加藤淳|加藤淳エッセー|東京デザイン専門学校
加藤淳|東京デザイン専門学校
加藤淳|デザイン・プロデューサー
加藤 淳:1961年生まれ。1984年、株式会社日本デザインセンター入社。同社の内部専門機関「CIデザイン研究所」のプロデューサーとして、東京電力、阪急電鉄、茨城県、新潟県など、日本を代表する一流企業・自治体のCIやブランドデザインを40社以上担当。1998年に独立し、加藤淳事務所を設立。最近の主な実績として「JTB CIリメイク計画」「大塚製薬ポカリスエット ブランドデザイン・システム」ほか多数。
2000年10月よりTBS系「さんまのスーパーからくりTV」にも出演。東京デザイン専門学校 特別ゼミの授業を担当。
■2010年8月

8月5日
「クワイ河マーチ」の演奏で知られるミッチ・ミラーの訃報が伝えられる頃、偶然、デヴィッド・リーンの「戦場にかける橋」をDVDで観る。 13歳の頃、地上波のTVで、久米明と鈴木瑞穂による見事な吹き替え版を観た記憶がある。
その後、主演のアレック・ギネスに興味を引かれ、17歳の時、京橋の「テアトル東京」で観たのが「スター・ウォーズ」。
ニコルソン大佐にせよ、オビ=ワン・ケノービにせよ、この俳優が演じる作中人物の死の場面は、いつも謎めいている、というのが10代の加藤淳の率直な印象。
最近のDVDには、メーキングなどの特典もついている。
「戦場にかける橋」の公開は1957年だが、35年前にTVで観た作品の背景を、あの時は実はこうだったと知ることも、時間の変奏として、おもしろいのかも知れない。
橋梁爆破のシーンでは、複数のカメラで撮影した5つのテイクにどれも音が欠落していて、爆破の音は後から加えられたこと。
アレック・ギネスの最後のシーンは、ただ単に崩れ落ちただけなのか、半ば意図的なものなのか、撮影直前まで監督と俳優の間でも確定できず、曖昧なまま観客に委ねられた部分があること。
「カサブランカ」の最後も、近年の研究では、最後まで脚本が確定出来ず、実は2とおりのラストが撮影されていたらしい。
映画が人生を反映して製作される以上、とても素敵な挿話だと思う。

8月11日
日本は、かなり専門的な海外の主要文献が、幅広く翻訳され、整備されている国らしい。 イギリスのマーラー研究家による、初期作品の精緻な考察を日本語で読んだことがある。 マーラーは初期の作品、例えば"Blumine"、第一交響曲から後に削除される「花の章」では、18段の五線紙を使っていたという。
人が生きる時間も、18段の総譜を毎日、めくっていくようなものだ。
ページごとに、楽器編成や各パートの密度は変わるが、新しく関心をもったこと。現在の仕事の進捗状況。朝、植物たちに水をやること。
そして、経済状況などが複雑に交錯する稜線が連続する。
それを、どこかで意識しながら、眼前に鳴り響く音響のなかを泳いでいく。

東京は酷暑。

8月12日
日常的に使うものこそ、デザインが重要だと思う。
昔、ミュンヘンの集合住宅の地下のケラーでみた洗濯機の印象が残っているせいか、洗濯機は常にヨーロッパ製のものを使ってきた。
それがこの日、故障して、メーカーもいわゆる夏期休暇の時期なので、10年振りに、近くのコインランドリーへ。
この20年間、コインランドリーの光景は全く変わっていない。
公衆浴場の付帯設備として生き残り、それなりの需要もあるようだ。
「東京コカ・コーラボトリング」と白抜きで表示された、昔、少年野球の球場に置かれていたような赤い木のベンチに腰を降ろすと、ヴィム・ ヴェンダースの映画の世界。
目の前では大型の乾燥機がわんらわんらと廻り続ける。
何もすることがないので、冷房のない土間の、薄暗い蛍光灯の下で、1962年に収録されたアルマ・マーラーとジャーナリストによるラジオ対談の記録を読み始める。

8月17日(New!)
東京は深夜でも気温、32度。
午前3時頃、セミが生まれる音をきいた。
まだ「夜」も「昼」も判らないだろう。
あと2時間ほどすると、周りが明るくなってくる。
それが「朝」。

セミはたった一人で生まれてきて、自分の声の調弦を始める。
2日前、山手通りの歩道のアスファルトで、裏返しになって落ちているセミをみつけた。こういう状態になると、自分では起き上がれないらしい。
右手の人差し指を出すと、6本の足でしがみついてきた。
小学校低学年の頃、体感した昆虫の感触。
最寄りの街路樹まで、そのまま運び、文法的に正しいのか判らないが、<a tree, for you>と言いながら、葉に近づけると、びーんと飛んで行った。

8月19日(New!)
一度も観たことのない、神宮外苑の花火を観に、街に出かけた。
東京デザイン専門学校の、1号館の屋上から見えるという噂は、きいたことがある。
打ち上げ開始時間に、同校の受付を訪ねると、数年前に「***ビル」というのが出来て、視界が遮られたという。
「***ビル」などという専門的なビルの名称がよく覚えられますね、などと言いながら、許可を得て屋上に出てみたら、花火が上がる方向に、ここからの視界を1/3位、遮蔽する形でそびえる高層ビルがあり、最上階に和文の切文字で「***ビル」と表示されていて大笑い。
その後、この1号館から千駄ヶ谷方向に、花火が上がる地点を目指して歩いてみた。
ビューポイントのひとつとして期待できそうな歩道橋は閉鎖されていたが、とあるマンションの近くの路上に、20人ほどの人影が座り込んでいる地点をみつけ、そこから花火を見続ける。近景に、樹木と電柱1本が入るが、火薬の匂いが漂うような場所。
素敵な花火が上がると、直後に自発的な拍手が起こる。
打ち上げ会場からはるかに遠い場所からの、花火職人の心意気に対する賞賛と敬意。
江戸のDNA。素敵な夏の一夜。

8月23日(New!)
新宿駅の西口から東口に抜ける地下道を通ると、壁面に大規模なアド・ボードのシートを貼っていく施工作業が進行していた。図柄はコミック「巨人の星」。
何か懐かしい気がして、セリフの部分だけ差し換えた広告を眺めていると、施工に立ち会っていたディレクターから、「僕は、以前、加藤先生の授業を受けました」と声をかけられた。
「巨人の星」という漫画やアニメを、若い人たちは知らないと思うが、大人になった現在の加藤淳の見解では、この作品のテーマが最も凝縮された場面は、巨人軍入団試験を受ける飛雄馬が、最後にギリギリまで追い込まれた状況で、「魔送球」を投げるシーンではないかと思う。
アニメ版で、熱血的な父親の声を担当した加藤精三氏は、同時期に放映されていた見事なSF、アンダーソンの「謎の円盤UFO」でコンピューター衛星「SID」の無機的な声の吹き替えも担当していたこと。立教高校の東寮の近くに、王貞治氏の親戚がやっている「五十番」という中華料理店があり、最後にアニメ「巨人の星」を観たのは、この店のテレビだったことを懐かしく、思い出した。

8月27日(New!)
ベネックスの映画「DIVA」を、アメリカ版のDVDで観る。
デジタル・リマスタリングが施され、画面がやや明るくなり、洗い出されたように背景の造作までくっきりみえる映像を、オリジナルのフランス語に、英語の字幕が表示される形で、久し振りに観た。
制作された時代から30年。余白に収録された関係者への最近のインタビュー映像が興味深い。
当たり前のことだが、20歳だった人は50歳になり、50歳の人は80歳に。
ジュールやゴロディッシュの日常の生活空間を、素晴らしいセンスで構築した、美術のヒルトン・マコニコ。 そこに存在する時間の意味を、旋回していくような独自のカメラワークで切り取るフリップ・ルースロ。
フランス映画に期待するもののすべてが、ここにある。

2010年8月
■2010年7月

7月8日
少し遠い町の、過去に2度ほど行ったことのある中華料理店に入ったら、偶然、今年、東京デザイン専門学校で教えている学生が働いていた。
この名店を探し出し、バイト先に選んだ彼女の嗅覚に敬意を表してきくと、夜は週4日、この店で働いているという。
加藤淳の授業では、質、量とも掘り下げた作品を提示してくる学生の一人なので、時間的な制約を持つ彼女が精一杯、その先のことに取り組んでいる姿勢に心を動かされる。
一度しかない、それぞれの文脈のなかで、いろいろな経験をして、人が自立していくプロセスは重要だ。そして、出来れば、ささやかだが、彼女の役に立つことをしたいと思った。

7月11日
参議院選。選挙公報に掲載された本人による原稿は稚拙なものが多いが、 直前の時期、朝日新聞に掲載された「朝日、東大の共同調査」には、例えば築地市場の移転の賛否や、<若者の雇用確保のためには、まず本人の努力が必要だ>といった広範な設問に対する各候補の考え方や距離が示され、参考になる。
旧来の政党に戻ることはない。60歳以上の立候補者も、感覚が古いという以上に、定年後は税金でみたいな思いが見え隠れして、あまりいいとは思わない。
十分な経験を積み、最新のことも理解できて、人生も少しはわかってきた40代の候補者の意見を比較して、自分の考え方に最も近い人を選ぶ。
妥当な見識だが、この業界では実績のない人を選ぶか、与党に所属するがゆえに少し歯切れは悪いが、いまやるべきことの方法論がみえている人か、投票所で最後まで考え、巨大な藁のなかに、1本の針を投じる。

7月12日
1980年、18歳の頃、英語の教科書に掲載された作品として初めて出会ったジョイス・キャロル・オーツの短編、「In The Region of Ice」を久しぶりに再読する。
学生時代に教科書や課題図書で読まされた作品に、いいと思うものはほとんどないが、この作品だけは例外で、当時、教科書のフォーマットではなく、作家が承認したオリジナルの印刷物の形で読みたいと思い、合衆国での初出雑誌を図書館でコピーしたり、神保町の英米文学を専門に扱う書店で、この作品を収録した単行本を探した記憶がある。
キリスト教系の学校に、教師として赴任してきたシスター。彼女の教室に現れ、最後にはカナダの雪原に消えていく、ややエキセントリックな青年の風貌の造形には、いま読むと、この作品が書かれた時代、60年代前半のグレン・グールドの肖像が重なる部分がある。
冷房のない、立教大学の4号館の、やや傾斜した合板の机のことや、教室の窓の下に沿って設置されたオイルヒーターの色を思い出す。
この短編の終章にさしかかると、回廊に響くシスター・アイリーンの靴音の向こうに、マーラー第6交響曲のアンダンテ・モデラートの旋律が、自分のなかで、がらがらと鳴り始めるのは、あの頃の夏と少しも変わらない。

7月25日
豊田市美術館で川俣正氏のアーティスト・トークをきく。
最近の仕事では、パリのポンピドーセンターの外側の構造体に寄 生するように設置された、複数のツリーハットに興味を引かれる。
ある主題の9つの変奏をきくように、設置された場所ごとに微妙 にちがう、木材で構成されるリズムが美しい。
ポンピドーでは初めての事例。国家の威信にかけても、板一枚落下させないこと。
近くにある、レンツオ・ピアノのオフィスを訪れて、許可を得たこと。
オファーのあった子供向けのワークショップを入口にして、自分が本当にやりたいことを実現していく手腕。
2000年の盛夏につくった、豊田市美術館の裏の駐車場にある、いつもの木のテーブルで、みんなでシャンパンを飲む。
2004年に設置した「物見台」は木材の劣化により、この日、 撤去が決まったが、この場所で体感した強烈な夏の陽射しや、アスファルトに落ちる 木々の深い陰影。
そして、この場所で一緒に作業することで始まった人たちとの交流は、消え去ることはない。

7月26日
渋谷ユーロスペースで、佐々木昭一郎の初期の作品「さすらい」を初めてみる。
1971年の日本。点滅する赤い警報機や、作中人物が幼少の記憶を辿ることで始まる冒頭。
サーカスの人々の点描。「四季・ユートピアノ」の原形を、初めてみる。
終映後、ロビーで、尊敬する佐々木昭一郎氏と初めてお話することが出来た。
立教高校3年の時、「四季・ユートピアノ」をみて、立教大学は氏と同じ経済学部を選んだこと。
25年前、有楽町そごうの上にあったホールでの上映会で、<日本人の精神状態が一番いいのは、成人式、1月15日の午前中。だから僕の作品の再放送はその時間帯を狙う>という言葉を覚えていますとお伝えした。やさしい目をした、素敵な人が、僕も マーラーが好きだ、と言った。

2010年7月
■2010年6月

6月2日
横溝静と米田知子の近作に興味を引かれ、久しぶりに六本木の美術館を訪れる。
展望台がメインの商業施設なので、展示空間の設計を含め、よほどの力量がないと展望台からの眺望に負けてしまう。過去の企画展では草間弥生と杉本博司だけが、それを上回る成果に到達していたと思う。
現在の時代状況に対して、率直な声を上げる、森村の作品が強い。
作品としては、少し前に東京都写真美術館でみた、硫黄島と青木繁をモチーフにした作品の方が優れているが、観客を、ともかく、その映像が流れる展示室の席に座らせる強度がある。
久しぶりに展望台からみる東京が、白を基調に、ライトグレーの階調で緻密に構成される都市の景観が、奇跡のように美しい。

6月7日
住んでいる集合住宅の外壁工事で、ベランダに置いてある植物の撤去を命じられる。
世の中には、ベランダに全く何も置かない人もいる。ある面積の意味を提示したり、ひび割れたコンクリートを通じて、時間の推移をみせる空間も素敵だと思うが、逆にガーデニングのようなことをやっている人はどうするのだろうかと思う。
家賃に含まれる専有面積内への干渉なので、言いたいことはあるが、朝5時に起きて、とりあえず、植物たちを避難させる。
名前が定かではないような雑草系の植物が好きだ。
代田橋時代に笹塚で買った「茶の木」と「エレンダニカ」以外は、鳥がくわえてきた種が少し大きく育ったもの。とはいえ2m近いものもある。
床から数センチ上に鉢を持つ体勢で、植物を静かに移動させて、廊下に出す。
「オレの光合成はどうしてくれるんだ?」というのがかれらの言い分だろう。
あまりに大きくなりすぎた植物は、ひとりでは動かせないので、そのままベランダに残してきた。
午後3時頃、部屋に帰ると、すべてが撤去されていた。
この場所での時間の推移とともに堆積してきたツタや、落ち葉に生息していた虫たちは消えてしまったが、あの大きくなりすぎた植物は、作業員の方がひょいと運んでくれたらしく、建物外の足場の銀色の金属板の上で健在だった。素敵な移転場所だ。
<大きすぎるし、美しすぎる>という理由で、フランスのレストランの厨房から水族館に送られたエビの話を思い出す。

6月11日
5日間、まる120時間も薄暗い廊下で過ごした植物たちの代理人として交渉し、工事の狭間の期間だけでも、ベランダに植物たちを移す。
外壁工事のグレーの養生シートに映る木々の葉の影が美しい。
昔読んだ、ジャコメッティの言葉と、人類が将来、火星に行くための実験として密閉された窓のない空間で、多国籍の数人が何ヶ月か過ごす実験が始まるという記事のことを思い出した。

6月12日
神保町の岩波ホールで「パリ20区、僕たちのクラス」を観る。
時間の推移を丁寧に撮った作品。10代半ばの、やや反抗的な生徒、エスメラルダが読んだというプラトンの「国家」に興味を引かれたり、劇中に出てくる「能力の限界」という言葉は、どこの国でもそうだが、学校以外の世界を知らなすぎる教師に対しての言葉のような気がした。

6月14日
「はやぶさ」の帰還を伝える朝刊、3紙を読む。
おかえり、はやぶさ。みんな、きみのことを誇りに思っている。
朝日新聞の別刷に掲載された、ドイツで活躍する指揮者の記事に興味を引かれる。
指揮者としての才能がないと言われ、帝国ホテルに就職した人は、ホテルの現場で<感情をむきだしにして怒っている人たちを見て、人間って可愛いな、と思った。オペラの世界と一緒だな、と>
いつか、この人が指揮するマーラーの3番をきいてみたい。
いろいろなものが刻印され、極限までひきのばされたアダージョと、その後にやってくる残響をきいてみたい。

6月16日
東京は大雨の予報だったが、幾層もの白い雲の向こうに、青い空がみえる日。
東京デザイン専門学校で、社会人向けの夜間講座を担当する。今年は、フランスからきた女性を混じえた12人のクラス。学生たちからの質問が面白かった。
「最近やった仕事は?」
横浜の「フェリス女学院」のブランディングだが、一見、どこが変わったか判らないようなVI。伝統や気品を、慎重に修復していくような仕事も重要だと思う。
「いままでに最も大変だった仕事は?」
20歳の頃、バイトで1日だけやったゴルフ場の設営。
埼玉県の東松山の先までクルマで連れていかれ、持ち上げるのが精一杯のようなツルハシ持たされてね。日没を過ぎてもトラックのヘッドライトで照らして、延々と。
「クールベの石割人夫」の時間を体感したというか。
「最近、興味のあるものは何ですか?」
という質問には、イギリスの彫刻家、アントニー・ゴームリーと、日本人の指揮者、上岡敏之の名前をあげる。1950年生まれのゴームリーは、日本の一般の新聞記事を介して、視野に入ってきた美術家。比較的具象的な人体の塑像で知られるが、ロンドンのトラファルガー広場の「第4の台座」の作品のドキュメントがあれば、ぜひ読みたいと思う。
上岡のCDは、この日の午前中、初めてきいた。
演奏時間の長さから、この曲では異例の2枚組で収録されたブルックナー第7交響曲。独自の視点から、これほど美しく、何かを投げかける音楽は、しばらくきいたことがなかった。

