の人々が生活する中での滑稽(こっけい)さを、軽やかに素描で表現した「北斎漫画」といわれるものを、本校のアニメーション科の学生が動画(アニメーション)にする、動く「北斎漫画」に取り組んで完成させたものを発表しました。貴重なスペースを割(さ)いて下さった太田記念美術館様と、このきっかけを作って下さいました日本美術アカデミー様に改めて感謝を申し上げます。
春章は30代後半の遅咲きデビューだったとの通説でしたが、20代でデビューした早咲きであったことが新資料で見つかったそうです。「春」の名がつく門下生の浮世絵も展示されていて、原宿の春爛(はるらんまん)を喫(まんきつ)し、大足でした。

2016.2.12

まだ、「春は名のみの風の寒さや……」。ですが、暦の上では春になっている2月は、如月(きさらぎ)といゝ、春の兆(きざ)しを感じるこの言葉には、心に春が宿(やど)るような明るいひびきがあります。
宿るといえば、すっかり葉を落とした冬枯れの幹や枝に丸く茂った、遠目(とおめ)には鳥の巣のような塊(かたまり)の宿り木が目につきます。このヤドリギはエノキ、ケヤキ、サクラ、カエデ、ミズナラなど宿主木(しゅくしゅぎ)といわれる落葉樹の宿主(やどぬし)に寄生して、養分を吸い生息することから宿木、寄生木とも書きますが、自(みずか)らも光合成(こうごうせい)するので半寄生植物なのだそうです。宿主木と書いていて、佐渡の宿根木が思い起こされました。
欧米ではタネが鳥に運ばれて樹上で芽吹き、宿主の木が葉を落としている冬に、ヤドリギだけが常緑に茂っていることに、不思議な生命力を感じ神聖視され、縁起の良い植物としてクリスマスのリースに使うなどするそうです。クリスマスの日は、男性がヤドリギの下にいる女性にキスをしてもいゝという風習があるそうです。仮(かり)に日本にもそんな風習があるとしても、いまだかつてヤドリギの下に佇(たたず)んでいる女性など見たことがありません。いるとすれば妖怪の雪女ぐらいでしょうか。とは思うものゝ、もし偶然にも、そんなことなど知るよしもない女性が奇跡的にそこにいたとしたら、反射的にキスをしてしまいそうで、そんな自分が怖(こわ)いです。寄生木の寄生は、若干(じゃっかん)ムリはありますが訛(なま)って読めば寄生(きす)と読めなくはありませんが、女性はうっかりヤドリギの下に近づかないで下さい。
寄生といえば、自分では働かず女性に寄生し貢(みつ)がせ、養ってもらう男性のことをヒモといいますが、ヒモ男は女性と紐(ひも)でつながっているという意味なのだそうです。このヒモは、海に潜(もぐ)って海藻や貝を採(と)って働いている女性を、船の上から命綱(いのちづな)であるヒモ(紐)をもっている男になぞらえているのだそうです。とすればヒモ(命綱)をもっている男に支えられて働いている女性ですから、そのヒモは良い意味ですが、ヒモというとどうしてもマイナスイメージがつきまといます。ナマケモノの私はヒモ男に憧(あこが)れていましたが、ヒモになるためにはそれなりの資質、才能が必要とされることがわかり、あきらめました。
本校はこゝ原宿にあることから、原宿にあるからいゝですね、などといかにも原宿に依存し寄生しているかのように言われ心外なのですが、原宿の宿は宿り木の宿であり、原宿の街を宿主木として養分をいただいて、自らも光合成している本校は原宿のヤドリギなのかも知れません。そうです、本校は「原宿のヤドリギ」です。

2016.1.29

年末年始からしばらくは記録的な暖かさとかで、梅や菜の花が1ヶ月〜2ヶ月ほど早く開花するなど寒の入りはいつのことか、と思っていたら、急に平年より平均的気温が低くなり、関東地方が最強寒波とか爆弾低気圧などという大荒れの天気となった日は、雪のため交通機関が大幅に乱れ、本校の学生や教職員の多くも遅刻や出校できないなどの影響がありました。その後もこの冬一番の寒さとなる日があるなどの中、日本ジュエリー協会、日本広告制作協会、二科会デザイン部などいくつかの新年会、賀詞交歓会がありでかけました。新年のお祝いや挨拶をする正月は元旦から松の内の7日または15日までをさしますが、もともと正月は1年の最初の月という意味なのだそうです。そうした会場には、新年を祝うのに縁起(えんぎ)が良いとされる松、竹、梅、南天、万両、千両などが生(い)けられています。そんなこともあり校内にあったポスター、根津美術館コレクション展─新年を寿ぐ吉祥のデザイン─「松竹梅」が目にとまり、行ってきました。寿(ことほ)ぐは喜びや祝いの言葉で、吉祥(きっしょう)は繁栄、幸運を意味していて、ふだんはつかわないこうした言葉は新年にはふさわしく、心地よくひびきます。松竹梅を単独に、あるいは組み合わせて描いた絵画やそれらをデザインした工芸品の数々を見て、松竹梅を愛(め)で祝い、祝われました。
松竹梅は、寒さに耐(た)えるところから「歳寒三友(さいかんさんゆう)」とよび、松は冬でも枯れない緑の葉をつけていることから長寿や不変の神秘的な力、竹も冬でも枯れず凛(りん)としたその姿に生命力、健康、成長を、梅は厳しい寒さに負けずに花の少ない時期に可憐(かれん)な花を咲かせるところから、不思議な力を感じ「繁栄」を意味するそうです。古来から、花の少ない冬に常緑の葉に赤い実をつける植物は、正月の縁起物として飾られ、南天(ナンテン)は緑の葉に房状(ふさじょう)の赤い実をつけ、難(なん)を転(てん)じるとされ、その葉は腐敗(ふはい)を抑(おさ)える効果があることから、赤飯に添(そ)えられる習(なら)わしがあります。同じように常緑の葉に赤い実をつける万両(マンリョウ)千両(センリョウ)があります。万両はサクランボ状に赤い実が葉の下につき、千両の赤い実は上向きに固(かた)まってつき、百両、十両、一両もあるそうです。それぞれ実のつく数や木の大きさによってその名がついたようです。
根津美術館は、ブランドショップのシャレたビルが多い、本校がコラボでお世話になっている「ブルーノート東京」もほど近い南青山の一角にあり、その設計は話題になったあの新国立競技場のデザインが採用された隈研吾氏で、平成21年にリニューアルオープンしています。その共通するデザインは緑に配慮し、周囲に威圧感を与えないで、竹や木を使った外観の現代的な日本的空間です。この美術館のエントランスからホール、展示スペースは落ちついた解放感があり、茶室もある日本庭園には、緑の葉に赤い実をつけた万両や千両がそこかしこにあり、その庭が眺められるカフェでゆったりと和菓子と抹茶で和(なご)みました。
西洋的な完璧さや合理性ではない寛容(かんよう)さを感じる、新年にふさわしい和の佇(たたず)まいの美術館で、平成に和がつながれば、平和になるのに、との思いが頭をよぎりました。