6月18日
夏までの間、金曜日の午後は東京デザイン専門学校で、特別ゼミを担当している。
2日前、社会人対象の夜間講座で、加藤淳の授業をきいた方が、この日、特別ゼミの教室にも現れ、聴講という以上に、主体的に授業に参加してくれた。
いままでにない交流が、彼の参加で実現する。違う視点をもつ人が、そこにいることは貴重だ。
国籍や年齢の違う、多彩な集団からこそ、次のおもしろいものが生まれることを確信している。

2010年6月
■2010年5月

5月4日
クリスマスだから、連休だから、何かをするというタイプではないので、例年のことだが、この時期、この町に毎日いるのはコンビニの店長と加藤淳くらいだろう。
一度精読してみたいと思っていたマーラー第10交響曲/クック版の総譜を読み始める。
<a performing version of the draft for the TENTH SYMPHONY/prepared byDERYCK COOKE>という表題は、内容実質に照らして、これ以上ない正確な言い方だと思う。
18歳の頃、銀座8丁目のコリドー街にあった「ハルモニア」という輸入盤の専門店で、ウィン・モリス指揮のLPの、オランダ・プレスの盤を見つけたのが最初。
その日の午後は西洋美術史の授業があったが、1980年当時とはいえ、泰西名画をスライドで投影して、日本人が説明するのが、どうして西洋美術史なのか???で、さっさと自主休講にして、自室でこの曲の第二楽章をきいたことを覚えている。
実演では、1987年2月にきいた若杉弘/都響の演奏が記憶に残るが、現在、この曲をきくなら、ザンデルリンク/NYP(1984)かインバル/ケルン放送響(2003)のCD-Rだと思う。
最近になって、全5楽章のピアノ版の演奏のCDがイギリスで発売された。
デリック・クックとBBCによる世界初演以来、イギリスとこの全曲版の距離は近いようだ。
ルキノ・ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」で、作曲家の弟子が、師の作品の強度を試すように、ピアノでマーラー第5のアダージェットを弾くシーンを思い出しながら、ピアノによる第10をきく。

5月11日
少し前に担当した学生が、結婚の報告にきた。まだ実感がわかないとも。
23:59と0:02の間の日付変更線なんて、普段、意識しないだろう、と思いつきで言ったら、妙に納得された。

5月14日
東京デザイン専門学校で、「特別ゼミ」の授業を担当する。
今年はクラスの半数が、海外からの留学生たちで、専攻もグラフィックディスプレイイラストさまざま。授業が始まる時刻に教室に入ると、ざわめいている。
見知らぬ人たちが初めて合流する場所は、いつも素敵だ。
先週、ある現代美術館でみた、ある映像作品についての学生の意見。
<何だかさっぱり判らなかった。作品の最初と最後に解説文を流して欲しい。>
これから、これこれこういう作品を上映致します。そして、わけのわからない映像が延々と続き、それが終わると、いま上映した作品はこういう内容の作品でした、というクレジットが流れるのか。
想像すると、なんだか大笑い。そんなのは美術作品ではないし、観る側もどうかしている。
でも、視点を変えると、北野武の映画の創作軸にはそういう部分が潜んでいるような気がして、おもしろかった。

5月16日
飯田橋のカナルカフェでビールを飲んだ後、どういう訳か埼玉県、新座市にある立教高校を訪れたくなり、そのまま、有楽町線で志木に向かう。
チャペルが開いていたので、コンクリートのひんやりとした空間に並ぶ、木の椅子のひとつに座ってみる。
聖歌集を開く。無宗教だが、加藤淳が好きな聖歌は入堂聖歌303番。
ハイドン作曲。現在のドイツ国家の旋律。
赤と青のステンドグラス越しに差し込んでくる光を、久しぶりにみる。

5月22日
マーラー第7交響曲。学生時代はクレンペラーのLPが好きだった。
現在では、ギーレン/SWF(2002)かベルティーニ/ベルリンフィル(1981)のライブ録音のCD-Rをときどき、きくことがある。
合板のような平滑さを求めるよりも、研ぎ澄まされた線と、楽団員の自発性が混在するような演奏が好きだ。この日、初めてコンドラシン/アムステルダムコンセルトヘヴォウの1979年の演奏記録をきいた。第二楽章の夜曲は行進曲、マーチだということ、それも、取り残された者へのマーチだということを、この演奏を通じて初めて知る。

5月26日
住んでいる集合住宅の外壁工事が始まる。予告されてはいたが、自分の部屋の外周、2面でドリルが響く。仕事も日常生活もできないレベルの騒音。
建設中のマンションに暮らすような時間。
この状況をおもしろいと言える境地には、まだ遠いようだ。
午後3時をすぎて、すべての音が消えた。作業員たちが休憩に入ったらしい。
この休戦時間のようなわずかな間に、ベランダに鳥たちが遊びに来る。

5月28日
東京デザイン専門学校で、10回連続のゼミの4回目を終える。
現時点では、プロを目指す人材としては2人を除いて、何だか幼いような気がするが、この国は首相からして幼いので、何ともいえない。
緊密な共同作業をしたデザイナーの仕事は、誰の仕事か一目でわかる。
2年前に担当した学生の作品が、今日、偶然ポストに投函されていた。
「東京大学/駒場リサーチキャンパス」。リーフレットのインデックス部分の色彩をもう少し抑えた方が、知的でよりいいと思う。

2010年5月
■2010年4月

4月2日
気温の上がらない春。 28歳の頃、住んでいた代田橋を訪れ、すでに満開の桜の木を 見上げた。
曇った日の日没、低温の、ライトグレーの空に、咲き誇る枝の骨格が美しい。
雨の後、クルマのボンネットに吹き寄せられた桜が好きだ、と言った人のことを思い出す。

4月13日
ある式典でスピーチのようなことを頼まれる。
舞台の壇上のようなところで話すのは好きではないが、舞台の上に座っていると例えば、賞状を受けとる人が、どういう表情で文面の朗読を聞いているのか、逆光の、違うアングルからみえ、ベルリンの壁が消失した後、初めてあらわになったライヒスタークの東側のファサードをみるような気分だ。
結婚式のスピーチが廻ってくるのを待つ時のような時間が経過する。
似たような、あるいは世代を感じさせるような祝辞が続く。
でも、そういうものが式典という様式を成立させるのだという思いもやってくる。
場慣れした方々のスピーチを、後ろでみていると、だんだん緊張してきた。
出番は最後の方だったが、あれよあれよという間に式次第は進み、その時がきた。
緊張感はあったが、どうにか話せたのは多分、TBSに鍛えられたからだろう。
客席には、加藤淳のわけのわからない話をきかされて、あっけにとられた人々の顔がみえた。
舞台から降りて、スタッフに「半分くらい、わかりました?」ときいたら大笑いされた。

4月14日
普天間問題。指導力がないと言われ続けている人は、国民一人ひとりがこの問題を考えるように、沖縄に眼を向けさせ、あえて、方向性を示さないのではないか?
第二次大戦の敗戦国とはいえ、戦後65年が経過し、冷戦の終結からも久しい現在、米軍の基地が日本に点在する意味は?
そもそも、この時代に、人間は領土的な野心や国家の覇権のようなものを拠り所に存在しているのか?人が生きる時間の意味は、そんな愚かで単純なものではないはずだ。
米軍側の現実的な諸条件も踏まえ、池澤夏樹が12年前に提示した、鹿児島県の馬毛島という無人島に移設する案に賛成。

4月27日
土日を使って、山田太一の「早春スケッチブック」全12話をみた。
1983年の放送時には、第2話の、たき火のシーンからこの作品に引き込まれたことを覚えている。それぞれが抱える日常生活の文脈から、違う一歩を踏み出すことを促す脚本。
今回は、不良の多恵子が、相対した人の紅茶に砂糖を入れる場面が何故か印象に残った。
細い渡り板をそろそろと歩きはじめるように。
この日、夕方になってから、作品の舞台になった「希望ヶ丘」を初めて訪れる。
小田急線を大和で乗り換え、相鉄線の「希望ヶ丘」へというルートは作中人物があの洋館と自宅を往復した時間に近いような気がした。
線路を挟む形で続く、希望ヶ丘駅前の商店街を少し歩いてみる。
作中人物が勤務する信用金庫。マンドリンによる主題曲の、あの旋律がやってくる。
警報機の音だけは、あの頃と少しも変わらない。

4月28日
恵比寿ガーデンシネマで「月に囚われた男」をみる。
近未来を想定したイギリス製のSFは「謎の円盤UFO」のテイストの延長上にあるような、白を基調にしたリアリスムが貫く。
実在の、国際宇宙ステーションに滞在した飛行士の談話、「宇宙には匂いがある。エアロックが閉じた瞬間、クルマがスパークした時のような匂いを経験したことがある」という言葉を思い出しながら、この作品をみた。
観客の想像力を試すような、精緻で周到な脚本。
翌日になってから、最初に現れた美しい女性の幻影が、主人公の15年後の娘であることに気がつく。

2010年4月
■2010年3月

3月1日
久しぶりに風邪をひく。
契約した仕事があるうちは死ねない、という意識がどこかにあり、1987年2月、ロリン・マゼール/読響のマーラー第二で、楽章の演奏中、咳をおさせるのに精一杯で、死ぬような思いをしたこと。
2001年11月、水戸芸術館での講演の朝、風邪で声が出なくなり、通常の40%くらいしか話せなかったこと以外、あまり風邪の記憶はないのだが。
ときどき遊びにくる、隣家のノルウェージャン・フォレストキャットも、この日の加藤淳は病原菌のかたまりだと思ったか、早々に塀の上から逃げ出す。

3月4日
20年前にみた映画、ピーター・ウィアーの「いまを生きる」を DVDでみる。
飛び立つ鳥たちの群れ。そして、高貴でやさしい音楽が寄り添う。

3月5日
東京デザイン専門学校で卒業制作をみる。
作品は、全体に小振りな印象で、1890年代に、ある交響曲の冒頭を、8本のホルンの独奏で始めた作曲家のような破天荒さをみたいような気もするが、そんなことはどうでもいい。
昨年、加藤淳が担当した学生は全員、就職が決まっていた。
就職率100%。
この経済環境のなかで、すばらしい。
住宅デザイン科から僕の授業に参加した、誠実な学生が優秀賞をとったことも、とても嬉しい。
かれらと祝杯だ。

3月19日
昔、好きだったクリストの作品を乃木坂の「21−21 DESIGN SIGHT」でみる。
版画を含めれば、かなりの数の作品が日本にあること。
高校時代、池袋西武の12階にあったアール・ヴィヴァンで、この作家の海外での出版物をよく手に取ったことを思い出しながら、32歳の加藤淳が好きだった作品を、久しぶりに眺める。
1991年に実現した「アンブレラズ」の茨城側のサイトで降り続いた雨のことや、夕方、常陸太田の駅前から、ドイツにいる友人にポストカードを投函した直後、虹が出たこと。
1995年6月、ベルリンのホテル、ウンターデンリンデンの開け放った窓からきこえてきた、取材ヘリの爆音のことを思い出す。

3月25日
インバル/都響の演奏でブルックナー第8交響曲の第一稿/1887年版をきく。
1982年、すでに28年前にこの作品を世界で初めて録音した指揮者の、現在の到達点に興味があった。
第一稿で特徴的な第1楽章結尾部で放出される最強音が、単なる音の塊ではなく、ティンパニを含めた幾重もの音の層で構成されることを示す、精緻で、自在な演奏。
前作の第7交響曲で、他人が加筆し、作曲家が追認したともいわれるシンバルとトライアングルが、この第一稿の同様の箇所で明確な刻印で鳴り響くのは何を意味するのか?
初期段階の草稿での音楽的な整合性なのか、初演実現のための関係者への敬意なのか、興味がつきない。
少なくともこの段階では、全曲の各所で違う「頂」の築き方が企図されていたこと。
ときどき、不思議な色の「凪」が現れること。
第3楽章での、あまり馴染みのない旋律に、暖流が流入してくるような部分での対比も印象に残る。
弦の旋律線の上に、ごく薄く響くように金管を支える奏者たちが見事だった。
この曲がガラス細工のような繊細さをもつことを、初めて知った。

2010年3月
■2010年2月

2月3日
東京都心部で、2年振りの積雪の跡が少しだけ残っている。
北側の屋根とか、陽の当たらない小さな庭の一角、郵便受けのへりにも。
雲の白、花の白、波の白。そして雪の白。自然界に存在する「白」の色相のことを考える。
スズメたちが全国で激減しているらしい。
寿命は1年程度だが、最初の冬を越せれば3、4年生きられる者もいるという。
今回の東京の初雪で、加藤淳のベランダに遊びに来るかれらは、大丈夫だったか?
近くの歩道橋でときどきすれ違う小学生のランドセルの色や、昔、小学生の頃、教科書で読んだ鈴木三重吉の「少年駅伝夫」という素敵な作品のことを思い出す。

2月17日
ある企業のブランドデザインの最終選考に立ち会う。
現在の厳しい雇用環境を反映してか、「社長のおっしゃるとおり。」みたいな人が大多数。でも、本当に優秀な社長なら、相互補完的に、自分が思いつかないような提言をするスタッフの出現をどこかで待ち望み、ある視点からの、精度の高い提案にも耳を傾けるだろう。
<自分の感覚が古いと言われても、人間は自分の経験の範囲でしか判断できない。
私はこの案でいく>という経営者の判断に同意しながらも、どこかで、間違った道に入っていく友人を見送るような気がして、この日は、朝4時まで眠れなかった。

2月19日
フランス映画、「海の沈黙」が劇場公開されるという新聞広告をみた。
18歳の頃、お茶の水のアテネフランセの4階にある階段教室のようなホールで1度だけみたことがある、この作品のことを思い出す。
「海の沈黙」という題名にひかれて、中学時代に、岩波文庫で原作を読んだこと。
当時の岩波文庫は背表紙に印刷された星のマークの数で定価が表示されていて、最も安い価格帯だったこと。そして、あのパラフィン紙の感触。
映画はモノクロで、重苦しい沈黙と柱時計の音の記憶だけが残るが、同時に16歳の加藤淳が3ヶ月だけ通ったアテネフランセのこと、アルファベットの文字が彫り込まれた、マゼンタに少し青を加えたような建物の外観や、ハワイ大学出身のミス・デッカー先生の初級英語のクラスを受講したこと。
休憩時間に、黒い学生服の加藤淳がどういうわけか、廊下のベンチの前に置かれた灰皿をひっかけて倒してしまい、灰皿の白い石が床に散乱して「Be careful , boy!」という外国人の先生の声を背中にききながら、細かい石をひろい集めた時間のことを思い出した。

2月27日
2010年現在、 EU加盟国27、ユーロ参加国16。
現在のギリシャの経済危機は、決してひとごとではないが、テオ・アンゲロプロスの秀作、「こうのとり、たちずさ んで」を18年振りに、高田馬場の早稲田松竹でみた。
上映されたフィルムの損傷とノイズも、それなりの味わいがあって、この作品の場合、気にならない。
舞台劇のように、俳優の立ち位置を厳密に規定した構図と、劇中に挿入される音楽、例えばアルビノーニや、ハモニカで演奏される「聖夜」。そして、ギリシャ語、フランス語、英語を横断して、見事な質感を与える池澤夏樹の字幕もすばらしい。

2010年2月
■2010年1月

2009年の映画・本・美術・音楽

映画
:アニエスの浜辺

:STATE OF THE ART/Deutsche Grammophon/VERLHAC EDITIONS
:Kazuo Ishiguro「 Nocturnes」/faber and faber
美術
:TADASHI KAWAMATA-BERLIN TREE HUTS
:文化資源としての炭鉱展/目黒区美術館
音楽
:内田光子/ベートーヴェン作品101のピアノソナタ
 サントリーホール 11月24日
CD
:ONO SEIGEN
 Olive Tree for Peace/SAIDERA RECORDS OMCA-1110
:ロリン・マゼールの演奏記録/CD-Rから
 2001年3月1日、ケルンでのマーラー第1交響曲
 1969年10月16日、ベルリンでのマーラー第4交響曲
:ALFRED BRENDEL/THE FAREWELL CONCERTS  DECCA 478 2116 
ドイツ・グラモフォンの社史を読む。
クラシック・レーベルで最良のステータスを誇るブランドの記録が中国市場への視線で終わる編集も興味深い。
17歳の頃、深夜聴いた、ジュリーニやアバドがシカゴで録音したマーラーの交響曲の、輸入盤の紙の匂いを思い出す。
2009年10月9日から2010年1月10日まで、川俣正氏の作品、TREE HUTSがベルリンの旧ライヒスタークに近い場所に展示されている。
詩的で、とても美しい作品。
かつて何度となく、ひとりで歩いたティアガルテンの木立のことや、いつか東京で、夜、出張から戻ったら本当に電気が停まっていて、半日、電気のない暮らしのなかで体感した、早朝の鳥の鳴き声とか、朝、斜めに差し込んでくる陽光が、板張りの床にちらちら映る光景のことを思い出す。
1980年代の後半、サントリーホールが開館した直後は、いまきくべき音楽が一気に流れ込んできたようで、多いときは週に3回ほど、このホールに通った記憶がある。
久しぶりに、このホールで内田光子をきく。作品101のソナタで、深い沈静の後、最初の主題が回帰してくる部分が記憶に残った。
ロリン・マゼールの演奏記録を、いくつか聴いた。2000年代初頭のバイエルン放送交響楽団とのマーラーは素晴らしい。
超一流ではないオーケストラの指揮台に立ったときこそ、この人の深い隈取りが生きる。
1987年の早春、読響に客演したときの第2交響曲を思い出しながら。



鳥たちの食堂

渋谷区にある、比較的小さな集合住宅に住んでいる。
ベランダにときどき鳥たちが遊びに来る。
スズメ、メジロ、正式には何というのか知らないが、もう少し大きいグレーの鳥も常連だ。
僕はツグと呼んでいる。

朝、夜明けとともに、かれらは僕を起こしにやってくる。
ベランダに置いてある金属製のスツールの上を、くちばしでカンカン叩く。
寒い時季だが、これには、起きざるを得ない。
とりあえず、窓を細めにあけて、パンをひとつまみ撒く。
彼らは柔らかいパンを好む。近くにあるパン屋の焼きたての「白パン」がお気に入り。
ときどきは、クロワッサンも。これはかれらにとっては、チャーハンのようなものかも。
正式に起きた後、ベランダの植物に水をやりながら、2箇所の所定の場所に定量のパンを小さくちぎって用意する。
1箇所は鳥の世界では有名な食堂。もうひとつは、やや高齢者向けの?着陸が容易なフラットな場所に設けた第二食堂。
かれらにとっては、加藤淳はバイキングスタイルの食堂のシェフとして映っているのだろう。
パンの鮮度によって、本当においしいときは無言で、高い角度でかれらは空を昇っていく。

11匹くらい、スズメたちがベランダの植物の細い枝にとまっていることもある。
お礼が7割。もっと出せが3割だと思う。あまりメタボにならないよう、また2日位、シェフが不在でも自分たちでやっていけるような、野生と友情のバランスを考えながら、かれらとつきあっている。
自宅を出て、歩き始めると、アスファルトの路面に、不意にスズメが降りてくることがある。
かれらなりの挨拶かもしれない。

1月15日、 不思議なことがあった。 渋谷駅前の交差点の信号が青に変わったので、渡り始めると、横から声をかけられた。「何度かお見かけしましたが、いつもあなたには音楽が流れているよう。それだけをお伝えしようと思って。」若い女性だった。
東欧的というのか、ティモシェンコ首相のようなヘアスタイルだったが、まさかそうとも言えない。いや、全然たいしたものじゃないんです。
と応えた時には、彼女はもう離れてはるか遠くに行ってしまっていた。
立教高校で授業中、先生から指名されると、「突然そんなこと言われたって」と口ごもる級友がいたが、そんな気分だった。

宇田川町を歩きながら、こんな考えが浮かんできた。
あれは、鳥の代理人ではないか?そうさ。ジュンは僕たちが、いくらお礼の歌を歌っても、よくきかないもん。だから神さまに頼んでさ、人間の言葉で。
少し不完全な翻訳だけど。

自宅に帰ると、僕は窓を大きく開け放って、クロワッサンを撒いた。
金属製のスツールがカンカンと音を立てた。

2010年 早春
■2009年11月

11月4日
目黒区美術館の地階のギャラリーで公開制作中の川俣正氏の作品をみる。
<空知やルール地方を視野に入れた作品>という情報から、個人の覚え書きのように、プロジェクトの構想が書き込まれた精緻なドローイングや写真で構成されたパネルが連なる会場を予想していたが、完全に覆される。
フロア全体に、ダンボールを敷きつめて作られた炭坑町の情景は、具象的なインスタレーションという以上に、ジオラマに近い。
造形的には、1996年の田川市美術館にプロポーザルとして展示された作品の方がはるかに完成度が高いが、この眼前にひろがる「景」は、炭坑町の普遍的な構造や配列を示す以上に、人生ゲームのように、石炭を発火点としての人の営みを俯瞰する試みなのだろう。
いろいろな人が集まり、手段を高度化しての、さらなる富の追求とその配分という産業社会の一面は、カメラを引けば、それ自体、アリやハチの世界の話のようにも思えてくる。
灰色のボール紙で作られ、文字どおり、どこにでも移動可能な炭住の模型の群れをみながら、<炭坑町は、病院や学校など必要最小限のものが建てられ、整備されていく。そして、閉山とともにすべてが消える。それ自体がインスタレーションのようなものだ>という作家の言葉を思い出す。

11月11日
秋、ベランダの茶の木が白い花をつける頃、午前4時頃、黒い作業着をきて代官山から羽田空港に向かい、特割の福岡行きで、11時過ぎには田川市の道成寺公園・ 野球場奥の「コールマイン田川」の現場に合流していた時期がある。
閉山から30年近く経った炭坑町に地熱のように残る気配や、スタッフの宿泊所から見たさえざえとした星の色。現場で作業を終えた日没後、作家とトラックに乗り込み、地元の名物だという「山賊鍋」の店を探したこと。対向車もない、田川の山間部の路面を照らし出すヘッドライトの色を鮮明に覚えている。
この日、目黒区美術館で開催中の「文化資源としての<炭鉱>展」を、順路に沿ってあらためて観た。炭坑を主題にした具象絵画を中心に、写真、労働争議のポスターなどが集積された密度の濃い展示空間を辿る。炭坑の諸相。イメージ以上に切実で逼迫した空気や、あけすけで、太い黒色に彩られた、ゆっくりと流れていく時間が立ち現れる。
坑道に降りていく作業エレベーターに乗る人間たちの祈りや、闇の坑道から再び地上に還ったときの、降り注ぐ、まばゆい光をとらえた何点かの作品が印象に残った。

11月12日
加藤淳の日本語の発音が悪いのは昨日や今日、始まった話ではない。
先日も自宅から近距離のタクシーに乗り、「旧山手で代官山へ」とお願いすると、「え、ダイコンヤマ?』と聞き返された。そんな山、あるわけねーだろ、だが、かわいい絵を想像して笑ってしまう。
そんな加藤淳に、ナレーションを頼む人がいることが、信じがたいことのようにも思えるが、この日、あるCMのナレーションに参加した。
スタジオのクライアント側の席に座り、ペットボトルのお茶でも飲みながら、ことの成り行きを見守るのは楽だが、隔離されたブースにひとり入り、ナレーションを入れるのは、基本的に孤独な作業だ。「詩のボクシング」というのは見たことがないが、言葉での激しい殴り合いよりも、ある種の孤独さを表したネーミングだと思う。
いま書き上がったばかりの何タイプかの原稿を、15秒という時間を意識しながら、行数も含め検証していく作業が始まる。初見で新しい曲を試演してみるような感じで、ここはメゾフォルテでみたいな指示が何度か来る。
加藤淳はいつもどおりに、ごく普通に読む。中学生の時、国語の時間、教室で指名されて教科書を読んだ時間を遠くに思い出す。当時の教科書に収録されていた文芸作品が、音読することを前提にしていたとはとても思えないが、眼前にある、かなり難易度の高い原稿は、あきらかに音読を前提に、映像との精妙な融合を目指して書かれたものだ。
本当にすみません、というか、いつもながら不甲斐ない出来だと思う。
スイッチが切り替わる僅かな間、向こうで笑い声がきこえたが、これでよかったのか確信が持てないのは本業と180度違うところだ。
プレゼンの段階なので、これで十分だと思ったか、人選を間違えた。おい、違う声優に すぐ電話だ、なのか知らないが、収録は予想より早く終わる。

2009年11月
■2009年10月

10月2日
仕事で旭川へ。めずらしく窓側の座席を指定して、旭川空港へのアプローチをみる。植木鉢の色のような茶色の濃淡とグリーンのブロックパターンで構成される地表が見え始め、イエローオーカーの長方形の四辺をグリーンのラインで囲んだ、畳のような土地が見えてくる。
そして、赤、青を混入したようなグレーの市街地に近づく。
異分野の専門家との話が面白かった。
かつて、東京デザイン専門学校でも教鞭をとったことのある建築家は北欧での豊かな経験を持つ。
<デパ地下で買った総菜を、その容器のまま食べるのは世界でアメリカ人と日本人しかいない。ヨーロッパの人は必ず器を移しか えて食べる。北欧の人は日本の陶芸に敬意を表しているので、そんなことをする と失望される>
<北欧で仕事をして、夜、仲間と酒を飲むと、家に靴を脱いで入る人がイスの設計など本当に出来るのか?と言われる>

10月5日
ブランディングに参加して以来、親しい組織からオフィスのリフォームに伴うカーペットの選定を頼まれる。
ごく小さな面積のサンプルと、道路の幅何本分もの面積のあるオフィス空間での色の見え方は違う。そんなことは百もわかっているが、これが実にむずかしい。
インテリアのイメージも定かではないので、壁はすべて白に塗り替 えるという前提で、空間のなかをあちこち歩きまわり、入口周辺と、大面積の平場、役員室の色を実際にその空間を使う人たちの意見もききながら、一応、選んだ。
本当のところは、貼ってみないと判らない部分がある。
翌日、デパートの婦人服売り場を歩きまわり、ある程度面積のある色がどう見えるのか検証した。入口付近は白いドアや壁面に合わせて、かなり濃いダークグレイを指定したが、雨にぬれた路面をみながら考え込む。
あんな濃いグレーは化粧室の床材以外に考えられない。
次の日、その場所に飛んでいって、一段、明るい色に変更した。
幸いにも、正式発注前でどうにかなったが、しかし。
でも、人間はこういう時に成長するのだ、と楽観的に考え直す。

10月11日
神保町の岩波ホールで、実に久しぶりに映画をみる。「アニエスの浜辺」。 この映像作家にとって、最も幼い頃の記憶だという、タンスの扉がきしむ音とシューベルトの「未完成」が、海岸の砂浜の、いろいろな位置に置かれた鏡によって 再構成される冒頭から一気に引き込まれる。
モノクロのスチール写真など過去の記録と、現時点での再現映像が織りなす作品の基調は、この冒頭に明示されている。屏風のような形の見事な変奏の上に、ある個人史が示される。
情報量の多い作品を受けとめた後の充足感とともに、ずっと前、20歳の頃、ヴィスコンティの「ルードヴィッヒ」をこの場所でみて、既にシャッターの降りた古本屋街を夜、足早に歩いたことを思い出した。

10月17日
新宿で「ドイツ映画祭2009」に出品された短編集をみる。
「Deutschland 09 ー13 kurze Filme zur Lage der Nation」。
トム・テイクヴァは、ひとつのブランドのように、他の監督とは違う光を放つ。
国際展開するホテルチェーンや、コーヒーショップは、どの国、どの地域でも均質なサービスが保証されるが、同時にその味気なさを、さりげなく描く。
固有の風土を、均質なサービスやテイストが覆っていくことの違和感、グローバリズムの指摘に鮮度はないが、あなたの恋愛ですら、そうなっていないか?
という問題意識が、この人らしい。

10月18日
東京デザイン専門学校で「原宿祭」をみる。
原宿駅、竹下口前にある商店街入口ゲートの新デザインの提案に興味を引かれる。
現在のものは、アジアの繁華街へのモニュメントということなのか、ある種のエスニックという以上に品格を欠く造形だと思う。
ただ、多彩な店が林立する商店街へのゲートであるから、新しいデザインにもある種の強さは要求されるだろう。そこに2010年代の造形物としての現代性と、今後の原宿のあり方をどうとらえ、反映させるかが問われる課題だと思う。
この商店街は、横へ入る脇道が織りなす複雑な回路に魅力があるが、10年位、時代を先取りする先鋭的なゲートがみたい。
ついでに、メインの商店街をガラス張りの2層にして再開発するような追加提案があってもいいと思う。石上純也ならどういう計画を提示しただろう。


2009年10月
■2009年9月

9月3日
東京へ戻る新幹線の車内で、映画キャメラマン、木村大作の著作を読む。
西欧の撮影監督、例えばレナート・ベルタやスヴェン・ニクビスト、あるいはフィリップ・ルースロが撮る映像には監督や作品内容にかかわらず、その人独自のくっきりとした陰影やテイストを感じる。
青みがかった温度の低い光景であったり、ろうそくの灯のような微かな光源をとらえる洗練であったり。
木村大作撮影の映画を初めてみたのは高校時代、15歳の頃みた「八甲田山」だが、大自然に対峙したスケール感という以上に、現代的で端正な映像を撮る人だと思ってきた。
「魔の刻」「誘拐」「鉄道員」などは、撮影=木村大作のクレジットにひかれて公開当時、映画館で観てきた作品群である。
この本を読み始めて、初めてあの映画の舞台裏の格闘を知った。
しかし、凄い人である。監督にカメラは覗かせない。
現場では、監督よりも先に「OK!」を出すのは日常茶飯事。
独断専行で数千万単位の高額なセットを発注したり、ロケ地を変えたり。
映画は、ある状況での俳優の演技を、あるフレーミングで切り取り、それを束ねていく芸術でもある。キャメラマンは現在進行中の状況が最もよく判り、公開時の最終的なスタイルを高い精度で予測できる立場にいることは事実だと思う。
そして、誇り高い人だ。2次元の構想に、いち早く確かな奥行きを与える力量は、「売れるコンテンツ」という名目で、TV番組や漫画を拡張した安易な映画が氾濫する現在、貴重だと思う。
ただ、それでも、客観的にみて、これは越権行為だとしか思えない部分もあり、監督と撮影監督の立場や役割分担、撮影現場での権力の二重構造をめぐっていろいろ考えさせられる著作だ。
<涙が出始めて、いつまで経ってもセリフが出てこない。こっちは2カメラで廻し続けている。
現場は静まり返っている。健さんの顔をファインダーから見ていると、完全に役の世界に入りきっているから、カットなんてかけられない。
そのうち、フィルムが500フィートぐらい廻ったところで突然「今日確かに、自分は雪の八甲田で会いました」と言い始めたんだ。>
(「八甲田山」)といった貴重な証言を夢中で読む。

9月11日
東京都写真美術館で北島敬三の作品をみる。
1980年代の後半、加藤淳が初めてひとり暮らしを始めた頃、この写真家が西ベルリンのクーダムで撮影したモノクロのオリジナルプリントを机の前に置いていた時期がある。
冷戦時代、北島が東欧で撮影した塑像のような人物群は、享楽的なものと隔絶され、無関心を装ったり、時には狡猾な表情さえ浮かべている。
今回展示された作品のなかで、1983年から84年にかけての作品群に興味を引かれるのは、この時代のヨーロッパが自分の根底にも横たわっているからだろう。
ミシェル・ビュトールの「心変わり」を再読するとき、頭のなかに立ち現れる車内の光景は、この時代の、DBのコンパートメントと楽譜のように踊る架線の連続だ。

9月13日
仕事で鹿児島を早朝にたち、クルマで福岡へ向かう。 高速を平均110キロ、追い越し車線に出たときは130キロで走り続けると、4時間ほどで福岡に到達する。
この時季、南九州の上空に浮かぶ雲の形は独特だ。
昔、夏の天草でみたような空を7年振りにみた。
途中、鹿児島から宮崎県に入ると、山間のなかに「えびの」という地名が出てくる。
1945年、終戦直後、特攻基地から復員する元兵士たちを乗せた列車がこの近くにあるトンネル内で立ち往生し、充満する煙に耐えかねて、列車から降りて歩き始めた人たちが突然逆走を始めた列車に轢かれた事件は、ほとんど知られていないが、この事件を丹念に取材している知人がいる。
鹿児島という地域も第二次大戦の最初と最後の記憶に密接に結びつく場所である。
開戦前、海軍が真珠湾に見立てて演習を行った錦江湾とか、戦争末期の鹿屋や知覧のことなど、積乱雲の向こうに、普段みえないものを思い出す。
9月23日
スクロバチェフスキの指揮でブルックナー第9交響曲をきく。
ザールブリュッケンで録音された演奏の筆圧よりも、即物的な響 きが目についたが、明瞭に拍を刻む、第3楽章の終わり方が印象的だった。
刻が落ちていくのを見続ける音楽。
最晩年のムンクの自画像の背景に描かれた柱時計のことを思い出す。

2009年9月
■2009年8月

7月28日
「スチュワーデス物語」のモデルになった方と一緒に仕事をして、夕方、ビールを飲む。
実在の「松本千秋」は、その後、日本航空の教官になり、90年代前半はNYで、日本人会の世話役のようなことを やっていたらしい。
状況に応じて、臨機応変に対応できる、有能な方だ。25年前、学生時代に観たこのTVドラマは、演出上の戦略なのか、田舎芝居のようなところがあり、???という感じだったが、最近、久しぶりにDVDで観て、例えば映画「ハッピーフライト」でグランドサービスのスタッフを統括する、50代のマネージャーを好演した田山涼成氏が端役で出ていたり、いろいろ楽しい発見があった。
それにしても、25年後、あの「松本」と加藤淳が一緒に仕事をやり、ビールを飲む日が来るとは。
人が生きる時間はおもしろい。

7月30日
仕事で盛岡へ。
東北新幹線の車窓は「くりこま高原」から「北上」にかけて、小雨が降り続く緑色の水田に、彩度の低い、赤い屋根が点在する水彩画のような風景が続く。
夜、盛岡駅前の地下道を歩くと、ストリートミュージシャンの音楽がきこえてきた。
地下道全体が管楽器の中にいるように響く。
カズオ・イシグロの短編集を1編ずつ、まず邦訳「夜想曲集」を読み、その直後にオリジナルの英文ペーパーバック「Nocturnes」を読む形で最初の2編を読み終えた。
素晴らしい。今年度、最高の著作であることは間違いない。
「音楽と夕暮れをめぐる5つの物語」という副題が添えられているが、<残りの時間をどう生きるか>という主題が通底しているのかもしれない。
そして、ひじょうに映画的。読み手のなかのスクリーンには、場面ごとに鮮やかな映像が浮かぶことだろう。「老歌手」に出てくるトニー・ガードナーを演じるのは、やはりアンソニー・ホプキンスだろうか。「降っても晴れても」でロンドンのフラットとフランクフルト空港にいる男2人の軽妙なダイアログの応酬は、ジム・ジャームッシュの映画のようだ。この2人のキャスティングは?
撮影時のコマ割りや、カメラの画角を想像しながら、東京へ戻る新幹線のなかで至福の時間を過ごした。
イシグロの作品を読んだ後は、新幹線の停車駅の案内放送でさえ、別のニュアンスできこえてくる。