2016.1.14

新春のおよろこびを申し上げます。本年もよろしくお願いいたします。本校の仕事始めと授業は5日からでした。この日、まずは恒例である地元の鳩の森八幡神社で、なによりも学生が健康で安全な学校生活を送れるよう祈願してきました。今年は本校が創立50周年を迎えることでもあり、とりわけ新たな気持になり、日差しも暖かい鏡内で心もほのかに迎春となりました。
年末、年始はなぜか佐渡島でした。というわけで初詣は佐渡の神社となりました。行ったことがないところ、という以外とくにこれといった理由や目的はなかったのですが、強(し)いていえば、雪景色が見られ、佐渡出身の卒業生がいたことから、どんなところかな、との思いはありました。新潟といえば豪雪地帯のイメージがありましたが、川端康成の名作「雪国」の「トンネルを抜けると雪国であった」の如(ごと)く、その舞台になった越後湯沢あたりは雪がありましたが、その量は少なく、新潟市や佐渡の平地はまったく雪がなく、拍子抜(ひょうしぬ)けでした。 暖冬だからかと思ったのですが、例年も雪の少ないところなのだそうです。江戸幕府の財政や通貨制度を支え、平成元年まで400年もの長い間採掘(さいくつ)された佐渡金山の見学など観光スポットの島巡りをしたのですが、中でも宿根木(しゅくねぎ)という集落が興味深く印象に残りました。国の重要伝統的建造物保存地区に選定されたというそこは、江戸中期以降、米千石を運んだといわれる千石船など多くの回船を保有し、船大工、鍛冶屋、桶屋、港湾施設のための石工、寄港する船員のための宿屋など、回船に関わることで繁昌(はんじょう)したところだそうです。 そうした歴史を色濃くのこす築100年以上の家々が密集しているその家並みは、狭(せま)い地形を巧(たく)みに生かした船大工の知恵と技術によるもので、その狭い路地を散策していると、江戸のころにタイムスリップしたかのようでした。なんとはなく懐かしく、初めてではないように感じられたのは、吉永小百合がこの地で撮影した、JR「大人の休日倶楽部」のCMシーンやポスターが思い出されたからでした。しばし、つかのま、自分が吉永小百合さんになったかのようにごく自然にその姿が重なりました。サユリストの皆さんスミマセン!! 伏(ふ)してお詫(わ)び申し上げます。
佐渡は夕鶴伝説の地でもありますが、かつて日本各地、佐渡にもいたトキが激減したことから佐渡トキ保護センターでトキの保護と増殖がされ、放鳥し、野生化したトキを運が良ければ見られることもある、とのことでしたが、なんとその運があり、飛び立ち舞う1羽と餌をついばんでいる2羽を見ることができました。トキは朱鷺と書き、目の周りや白い羽の一部がペリカンのような朱色(しゅいろ)をしていますが、この朱色は日本の伝統色の色名で、生命の躍動感、災厄(さいやく)を防ぐなど縁起(えんぎ)が良いとされています。今年は、ではなく、今年も、あらゆるモノ、コト、ヒトにトキめきたいと思います。

2015.12.28

すっかり冬らしくなり、木々も渋い色どりの冬紅葉(ふゆもみじ)になって、早くも師走(しわす)ですが、年の暮れ、年の瀬、歳末など独特の空気と気分を表す言葉から想い浮かぶ、日本的なその情景が年々薄(うす)れて、街は色とりどりのイルミネーションが輝き、きらめき、華やいだクリスマスムードに包まれ、本校の1号館2号館のエントランスにもディスプレイデザイン科の学生がクリスマスツリーを飾りました。
東京には丸の内、銀座、お台場、赤坂、六本木、恵比寿など、冬の街を色どる充実したイルミネーションエリアがたくさんありますが、こゝ原宿表参道もそのひとつです。ケヤキ並木に約50万個のLEDによる光のページェント「表参道イルミネーション2015」がクリスマスムードを盛りあげ、多くの人が訪れ、賑(にぎ)わいました。 イルミネーションといえば、この間(あいだ)20数年前の卒業生たちとの忘年会が京橋であり、銀座に近いその界隈(かいわい)もあちこちにイルミネーションがきらめいていて、卒業生のひとりがそのいくつかのデザインを手がけた、というので飲み会のあと、皆で見に行こうということになりました。ホロ酔(よ)い気分でブラブラと歩いていると、アレもコレもそうだ、というので酔いにまかせて適当なことを、と疑(うたが)いながら、銀座のルイ・ヴィトン、シャネル、カルティエなどの高級ブランドが出店しているエリアに入ると、その角地のビルに多くの外国人や日本人が声をあげながら写真を撮っているのに出会いました。そこはイタリアの美の至宝と言われている高級宝飾品ブランド、ブルガリの店舗、銀座タワー店で、その正面と側面の外壁に、大きな蛇(へび)があたかも宝石をちりばめたように輝いていて、そのスケール感と高級感は圧倒的な光を放っていました。ブルガリの特徴的なデザインが蛇の頭部をモチーフにしていることからのようですが、まさかのさか?その卒業生がそこを指差して、これもボクが手がけた。と軽く言われ、驚きのあまり絶句(ぜっく)状態でした。考えてみればそれは失礼なことで、長い間その業界で仕事をしてきて、いつの間にか有数の人材になっていたわけです。このところ飛躍的に仕事が増えていることから、来年は独立して会社を立ち上げるとのこと、その発展ぶりにうれしくイルミネーションのシャワーを浴びながら帰途(きと)につきました。
その数日後、東京国際フォーラムに出かけました。それは丸の内のクリスマスシーンにアーティスティックな色どりを添える光と音のシンフォニー「ライティング・オブジェ2015」の学生アワード「未来の輝き」で、本校のディスプレイデザイン科の学生5人が共同制作した作品がグランプリ(大賞)に選ばれ、その表彰式があり、学生と出席して喜びを共にさせて頂きました。若いエネルギーや思いを込めた大賞作品は東京国際フォーラムの光壁をキャンバスに大きく発表、展開されました。
この師走にこのような豊かな気持を得(え)られているのも、卒業生や在校生やお世話になった多くの方々のおかげです。改めて感謝申し上げます。又、このような読みづらい長い文の、とてもコラムとはいえない「コラムもどき」を読んでいただきありがとうございました。来年、本校は創立50周年になります。心して新年を迎えようと思います。来年もよろしくお願いいたします。良いお年をお迎えください。

2015.12.14

寒くなったり暖かくなったりの初冬でもあり、晩秋でもあるようなこの季節、温暖な湯河原はやっと<秋の夕日に照る山紅葉(もみじ)……>。の歌にあるような風景が広がり、木々のその種類がわかるほどに、赤や黄色の色づきがはっきりしてきて、いま、まさに紅葉のピークです。
枯れ落ちる寸前の葉が紅葉ですが、木の葉が色づく一方で散り始めているという秋の季語に、紅葉(もみじ)且(か)つ散る。があり、どんどん散るばかりのようすや、散り敷いたさまをいう冬の季語に、散(ちり)紅葉(もみじ)。があります。色とりどりのさまざまな落葉には、生のプロセスそれぞれの輝きと美があります。色や形といった見える部分だけではなく、その奥にある哀感(あいかん)や憂愁(ゆうしゅう)や無常観(むじょうかん)など枯れゆくさまの生命(いのち)そのものへの畏敬(いけい)の念へも想いをめぐらしたいものです。
紅葉は気温が下がることで葉でつくられた糖類などの養分が枝に回らなくなり、その糖分がアントシアニンという赤い色素に変わり、イチョウなどの黄葉(こうよう)はカロチノイドという黄色い色素が残ることで色づくのだそうです。このように色素の生成に異変がおこることで紅葉するということは、これは樹木の糖尿病なのではないでしょうか。
東南アジアなど紅葉しないところの留学生が、日本の紅葉のその美しさにおどろき、感嘆(かんたん)の声をあげたり、紅葉した落葉を愛(いと)おしそうに拾ったりするのを見たりしましたが、このまゝ地球温暖化が進めば日本も亜熱帯となり、紅葉しなくなることが懸念(けねん)されます。そんなことが頭をよぎる中、折からフランスのパリ郊外で、国連気候変動枠組み条約の国際会議「COP21」が開かれ、地球温暖化対策の新たなルールを決める話し合いがされ、国内では12月10日〜12日の3日間、東京ビッグサイトで、代表的企業のほとんどが参加している、人と地球にやさしい日本最大の環境イベント「エコプロダクツ2015」が開催されました。本校では10年ほど前から全学科が、人にも環境にもやさしい「エコデザインカリキュラム」を導入し、エコに関する課題に取り組み、毎年このエコプロ展でその成果を展示発表しています。初日に見学したのですが、翌11日は皮肉にも季節外(はず)れの大雨と、12月中旬の観測記録としては最も高い24度となるなど、激変する自然環境を目(ま)の当たりにしました。学生には環境問題に対する意識を高くもって、エコロジーをあらゆるデザイン制作のベースにしてほしいと思います。
紅葉が落葉になっても、それは命の終わりではなく、その後、木々は芽吹き又紅葉します。人間の「エゴ」を人間の英知で「エコ」にコントロールできず、このまゝいけば、いずれ地球は限界点に達し、紅葉を愛(め)でるどころではないですよ。と紅葉した木々から問いかけられているような気がしてなりません。