8月3日
瀬戸内海の直島から私有の船でしか行けない「向島」で、川俣正氏の日本での新しいプロジェクトが本格的に始動したらしい。
ペットボトルなど膨大な量の漂着物で人工島を作るプラン。東京発着の新幹線のダイヤと速度は、瀬戸内海の離島への日帰りを可能にする。
前回は、未明の原宿駅から東京駅に向かい、始発の新幹線に乗ったが、今回は「サンライズ瀬戸」で行くつもりだ。
生産効率や目先の利益とは別の価値観で動くコミュニティに参加し、夏の光のなかで、オールを漕ぎながらペットボトルを回収するような作業。
本業の合間を縫って、地球の色を間近でみるような時間に参加できる可能性にときめく。

8月7日
やや雨が多く、冷夏が予想させる8月だが、セミが鳴き始めた。
2002年頃、産み落とされた生命が鳴き始める。
星の光が地球に到達するまでの、時間の帯を想像する。土星の直径に対して、輪の厚さはわずか9メートルだという記事も、どこかで読んだ。
新しい戸建住宅の壁面にはりついた黒いセミがいた。
7年前、ここには樹木があったのかもしれないと思う。
この日、横浜から渋谷に戻り、「109」の前を通ると、親しいクリエーターが担当している飲料のプロモーションに出会った。
「ビタミン・ウォーター」。伊勢丹の地下に並ぶマカロンのような色彩。
パッケージのラベルに、詩のようなコピーが表示されているという噂はきいていたが、この日、初めて現物をみた。
担当しているADは、東京デザイン専門学校で加藤淳の授業を聴講していた美しい女性。街の消費者の反応を記録するカメラを向けられたが、あまりに突然だったので、「素敵なパッケージですね。さすが。」という言葉を言い忘れた。

8月12日
19歳のフランス人の女性から、最近みた日本映画でよかったのは「still walking」だときいた。主題歌なのか挿入歌なのか、映画に流れていたという曲もハミングで歌ってくれた。
いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」。歌謡曲やJ-popは、ほとんどきく習慣がない加藤淳でも、歌詞は何となく思い浮かぶ。曲の中間部に出てくる「歩いても、歩いても」がこのタイトルに転化したのかもしれない。
旋律線がきれいな音楽は、歌詞の言語を替えても、なかなか味わい深い。
ストックホルムのタクシーのラジオできいた、ベッド・ミドラーの「ローズ」のスェーデン語によるカバーとか、六本木の多国籍料理の店のBGMで流れていた森進一の「襟裳岬」のタイ語バージョンとか。
オリジナルの歌詞の大意を教えてくれなどと言われても、フランス語は「私は歌手です」しか言えないので、とりあえず英語で、構造を伝えるように努める。
「まちのあかりが、きれいなヨコハマ」は、「Yokohama, this city has beautiful night landscape」とでもとりあえず訳すのか?
主語が「Yokohama city」だと何となく市の広報誌みたいだし、もっと主観的に「I can see」で始めるべきなのか。
<詩の翻訳など不可能だ>というタルコフスキーの領域にいくような話でもないし、成田エキスプレスで空港から都内までの70分の雑談がせいぜいの自分の外国語力を思い出して、大笑い。
で、渋谷駅前のTUTAYAで、いしだあゆみ「ゴールデンヒット」を借りてくる。
正確な歌詞は「街のあかりが、きれいね、ヨコハマ」だった。
68年録音の音源。フランスのシャンソンにもよくありそうな歌詞内容だと思うが、マリアンヌ・フェイスフルのように、現在の彼女が、例えばアルトサックスの伴奏で歌ったら、数倍の深みのある領域に到達するだろう。
この日、横浜・元町で買ったダージリンは、「天国と地獄」で、山崎努が街頭でタバコの火を借りる時代の味がした。


2009年8月
■2009年7月

7月1日
パナ・バウシュの訃報を知る。
1986年の、最初の日本公演でみた「カフェ・ミュラー」の舞台が印象に残っている。
後年は、かなりの頻度で来日を重ねたこの演出家について、次に記憶に残るのが、2000年代に入った後、東大駒場キャンパスで行われたレクチャー。
インタビューのたぐいが苦手で、めったにこういう場に現れないという彼女に対して、留学の高揚感が残る学生が「We can't hear you」などという言葉を投げて、自己主張することと、底の浅い見識がないまぜになったような冒頭を複雑な気持ちでみたことを覚えている。
多国籍のダンサーを抱え、ある発問に対して、当意即妙とはいかないダンサーたちの動きに対して、それでも、幼稚園の先生のようなまなざしで、何かを、はにかみながら舞台の袖で待っていたこの人のことを思い出す。

7月3日
東京デザイン専門学校/特別ゼミで実質的な授業を終える。
この日の授業は楽しかった。受講者の学生が、デートをかねて、彼女を教室に連れてくる。
そんな時間にしたいと思う。授業の後、ビールを飲みながら、学生たちが自主的に提出した作品意図の文章に最低限の赤字を入れる。その人の文体を最大限尊重して校正するが、かなりの量の修正になった。
ただし、<オレにこんなことまでさせやがって、ではなく、きみを愛してる>、の視点で。

7月5日
80年代の伝説的なTVドラマ「スチュワーデス物語」のモデルになった方と対談する。
羽田東急ホテルで撮ったという一枚の記念写真が記憶に残った。
かつて、外国の宿泊客や客室乗務員の葉巻と香水の匂いで包まれていたホテル。
訪れたことはないが、空港に向かうモノレールの車窓からみたことがあるピンク色の外装の、あまり大きくはないホテルのことを思い出した。

7月8日
政治の劣化が著しい。この程度の政治なら民主党でも出来るだろう。
衆議院はとうに解散しているべきだが、解散すれば負けることが決まっている人たちが、既得権にしがみついている。<三流の人材が破格の厚遇>という言葉を思い出す。
少し前に一緒に仕事をした人が、写真家に転身し、現在は、ある週刊誌の表紙を撮る著名な写真家のアシスタントとして活躍している。
数年前、彼女の個展をみる機会があった。カナダの地下鉄車内の人々を密かに撮ったモノクロの連作。例えば、買ったばかりのCDを、袋から取り出して眺める中年の男性の表情が写っている。
人は本人が思っている以上に、そのとき考えていることが顔に出るものらしい。
近くにある政治家の私邸の前を通るとき、「税金で守るほどの仕事をやっている奴なのか」という思いが出ないよう、いちおう、注意している。
この日の夜、今年担当している学生たちがTVに出るというので、池袋のカラオケボックスでみてみた。バラエティ番組とは思えないような真面目な作りで、あくまで学生個人が主役。学校はその背後にあるもの、という視点がよかった。

7月19日
昔、「暮らしの手帖」という雑誌で、新幹線の時代に、東海道線の普通列車を乗り継ぐという記事を読んだ記憶がある。
小田原の先にある早川から根府川あたりは、車窓から見える海岸線を辿るのが好きで、たまに訪れることがあるが、熱海より先の東海道本線はほとんど乗ったことがない。新幹線の車窓から、オレンジとグリーンに塗り分けられた短い編成の電車が複葉機のような速度で、ときどき並行したり、駅近くで合流するのをみながら、いつか向こう側に乗ってみたいと思っていた。
品川駅から9:12発の熱海行き普通列車に乗る。連休中なので多少混んでいる。
熱海から沼津、さらに静岡と普通列車を乗り継ぐ。
ロングシートの車輛なので、ビールを飲むような雰囲気ではない。
三島、沼津のホームには、風情のあるそば屋があったが、静岡から先は近代的、画一的であまり面白みのない駅が続く。
浜松でようやく2人がけのシートが並ぶ車輛になり、乗客もまばらなので、アサヒスーパードライを飲んだり、向こうにみえる群青色の山の稜線をみたりという、本来期待していたような時間が始まる。
大井川、天竜川と大きな河川を越えるときの鉄橋の通過音が、新幹線の車内とは明らかに違う。
トラス構造の橋梁が低速度撮影の映像のように通りすぎるのを眺めながら、辻邦生の映画評を束ねた「美しい人生の階段」を15年振りに再読した。
1980年代後半から90年代のはじめにかけての映画、「いまを生きる」「ナイト・オン・ザ・プラネット」「ポンヌフの恋人」‥。
品川から7時間。列車の進行とともに、僕のなかに、もうひとつの稜線が築かれ始めた頃、列車は豊田市への入口、岡崎に着く。

7月23日
カズオ・イシグロの初めての短編集を読んでみたいと思う。僕が18歳の頃、比較的見通しのいい英文で記述され、マーラー6番のアンダンテ楽章のような感触を現出させたジョイス・キャロル・オーツの短編を読むように。
11時過ぎ、渋谷ハチ公前で、皆既日食をケータイで写すなどという途方もないことを企てる集団と出会い、思わず肉眼で太陽を一瞬だけみた。
日本デザインセンターに在籍していた27歳の頃、ニコンの北欧ロケで、ストックホルム上空を覆う雲が切れることを確認していた時代のことを思い出した。
若杉弘氏の訃報を知る。精緻な指揮で、その先の音楽を常に指し示す、素敵な人だった。
加藤淳が最も多く実演をきいた指揮者であり、余談だが、10代の頃、インタビュー記事を通して<大人になったら、夏は京都で鱧を食べる>ということを学んだひとでもある。
ケルン放送響時代の来日公演での、最初のマーラー5番と、最後の1983年6月の9番の演奏が特に記憶に残る。ホロビッツの急な来日と同日になった日、若杉のマーラー9番は高い集中力を保ち、この曲では異例の、何かあたたかい地点に帰着したような終演が印象に残っている。
90年代の都響とのマーラー全曲演奏では、第一交響曲の初稿に近いハンブルクでの草稿を暗譜で指揮したり、その時代以降の関連の作曲家を、確かな視点で掘り起こすなど、この人の指揮で、音楽の現在の一端に触れたことを誇りに思う。


2009年7月
■2009年6月

6月3日
東京デザイン専門学校社会人向けの夜間講座を担当する。いろいろな分野での仕事を経た後、新たにデザイン系の仕事を指向する人の考え方は興味深い。
看護士として4年間、病院に勤務して、人の生きる時間の実相をみた彼女は、本当に自分がやりたいことを始めたくなったと言う。この日は、講義の後、ひとりで3回も4回も質問を投げかけてくる人が記憶に残った。

6月4日
仕事で横浜を訪れた帰路、海がみたくなり、山下公園に繋留されている氷川丸に入った。「馬車道駅」近くにある日本郵船歴史博物館はアーカイブとして完成度の高い展示だが、この船の管理が日本郵船に戻り、再整備された結果、それと同等の、かつてエメラルドグリーンに塗られて観光施設のひとつでしかなかった時代とは違う本物感を感じる。例えば、船底に近い機関室に降りて、狭い金属製の階段を辿ると、<板子一枚下は地獄>という船の本質に触れるような時間だ。戦前、日本にも厳然として存在した階級社会を垣間みるような等級別の船室の造作も興味深い。出口の近くには、最近の来訪者のアンケート用紙がいくつか掲出されていたが、<父と祖父がこの船に関係していて、今回30年ぶりにこの船と再会した>という方の筆跡が気になった。「横浜市民」などという匿名だが、この筆跡は、加藤淳の師匠のものに違いない。

6月10日
グレン・グールドのモーツアルトのピアノソナタを久しぶりにきく。
1989年、世田谷区大原のワンルームマンションで初めてきいたときは、CBSの「Odyssey」という廉価版の2枚組CDで、特徴のない水彩画のジャケットで、11番から17番までがフラットに収録されていたことを覚えている。その後、リマスタリングやオリジナル・ジャケットで何度も再発売されているが、案外、最初に自分が出会ったときの体裁が懐かしかったりする。
K.331のピアノソナタは、冬の朝、マリア・ジョアン・ピリスの演奏できくのが好きだが、グールドの、特に第一楽章の、おそろしくゆっくりとした地点から弾き始め、やがて加速していく設計や、三楽章での地球の自転と、誕生したばかりの赤ちゃんの笑い声が交互に入れ替わるような遠近感を、久しぶりにきく。

6月13日
ミッキー・ローク主演の映画「レスラー」を公開初日に観る。
人生の終着点をどこに定めるかを問うような作品。夜の女たちのショーと対比させながら、プロレスは異形のショーなのだという視点と、それに伴う悲哀や乾いた空気が全編をおおう。消えかけた意識のなかで、主人公が最後にみるリングの向こうの白い懸垂幕は、何かの滑走路のように見えたのかもしれない。
80年代とは別人のようなミッキー・ロークの存在は、アカデミー賞主演男優賞でも少しも不思議ではないが、翌朝の新聞で、日本のプロレスラーが試合中に死亡したという記事を読んで、この映画の読後感が、少し複雑になった。


2009年6月
■2009年5月

5月1日
日本経済新聞の文化欄を読む時間が好きだ。最近では、手塚治虫の仕事場に詰めて、原稿をとってくる雑誌の編集担当者から、やがて、手塚を守る立場に転身した、 手塚プロダクション社長の手記がおもしろかった。
埼玉県新座市にある手塚プロは、8年ほど前、豊田市から来た中学生たちと一緒に、一度見学させていただいたことがある。
多くのアニメ制作の現場がデジタルに移行した中で、当時、ここだけは昔ながらのセル画での制作が継続していた。
手塚治虫がこの場所で使っていたという部屋が記憶に残る。
学習机のような小さなスチール製のグレーの机の上には、三菱ユニが数本。
傍らのレコードラックには、チャイコフスキーのLPが数枚あり、赤と灰色を混ぜたような色の、仮眠に使ったらしい質素なソファが置かれていた。
そんなこともあり、両国の東京江戸博物館で開催中の「手塚治虫展」を訪れる。
個人的に好きな作品は「ブラック・ジャック」「W3」そして、初期の短編「落盤」と、「ミッドナイト」の第2話あたりだと思う。
オリジナルの入稿原稿をみての第一印象は、この人の絵のうまさだ。
ホワイトでの修正がほとんどなく、一発で、あの描線が仕上げられている。
手塚が1960年頃、構想した未来都市のイメージの原形が、幼少の頃みた、関西、宝塚のモダニズムの建築群にあることを示唆する展示構成の導線も印象に残る。
会場の江戸東京博物館は、大味な建築で好きになれないが、この企画展をみた後、印刷・製本された手塚の作品が無性に読みたくなり、 最近復刻された「新宝島」を出口にある売店で買った。
戦後、社会が落ち着きを取り戻しつつある頃、この本を夢中になって読んだという中沢啓治の言葉を思い出しながら、帰路、総武線の車内でこの本を読み始める。

5月6日
雨の音をきく時間が好きだ。現在では、雨がトタン屋根をたたく音をきくような時間は少ないが、この日、豪雨のなか、集合住宅の開放廊下に出ると、フェリーの中層階の舷側に立ったときのような、白い飛沫が降り注ぐ音につつまれた。
加藤淳は傘があまり好きではないし、黒い傘など特に気が滅入る。
唯一の例外は、20代の頃、ストックホルムで1泊した小さなホテルで借りた傘だ。
白いファブリックで、とってが白木の、シンプルなもの。
1989年6月の、この静謐な街に降り注ぐ、あたたかい雨を受け止めるのに適していた。
数年後、その傘を目当てに再訪したが、ホテルの建物は同じでも、すでに経営が別のホテルチェーンに移行していて、あの傘はもうなかった。
その後は、たいていビニール傘で、モノにあまり執着がないので、雨が上がると、どこかへ置いてきてしまう。「傘だけは、普通だ。」とTBSのプロデューサーに言われたこともある。
この日も小雨のなか、街へ出かけたが、渋谷・宇田川町に達する頃には、かなりの雨量になり、最寄りの東急ハンズへ入る。
コンビニの65センチのビニール傘には飽きたし、店頭に並ぶ商品の大半は中国製で比較的廉価なので、消防士の防火服のような素材の特大の銀色の傘にした。
以前、在籍した会社で、ゴルフコンペのとき、<道具なら、おまえが優勝だ>と言われた人がいたが、傘なら、これで優勝か?