2015.11.30

このところ原宿駅から本校に向かう線路ぞいのイチョウ並木も、陽あたりのよいところは黄金色(こがねいろ)に染まり、風に散り、落ちたその黄色い葉をあたかも季節と会話しているかのように、ふみしめながら通っています。
東京を代表するイチョウ並木といえば神宮外苑ですが、まだそのほとんどが青葉だったその先の外苑広場で、10月24日〜11月3日まで、日本最大のデザインイベント「TOKYO DESIGN WEEK 2015」が開催されました。テーマは「つながるデザイン」で、本校はスペース系ビジュアル系の学生が学科を越えて共同制作した作品で参加しました。その作品は、ツーバイフォーで作った小屋のような八畳の四角いスペースで、その空間を発信、受信するメディアとしたもので、内から外へ、外から内へと音と色の変化による文字情報(タイポグラフィー)が映像として流れ、そこには文字とは何か。と問い、文字は人と人をつなぐための大切な架(か)け橋であるとしながら、現代のグローバルネットワークの普及が情報過多になり、本当に必要な情報を受けとり、必要な情報を発信することが困難な環境にあるいま、自分を取り囲む文字(情報)に目を向け、付き合い方を考えるべきではないか。という学生たちのメッセージがクリエイティブにシンボライズされていて、その空間は会場で魅力的な異彩を放(はな)っていました。
イチョウは中国原産で、公孫樹とも銀杏とも書きますが、これは生長が遅く植えてから孫の代にならなければ実がならないところから、公孫樹(インチャウ)がイチャウとなって、イチョウになったとする説や、葉が鴨(かも)の水掻(か)きのある足に似ていることから、その中国名のイーチャオからきているなど諸説あるようです。銀杏は「ぎんなん」とも読み、それは実の形が杏(あんず)に似ていて、殻が銀白であることからだそうです。
江戸時代は銀杏をギンキョウと読んでいて、それがヨーロッパにはない珍しい木としてヨーロッパに伝わり、今でも一般名として「ginkyo」が使われているそうです。イチョウと呼ぶようになったのは明治になってからだそうです。
ギンナン(銀杏)は古くから食材として使われていますが、栄養価が高い食材で滋養強壮、老化防止によいようですのでまさに私にピッタリです。ただ食べ過ぎると中毒を引きおこす成分が含まれているため、1日20粒ぐらいまでと言われていますが、個人差がありますから10粒ぐらいまでが無難(ぶなん)なようです。葉のエキスやギンナンは民間療法や漢方薬や健康食品などに利用されているようですが、イチョウ(胃腸)に効(き)けばこれほどのオチはないのですが、世の中そんなに甘くはなく、それはありませんでした。イチョウの木は古生代から今日まで生き残っている「生きた化石」とも言われていて、イチョウ並木の外苑で「つながるデザイン」によって、太古と現代も時空を超えて心地(ここち)よくつながりました。

2015.11.16

日ごとに夕暮れが早くなり、都心でも蔦(ツタ)や、さまざまな木々が色づきはじめ、湯河原の里山も、常緑樹と黄色や赤色に紅葉した落葉樹のコントラストに、秋の深まりを感じます。そんな秋景色の中、湯河原や車窓からの眺めで目につくのは、柿の木です。紅葉しはじめた葉がまだ残っている木や、葉が落ちてむきだしになっている木に、だいだい色の柿がびっしりと枝もたわわに実っていて、今年は成り年のようです。
かつてこの時期は、甘柿も渋柿もほとんど収穫され、「木守(きも)り柿」として、1コから数個残すだけでしたが、このごろは過疎化や高齢化などで人手がなく、収穫されずに熟し落下するまゝに放置されているのが、あちこちで見られます。「木守り柿」の風習は来年への豊作祈願であり、野鳥のためにも残しておく、などといわれ、記憶の中にある木守り柿の風景を懐かしく思い出します。
柿は原産地が中国とも、日本にもともと自生していたとも言われますが、「KAKI」が学名にもなっているのは、日本からポルトガルを通してヨーロッパに伝わったことからのようです。古事記や日本書紀にはすでに「柿」の文字や地名、人名が見られますが、そのころは渋柿ばかりで熟柿(じゅくし)や干し柿が貴重な甘味の菓子の一種として、柿渋は防腐剤として使われているなど、古くから生活に根づいていたようです。その後、突然変異で甘い柿ができ、鎌倉時代以降に全国に広まったのだそうです。
先日、本校の副手をしている卒業生が栃木の実家から送ってきたという、ほどよく色づいた柿を教員室で居合わせた教職員に、1コずつ配ってくれました。同じ柿でも、栃木の実家の柿であることを想うだけでもうれしく、格別においしく、しばし教員室が秋色に染まりました。この柿は次郎柿っぽかったのですが、この次郎柿や富有柿に代表される柿の種類は、1000ほどもあるそうです。そういえば先月行った鶴川の「武相荘」にも大きな柿の木があり、それは甘柿で、その地域原産の「禅寺丸柿」という名だと教えてくれました。
秋を代表する名句に<柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺>がありますが、この柿は「御所柿」というそうです。奈良らしい名ですが、この辺(あた)りは斑鳩(いかるが)とも言い、その名は、斑鳩という鳥が群をなしていたところからきているのだそうです。野鳥のためにも残すという「木守り柿」は、この斑鳩からきているのでは、とも思えます。そこにある精神の美学ともいえる日本人の感性は、いまでいうクールジャパンではないでしょうか。

2015.10.30

こゝ数日の朝夕、肌寒さを感じる日が多くなり、今年は季節が急ぎ足のようです。いま、いたるところにススキの白い穂が風にゆれていて、その姿は代表的な秋の風物詩ですが、このススキの白い穂は花の集まりの花穂で、花というには地味ですが「花すすき」とか秋の七草のひとつである「尾花(おばな)」ともいゝます。このススキは茅葺(かやぶ)き屋根の材料の茅(カヤ)でもありますが、茅の材料はススキの他に葦(ヨシ)、麦藁(ムギワラ)などがあり、山間部ならススキ、河川や沼の近くならヨシ、畑地ならムギワラを使い、カヤ(茅)という植物はなく、屋根を葺(ふ)く草の総称がカヤなのだそうです。
そんなカヤブキ屋根をいまなお残す、東京郊外の町田市鶴川にある武相荘(ぶあいそう)を訪ねました。こゝは2001年に「旧白洲邸武相荘」として開館され、昨年リニューアルされたこの武相荘は、終戦後、吉田茂の片腕としてGHQ(連合国軍総司令部)との折衝(せっしょう)に当たり、占領下の混乱の中、日本の復興と新憲法の制定に深く関わり、米国側に「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた、白洲次郎とその夫人で、小林秀雄、青山二郎らとの交流の中で、本物を知る目利(めき)きとして鋭い審美眼と感性で日本文化の奥深さと美しさを追い求めた随筆家の白洲正子が、亡くなるまでの50数年暮らした家でした。 戦中の1943年に当時の鶴川村の農家と農地を購入したもので、その母屋(おもや)がカヤブキ屋根で、周囲が宅地化されているそこは、竹林や木々が生い茂った敷地の中にカヤブキ屋根の母屋があり、その佇(たゝず)まいは、かつて東京府南多摩郡鶴川村であったこのあたりが、多摩丘陵(たまきゅうりょう)の、緑多い里山や田園地帯であったであろう農村風景を、想いめぐらせてくれました。
母屋に入るとふたりの美意識が貫(つらぬ)かれた生活の面影(おもかげ)がいたるところに垣間(かいま)見られ、そこに漂っている空気感はファンにはたまらない「聖地」であることを実感しました。前衛芸術、現代美術家であり作家(尾辻克彦)でもあった赤瀬川原平はこの武相荘で白洲正子と対談し、正子の著書に文を寄せていて、同じ町田に居を構え、その屋根にはカヤならぬニラを植え、(そうです、ニラレバイタメのあのニラです。)弥生時代からあるというカヤブキ屋根は、古美術や古典文学に造詣(ぞうけい)が深い白洲正子にこそ似合い、現代美術家の赤瀬川はカヤにはニラだ。と思ったかどうか知りませんが、私はそう思っています、思いたいです。この武相荘の名は、武蔵国(東京都)相模国(神奈川県)の境にあることから「無愛想」の意味をかけたそうですから、この感覚は赤瀬川さんにも通じ、白洲家のカヤブキ屋根と赤瀬川家のニラ屋根は通底しているのではないか、と思いました。
農家に住み、畑作業などもしながら、暮らしのすべてに美をつらぬいたふたりの生活は、心豊かで、本当の意味で贅沢(ぜいたく)三昧(ざんまい)だったのでは、と思わされた秋日和(あきびより)の、ある日でした。

2015.10.16

朝、原宿駅に降りるとキンモクセイの甘い香りが風にのって漂っていて、その香りに誘われるように本校に向かっていたのは先月の中旬ごろでした。このキンモクセイは、1号館前の皇室(宮廷)ホームの庭にあるかなり大きな木で、密(みつ)に茂った濃い緑の葉にオレンジ色の小さな花が、全体にちりばめたように咲くのですが、本校の学生はこの香りに気づいているのかどうか。本校の秋の訪れはこのキンモクセイの香りからです。キンモクセイの花言葉に「謙虚」「陶酔」「初恋」などがあります。香りは高く濃いのに花は小さく、そのひかえめな地味さが「謙虚」を思わせ、芳香剤や香水、アロマオイルなどにもつかわれることから「陶酔」もなるほどです。その香りは、なぜか懐かしい記憶がよみがえり「初恋」も恥ずかしながらわかる気がします。
10月に入ってキンモクセイの2度咲きの開花を期待していたのですが、残念ながら花のないキンモクセイを目の前にして9日の朝10時、オープニングセレモニーであるテープカットを行い、9・10・11日の3日間、恒例の学園祭「原宿祭」を開催しました。原宿という地域に根ざしたデザイン専門学校としてこゝ数年「原宿文化」「原宿デザイン」について発信してきましたが、今年のテーマは「チャンピオン」でした。これは学園祭実行委員の学生たちがきめたもので、創作、創造は「闘う」ことだ。とキャッチコピーは「原宿から804の可能性」で、南青山のジャズクラブ「ブルーノート東京」と、各地にユニークな雑貨ショップを展開している「ヴィレッジヴァンガード」とのコラボに学生全員が参加しました。「ブルーノート東京」とはジャズに触発、誘発されたレコードジャケットデザイン。「ヴィレッジヴァンガード」とは面白雑貨の提案をしました。学生全員が参加して競い、音楽と雑貨とデザイン・アートの融合を原宿から発信しました。今年も会場内にさりげなく私の似顔絵がディスプレイされており、そこには「髪」がないのに「神」とありました。描きやすいからとは思いますが、イジられキャラは健在でした。3日目の午前はイベントホールで竹下通りのアーチ上部のパノラマビジョンで放映する動画作品の公募「竹下通りアートフェス」の公開審査があり、竹下通り商店会の役員の方々と私も審査に加わりました。年々クオリティが上がっており選ぶのが楽しくもあり、大変でもありました。
他に授業内外で制作した作品展示や学生たちが主体的に企画運営する、仮装・コスプレ・男女装コンテスト、フリーパフォーマンス・ライブ、アート&デザインフリーマーケット、同好会の展示・出店など各種イベントがあり、意欲的で躍動感あふれる学生たちのエネルギーや成果が見られ、こゝ原宿もまさに「実りの秋」でした。そこには勝者、敗者はなく、全員が主役であり、主人公であり、「チャンピオン」でした。

2015.9.30

やっと秋のさわやかさが感じられるようになり、その秋空に映(は)えている小さな赤い実が目につき、ナナカマドと思っていたら、それはハナミズキの実でした。秋といえばナナカマドの赤い実と紅葉が浮かび、見まちがえたのですが、よく見ればナナカマドの実はそれより小さく、色も少しくすんだ赤色で地味です。ハナミズキはアメリカ(北米)を代表する花のようですが、100年ほど前に日本がアメリカに桜を送った返礼としてハナミズキが日本に贈られたのだそうです。いまやすっかり日本の風景にとけこんで、庭の植え込みや、公園、街路樹などあちこちで見られますが、ハナミズキを「洋」とすればナナカマドはやはり「和」です。ナナカマドの名は、木が堅(かた)く燃えにくく、カマドに7回入れてもまだ燃えないところからとか、炭にするのに7日もかかるから、などの説があるようです。ハナミズキの和名はアメリカヤマボウシで、日本のヤマボウシに花が似ているからだそうです。ナナカマドやハナミズキの実は小さな楕円形(だえんけい)ですが、ヤマボウシの実は少し大きく球形で赤く熟すその実は食べられます。桑の実のように食べられることから、山桑ともいうそうです。ハナミズキもヤマボウシもナナカマドほどではないのですが、木は堅く木槌(きづち)や杵(きね)や水車の歯車などに加工されたようです。このヤマボウシを本校近くの新築マンション入口の植え込みに見つけ、うれしくなり、その四季の移り変わりをたのしんでいます。いまその実は緑色から少し赤みを帯(お)びてきているところです。
秋といえば<夕焼け小焼けの赤とんぼ おわれてみたのはいつの日か 山の畑の桑の実を小かごにつんだはまぼろしか>の童謡「赤とんぼ」を思い出しますが、この歌詞にある桑の実は初夏の頃に熟すのでこのころに飛んでいるのは赤トンボではないのでは、などとも言われています。赤トンボはアキアカネを代表とする体色が赤いトンボの総称で、羽化したあとに平野部から山間部へ移動して夏を過ごして秋に平野部に下り群をなして飛んでいるのが赤トンボで、夏見かけるトンボは赤くない種類なのだそうです。赤トンボは世界でおよそ50種類、日本では21種類ほどいるそうです。トンボ特有の大きな複眼を「めがね」と表現した童謡「トンボのめがね」がありますが、複眼と呼ばれるトンボの大きな目は人間よりも色を見分ける遺伝子の種類がはるかに多く、トンボの視界は極彩色のようです。いつの頃からかこのトンボの複眼を連想させる大きなレンズのメガネやサングラスを「トンボメガネ」というようになりました。
今年が戦後70年になるということは、かつて友好の印(しるし)に日本がアメリカに桜を送り、アメリカからハナミズキが贈られたのにも関わらず、その国同士が戦争をしたわけです。こうして日本の原風景に想いを馳(は)せ、郷愁に浸(ひた)ることができるのも平和であるからこそですから、この平和を持続させるために、トンボのように世の動きを複眼で見ていかねば。との思いを改めてつよくしました。

2015.9.15

そちこちに秋の気配が感じられると思っていたら、すっかり秋の風になり、セミから虫の音(ね)に変わり、夏の別れ、夏惜(なつお)しむ。などという言葉が浮かびます。夏休みが終わり2学期が始まった校内は明るく活気ある学生たちの声が飛び交(か)い、色々あったであろう青春の夏の思い出があふれているかのようです。
こゝ原宿表参道の夏の終わりは、8月29日(土)30日(日)全国から101チーム約5500人が参加した、今や夏の風物詩ともなった「原宿表参道元氣祭スーパーよさこい2015」でした。今年も審査委員をたのまれ、29日NHK前ストリートの審査員席で、チームそれぞれの躍動感みなぎる熱い踊りに元気をもらいました。30日は、オープンキャンパスで出校しました。夏休み中は体験入学や説明会などオープンキャンパスが多くあり、本校をより理解していただくために毎回出席してアイサツをさせていただきました。9月6日(日)には保護者会があり出校しました。午前が2・3年生、午後は1年生でしたが、多くの保護者の方に参加していただき、とくに関心があると思われる就活について専門家による講演や担任との個人面談があり、現況報告、これからの学校生活についてなどに対応させていただきました。盛りだくさんの内容でしたが、皆さん最後まで熱心で、その気持に応えなければとの思いをつよくしました。以前、保護者の方から「学校は子供の学校だけではなく、私たち親子の学校なんです。」といわれたことが甦(よみがえ)ってきました。これからもこの言葉を心に留(と)めていくつもりです。
芸術の秋。の訪れを知らせる第100回記念二科展が国立新美術館で9月2日から開催されましたが、それに先駆(さきが)けて東京都美術館で、日本美術の開拓者たちがここに集う「伝説の洋画家たち」二科100年展。があり、そこには日本の美術史上の傑作が一堂に展示されていて、二科展の歴史はそのまゝ日本の近・現代美術の歴史でもあることを改めて実感しました。9月2日は二科展のオープニングセレモニーのテープカット、美術館ホールでの絵画部、彫刻部の授賞式、夜は六本木のグランドハイアット東京での祝賀会への出席。3日は7月に95才で亡くなられた写真部代表の大竹省二先生のお別れ会が芝の東京プリンスホテルであり出席。4日は同じホテルでの写真部の授賞式に出席、毎年スピーチをたのまれるのですが、大竹先生のいない授賞式はやはり寂しく、スピーチのトーンも下がりました。5日は、わがデザイン部の授賞式が美術館ホールであり、こちらは当然のことながら私の出番が多かったのですが、とどこおりなく終えることができ、ほっとしました。会期中より開催前の準備期間の方がやるべきことが多く何かと大変で、私にとっては夏から秋にかけてのこの狭間(はざま)の季節が1年でもっとも慌(あわ)ただしく忙しいときですが、充実した豊かな時間(とき)でもあります。その二科展も14日で終わり、私の夏も終わりました。
学生たちの無限に思えたであろう青春の夏も終わり、夏の果(はて)といったところでしょうか。この時期は、休みなれした心と体のバランスが学校生活のリズムに戻らないなど、要注意のときでもあります。年を重ねると、ゆく夏を惜しむというよりは、くる秋を待っていた、という思いの方がつよくなります。秋になると感傷的、センチメンタルになるという秋思(しゅうし)という言葉があることを知りました。