5月8日
連休期間の前後、もう一度みたい映像作品を何本かみた。
店頭のDVDは充実しているが、それでもアラン・タネールの「白い町で」とか、 NHK/佐々木昭一郎の「四季ユートピアノ」から「東京オンザシティ」にかけての作品群などが 抜け落ちているのが残念だ。
この日は、10歳の加藤淳が好きだったイギリスのTVドラマ「謎の円盤UFO」をみる。
当時は、損傷した原子力潜水艦からの脱出劇の異常な緊迫感に魅せられたが、 今回は<ロンドン近郊の映画会社の地下にある、地球防衛組織の本部>という設定を巧みに利用した シリーズ後期の「謎の発狂石」という挿話が印象に残った。
CG合成がない時代、1960年代の終わりに、その10年後の近未来、1980年を想定して 製作された作品群は、いまみても新鮮だ。
特にストレイカーの執務室のインテリアは、あの時代のテイストと、その先の未来が融合した 不思議な魅力で参考になる。壁の一部から張り出した三角形のソファとか、 透明な円筒で、上部が柔らかい黒い革張りの来訪者用のイスとか。

5月15日
東京デザイン専門学校で、少人数を対象にした授業を行う。
厳選されたメンバーによる室内オーケストラのような緊密さを予感させる学生たちが好きだ。
ただし、サンテグジュペリが言う、<きみの部下を愛したまえ。ただし、それとわからぬように 愛したまえ。>という言葉をどこかで思い出しながら。

5月16日
賃貸の集合住宅に住んでいると、ときどき隣人が入れ替わる。
窓を開け放つと、新しく越してきた人が好きな音楽がきこえてくることがあり、 これは、なかなか味わい深いし、個人的には近所のある場所を夜、通り過ぎるとき、 かすかに聞こえてくる、弱音器をつけた練習中のヴァイオリンの音が好きだ。
オノ・セイゲンの新しいアルバム、「オリーブ・トゥリー・フォー・ピース」を買う。
例えば、現代美術系のビエンナーレの会場には多くの映像作品が並ぶが、 観客を一瞬で引き込むような映像作品は少ない。
ドクメンタ10でのヨアキム・コースターとか、川俣がディレクターをつとめた 横浜トリエンナーレでの、渋谷の一角に残る名曲喫茶をモチーフにした作品くらいしか 見た範囲では思い浮かばないが、タワーレコーズで試聴した、このアーティストが作り出す音楽は 見事だ。一瞬で好きになる音楽。
<アンチョビ・パスタが好きだ>というアーティストに敬意を表して、 この日の昼は、オイルサーディンと春野菜で、白っぽいパスタを作ってみた。
現役の指揮者で好きなのは、ミヒャエル・ギーレンとケント・ナガノ。 90年代、東京できいたギーレンのマーラー10番のアンダンテ・アダージョとか、 ハレ管とのナガノのマーラー9番の異常な集中力は忘れられない。
ケント・ナガノが継続しているブルックナーの録音は、3番や4番で演奏至難な 第一稿を選択していることは評価するが、テンポ設定が遅すぎ、疾走よりも停滞が漂う。
レーベルやオーケストラを変えながらも、この指揮者は声楽を伴うマーラーの作品に 傾倒しているようだが、最新の「大地の歌」はどうか。
一聴衆として最も距離を感じるこの作品を、久しぶりにCDできく。

5月21日
駿河台下から左右にのびる神田・神保町の古本屋街の、かなり九段寄りのところに 音楽書や楽譜を専門に扱う書店があり、たまに訪れる。
1ドルが250円前後だった時代に刊行されたマーラー9番のファクシミリ/ 自筆草稿の写真製版をここでみつけたこともある。
5月のある日、この店をのぞいていたら、TVの街頭インタビューのようなものをうけた。
<あなたのお宝は何ですか?>みたいな質問だったが、休日でビールを飲んだ直後だったこともあり、上機嫌で取材に応じる。
「お宝」という言葉からは、父の世代が好きな「ライカ」というカメラの 限定エディションのようなイメージが思い浮かぶが、僕自身はあまり物欲がないので、 「お宝」が何を意味するのか思いつかない。
ただ、高層建築の上から、薄い灰色の、眼下にひろがる街並をみるとき、その一つひとつに 人間の意思が存在していることを感じることがある。
この地上で生きる時間こそ、それなのではないかと思い、そういう回答を返した。
  <音楽が好きなのですか?>という質問に対しては、  渋谷区民プールのコインロッカーの番号は、ベートーヴェンの後期の作品番号で選びますね。
「123」よりは「131」でしょう。今日は、ある稜線の発端にある「109」の ピアノソナタかな、みたいな、実にとりとめのない会話だったが。
あれはボツにせよ、NHKの「50ボイス」が、どんな番組なのか確かめたくなった。
加藤淳はTVを持っていないので、こういう時は、池袋西口にある、地上波のTVがみられる カラオケボックスの、一番小さい部屋をお借りする。
規定の1ドリンク、もちろんビールをオーダーすると映画1本分くらいの料金だが、 たまにTVをみると、世の中こうなっているのかがわかって、楽しい。

5月23日
東京デザイン専門学校の学生たちと原美術館の中庭で白ワインを飲む。
20年位前、この庭には「ダンボ」という素敵な犬がいて、まるで番頭さんのように各テーブルを訪れては、しばらくじっとしていた情景を 思い起こしていると、黒地に鮮やかな青の1匹の蝶が、僕の頭上をひらひらと越えていった。


2009年5月


■2009年4月

3月23日
学生時代、土曜日の午前中は特別講義の枠があり、 博報堂のマーケティング・ディレクターによる講座を聴講して、 現在、その仕事を継続している人ならではの鮮度とか説得力を感じたことがある。
<この業界を目指す人は、最低、月に2万円は書籍・資料代に使うこと> という1983年当時のレートでの言葉を、いまでも覚えている。
19歳の頃、加藤淳が図書館で最も多く貸出し手続きをとったのが、 アドルノの「マーラー/音楽的観相学」。
そんなことを思い出しながら、同じ出版社から最近刊行された 「マーラー書簡集」を読み始めた。
電車の中で、その時ひらいたページをランダムに読み進めるような時間を 重ねてきたが、理想的にはギーレン指揮の第8交響曲か、冒頭に初期歌曲集を 収録したシノーポリ指揮のマーラー第2のDisk1でもききながら読み進めたい 資料だ。多くの評伝で引用されてきた言葉の原形や、その人物がまだ存命中で 一部削除せざるを得なかったような内容が丹念に復元され、時系列的に並ぶ。
出版契約や、次のポストをうかがう時の、実務家としてのマーラーがいて、 後進の音楽家に対しては、家族のように経済的な援助を惜しまなかった人物がいる。
 その作曲家の「晩年」は40代後半からの数年間ということになるが、 草稿の形にせよ第10交響曲全曲の構想を書き終えた後、実務家として、 次に企てたのが膨大な規模の自身の第8交響曲の上演。
深淵な構想の未完の作品と、この作曲家が生前、唯一過大評価された空疎な大作との 落差にとまどうが、ほぼ同時期に2本の帯のように進行するこの<対位法>にこそ、 作曲家と指揮者を兼ねたこの人物の本質があるのかもしれない。
 自作の演奏の度に、スコアの細部に修正を施すのが常だったマーラーの 最後の加筆を反映したという、最新のウニベルザール・エディションによる 第5の総譜が読みたくなった。

3月31日
ブルーシートを敷いての本格的な花見は、川俣正のプロジェクトの現場以外では あまり縁がないが、九段下の駅を出て、遠景に見える、ふわふわとした ピンク色の群れをみたり、かつて住んでいた代田橋にある1本の桜の木を 見上げるような時間は好きだ。
千鳥ヶ淵の緑道は最近、路面が舗装整備され、すっかり平板になってしまった。
樹齢を重ねた桜の幹と呼応するような、ごつごつとした石畳と、 そこを抜けた後にみえてくる薄い緑色の外観のフェヤーモントホテルこそ、 この場所の魅力だったとあらためて思う。

4月4日
東京都現代美術館を1年振りに再訪し、池田亮司の作品を楽しむ。
宮島達男の「メガ・デス」や、森美術館での杉本博司の展示プランに連なるような 洗練。黒地にグロスブラックで印刷された平面作品のように、 観客の想定内の作品がやや多いことが物足りないが、 日本国内で自足しているだけの美術作品とは違う緊張感がある。
帰路、清澄白河まで深川商店街を歩くと、昨年の「川俣正/通路展」の時の 木製ベンチが、縁台に混じって、いくつか残っていた。

4月6日
すでに2008年にリリースされていたらしい、マリアンヌ・フェイスフルの 新しいアルバム「EASY COME EASY GO」をきく。
同じプロデューサーによる名盤「Strange Weather」から20年以上が経過した後、 届けられた続編のような作品。素晴らしい。
プロデューサーとアーティストとの関わり方について、ときどき考えることがある。
1970年代の後半、ジュリーニとカラヤンで、数年のインターバルしか置かず、 マーラーの第9を制作したギュンター・ブレーストのやり方は興味深いが、 活動の最後期になってCBSのプロデューサーと決別したグレン・グールドとか、 DGでのミケランジェリとコード・ガーベン、バーンスタインとハンノ・リンケの 関係などが同時に思い浮かぶ。
プロデューサーに何かを決意させる演奏会やライブというものはあるのだろう。
推測だが、1984年、NYでジェシー・ノーマンを独唱に起用した レナード・バーンスタインによるマーラー第2交響曲をハンノ・リンケは 客席できいた筈だ。演奏家が次の段階に移行しつつあることへの確信と、 すべての準備が整ったこと。3年後、この人がDGで制作したマーラー第2は、 より独創的な刻印という点で、あの演奏会の成果を上回るところに到達している。
そういう部分に、プロデューサーの仕事の本質があることを、 ハル・ウィルナーとマリアンヌ・フェイスフルによるこの見事なアルバムを ききながら反芻した。

4月9日
東京デザイン専門学校の入学式に参加する。
自分がデザインを監修した学校案内の冊子を読んで、この学校を選んでくれた 学生の、一人ひとりに会いたいと思う。

4月17日
東京デザイン専門学校で、最初の授業を行う。
今年は複数の専攻学科にまたがり、その人の意思で選びとられる、時間を担当することになった。
こんな「選択授業」、誰も来ないのではないか?と思っていたが、意欲的な、多彩な学生と話が出来て、楽しい。
お互い、<第一印象に2度目はない。>という言葉の意味を思い出しつつ。

4月22日
以前、何度か仕事をしたことのあるラジオのディレクターから 昨夜、急な連絡があり、東京FM/JFNの「ONCE」という番組に参加する。
東京ミッドタウンのサテライト・スタジオでの生放送らしい。
当日の朝になってから、番組のなかで流す2曲の音楽を選択する。
ディレクターからは<人生を変えたような音楽を>とのリクエストだった。
端的に言えば、音楽というジャンルにとどまらず、これまでに接し得た、 最も印象に残る出来事は1985年9月8日、東京NHKホールでの レナード・バーンスタイン/イスラエル・フィルによるマーラー9番の演奏だと思う。
狂気のような早さで突進するロンド・ブルレスケ。現代において、 音楽が出来ることを精一杯、示唆するような終楽章。
演奏者たちと聴衆がとんでもないところに追いこまれ、 最後の音が消えた後も、かなり長い間、誰も拍手が出来なかったような時間。
昼の時間帯だし、3分前後という制約があるので、もちろん、 求められているのは、そんな音楽ではない。
1曲は最近きいたマリアンヌ・フェイスフルのアルバムから 最後のトラックに入っている「Sing Me Back Home」を選ぶ。
そして、もう1曲は、昨年、東京都現代美術館の展示空間できいた 「秋福音」というユニットの音楽。
そこかしこで、いろいろな音が立ちのぼる音楽。
ロック系の音楽が次々に流れる番組のなかでは、完全に場違いだが、 宇宙から地球をみた映像には、地表の都市部に沿って白い光がみえる。
そこかしこで、音楽が生まれている惑星。
そのささやかな発端に位置するような音楽だと思った。
生放送の現場は、春、中学校の頃、クラスが変り、最初の自己紹介で うまく言えなかった加藤淳、のような時間だ。
時間は生きていること。たえることなく、ある方向に流れ、注ぎ続けることを 久しぶりに体感する。


2009年4月


■2009年3月

2月4日
東京デザイン専門学校で今年度、最後の授業を終える。
もっともこの時期は「卒業制作」なので、毎週、ある時間帯、決められた教室にいて、作品の制作や進行状況について、必要があればやってくる学生に個別に対応するような時間だ。
人的な相性というのは、組織でも教室でもあるのだろう。
無人の教室で、空間の容量をあらためて確認しながら教壇に立つと、これも、客演指揮者とオーケストラの関係のようにみえてくる。  
人間は学校ではなく、むしろ卒業した後、容赦ない、さまざまな環境を体験することで、磨かれていくのだと思う。学校に出来ることは最新かつ、本質的な考え方を伝えること。
かれらが未知の出来事に相対したとき、自分らしく、結論が出せるような土壌を用意すること位しか思い浮かばない。
山の手線の線路に隣接した教室に待機していると、JRからJRFのデザインに完全に移行しつつあるコンテナを積載した貨物列車が通り過ぎていく。

2月7日
企業名表示、VIデザイン部分の担当者として、CFの最終編集に立ち会う。
編集スタジオで、初めてクライアント側の席に座って、白い紙コップのコーヒーを飲んだ。
デビッド・リーンは、映画は編集にあると語ったが、画面に映る人物の眼のまばたきの回数すら、簡単に調整できるデジタルの編集現場をみたら何と言ったか。
ナレーションを担当するプロの声優は、スタジオに10分もいないで、すべての素材を録り上げ、ボクサーのような後姿で帰っていく。

2月26日
ずっと前、少しだけ担当した学生と久しぶりに会う。
よほど加藤淳の発音が悪くて、この人、ふだんはどういうコミュニケーションをとっているのだろうと思ったのか、ブルックナーの交響曲のように脈絡もなく、飛躍する話題に違和感を覚えたのか知らないが、教室で初めて会った時、彼女の最初のセリフは「ねえ、先生の彼女は先生のこと、理解してくれる?」だったことを思い出しながら、この春から、金沢で実家の家業を継ぐという日本の老舗の若女将・見習と山の上ホテルのバーで飲んだ。
偶然、誕生日の日付が一緒なので、フランクフルト近代美術館の壁には
ON KAWARAの「JULY 17. 1985」というペインティングが掛かっていることを伝えた。彼女が彼女らしく、颯爽と生きていくように、24歳の加藤淳が好きだったバランタイン17年を久しぶりに飲む。

2月27日
早春から陽春へ向う時期、都市TOKIOに合流してくる人たちをみる時間が好きだ。
具体的な建設が始まった第2東京タワーの展望台からの眺めを、墨田区業平の上空450mから俯瞰した朝日新聞に掲載された写真は、「誰も見たことのない東京」に違いない。
江戸時代の海岸線や、それ以降、埋め立てで海に向って拡張していくこの都市の横への堆積を感じさせる写真。
80年代はミュンヘンに、90年代はジュネーブに親しい友人がいた。
だから、銀座1丁目の日本デザインセンターで仕事を終えた後、深夜、京橋の電通YRの前を通り、博報堂が入っていた東京ビルの前を東京中央郵便局に向った時間が懐かしい。
途中には「季節風書店」という素敵な名前の本屋があったことを覚えている。
貨物船の入口のような無骨な空間の一角でひらいている夜間窓口で、緑色のシールに内容物の価格を黒のボールペンで記入した時間。
低層階に外壁の一部を再生し、高層ビルに立て替えるという、いまや定番になった陳腐な折衷案には飽きた。完全な立て替えよりは幾分ましというだけで、結局、その場所が堆積してきた空気は残らない。
22歳の頃、好きだったフランス映画「DIVA」の原作にはこんなフレーズがある。
演奏会は開くが、録音は許さないという黒人歌手の話である。
<DGはカラヤン、ジュリーニ、アバドを使う5年間の契約。べらぼうな額の前渡し金が入るというのに、DGとの契約を惜しげもなく蹴った歌手がいる。それを知っただけでもうれしいじゃないか。>
文化都市・東京でも不動産的な価値の呪縛から逃れた、英断がみたい。


2009年3月


■2009年2月

1月4日
新年を迎えて最初にきく音楽は、シューベルトのD.944の交響曲のことが多い。
この交響曲が9番なのか8番なのか、呼称はなお混在しているが、1985年1月の年明けに、アムステルダムできいたサバリッシュコンセルトヘヴォウによる演奏の記憶が鮮明に蘇ってくることがある。
路面電車を降りた後、20時の開演間際に、雪解けの黒いアスファルトの路面をそれらしい建物の外観を探して歩いた断片的な記憶や、秩序のないところから秩序を紡ぎ出すこの曲の楽想が1月にふさわしいのかもしれない。
現在、この曲をきくならクルト・ザンデルリンク/ニューヨーク・フィルによる1983年の演奏記録を収録したCD-Rだ。
メータの時代、この演奏団体のレコードは冷遇されたが、あの粗さを逆手にとって、ある狭間には、こういう素敵な音楽が生まれている。

1月15日
ハドソン川の奇跡。<かれは、あの事故の後、何もなかったかのように、フェリーの桟橋で帽子を被ったまま、紙コップのコーヒーをすすっていた>という記事に感銘を受ける。

1月17日
一時的に免疫力が低下したのか、だましだましでやってきた、歯の痛みが現実のものとなる。
最悪に備えて渋谷駅前の薬局で買った市販の鎮痛剤は、説明書を読むほど、起こり得る副作用の記述が恐ろしくて、とても飲む気になれない。
  夜になって本格的に痛みだした。知人が入院した病室に貼ってあった患者の表情による「いたみよみスケール」では1か2だろう。
なんとか我慢はできるが、とりあえず最も原始的な方法、冷凍庫の氷を2重にしたビニール袋に入れて冷やしてみる。
凍傷と紙一重の低温にだまされて、痛みは一時的に遠のくが、焼け火箸に砂糖をまぶしたような痛みは、また頭をもたげてくる。
終戦直後の南京の旅館で、寒さで一睡もできなかったという木山捷平の小説の言葉を反芻しながら朝を迎えた。
朝、痛みは引く。生きていく時間で痛みがないという状況は素晴らしい。
人間の思考も健全になる。インターネットで最も有用なのは予備的な医療情報だと思う。この症状は何なのか、医者にいくとどういう治療が待ち受けているのか、患者としての覚悟を決めることが出来る。
歯科医が人生で最も苦手だという加藤淳。20年振りの歯医者はどうだったか?
次はおもしろいエッセイが書けるような気がする。

1月24日
閉館間際のベニサン・ピットへ高橋長英氏をみに行く。
人間の保身や複雑な状況のなかで板挟みになる人間を演じて、この人の右に出る人はいない。
法廷での証言や、貧しい和室で書きかけた原稿を丸めて投げ捨てる場面。
高校生の頃、みていた田宮二郎主演の「白い巨塔」の柳原が、そのまま眼前にいるような光景に、少したじろぐ。
数日後、山の手線の車内のモニターでみた、山崎努氏のNTTドコモのCMも、「早春スケッチブック」の延長線上にあるような世界。

2月1日
あるCMの撮影に参加する。午前4時集合なので、2時に起きる。
撮影は夜明け直後と日没間際の斜光を狙ってのものなので、日中はスタジオの、がらんとしたロビーにあるオレンジ色の椅子にすわって持ってきた文庫本、高見浩訳によるヘミングウェイの「武器よさらば」を読み進める。23章まで読み終えて、キャサリンの輪郭が鮮明になった頃、次の撮影が始まる。
風が強い。高い場所に仮設された撮影現場で、ヘアメイクの人が唯一、天使のように加藤淳を守ってくれる。