2015.8.18

心なしかセミの声も弱くなり、暦の上では秋ですが、まだまだ蒸(む)し暑い焼けるような炎暑(えんしょ)の中、先日、谷根千(やねせん)の路地裏散歩をしながら、千駄木の団子坂上の森鴎外記念館へ向かいました。この谷根千は谷中、根津、千駄木の地域雑誌「谷根千」が創刊から2009年の終刊まで25年にわたり続いたことで、この略称が知られるようになったのですが、私も茗荷谷に住んでいたことからその読者でした。この界隈(かいわい)は昔ながらの下町の雰囲気、風情(ふぜい)があり、街歩きの人も多くなっているようです。<朝顔に つるべとられて もらい水>の句が浮かんだのは、鉢植や窓辺に咲いている朝顔が目につき、この街の路地裏は朝顔がよく似合うと思ったからでした。
文京区立鴎外記念館は以前「鴎外記念本郷図書館」と言い、行ったことがあるのですが、生誕150年の2012年に建物を改めて開館したことから、いずれは訪れたいと思っていました。そこはコンクリートの打ちっぱなしのモダンでクールな建物になっていました。が、個人的には前の方が好きでした。折からタイミングよく「鴎外を継ぐ─木下杢太郎」展をやっていて、ラッキーでした。というのは、2年前に伊東市立木下杢太郎記念館の特別展「木下杢太郎と観潮楼歌会」を見に行ったからでした。この記念館は杢太郎(もくたろう)の生家で、鴎外記念館も鴎外が30年間暮らした家の跡地で、その2階の部屋からは東京湾が望め、海の白波が眺められたことから、そこを観潮楼(かんちょうろう)と呼び、そこで催された歌会を「観潮楼歌会」とし、そこには与謝野鉄幹、伊藤左千夫、石川啄木、上田敏、北原白秋、斎藤茂吉、木下杢太郎など20数人が参加したようです。杢太郎は鴎外を巨匠と呼んで慕い、敬愛していて、鴎外が亡くなったあと「鴎外は過去ではなくて未来への出発点である」と記しています。鴎外が小説家、評論家、翻訳家、軍医などのいくつかの顔をもっていて、杢太郎も美術や文学の道へ進みたかったが、家人の反対により医学を修めたものの進路に悩み、鴎外に助言を求め、医学者として大学で教えるかたわら、鴎外と同じように詩歌、小説、評論、翻訳など幅広い分野で活躍しました。黒田清輝などに絵を学び、石井柏亭や高村光太郎など多くの美術家と親交があり、絵を描きたいと願っていた杢太郎は晩年、伊東の生家あたりで自生する植物を描き、百花譜(ひゃっかふ)と名づけたその植物画は872枚にも及ぶもので、それは園芸種や花屋に売っているような華やかなものではなく、可憐(かれん)な雑草のたぐいが多く、その中には朝顔もあり、画才(がさい)にも恵まれていた杢太郎の、いまでいうボタニカルアート(植物画)です。(このボタニカルアートは本校の自由選択講座でも人気があります。)
谷根千の路地に似合う朝顔は夏の花ですが、なぜか俳句では秋の季語です。この朝顔は奈良時代に薬草として日本に持ち込まれたとされていますが、江戸時代になって庶民に栽培が広がったようです。朝顔は早朝に咲き昼ごろにはしぼみ、あちこちに自生している朝顔に似た昼顔は、日中に花が開き夕方しぼみ、夕顔は夕方に開き朝にはしぼむのですが、この夕顔の実はのり巻きなどに使われるカンピョウになるのですが、この実に似ているものに冬瓜(とうがん)があります。夏野菜なのに冬の瓜(うり)とはなぜか、ですがこれは冬まで日持ちするからの名だそうです。暗くなってから夜に咲く夜顔もあるそうです。朝顔、昼顔、夕顔、夜顔があれば、もうひとつ新種の「寝顔」をつくってほしいものです。

2015.7.31

ついこの間セミが鳴きはじめ、おゝ、初蝉(はつぜみ)だ、いよいよ夏だ。と思っていたら、いつの間にか夏まっ盛(さか)りになり、朝、駅に向かう道々の夏木立(なつこだち)からいっせいに、これでもか、と降り注ぐように鳴きたてる、にぎやかな蝉時雨(せみしぐれ)を浴(あ)びながら通っています。
蝉(せみ)しぐれのように、賑やかだった校内も夏休みに入り、学生のいない、がらんとしてシーンとした静けさが、そこはかとない寂(さび)しさを漂わせていますが、それがかえって夏をつよく感じさせてくれます。
太陽が照りつける連日の猛暑は禿(は)げている頭にはキツいです。私の子供のころは夏になれば麦わら帽子をかぶっていたものですが、いつのころからか、夏のシンボルともいえる麦わら帽子を見かけることが少なくなってしまいました。冬は寒いだろうし、夏はダイレクトに陽が当たって頭皮によくないだろうからと、卒業生が気を使ってくれ、帽子をプレゼントしてくれたことがありましたが、かぶっていません。せっかくの好意ですが、私が禿げていることを知らない人が帽子をとったとき、それをみてのリアクションが想像でき、そのことを思うと、とてもかぶれません。(気が弱いのです)カツラをつかえばよいのに、と言ってくれたりもしますが、カツラや植毛は嫌(きら)いです。植林(植毛)は大事なのはわかりますし、植毛の技術もよくなっており、カツラもかなり精巧につくられるようになっているようですが、それでも、どこかしら、なにかしら違和感があります。禿げている人間はそうしたことにかなり敏感です。電車内でカツラの人を見つけると、どんなによくできていても、それはカツラだ。と見抜いてしまい、それを見抜かれた本人からも、お主(ぬし)見抜いたな!と鋭い視線がきます。その一瞬、視線と視線が空中でぶつかり火花が散ります。これは他の人にはわからない、知らない沈黙の空中戦であり、無言の格闘技です。火花が散るといえば、お笑い芸人、又吉直樹の小説「火花」が芥川賞を受賞して話題になっていますが、これは破滅型の先輩芸人と笑いとは何か、の濃い関係が「まさに火花を散らすよう」と評価された夢を追う芸人の青春小説で、その華やかな話題性からまたたく間にベストセラーになって、その受賞が商業主義的な話題性を優先しているのではないか、との声もありますが、そもそも芥川賞は創設80年目になり、芥川の友人だった菊池寛が始めた賞で、その菊池寛は芥川賞について「無名もしくは新進作家の創作」「審査は公平に」と言いつゝその一方でこれを話題にして雑誌(文芸春秋)の宣伝にする。とはっきり言っていたようです。ちなみに又吉直樹が敬愛し愛読している太宰治は芥川賞を受賞していませんし、毎年ノーベル文学賞の候補にあがる人気作家の村上春樹も選ばれていません。
同じ火花を散らしているのに、私のはなんという志(こころざし)の低さよ、とは思うものゝ、今日もまた、一戦(いっせん)を交(まじ)えるべく、心の準備をしながら電車に乗ります。