2009年2月


■2009年1月

12月1日
サルバトーレ・シャリーノの「夜の寓話」を20年振りにきいた。
1987年、サントリーホールの国際委嘱シリーズ/ルイジ・ノーノの回に、日本初演されたこの曲の印象はひじょうに鮮明で、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の引用で始まる冒頭に意表を突かれながらも、その後に続く精妙な変容の連鎖を、興味深く傾聴した記憶がある。
シャリーノは基本的に多作の作曲家で、その中には、第二ピアノソナタのように日本でも演奏頻度の高い曲もある。
この日、この作曲家の管弦楽作品を集めたCDのなかの1曲として、26歳の時、1度だけきいた音楽を47歳の現在、再びきくという素敵な体験をした。
原題は「Allegoria della notte」。
メンデルスゾーンが書いたスコアに太い白テープを、ランダムに貼ったような地点から始まる音楽。未来は過去から始まることを自分の文脈のなかで問い直し、鍛え上げた技術と、その時点での問題意識が融和した20世紀の名作だと思う。
 
12月10日
東京デザイン専門学校のマンガ科に在籍する学生と仕事で会うことになった。
彼女の線描を、イラスト的な素材としてお借りしたいと思った。
マンガ家も人によると思うが、<用件はメールで。電話をかけると機嫌が悪い>とか<メールを送っても、返信が来るのが3日後、これじゃ手紙と一緒じゃないですか>みたいな人がいることも事実らしい。
こういう時の加藤淳の対応の基本スタンスは、グレン・グールドは仕事に関わる業務については極めて常識的で誠実な対応をした、という伝聞につきる。
初めて会った彼女は澄んだ眼で、物事を深く考えるタイプの、素敵な女性だった。こういう人が人間を深くとらえ、人はなぜそういうことをするのか、ということを別の角度から照射できるのだろう。

12月12日
安藤忠雄の最初期の作品、「住吉の長屋」が乃木坂のギャラリーで、1:1の原寸大の模型で展示されているという記事を読み、さっそく出かける。
企画展には、どうしてもこれをみたい、という気にさせる何かが必要なのだと思う。
フェルメールは、数年前の大阪でも、今回の上野でも結局みなかったが、それも、このことと関係があるのだろう。今回のフェルメール展は、展示会場が公募団体展の老朽化した空間であることに、まず魅力がない。
2008年であれば、例えば、東京都庭園美術館で、現代におけるフェルメールの重さをみせるような企画が出来なかったのかと思う。
フェルメールの画題を現代に置き換えて、例えば地球儀を見つめる学者が、パソコンをひらいている光景を写真で置き換えるような試みは世界中で絶えないが、そういうものの中で良質なものを併置するような企画展示をみたいと思った。
例えば、埃だらけの古いガラスを通して差し込むような光を、無人の空間で撮った写真とか映像を流しながら。例えば、横溝静の新作で。

12月18日
グスターボ・ドゥダメルの指揮で、マーラー第1交響曲をきく。
東京国際フォーラムはどこに座っても演奏家たちとの距離が遠いが、この演奏団体の特性と、マーラー第1交響曲は、粗野な熱情という点で予想どおり適合し、荒削りで未消化な部分はあるが、おもしろかった。
第2楽章冒頭の、大きな呼吸で明確なリズムを刻んでいくやり方。
あるいは、第3楽章の音楽は、意外なほど第7交響曲の指向に近いこと。
現実的で現世の音楽が主導するマーラーの音楽には、時折、ソナタ形式に擬して「夢」の時間が逆流してくることを示す演奏だった。
アンコールの後、ベネズエラのウインドブレーカーを派手に客席に投げ込む、クラシック系のコンサートでは異例の幕切れも、好印象。
      
12月20日
12月の朝日新聞に連載された「渥美清がいた東京」という記事に興味を惹かれる。
僕は30代の頃、住んでいた代官山で、1度だけその人を見かけたことがある。
黒か紺色の野球帽を深くかぶっていたことを覚えている。
加藤淳は「男はつらいよ」シリーズを1度もみたことがない。
20年位前、ノルウェーのオーレスンという町で食事をした時、イタリアの俳優で誰が好きか?という話題になり、僕は「ルナ」の父親役が記憶に残る、トーマス・ミリアンと答えたが、イタリアではどうもこの人は、「男はつらいよ」みたいな役柄の方で有名らしかった。
そんなこともあり、TUTAYAで初めて「男はつらいよ」を借りてきて、観た。
日本の南の方でロケした最終作である。代官山と渥美清はミスマッチな感じがしたが、あの時、その街で1度だけ会った頃の作品を観たいと思った。
人間に対して、寛大になれる映画だと思った。


2009年1月


■2008年12月

航空学科のある学校で講演のようなことをやり、そのご褒美に、日本に数台しかないという本格的なフライトシミュレーターを体験させていただいた。自転車にはどうにか乗れるが、自動車の運転免許もない全くの素人である。理想的には、アムステルダムのスキポールや、ストックホルムのアーランダ、ベルリンのテーゲルといった乗客として利用した回数の多い空港を別の視点からみたい気がするが、そんなことは加藤淳には100年早いという表情の教官の横で、羽田空港をセスナで離陸して、戻ってくるというコースを飛ぶことになった。おびただしい数の計器類は予想していたが、それぞれがどういう機能を持っているのか一度きいただけでは理解できないのも予想どおり。<これが高度計。そして、飛行中はこのゲージを上から2つめに合わせるように>という指示があるが、上空では、すべてのことを瞬時に判断しなければならない職業の、最初の門に足を踏み入れたことを実感する。

羽田空港の滑走路を走り始める。小学生の頃、作ったプラモデルの空母の飛行甲板の白線が、実際のところ何を意味していたのか初めて知った。
両足のペダルの操作で、センターラインの上を真っすぐトレースすることがいかにむずかしいか。とんでもないパースの白線が右に左に現れるたびに、教官がそれとなく、あるいは<おまえ、いい加減にしろ!>なのか、自動補正してくださり、どうにか離陸。
埋め立て地に火力発電所が並ぶ東京湾沿岸の映像がみえるが、機体の適正な高度を維持するのに精一杯で、眼下に広がる東京のランドマーク的な建築物の配置を楽しむ余裕はほとんどない。操縦桿はやさしく、静かに動かさないと、瞬時に高度が上がり、画面が青空だけになってしまう。

帰路、羽田空港への進入路を示す、2基の白い誘導灯が空港の少し手前で強い光を放っているのが印象的だった。海路の赤いブイのように、この間を通れば大丈夫だよというように。
85ノットを切ったらフラップを下げること。空港の端にみえる、4つのランプが赤白2つずつになったら降りてもいいこと。
滑走路への進入角度は3度。これがこの日、加藤淳が初めて学んだ知識。
もっとも、最後の3度は機首を3度上げるのか、下げるのか教官にきき忘れたが。
車輪を接地させる白いゾーンに、どうにかランディング。
たちまち、滑走路が半分すぎたことを知らせる白い横線が飛び去っていく。
シミュレーターのドアが開いたとき、思ったことは2つ。
人生が3回あったら、1度は航空会社に就職したい。
もうひとつは、1980年代に、職業が編集者だったら、辻邦生の翻訳でサン=テグ・ジュペリの「人間の土地」を読んでみたいと思った。
この得難い体験を前座に?公開中の映画「ハッピーフライト」を観る。
アルトマンの映画のように、旅客機の運航に関わるいろいろな人たちを同時並行で描く群衆劇。綿密な取材の上に築かれた脚本や、車輪を収納するシーンの映像センスはすばらしい。グランドサービス、客室、操縦、管制などさまざまな分野の人物群のなかで、最も強い印象を残した人物は、眼光の鋭い整備班長のような人。
この人が出た映画をもう1本観たいと思い、めずらしくプログラムを買った。
ライン整備士=田中哲司。この人が加藤淳が選ぶ最優秀助演男優賞。


2008年12月


■2008年11月

9月27日
目黒区美術館で丸山直文の作品をみる。
丸山の作品を初めてみたのは1996年の佐谷画廊だが、すでに他界した両親を描いたという作品の、みたことのない表現にコム・デ・ギャルソン・オム・プリュスの新作をみるような心地よさを感じた。
意外にも美術館では初めての個展だという空間を歩くと、近年の丸山の作品は、より原色の、東洋風な作風に傾斜しつつあるようだが、個人的には具象的な人物画に転じた頃から、ベルリン滞在の時期にかけての、90年代後半の作品群が好きだ。そして、まだ僕が消化できない、この作家の近作が持つある種の抵抗感は、その先の新しさなのかもしれない。
日没の頃、飯田橋の「カナルカフェ」のデッキでビールを飲んでいると、水面にオレンジ色の影を落としながら、中央線の快速列車が何本も通り過ぎて行く。
この場所に来ると、丸山の鏡像状の作品のことや、再開発計画が始まり、ダイムラーやSONYの拠点が築かれる前、かなり長い期間、放置されていたベルリン・ティアガルテンの周縁の光景、この画家が、繰り返し描いている木漏れ日の下の黄土色の大地に佇む幼い男女、そして、かつて恵比寿の5叉路にあったハヤカワマサタカギャラリーでこの作家の新作をみた時間のことを思い出す。

10月17日
晴朗な10月の空。ブルックナー第7交響曲の前半の2楽章のような清澄な音楽がききたくなる。初めてこの曲をきいたのは、1981年初夏のジュリーニ/LAPOの東京文化会館での演奏だが、80年代の後半、ミュンヘンの友人のアパートできいたシューリヒト/デン・ハーグによる演奏のCDも、人生のある時期、傍らにあった音楽として記憶に残っている。
現在、CDでこの曲をきくならクルト・ザンデルリンクの演奏を採るが、この日は、朝比奈隆による東京カテドラルでの演奏をきいた。
ハース版特有の、第一楽章結尾部の陶然とした響きが10月の空にとけ込む。
クリス・クーパーが父親役で出た、ロケット開発の黎明期を描いた映画の原題が 「October Sky」であったこと、スプートニク1号が薄明の空に軌跡を残したのが1957年10月だったことを思い出した。

11月1日
ベルリンのテンペルホーフ空港が2008年10月30日、85年の歴史に幕を下ろしたという新聞記事を読んだ。
国内で訪れた回数が最も多い場所は、京都と福岡県の田川だが、海外ではベルリンやヴェネチアがそれに相当する。
かっこいい先行世代の大人に出会うことは重要だと思う。
加藤淳は1995年のベルリンで出会ったヴォルフガング・パンタさんの、多国籍のいろいろな人とのつきあい方から多くの影響を受けている。
こういう大人になりたいと思った。この日の日本経済新聞夕刊に掲載されたEU理事会 対外・政治軍事総局長ロバート・クーパー氏の写真も、60歳に到達した男の風貌として魅力的だと思う。

11月13日
東京デザイン専門学校で、夜間講座の特別講義を担当する。
加藤淳の話など特別講義でも何でもないが、一番後ろの席できいていた学校長から「練習したのか?授業での発音がだいぶ明瞭になった。質疑応答になったら、いつもの加藤淳で、なんだかよくわからなかったが」という言葉をいただく。
数日前、元プロ野球の投手で渡米経験もある方の講演をきいた。
かれが会場で投げてみせた、ナックルの軌道の変化を間近でみて、ある分野のプロフェッショナルの凄みを感じるとともに、<満塁でマウンドに上がる時は、勝つことしか、最良のパターンで勝つことしか考えていない。><アメリカでは、相手が「今日はいい天気ですね」と言っているのに、「オレは昨日、ハンバーガーを食べた」みたいな珍妙な会話の連続だったが、それでも、こちらからコミュニケーションをとることが大事。>という言葉にどこかで励まされている。


2008年11月


■2008年9月

8月31日
原風景という名前の海や山がある。
幼い頃みた海の光景や、ある感触がいつまでも残っていたりする。
加藤淳の原風景のひとつは、東海道線の真鶴ー湯河原間にある吉浜海岸なのかもしれない。3歳から5歳の頃、この近くにあった親戚の別荘の2階から東海道線を見続けていたような記憶がある。
グリーンとオレンジに塗り分けられた113系の湘南電車とは違うモーター音が響き始めると、EH10という黒い電気機関車が牽引する雑多な編成の長大な貨物列車が現れたり、夏の朝、東京に向うEF58牽引の夜行急行の、一見、ブルートレインのようだが、編成の後半は茶色になる客車の窓がいろいろな位置で開け放たれていたことをまだ覚えている。
8月最後の日曜日、今日が最後の営業だという吉浜海岸の海の家のカウンターで、ビールを飲みながら、打ち寄せる波が崩落するとき一瞬だけ現れるターコイス色を見続けた。

9月4日
他人のプレゼンをみることは重要だと思う。
プレゼンテーションというもの自体、仕事の<発注−受注>を軸としたものなので、そのプロジェクトに関わる当事者以外は、通常みる機会がない。
この日、僕の授業のゲストスピーカーとして、あるクリエーターを招いた。億単位の巨費を投じた、ある国際的な商品ブランディングの事例をみる。
素晴らしいプレゼン。このクリエーターが東京デザイン専門学校で、4年前、僕の教室にいたことを嬉しく思う。
2週間後、この日、学生たちにみてもらった、この人の仕事がアジア地域全体の、国際的なキャンペーンを対象とした賞で「ゴールド」をとった。
少し前だが、ある自治体の美術関連施設運営の指定管理者制度にエントリーした組織の、公開競合プレゼンをみたことがある。
NPOや広告会社など5社が参加したが、基本的な理念の他、その組織の信頼性や安定した運営体制、そして従来なかったプラスアルファの提案内容の質が問われる場だったと思う。
日本の現代美術の現状をある程度知る一市民として客観的に聴講した。
結果的には、先進的で意欲的だが無理のない、現時点で妥当だと思われるプレゼンをした新しい組織とはおよそ対極的な、最もつまらない、何の新味もない提案をした現自治体に近い組織の案が採用された。
そういうものなのかもしれない。しかし、この国の人は、個人も組織も、なぜ最後は国を頼るのか?という海外での日本評のことを思い出した。

9月14日
北品川の原美術館で米田知子の作品をみる。
10年以上前、日本橋三越前の写真ギャラリーのストックの引き出しにあった作品が忘れられない。
日本の地方のどこかを撮った何の変哲もない写真。地平線が画面の中央を横切り、遠景には草野球の得点掲示板のようなものが見える。
キャプションには「野球場(終戦直前まで続けられた特攻出撃基地の跡/知覧)」とある。それ以来、キャプションを軸として、観る者のなかで、ある種の暗転を引き起こす、この作家の仕事に注目してきた。
近年では、上空を高高度で飛ぶ旅客機のような小さなシルエットが、実はイラク空爆からイギリスに帰投するB-52の機影だという作品も好きだ。
原美術館の展示では「シーン」シリーズの初期作品が削られたのが残念だが、満州事変から77年後の、現在のその地点をみる、「線路」という作品の乾いた視線が印象に残った。

9月17日
東京デザイン専門学校の授業で、あるネーミングを開発している時、「砂時計」の欧文をベースにした案が出た。
反射的にルキノ・ヴィスコンティの「ベニスに死す」の、ダーク・ボガートの独白の場面を思い出すが、かれらはこの映画をみたことがないと言う。
現在は、格安のDVDでパソコンの画面上でもみることができるが、いつか、かれらと新橋の試写室を借りて、シャンパンでも飲みながら、この作品をみたいと思った。
この夜、疾走していく映像の夢をみた。めずらしく夢の内容を覚えているのは、そのBGMがベートーヴェンの序曲のある旋律だったからだ。
ベートーヴェンの管弦楽曲は、作品131や135の弦楽四重奏を拡大した演奏以外、ほとんど興味がないし、この作曲家の序曲はどれも似たような楽想で、ベネックスの「DIVA」冒頭の、青い映像の背景に流れる象徴的な使い方以外、あまり記憶にない。
「夢」の音楽を検証していくには、ジョージ・セルの演奏が適している。
まもなく、僕はその音楽が「コリオラン序曲」の一節であることを特定した。そして、この音楽の構成は、当初、交響詩として構想されたグスタフ・マーラーの第一交響曲終楽章の祖型になったのではないかと思った。


2008年9月


■2008年8月

7月26日
高校野球の地区予選、南埼玉大会で母校が1985年以来、23年振りに決勝まで進んだらしい。
ある個人が生きる時間のなかで、<めったにない素敵な出来事>が起きたとき、あの高校は迷うことなく、それを採ることを促す学校だった。
現時点で、加藤淳が好きな人生のコミュニティは、「立教高校」「日本デザインセンターCIデザイン研究所」「川俣正/コールマイン田川」の3つだと思う。
僕が在学していた1970年代の終わり頃、地区予選大会で相手校が「目指せ、甲子園!」という横断幕を持って来るのに、「目指せ、大宮第一球場!」の横断幕の学校だったことを思い出しながら、大宮へ向った。
試合開始時間を過ぎて球場に辿り着くと、すでにスタジアムは満員で、1塁ベースのやや手前に据え付けられたTVカメラの台の直下しか空いていなかった。ここだとバッターボックスの周辺は全くみえない。
いま投げた1球の結果を、黒いバックスクリーン上に点滅する赤や緑のランプで確認するだけのような観戦だが、それでも、ある空気を共有できて嬉しい。
<野球は18人でやるが、忙しいのは3人だけ>といった皮相的な見方ではなく、この日は、バッターボックスに立ち続ける打者にとっては、これは1対9の、自分の意志を阻もうとする相手との闘いのようにみえた。

8月2日
少し時間が経った後、みえてくるものもある。
ドレスデンに拠点を移した後の、シノーポリの演奏はDGへの録音を通してきく限り、退屈なものに思えた。
最近になって、シノーポリ/ドレスデンのマーラー4番をきいた。何かを言いかけて、やめたような表現が頻出するが、終楽章の歌声は、水底から歌い上げたようにきこえる。
そして、それ以上に、余白に収録されたこの指揮者のレクチャーが興味深い。
この交響曲の最も有名な旋律は、ベートーヴェンの13番のピアノソナタに由来するのではないか、という指摘は鋭い。

8月5日
1994年以来の夏空が、東京の頭上に広がる。

8月10日
世田谷の三軒茶屋に、僕が高校時代からときどき行く名画座がまだ残っている。
上映中、椅子がきしむ音がきこえ、えんじ色の緞帳には地元の不動産会社の銘が入っているような味のある映画館。
この10年間、この場所でみた映画のベスト3は「日の名残り」「ラン・ローラ・ラン」「ユナイテッド93」だろうか。
みたい映画と時間が合わない時は、となりのビルの屋上にあるバッティングセンターに立ち寄ることがある。
この日、3年振りにこの場所を訪れてみた。
溶接の強度は大丈夫ですか?というような非常階段みたいな外階段を上がり、屋上のバッテイングセンターへ。
扇風機が首を振り、傍らのラジオからは折しも甲子園の実況中継がきこえてくるという、なんとも素晴らしい場所。
90キロの右バッターボックスに入り、「きたタマは全部打つ」という言葉の意味を反芻する。

8月23日
ある美術大学で集中講義を担当する。
朝9時から夕方6時までの時間を2日連続で、あるテーマに基づく作品を制作するというワークショップ。
加藤淳の授業の内容を選びとり、お金を払って青森や静岡から、このために来た学生たちなので、集中力が違う。こちらも全力で対応する。
作品の制作時間に入った後は、かれらが一人になり、集中する時間でもあるので、余計なことは言わず、教室の一番後ろの席に座ってひたすら待つ。
養生シートの向こうでは、延々と地味な作業が継続するが、ある日、シートを取り払うと、見事な建築物が立ち現れるように、僕はかれらの作業を信頼している。この時間を使って、この大学の学校案内を読んでみた。
企画、編集はすべて学生が担当したらしい。「学生が思っていること」というコーナーがおもしろかった。<教授が教授以外で活動していないのは問題だと思う。「教授」をメインにしていて欲しくない。「作家」とか「デザイナー」をメインにしている人に教わりたい。>  映画学科の教授もいい。<先生を職業とする先生はいらない。>


2008年8月


■2008年7月

6月7日。
秋葉原はいうまでもなく、いろいろな文化が集積した街だ。
愛知県豊田市でトヨタ自動車の工場を見学した後、この街に立ち寄る海外からのツアーが人気だというのも一理あると思う。
例えば、ベルイマンの晩年の作品「サラバンド」では、作中人物の老いを象徴する音楽としてブルックナー第9交響曲の第2楽章が大音量で鳴り響く場面がある。ブロムシュテット/スエーデン放送響による演奏らしい。
この映画を観た後、この指揮者が数年前、別のオーケストラとDECCAに録音したCDを探したことがあるが、既に廃盤で入手できなかった。
しかし、ここAKIBAでは、そのブロムシュテット/スエーデン放送響によるブルックナー第9交響曲がCD-Rの形で、平然と並んでいたりする。
この街で殺傷事件があった時刻、偶然、僕は秋葉原に向っていた。
ヘリが上空を飛ぶ音がきこえ、タクシーの運転手から「何か事件があったようです」などと伝えられても、昨日、大手術を終え、今日はICUにいる知人の容態以上に危機的なものはないような気がした。ところが、タクシーがある病院の構内に入ろうとすると、救急車が割り込んできた。青いユニフォームの受け入れ側のスタッフが展開する病院のゲートは騒然とした雰囲気で、ストレッチャーで心肺停止状態の患者が運び込まれた。
何が起きたのか、その時、事件の輪郭は誰にも判らなかったが、「ブラックジャック」のある挿話に出てくる、「7人も殺しやがって。こっちは1人助けるだけで精一杯なんだ」というセリフを思い出した。

7月16日。
夏の到来。この時期、JRお茶の水駅のホームに立つと、聖橋のコンクリートの裏側に、緑色の水面の反射光がちらちらと映り込む。
盛夏の大阪、御堂筋の深い緑色の街路をつつみこむ、セミの声をきく時間も好きだ。
東京デザイン専門学校で週に1度くらい授業を担当して5年目に入った。
1クラスは30名弱で、最初の試案は5案と指定しているので、多いときは、1回の授業で150案の試案を検討していくことになる。
教室の中でしか通用しない学生作品から脱却して、社会的な強度や説得力を持たせるためには、課題ごとに最初に設定する<デザインの開発基準>という、ストライク・ゾーンのようなものをクリアーする必要がある。
どの組織でも、上位5%は非常に優秀だという説は、多分正しい。
僕が担当するクラスでも、例年2人くらい、そういう人が存在する。
ひとが5案もってくるところ、10案作ってきたり、そのデザインの展開力を示唆する、魅力的なアイテムを自主的に用意できる人たちで、プレゼンの時、その人が前に出てくるだけで、教室が沈黙し、その人が繰り出す作品を凝視するような時間が始まる。
専門学校を選択するということは、実力で生きていく、という意思表示であり、そのなかにはセンスや見識、その人にしか出来ない独自性といったものが含まれるだろう。5月の連休明けから始まった授業の10週間後、学生とは思えないような高度に達したり、創作上の何らかの突破口を自力で見い出す人たちに伴走することは楽しい。
ブルックナー第7交響曲の冒頭の弦のトレモロを、オーケストラの特性に応じてどう響かせるべきか、どう録音すべきか判断する作業に少し似ている。
この学校のルーフテラスからみえる明治神宮の新緑が、深い、安定したグリーンに変っていくのを見続ける3ヶ月でもある。


2008年7月


■2008年5月

5月5日。
若杉弘の指揮で、ツインマーマンのオペラ「軍人たち」をきく。
初台の新国立劇場は、開館以来、およそ2昔前のような演目に終始していて、個人的には全く関心が持てなかったが、若杉の着任で、ようやく現在の聴衆が期待するレベルに追いついたというか。

10代の頃から、個人的に関心のあるオペラはごく限られている。
アルバン・ベルクの「ヴォツエック」と「ルル」の2曲だ。
その延長上の作品といえなくもない「軍人たち」を初めて劇場できいての感想は、1965年の音楽状況やスタイルと、その基盤になったテキストとのどうしようもない時差のような、オペラという古典的なフレームの感触だろうか。
20代の頃からこの指揮者の、例えば、ヘンツエの「トリスタン」とブラームスの第1交響曲を併置するようなプログラム構成から多くの示唆を得てきた。
この日は、白い群衆が浮遊する冒頭と、最後に、不意にもう一度くりかえされる情景をみながら、演出のシンプルな象徴性に敬意を払いながらも、第3幕までの鮮やかな象徴性とは異なる質感をみせた第4幕のやや説明的な帰結に、少しだけ、とまどった。

5月6日。
連休最後の日、渋谷にある映画館で、熊坂出監督の「パーク アンド ラブホテル」をみる。
ヴィム・ヴェンダースへのオマージュのように、この時代に、ポラロイドの写真を撮り続ける銀髪の少女の挿話に始まり、ラブホテルが密集する渋谷・神泉地区を走る女性を描くパートでは、佐々木昭一郎の「東京オンザシティ」に接近するような温度をみせる。
近年の映画制作の流儀を踏まえた、例えば、ケン・ローチ他の「明日へのチケット」を思わせる、ゆるやかな3つの短編をよりあわせる形をとりながらも、1975年生まれのこの監督は、誰とも違う場所に着地する。
作品が終わった後、この作品の世界に圧倒され、しばらく映画館の座席から立ち上げれなかった。
いくつかの世代の女性たちの、美しさが際立つ映画でもある。
帰路、めずらしく渋谷のTSUTAYAに立ち寄り、主演女優のかつてのCDを探した。
2008年5月。僕は初めて、りりィの「P. S.  I love you」という曲をきき、シンガーソングライターという職業の、とてつもない奥行きを感じるとともに、この映画の、もうひとつのエピローグに相応しい曲だと思った。

5月7日。
約半年振りに、東京デザイン専門学校で通常の授業を担当する。
留学生の多いクラスを担当できることを誇りに思う。
この学校は、いろいろな文化的な背景をもつ人たちが、同じテーブルにつき、現時点で最良だと思えることを交換し合える場所だと思うから。

5月11日。
気温がやや低い日。昔の女友達とデパートの食料品売場で偶然、出会った。
いや、現にいま、この場で仲良く会話しているのだから、「昔の」というのは違うのだろう。ちょっとしたOB会か?
久しく連絡がなかったが、2ヶ月前に出産して、今日は初めての母の日なので、時間をもらって世の中を楽しんでいるらしい。
ケータイの画面で誕生したばかりのご子息の写真もみせてもらった。
「この子のために生きるの」という言葉が響いた。
夕方、飯田橋で、東京都現代美術館での川俣正/通路展のとき、一緒に土嚢を作った人が参加しているユニットの音楽をきく。
やかんの側面を蓋でこすったり、いろいろな場所からいろいろな音が立ちのぼる。終演後、近くの「カナルカフェ」で、メンバーの全員と白ワインを飲んだ。
日没を過ぎて、イルミネーションが点灯しはじめると、なぜか、カズオ・イシグロの「日の名残り」のことを思い出した。


2008年5月


■2008年4月

3月6日。
開館から1年が経過した横須賀美術館を初めて訪れ、若林奮の作品をみる。
数年前に、南新宿のギャラリーでみた最晩年のドローイングが記憶に残っていた。夜、遠景にみえる、築地の聖路加病院の、高層建築の輪郭線の上で点滅する赤い灯を凝視した2枚の作品。
闘病中でも、この作家はほぼ毎日、何かを書きとめていたようだが、この時期にしか現れない赤い線描は、自身の痛みと関係があるのかもしれない。
この美術館に作家が遺贈し、設置された大型の作品、「VALLEYS」は、金属の重い壁が両側に、双方に倒れていくようにみえる。
作家は直接言及していないが、展示された関連資料の「1989年11月18日」のドローイングのみ、日付の書き方が大きく異なっているので、当時の時代状況として、ベルリンの壁への意識が、副次的にあるのかもしれない。
屋上の白いデッキに上がると、青い海がひろがり、東京湾に入る中型の貨物船が、時計の短針の早さで進むのがみえた。

3月14日。
東京デザイン専門学校の卒業式に参加する。
非常勤講師なので2階席の片隅から、かれらを見送るだけだが、今年は式の前後に会場に流すBGMの選曲を学校側から依頼された。
映画館でスクリーンが上がる前に流れている音楽のようなものだ。
「クラシック音楽」というト書きに対して、テオ・アンゲロプロスは、アルビノーニの作品9の2のオーボエ協奏曲を選んでいる。
そういう曲でもよかったが、最終的にはマーラー第3交響曲の後半3楽章を選んだ。これは昨年、急逝したモーリス・ベジャールへのかすかなオマージュでもある。数年前のギリシャ五輪の開会式で使われたこの曲の終楽章は、作曲家が語ったという「エプシロンの車輪が停止する」と無関係ではないのだろう。
だが、就職活動を終え、卒業式の会場で久しぶりに再会した学生たちの喧噪に対して、弱音から最強音までの増減が激しいマーラーの音楽は、BGMとしては完全に無力だった。実用音楽の難しさを、明治神宮会館の調音室の窓から明るい舞台を見下ろしながら思い知った。
この日、最も印象的な音は、「起立」で立ち上がる学生たちがはねあげる椅子の音や、式の途中、泣き出した2階席の赤ちゃんの声だった。

4月6日。
横浜でスクロバチェフスキーの指揮でブルックナー第2交響曲をきく。
聖堂の床に、角度を変えながら差し込む光を見続けるような時間。
第2楽章が終わった後、よほど立ち上がって拍手しようかと思ったが、全曲の流れを壊すような気がして控えた。
向いの側の客席で、一人だけ小さな拍手を送る人がいた。

4月18日。
徳島の大塚国際美術館を初めて訪れる。
陶板に再現された複製ときいて、それまでは、タイルに焼き付けられた泰西名画のようなものをイメージしていた。
しかし、精巧に再現された展示品は、すべて原寸大だという。
出版物に収録された図版では<大きさ>が判らないのは、CDで、演奏家が望んだ音量が特定できないのと似ている。
まだオリジナルをみたことのない、フェルメールの「デルフト眺望」はイメージよりも大きなサイズの絵だったが、それ以上に、ダビンチの「最後の晩餐」の復元前と復元後のものが原寸大で、同じ空間に、一対のものとして提示されているのに興味をひかれた。
僕の関心は同時代の現代美術にあるので、サンタマリア・デレ・グラツイエは、22歳の時、ひとり旅で一度訪れただけだが、当時すでに復元作業の足場は架けられていたと思う。
80年代に時折、耳にしたブランビッラの執念ともいうべき復元事業の前後をこういう形で対比しての第一印象は、2枚の壁画がもつそれぞれの「力」である。
復元前の、24年前の僕の記憶にある壁画は、現在あらためてみると、その背景の空間の描写は、キーファーの1980年代の作品の構想に大きな影響を与えたようにみえる。そして、ここでのキリストの表情の基調は悲嘆だが、洗い出された後のイエスは、むしろ投げ出されたような、あきらめをたたえているように見えた。

2008年4月


■2008年2月

1月5日から週末は東京都現代美術館でボランティアをしている。
個人的に最も尊敬する美術家、川俣正氏の作品展が2月8日から始まったが、この美術家の場合、展覧会がオープンするまでの作品制作・設置の過程に加わるのが最も楽しい。
90年代、週末の2泊4日で、海外で展開されるこの作家のプロジェクトをルフトハンザで何度か観に行ったことがある。
例えば「椅子の回廊」の翌年、1998年にドイツ国境に近いメッスとデルメの2カ所で実施されたプロジェクトでは、バスは日に数本しかないので、約60キロ離れた距離の移動を、フランスの田舎でのタクシー料金の交渉を、東京ー成田のタクシー料金の半額から始めた記憶がある。
このプロジェクト自体は派生的ではあるが、フランスの田舎のバス停に結びつけられた木の椅子の設置に、田川のプロジェクトで一緒に作業したアシスタントが参加していたり、デルメの会場で、開館時間前、建物の側面にあるガラス窓から、天井から水平に吊るされた椅子をのぞいていると、隣接する民家から黒い犬が吠える声が響いてきたことを覚えている。

オープニングの日、東京都現代美術館のAVルームに設置された「KAWAMATAアーカイブ」で資料を整理していると、僕が初めて川俣の現場作業に加わった1997年10月12日、福岡県田川市で最初の夜、ある旅館の2階の一室で一緒に雑魚寝をした面々の全員と再会した。

2008年1月5日の初日は、1個10キロの土嚢を1500個つくる、という作業だった。3人1組で、2重にした袋に土を詰め、ひもで結わえて、別のひとが台車で運ぶ。受取った人は個数を確認しながら「正」の字を壁に書いて、ある区画に積み上げていくという作業。
旧共産圏の工場のBGMのような「働け、働け」の音楽の中でやっていると、アリの人生のようで面白かった。
文字通りの人海戦術というのか、75人の参加者の手で、土嚢はほんの数時間で完成。手際の悪い僕が制作したのは20個未満だろうが、参加者は川俣がディレクターをつとめた「横浜トリエンナーレ」以降のひとたちが大多数。ある種の世代交替というのか、若い人たちが、どういう契機でこの美術家に興味を抱いたのかにも興味がある。
美術というよりもボランティアをやりたい、という部分に比重を置いた方もいて、その場で編成された混成チームでアーカイブのスチール製の本棚を組み立てると、自分の流儀で仕切りたい人が多くて、呉越同舟を絵に描いたような歪みが出たが、これはこれで、味がある時間だと思う。

土嚢を制作しながら、若いスタッフから素敵な映画を教えてもらった。<グレン・グールドの演奏ではベートーヴェンの作品31の3つのピアノソナタを最もよく聴く。17番ではポリーニ、18番ではバレンボイムの解釈も好きだ>という加藤淳の回答に応えての彼女のお勧めは、ニコラ・フィリベールの「すべて些細な事柄」だった。
2月に入って、銀座テアトルシネマでこの作品をはじめて観る。
精神病棟の患者たちが、盛夏の時期、オペレッタを上演するまでの時間を扱う作品。電話を受ける情景や、薬を別の容器に移し替え続ける映像の果てに、人として生き続ける時間が浮かび上がってくる。ざわめく木々と、樹木から吊るした鉄板を叩いて、嵐を現出するカットが印象に残った。

数日後、ダニエル・ハーディング/東京フィルの演奏で、マーラー第6をきく。
精妙で、熟考されたマーラーのオーケストレーションのすべてが、歌い上げられ、音楽が生まれる一瞬一瞬を共有するような時間。
現在、最高水準にあるマーラー演奏。1996年、レヴァイン/VPOで第5番をきいたときも、そう思った。

本業の合間を縫って、週末は東京都現代美術館の「KAWAMATAアーカイブ」にいる。1995年のドイツ、レックリングハウゼンのプロジェクトに関連して抽象度の高い、見事なマケットが制作されていたことを知り、展示室の一角で、今回初めて公開された「フィールドワーク」の全写真をみながら、ルーズベルト島でのプロジェクトを挟む年代の1991年、モントリオールでのNo.70と1992年、NYでのNo.145に惹かれる自分がいる。
「フィールドワーク」は多くの人間と関わったプロジェクトの後、作家がひとりになりたくて、ある種の均衡を取り戻すために制作する作品のようにも見える。