2015.7.15

初夏の終わりから盛夏にかけて咲く花に合歓(ねむ)の木があります。その花はうす紅色の絹糸を思わせる刷毛(はけ)のような糸状の淡い花弁が、扇(おうぎ)のように開いていて、白からうす紅色までのグラデーションが繊細(せんさい)で美しく気品があります。夜になると羽状の葉をたたんで閉(と)じるその眠るように見える姿が「眠りの木」と呼ばれ、それが変化して「ねむの木」となったのだそうです。
皇后陛下のご実家だった旧正田邸の跡地にできた、ねむの木が植えられている品川区立公園の「ねむの木の庭」は、皇后様が高校生のときにつくられた「ねむの木の子守歌」にちなんでの名だそうです。ねむの木といえば「ねむの木学園」が思い浮かびます。48年前、当時活躍していた人気歌手であり女優であった宮城まり子さんが、静岡県の浜岡町に日本で初の肢体不自由児養護施設の「ねむの木学園」を開園したのですが、その土地には大きなねむの木があったそうです。その数年後、ねむの木学園のこどもたちが描いた絵の展覧会が都内のデパートで開かれ、それを見に行き、その技術を超えた素直な表現の豊かさに驚き、いまを問われ、己(おのれ)に向き合わされ、この学園のことが気になってしまいました。現在は掛川市の郊外に移転していて、湯河原に転居した5年前、思い立って「ねむの木こども美術館」を訪(たず)ねてみました。広大な土地に学園、美術館、喫茶店、ガラスギャラリー、工房、グラウンド、果樹園、野菜園、吉行淳之介文学館などが点在していて、それらの多くの施設を総称して「ねむの木村」となっていました。美術館に展示されていた絵は東京で見た絵もあり、そのとき受けた印象が甦(よみがえ)ってきました。その空間は汚れた心をしばし洗い流し清めてくれ、その気持を保ったまゝ森の喫茶店「MARIKO」に寄り、見てきたばかりの絵を思い浮かべながら、食事とコーヒーをいただいたのですが、そこで働いているスタッフはいま見てきた絵の作者でもあり、大人になっている卒園生で、ひたむきに黙々と働くその姿にこみ上げてくるものがありました。このあと、もうひとつの目的であった「吉行淳之介文学館」に向かいました。宮城まり子と奥さんがいた吉行淳之介は、秘められた恋でしたが公然と知られた仲でもあり、世田谷の上野毛に新居をかまえ、終生を共にした淳之介が、ねむの木学園を精神的に支えたことから、辛くても幸せな出会いであった吉行の死後も、2人でいたくて「吉行淳之介文学館」をつくったのだそうです。そこは豊かな緑にかこまれた日本的で質素な中にもモダンで品があり、吉行文学にふさわしい佇(たたず)まいでした。
吉行淳之介は、1954年に驟雨(しゅうう)で芥川賞になった作家でクレーの絵が好きで、クレーの絵のタイトルと同じ「砂の上の植物群」という小説もあり、その文章は、繊細で詩的なイメージが漂っています。私もクレーが好きで、1982年に「文芸春秋」誌に連載していた「パウル・クレーと12の幻想」というクレーの絵に誘発され、その絵に寄せた文をリアルタイムで読んでいました。そんな吉行文学が香る館内でいつの間にか卒園生とおぼしき人がそばにいて、色々と説明してくれました。その彼もさっき見てきた絵の作者で、これはボクです。と指さした先には、淳之介とこどものころの彼らが写っている写真がありました。その彼に誘われて離れにある茶室でお茶をたてゝもらいました。一生懸命お手前(てまえ)をしてくれるその姿に、あの子たちがいまこうして、と思うと、又々こみ上げてくるものをおさえることができませんでした。
ねむの木学園も48年目になり、年を重ねた宮城まり子さんはいまも頑張っておられますが、開園した頃はまだ身障者に対する世間の環境、理解も乏しく、視線も冷たく、そのうえ売名行為などといわれても、私財を注いで、並々ならぬやさしさと強さで、こんなにも長い間続けてこられたことに、ただただ頭が下がります。それに比べてと、自(みずか)らを思えば、なんとも情けなく恥ずかしいかぎりです。

2015.6.30

ペンギンがヨチヨチと街を歩いて店に入るところや、エスカレーターに乗っているなどのシーンをテレビCMで見ていて、40数年前を思い出しました。ある日友人から電話があり、いきなりペンギンを飼う気はないか。と聞かれ突然のことでなんのことかわからず聞き返すと、イトコが漁師をやっていて遠洋漁業からペンギンを連れて帰ってきて、友人に飼わないか、との連絡があり、興味をもちそうで飼いそうな私に話が回ってきたというわけでした。いくら興味があってもペンギンを飼うということを現実として考える事ができず、残念ながら断ったのですが、いま思えばあのときペンギンを飼っていたらその後の人生が……との思いもあります。当時はまだ条約で規制されておらず南太平洋の遠洋漁業で網にかかった温帯産のペンギンを、船上生活のペットとして飼いそのまゝ持ち帰ったことがあったようです。好奇心が旺盛(おうせい)で人に寄ってくる人懐(ひとなつ)こさがあり、かわいくてつい日本まで連れてきてしまったようです。四国や静岡の漁師町では私的なペットとしてペンギンを飼っていたり、野良イヌ、野良ネコならぬ野生化した野良ペンギンもいたようです。
日本の動物園や水族館での繁殖技術が進んだことから、現在世界で飼われているペンギンの1/4が日本にいるといわれるほどのペンギン王国だそうです。日中国交正常化の年、ジャイアントパンダが中国より日本に送られた返礼としてペンギンが日本から中国に送られたそうです。日本では当時すでにペンギンの飼育が確立されていたのですが、中国ではそのころ飼育例がなかったからだそうです。
ペンギンはラテン語のPinguis(肥満)スペイン語でPenguigo(太っちょ)と呼んだのが英語のPenguinになったとする説があります。このペンギンは背が黒色、腹が白色であることからタキシードや燕尾服(えんびふく)を着用した紳士になぞらえることが多く、その愛らしい姿からキャラクター全盛のいまよりはるか前からペンギンはキャラクターとして使われていました。燕尾服は男性の夜間の正式な礼服ですが、うしろが長く燕(つばめ)の尾のようなところからそう呼ばれているのだそうですが、タキシードはその略式をいうそうです。ツバメといえば、いまではほとんど使われなくなった死語の「若いツバメ」が思いうかびます。この若いツバメは、年上女性の愛人・恋人となっている若い男性のことをいう俗語ですが、これは明治時代の婦人運動・女性解放家の平塚雷鳥と年下の青年画家との関係が、運動に参加している人たちの間で騒ぎとなり、青年画家が身を引く決心をして平塚に宛(あ)てた手紙にあった「若い燕は池の平和のために飛び去っていく」という文面から来ているのだそうです。私の若いころはこの「若いツバメ」はよく使われていて、この若いツバメには憧(あこが)れがありました。いま私が若いツバメになろうとしたら相手の女性は70代後半から80代になりますが、長寿社会ですから思いきって100才までとなれば夢が広がります。それにしても「若い燕(つばめ)」は、なんとも言葉の響(ひび)きがキレイです。

2015.6.16

梅雨(つゆ)入りしたとみられる。との発表がありましたが、入梅(にゅうばい)といえば緑の葉の間にぎっしりと、たわわに実った青梅はこの季節ならではの風情(ふぜい)があります。梅雨入りは梅にとっては恵みの雨で、この雨によって梅の実が大きくなっていくのだそうです。初もぎは5月中旬ごろだった梅林では、いま梅の収穫と出荷が最盛期のようです。この生梅は、梅干し用と梅酒用ですがほとんど何でも食する雑食性の私ですが、いまだに梅干しは苦手です。
梅雨に似合う花に紫陽花(あじさい)があります。開花して七変化(ななへんげ)などといわれるほど色が変わるアジサイにはさまざまな品種があり、あまりにも多くその数はわからないそうです。アジサイは日本原産で、花色は薄い青か薄い紅色だったものが品種改良が進み、豊富な色合いができ、欧米に渡って園芸種の西洋アジサイが逆輸入され、より多くの品種が生まれたのだそうです。そんな華やかな色合いのアジサイもよいのですが、ヤマアジサイ、コアジサイ(ヒメアジサイ)、ガクアジサイなど素朴な味わいがある原種の野生アジサイも魅力があります。アジサイといえば登山電車の沿線が知られている箱根に行ってきました。アジサイを見に行ったわけではなく、ポーラ美術館の「セザンヌ展」が目的でしたが、彩りも鮮やかなアジサイを眺めながらのことだったこともあり、帰りは強羅(ごうら)公園に寄り、折から開かれていた「あじさい展」をのぞき、いままで見たこともない珍しい品種を見ることができ、「セザンヌ展」の印象が彼方(かなた)になり、頭の中がアジサイ色に染まってしまいました。
アジサイの語源は、はっきりしないようですが、万葉集には「味狭藍」「安治佐為」などがあり、平安時代には「阿豆佐為」の字があてられていたのですが、もっとも有力とされているのは「藍(あい色)が集まったもの」を意味する「集真藍(あづさい)」がなまったものとする説のようです。その他「集まって咲くもの」とか「厚咲き」が転じたとかの諸説があるようです。漢字表記の紫陽花は、青紫色の花が目立つことからこの字があてられていると思っていたのですが、唐の詩人がライラックに付けたものが平安時代に日本に誤って伝わり、この字をあてたことから広まったのだそうです。
湿気が多く空気がべとついて、じっとり汗ばむそんな梅雨どきの晴れ間の蒸し暑い日、あちこちでアジサイの花が見られる代々木公園の「国立オリンピック記念青少年総合センター」で、恒例のスポーツ大会を行いました。午前は2・3年生、午後は1年生でしたが、私は開会のアイサツで、今日は「スポーツ大会」という名の「ガマン大会」でもあります。というほど本部席に座っているだけでも汗がじとじとしましたが、若さあふれる学生たちはこの暑さをものともせず、溌剌(はつらつ)とした元気なプレーを展開してくれました。1年生は人数が増えたこともあり、応援がにぎやかで館内はより暑さが増しました。うっとうしい梅雨を吹きとばしてくれたスポーツ大会は、学生たちがアジサイの七変化ならぬ七百変化といえるまぶしい若さと、私を、ないまぜにしてくれました。

2015.5.30

青葉をわたる初夏の風を緑風というように、青葉がみずみずしく、爽(さわ)やかで過ごしやすいこの季節は<夏も近づく 八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘(ちゃつみ)じゃないか……>の歌にあるように新茶の季節でもあります。連休のころは緑の美しいさわやかな日々でしたが、急に25度以上の夏日になり、30度を超える真夏日もあるなど、夏も早(はや)たけなわ。の感がありましたが、これは観測史上もっとも暑い5月だったようです。あの清々(すがすが)しい、爽やかな季節は何処(いずこ)へ?ですが、そんな暑さの中、日本茶を緑茶とよぶように、茶葉や煎茶(せんちゃ)抹茶(まっちゃ)の緑を見るだけでも心がやすらぎます。
5月初めに摘み取られる一番茶がいわゆる新茶で、アミノ酸が多く含まれているため、お茶にまろやかな旨(うま)みがあり、その後に摘まれる二番茶はアミノ酸は少ないものの、カテキンが多く含まれているため健康面では良いそうです。日光を浴び若葉青葉が光る茶畑で、自然栽培された茶葉を、揉(も)んで乾燥(かんそう)して、湯に浸して煮出して成分を抽出(ちゅうしゅつ)するのが、煎(せん)じる茶「煎茶」ですが、こうした摘みとったあと、発酵させない不発酵茶である日本茶の総称を、緑茶というのだそうです。同じ茶葉を発酵させるのが紅茶で、茶葉を揉まずに乾燥して粉末にしたのが抹茶、玉露(ぎょくろ)や、かぶせ茶は黒いシートなどをかけて日光を遮(さえぎ)って栽培されたもので、番茶は大きな葉や茎(くき)を使ったものをいうのだそうです。美しい緑色の煎茶(緑茶)を庶民が飲むようになったのは幕末の頃からで、それまでは煮出して飲む番茶だったようです。
お茶は奈良時代に中国から伝えられたのだそうですが、茶の木は日本にも自生していたのですが、利用する方法を知らなかったようです。初めは飲料としてではなく、煎じ薬だったそうです。鎌倉時代になり茶の栽培が全国に広がって、各地に名産地茶が誕生し、茶を飲んで産地を当てる「闘茶」という遊びが上流階級ではやり、それから庶民にも広がり、ギャンブル性が強くなり、「闘茶」の禁止令が出されたことから、賭博性(とばくせい)のない茶の湯(茶道)が広まったのだそうです。茶室では俗世(ぞくせい)から離れ、身分も上下関係もなく「もてなし」「しつらえ」の美学で、無駄をなくし、物質よりも精神に重きをおく、目には見えない美、たたずまいに精神の安らぎを得ようというものですが、この茶道を代表的な日本文化として、110年ほど前に、美術家であり思想家であった岡倉天心がニューヨークで英文出版したのが「茶の本」でした。これは「不足の美」「余白の美」「引き算の美」などの日本の美意識、美的感性、情緒など、茶道の精神を通じて西洋文明に欠けているものを鋭く突いて、東洋思想を西洋に伝えるものでした。こうした禅の精神にもつながる東洋思想はあのスティーブ・ジョブズやドラッカー、なども影響をうけているようです。
江戸時代の流行色のひとつに、染色の色名「利休鼠(りきゅうねず)」があります。北原白秋が作詞した「城ヶ島の雨」に<雨がふるふる 城ヶ島の磯(いそ)に 利休鼠(りきゅうねずみ)の雨が降る…>がありますが、この色は緑がかったネズミ色のことで、地味で品がある控(ひか)えめな色合いであることから、侘び寂び(わびさび)の利休が好むような色。とか茶葉や抹茶のような緑から利休を連想した。などの説があるようです。
私は茶の湯(茶道)はさっぱりですが、緑茶は好きでかなり飲む方です。いま、名産地の新茶が出回りよりどりみどり(緑)です。 適当なことを言ったり、いい加減なことを例えていう言葉に「お茶を濁(にご)す」がありますが、これは茶道を知らない人が、適当にお茶を濁らせて、抹茶に見えるようにしたことが語源だそうですので、この文もお茶を濁していることになるのでしょうか。

2015.5.16

このところ急に夏めいてきて、黄緑や浅緑であったみずみずしい若葉が、みるみるとさまざまな色合いの青葉になり濃さを増し、とくに楠(くす)などの照葉樹の緑は燃えだつように、初夏の風と光の中で照り映えかがやいています。湯河原も緑がまぶしい山あいに、ウグイスやホトトギスの鳴き声が響(ひび)き、みかんの花が香り漂い、さわやかな風が光り風が薫る、春から夏にうつろう<あたふたと 青葉若葉の 日の光>まさにこの芭蕉の句のようです。
句といえば<目に青葉 山時鳥(やまほととぎす)初鰹(はつがつお)>が有名ですが、これは山口素堂という俳人の作で、<目に青葉……>とばかり覚えていたのですが<目には青葉……>の字余りが正しいようです。芭蕉の句にも<鎌倉を 生て出けむ 初鰹>があります。いづれも江戸時代の句ですが、「女房を質に入れても初鰹を食う」などと江戸っ子は初ガツオに目がなかったようです。カツオは、鹿児島から北海道南部あたりまで北上し南下する魚で、春から夏にかけて伊豆や房総沖に表われ、その青葉のころにとれたカツオを、初もの好きの江戸っ子がむやみに珍重したのだそうです。勝男(かつお)とも呼ばれ意気のよい江戸っ子の気性に合っていたようです。カツオの旬は5月がピークの初ガツオのシーズンと、戻りガツオといわれる9月あたりが旬といえるようです。食通にいわせると脂がのっている戻りガツオの方が旨(うま)いそうです。初ガツオはタタキ、戻りガツオは刺身がよいそうです。鰹と書くのは鰹の干物(ひもの)の身が堅(かた)いという堅魚(かたうお)に由来するのだそうです。戦国時代には武士の縁起(えんぎ)かつぎで鰹節(かつおぶし)を「勝男武士」とあてることがあったそうです。
時鳥(ほととぎす)はこの季節に南方からくる渡り鳥ですが、その鳴き声がけたたましく鋭く響く特徴があることから、多くの和歌に詠まれています。<鳴かぬなら殺してしまえホトトギス><鳴かずとも鳴かせてみせようホトトギス><鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス>が広く知れ渡っていますが、これは詠み人知らずの作者不詳のもので、織田信長(短気)豊臣秀吉(自信)徳川家康(忍耐)の性格を表していて後世の人がこの人ならこんな性格であろう。と表現した句だそうです。そもそもこの3人が同じような句を詠むことはたしかにおかしいです。ホトトギスは自分では子育てをせず、ウグイスの巣などに卵を産み、抱卵(ほうらん)させ育てさせる托卵(たくらん)という習性があり、ずうずうしいにもほどがありますが、ホトトギスにはやむにやまれぬそれなりの事情があるのでしょう。
5月に入って、私も初ガツオのタタキでビールを楽しんでいたのですが、連休の終わりごろ痛風になってしまいました。昨年は8月でしたがここ数年は夏になると発症していて、日頃の不摂生(ふせっせい)によるものですが、私にとっては薫風ならぬ痛風が、夏の季語であり風物詩となってしまいました。休み明けに行ったクリニックにあった「プリン体値早わかりガイド」という冊子の魚編を見たら、高いと思っていたイクラ、スジコ、タラコなどは低く、高いトップはまさかのカツオでした。

2015.4.29

あたりの緑が日に日に鮮やかになるにつれて、新入生の間もだんだん親しさを増してきて、校内は、はじけるような清々(すがすが)しい声が飛び交い、春がキラキラときらめいています。この時期、新入生は専門教育に入る前のオリエンテーション期間で、デザイントライアルというプログラムによる学校や科目への理解、初歩的な実技トレーニング、理想とする職業人、社会人像とは、などのキャリアデザイン入門、個人面談、グループ演習、親睦行事などがあります。そのひとつである恒例のフレッシュマン・レクリエーションのデーキャンプに今年も同行しました。24日の朝、昨年より2台多い大型バス11台を連ねて原宿を出発。相模湖近くの山の中腹にあるデーキャンプ場で「ピザ作り&コーンスープ」でした。<鶯の なく野辺ごとに 来てみれば うつろう花に 風ぞ吹きける>平安時代の歌のごとく山にはツツジ、ヤマブキ、ヤマフジなどは咲いていたのですが、楽しみにしていた山桜はすでに散っていました。が、明るく伸びやかにピザ作りに興ずる学生たちの姿や、その光景はあたかも青春の花がいろとりどりに咲いている「千紫万紅(せんしばんこう)」青春のいろいろな花が一斉にそろって咲く「百花斉放(ひゃっかせいほう)」のようでした。仲間と焼いたピザを食べ、レジャーランドで遊んで無事に原宿に戻ったのですが、例年の帰りのバスは、ほとんどの学生が春眠状態で静かでしたが、今年は原宿に着くまでオシャベリが絶えませんでした。まさに青春が充満していました。窓外にときおり新緑の木々の間に竹林が見え、ふっと雨後のタケノコが思い浮かびました。ニョキニョキとタケノコが生えている姿を学生たちの姿と重ねて見てしまったのです。
いま、まさにタケノコのシーズンですが、雨後のタケノコは雨が降ったあとタケノコが次々と出てくるところから、成長が早いことを言うのかと思ったら、モノゴトが相次いで現れることのたとえだそうです。竹十旬=筍と書く「たけのこ」は成長が早く10日(旬内)で竹になるといわれるところから「筍」の字があてられたのだそうです。竹の子ではなく筍と表現するのは食材としてのタケノコのようです。タケノコは古事記にも見られ、古くから食べられていたようですが、これは日本に古来から自生する真竹(まだけ)だったようです。いま主に食用とされる筍は孟宗竹(もうそうちく)ですが、これは江戸時代に入ってきたもののようです。 いま青春の学生たちにとってはかつて「タケノコ生活」という言葉があったことは知らないでしょうし、知る必要もないのですが、そんな言葉を言えばタケノコばかりを食べていた生活のことだろうと想像することでしょうが、この死語になっているタケノコ生活は、終戦後タケノコの皮を1枚ずつはぐように身の回りの衣類や家財などを少しずつ売ったり、物々交換をしたりしながら食いつないだいわば貧乏暮らしのことでした。 タケノコは節(ふし)が間隔(かんかく)をおいて多くあり、これは細胞分裂する生長帯で、それが一斉に伸びるのだそうです。茎(くき)の先端の生長点だけ伸びる普通の植物にくらべ、タケノコは多くの節があることで成長のスピードが早いのだそうです。学生たちには、このタケノコのような現代の「タケノコ人生」「タケノコ生活」をして欲しいものです。

2015.4.16

あちこちの桜が満開になり、やっと春らんまんと思っていたら、花冷えする寒の戻りや花散らしの雨や、花が舞う雨「花しぐれ」で咲いた桜も残花となり、散りのこった花と芽吹いたばかりの葉がうっすらと混じり、春霞(はるかすみ)のようで、それはそれで華(はな)やかな花時の桜にはない風情(ふぜい)や情緒(じょうちょ)を感じます。「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」世の中に桜がなかったら春の人の心はもっと穏(おだ)やかでいられるのに〜。と古今和歌集にあるように古くから咲く桜に心躍らせ、その花が散り、風に舞う儚(はかな)さ、切なさを想う日本人の感性はいまも変わらないようです。そんな中、春の嵐のような悪天候の前日とはうって変わった晴天の9日の朝、10時より明治神宮会館で昨年を越える新入生を迎え入学式を行いました。
保護者、ご来賓の方々に見守られる会場には初々(ういうい)しさが溢(あふ)れ、暖かい春の風が吹き込まれたような和(なご)んだ空気が漂い、あたかも桜の花が咲きはじめたように華やいでも見え、ボッティチェリのプリマヴエラ「春」が思い浮かびました。これから始まる学校生活への不安と期待への眼差(まなざ)しが壇上に注がれ、そのほどよい緊張感の中、式辞の最初に「心華やぐ春です。何かが始まる季節です。思いを新たに挑戦を始める4月です。今日から共通の夢や目標を持った仲間がいます。夢は1人では叶えられません。その夢を共有してくれる人間関係も必要です。一人じゃないから仲間がいるから続けられるのです。色んな人と出会って関わり合って、又、新しい自分が生まれるのです。」と呼びかけました。晴れやかな新入生と共に私の心も春めき浮き立ちました。無事に式を終え、新入生はその場でガイダンスとなり、保護者の方には参集殿に移っていただいて保護者説明会を行いました。これからの学校生活についてご理解と安心をしていただくため、もろもろの説明をさせていただいたのですが、多くの方の参加を得て、それだけ熱心で厳しい目が向けられていることに改めて気をひきしめ心して対応しなければ、との思いを強くしました。毎年、入学式の頃に咲いている神宮会館の庭の枝垂桜(しだれざくら)を楽しみにしていたのですが、今年はすでに散っていました。
さくらの「さ」は神を、「くら」は留(とど)まるを意味するそうですから、神社には「さくら」が似合うはずですが、ここ明治神宮の森には桜が少なく、というよりほとんどなく、それが深遠(しんえん)で荘厳(そうごん)な静寂(せいじゃく)を保っているのかも知れません。
花が散ると葉桜(はざくら)と言い、葉が出るより先に花が開く桜のことを姥桜(うばざくら)といいますが、これは花の盛りに葉(歯)がないの意味のようで、年をとっても美しさや色気がのこっている女性のことを指(さ)すようです。現代で言えば「美魔女」でしょうか。初々しさの対極にあるような姥桜ですが、ときおり日当りの悪いところで元気のない、華やかさがない、寂(さび)しげな桜を見かけることがありますが、これはさしずめ爺桜(じじいざくら)とでもいうのでしょうか。となれば、私はまさに爺桜です。