2008年2月


■2007年の映画、音楽、本

映画
「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」
何の先入観もなく、この映画をみた。本谷有希子の作品は以前から気になっていたが、新聞に演劇評が掲載される時には、すでに終演間際で、みる機会がなかった。およそ類例のない作品である。
地方から自分の才能を過信して東京へ出た作中人物と、それ以後の地方との関係を書くプロットは、近年の本谷の創作の拠り所のひとつのようだが、無駄なカットがひとつもない。冒頭に出てくる猫。仏壇の横に置かれた、動かない扇風機。赤いレターヘッドの手紙の束。幾重にも変奏されるモチーフを追いながら、魅力的な4人の俳優が支えるという点で「アリゾナ・ドリーム」のことを思い出した。

音楽
マーラー第9交響曲/ギーレン指揮/ワイマール・シュターツカペレによる/
2006年8月25日の演奏(CD-R)
ギーレンの演奏には、従来の一般的な演奏様式をあらためて検証して、作品本来の基軸を浮かび上がらせるようなところがある。第3交響曲4楽章に加えられた奇妙な音色も、かれの演奏以来、こちらが主流になりつつある。きいたことのない演奏団体によるマーラー9番だが、この交響曲のイメージを完全に覆すような演奏である。鋼の硬度で始まるアンダンテ・コモド。最近のヘンスラーへの再録音では、やや後退していたギーレンの過激さや前衛性が、ここではこれ以上ないほど鮮明に開示される。

井上道義/ショスタコーヴィッチ交響曲全曲演奏会より第1、第7交響曲/
日比谷公会堂/11月10日
平均年齢15歳の千葉のオーケストラによる見事な第1の演奏の後、サンクトペテルブルク響の演奏で、この作曲家の第7交響曲を初めてきいた。標題音楽的という以上に映画音楽に接近し、当時の西側の音楽の露骨な引用など、一筋縄ではいかない長大な作品のようだが、装飾を施されながらも、本質的には無機的なこの会場に相応しい音楽のような気がした。


移動する空間で新聞を読む時間が好きだ。ときには、興味深い記事に引き込まれて、電車を降りた後も、ホームのベンチで読み続けることがある。
例えば、10月26日の朝日新聞の書評欄に掲載された巽孝之氏の、メルヴィル「白鯨」の翻訳をめぐる文章。作品冒頭の”Call me Ishmael”をどう訳すべきかという論点に惹かれ、すでに刊行されていた岩波文庫の新訳を読み始めた。

ムンク伝/スー・プリドー/木下哲夫訳/みすず書房
1980年代にドイツでみた企画展は、この画家の写真に焦点を当てるものだった。日本で10年に1度くらい開催されるムンク展も、常に最新の研究に裏打ちされたもので、従来、価値が低いとされてきた中年期の風景画を再考するものだったり、実は経済的にも成功していたこの画家とモデル兼愛人の軌跡を辿るものだったりして、興味がつきない。ムンクが生きた時代のノルウェー史を基盤にした精緻な著作であり、エリック・フィッシェルへのインタビューが記憶に残る翻訳家による日本語で読めることを嬉しく思う。

2008年1月


■2007年12月

ある個人の生きる時間には、放物線のようなところが、多分あるのだろう。
基本的には、現在直面している仕事上の課題に集中していて、落下軌道に入ったという認識はまだないが、それでも天の視点でみれば、すべては「株式会社瞬間風速」なのかもしれない。ただ、この地上に存続して、かつての自分がみたものを、現在の自分がもう一度見直すような体験は、登山者が時々、辿ってきた山道を振り返るときの気分に似ていると思う。

例えば、10代の頃、地上波のTVで一度みたことのある黒澤明の「天国と地獄」を最近、あらためて新宿の映画館のスクリーンでみて、これぞ映画というような骨太の本物感に圧倒された。企業経営の主導権を、株式の取得によって握るという物語の発端は、より今日的かもしれないし、僕の世代には、<学生寮のおばさん>のような親しいイメージの菅井きんさんが、この時代にみせた凄みも印象に残った。
そして、そこから<しりとり>のように派生的に、作品の後段、ロケ地として出てくる横浜・黄金町を初めて訪れたくなり、個人的に好きな女優、リリ・テイラーの近作「酔いどれ詩人になる前に」を、この町の映画館で上映していたので、それをみに出かけた。
ある作品をみるとき、それにふさわしい場所というものがある。この映画は、この町でみるべきだと思った。

11月から週末は、日比谷公会堂で進行中のショスタコーヴィチの交響曲の全曲演奏会という、ひじょうに野心的で、傾聴に値する企画にかよっている。
ソ連の政治体制の推移と不可分の創作環境にあった作曲家の創作を辿るのは、聴衆としては、必ずしも心地よい体験ではない部分がある。僕は、あたかも同じ色調で塗り込められたようなこの作曲家の晩年の創作、例えば、弦楽四重奏曲第15番やビオラソナタを好むが、15曲の交響曲は、1、4、5、6、9、10、14、15番しかきいたことがない。そんな状況で、この企画に立ち向かうと、初めて聴く交響曲2曲を、一晩で受けとめるのはかなりハードだが、戦争と成長の時代だった20世紀を、違う角度からもう一度、考えることを促すような企画の奥深さを感じる。
1945年3月10日未明の東京大空襲の直後、日比谷公会堂は臨時の病院となり、事実上の死体置き場だったという。そういう記憶の補助線のなかで、僕はまだきいたことのない交響曲をききはじめた。

2007年12月


■2007年10月

東京デザイン専門学校で10月に「原宿祭」という小規模だが、いわゆる学園祭のようなものがあり、その関連企画を担当している学生からデジカメを渡された。撮影のテーマは何でもいいので、写真を撮ってくれと言う。加藤淳の他には、学食の調理担当の女性や、守衛さんのような役割を兼ねる、自習室の管理人の方が参加するらしい。普段、写真とは無縁のこういう布陣なら、おもしろいものになるかもしれないと思った。
昔、日本デザインセンターでニコンを担当していた時、脚本家の橋田壽賀子氏やジェームス三木氏に、写真を1枚撮ってもらい、それに関連したエッセイをお願いしたことを思い出した。

僕自身は日常的に写真を撮る習慣がないし、カメラも持っていない。カメラではなく、自分の眼で、いまいる空間や相手をみて、その上を通り過ぎていくものを共有したり、記憶に刻み込むことが好きだ。機械モノがあまり得意ではないことも関係している。
最後にスナップを撮ったのは1995年6月のベルリンで、クリストの旧帝国議事堂を梱包するプロジェクトが実現した時だった。1970年代の冷戦期に構想された作品が、社会的な背景が激変した後、同じ場所に、形だけ立ち現れたことに戸惑いながら、日没後、コートが必要な温度になるティアガルテンに佇んだことを覚えている。

学生からの依頼なので、12年振りに写真を撮ってみることにした。ケータイでも基本的な通話機能しか使わないので、この時代でも、デジカメに触ったことがない。電源の入れ方から学生に教えてもらう。サリバン先生役の学生は、明らかに人選を間違えたかも?この人で大丈夫か?という顔なので、写真のタイトルだけは先に提出した。

<朝5時頃、黒い貨物列車が通過する。>

<イ短調で書かれたマーラーの音楽。第5交響曲2楽章に現れるコラール。第9交響曲3楽章での、浄化の示唆。しかし、それらは常に幻影として消えていく。>

<動物には信頼される。近所に棲む、ノルウェージャン・フォレスト・キャットが2度も見舞いにきた。塀の上で、白い足を垂らして、おまえの足は大丈夫かと言う。>

<9月の終わり、セミの声をきいた。ショスタコーヴィチの作品144の四重奏曲の冒頭が鳴り始める。>

言葉の挿絵のような映像ではなく、むしろやや逆のもので構成して、写真とキャプションのパネルは同サイズで一対になるもの、というのが当初のイメージだが、週刊誌に連載中の漫画を立ち読みして、「この人、来週どうするんだろう?」と思うのとなんだか、似ているような。

                       でも、生まれて初めてカメラを持った時のような時間を、楽しんでいる。

2007年10月


■2007年8月

東京では夜明け前に摂氏30度を切らない夏。
高校の修学旅行以来、30年振りに広島を訪れた。市内の主要部を結ぶ市電は健在で、カールスルーエの路面電車のような新型車両が走り、元安川、本川という2つの川が流れる市街は、リヨンとか、ヨーロッパの中規模な都市に少し似ている。原爆資料館は近年拡張されたようだが、展示は複製品が多いこともあり、平板な印象だ。石岡瑛子による「レニ・リーフェンシュタール展」のような重みと集中力のある展示構成をこの場所でみたいと思う。
1985年の夏、この場所を訪れたレナード・バーンスタインの<There are many words, but not enough action.>というかれらしい言葉があり、僕は22年前の9月8日の日曜日に東京NHKホールできいた、かれのマーラー9番の演奏のことを思い出した。

翌朝、平和式典に初めて参加し、この場所で、8月6日、朝8時15分の空をみる。多くの政治家のメッセージは儀礼的というか形式的なものだったが、2人の小学校6年生が朗読した言葉が印象に残った。
<We cannot save the people who suffered on the day, but we can save the people of the future.>
僕のかよった高校にはコンクリート製のチャペルがあった。あの正面の形状は、この慰霊碑を引用したものに違いないと思いながら、ボーイスカウトの少年から受取った一輪の赤い花を供えた。

東京に戻った後、日系2世の女性監督が撮った「TOKKO」をみる。中央に島型の艦橋を持つ米空母に特攻機が突入していく映像は西欧の人たちにとって「KAMIKAZE」のイメージの典型なのだろう。ケルン在住のイケムラ・レイコの最初期の作品に、同じ構図のタブローがあったことを思い出しながら、このドキュメンタリーをみた。
<旧式の爆撃機で出撃したが、途中で最新鋭の戦闘機コルセアと遭遇。手元の機銃には6発しか銃弾がない。被弾したが、最後にすれちがった時、向こうは発砲してこなかった。それでもう特攻なんてやる気が失せて、九州近海までどうにか辿り着き、ある小島に不時着。そのまま終戦を迎えた。>という証言からは、特攻が事実上、強制された死であり、終戦までの時間との戦いだったことが浮かび上がる。
広島への原爆投下を知り、<広島のひとには悪いが、ああ、これで自分は生き延びられる>と思ったと述懐する80歳を越えた元特攻兵の証言の後、進駐軍のトラクターで踏みつぶされる特攻機の、迷彩を施したジュラルミンの色をみながら、沸き上がってきた思いは「戦争はすべきではない」ではなく、「オレはもう2度と戦争はしない」だった。

広島の市電に乗る人々はどこか「はだしのゲン」に出てくる人たちの輪郭に似ていた。座席のより良い場所に、すかさず移動する県民性をみて、きれいごととは無縁の、文字どおり草一本生えない、何もない場所から這い上がってきた人々が見たものの凄まじさを間接的に感じた。

2007年8月


■2007年7月

TDA ご多忙のようですが?

本業のブランディングの仕事に集中しています。
今年の春から、経営者の方へのヒアリングとか、取引先や社員アンケートの調査結果を基に検討を重ねてきて、そこから導き出されたコンセプトに立脚した、基本デザインの提案を終えたところです。最終着陸体勢に入った飛行機を手動で降ろすような。例えば、「先進性」といっても、その業界のなかの現実的な枠組みのなかで、どこまでの「先進性」を目指すのか? その指標になる試案の制作に全力を注いだというか。役員の方がすべて参加した最終プレゼンは、妥当な意見も多く、おもしろかったです。

TDA プレゼンの秘訣のようなものは?

事実関係に立脚することだと思います。
何か特化した部分がある企業は、造形の基軸を見いだしやすい。あと、最近読んだ朝日新聞の日曜版の記事に、最終着陸体勢に入り、新幹線の速度にまで減速したあとは、滑走路のある一点を凝視するのではなく、全体を半ばぼーっとした状態でみていないと緊急事態に対応できないという奥義が書かれていて、デザイン業界でもそうかも?とか思ったり(笑)

TDA そういうプレゼンの後は、どうするのですか?

自分にとって、まだ消化できない、新しいものをみたりします。
この日は、アルバン・ベルクの歌劇「ルル」のツェルハが補作した第3幕のフルスコアを買ってきて、そこから出てくる音を想像したり、ある詩人の詩集の初版を古本屋で眺めて、現在文庫で入手できるものと、生前、本人が校正して、よしとした余白の違いを楽しんだり。

TDA マーラーの交響曲がお好きだとか?

生まれてはじめて買ったレコードが、カラヤン/ベルリンpのマーラー5番で、ジャケットデザインを担当したホルガー・マチスの音楽の実質をビジュアルに転化する才能とか、シリーズとしての魅力的な展開力に大きな影響を受けました。最初に自分の意思できいた演奏会も、1980年3月の若杉弘/ケルン放送響によるこの曲で、マーラー5番はある時期まで、指揮者の力量をはかる曲であったのですが、46歳になった現在、この曲をきくと、第3、第5楽章は音楽作品のクオリティとしてもうひとつだと思います。ただ、マーラーの演奏には卑俗的なものや、野卑なものが必要で、そういう解釈をする指揮者の演奏が好きです。

TDA 1学期も終わりましたが

大学全入時代に、デザイン専門学校を選ぶ学生は、本気でやりたいこともはっきりしていると思います。ダイヤモンドの原石を見逃さないこと。自分の学生の才能を信頼すること。かれらの期待に応えて、次の扉を用意することが、重要だと思っています。

TDAのヨーロッパ研修旅行も30年前のセンスのコースではなく、2007年であれば、ミュンスターやカッセルのドクメンタを組み込んだコースにするとか。多少小振りになったという声もききますが、1997年、夏のミュンスターでみた、イリヤ・カバコフの湖畔の草原に寝そべって見上げる作品や、KAWAMATAのボートの作品の印象は、いまなお鮮明です。

2007年7月


■2007年6月

TDA: 今年の学生の印象はいかがですか?

グラフィックデザイン科の複数のクラスで「CI」の授業を担当しているのですが、今年の学生はレベルが高いと思います。第1回目の課題で、すでにヘタな卒業制作を凌駕するような作品をみせられたり。最初なので、表現すべき図形の基本イメージを重視して、参考の展開案は1つでもいいと言ったのに、A3のパネル5枚で自然光や、空の色を巧みに織り込んだサイン計画の自主提案が出たり。別の専攻で大学や専門学校を卒業した後、TDAにきた人も多く、朝9時に教室に入ると、30名中29人が座っていて、本当にセンスのある人が、本気で挑んでくるような。

でも、あるクラスだけは三々五々、人が集まるというか。一応、これでも起承転結のある話をしている?つもりなのですが(笑)肝心のところになると、遅刻した学生が入ってくる。以前、JTBの社長が立教大学で講演して、途中から入ってくる学生があまりにも多いので、「おまえら会社ならクビだ!」と叫んだという挿話を思い出したり、深井先生という西洋服飾史の権威が、ある女子大で授業中の学生の化粧とか飲食にキレた、という話をきいて、オレなら、「私はフカイです。」くらいは言うよな、とか思ったり(笑)

TDA: 学生をかわいがっているそうですが?

原美術館の中庭で、学生たちと白ワインを飲むような時間は重要だと思います。最近、同館が刊行したオラファー・エリアッソンの見事なカタログでも眺めながら。
野球の野茂が、ある授賞式の後、「一度、賞金を出して終わりではなく、それ以後もなんらかの形で、その人を育てて行くことが必要だ」という趣旨の発言をしていて、自分の仕事の文脈のなかで出来ることを、少し意識しています。すばらしい写真を撮る卒業生には、撮影の仕事をお願いしたり。

TDA:映画がお好きなんですよね?

月に2本位、映画館でみます。これは17歳の頃と同じペース。「それでもボクはやっていない」は、キャスティングがよかった。かつて、田宮二郎主演の「白い巨塔」で柳原医局員を演じた高橋長英さんとか。「不当判決だ!」と法廷で叫ぶシーンでは、「いまの財前教授の発言は嘘です!」と重なってみえて、ひとりで笑っていました。
先日のフランス映画祭でみた、諏訪監督の「不完全な二人」も印象に残っています。自然光での撮影を多用した色調。20代の頃、何度となく降り立ったフランクフルト中央駅の 煤けたドームのことや、列車に乗り込む前に買う、ベックスのあまり冷えていない缶ビールの質感。そして、最後に車窓を横切っていく、青地に白抜きの駅名表示板のことを思い出しました。

TDA:音楽関係のエッセイも多いですね?

最近好きなのは、ブルックナー第2交響曲の中間の2つの楽章。スケルツオのトリオは、雨上がりの草原を駆け抜けるような音楽。この作曲家は自作への愛着が深く、最近うまくいった作曲上の解決法を初期の作品にも「改訂」という形で移植したようですが、現在の視点できくと、少なくとも初期作品である1番から4番までは第1稿による演奏がおもしろいと思います。原生林がざわめくような荒々しさとか、何かの信号のような音符とか。

TDA:最近印象に残ったことは?

学校というのは、やや過保護な感じがして。授業がうまくなる=現場での力が後退する、というような警戒が常にあります。最近印象に残ったのは、2年前に担当した学生から受取ったメールでしょうか。外資系の代理店にいる彼女は、あるタバコのパッケージデザインを担当していて、その出張校正でウィーンにいるらしいのですが、東欧の都市の郊外で印刷されたパッケージが、船でアメリカに送られ、そこでタバコを充填されて、日本へ出荷される。地球規模の商品流通のスケール感と、その一端に自分がデザインの責任者として関わることについてのコメントでした。

違う言語が飛び交う、天井の高い工場に彼女がいて、おびただしい数の校正紙から、彼女が選びとった色味の紙片が大量に貨物船に積み込まれる。厚いペイントが塗られたリベットや、貨物船の甲板の色を想像しながら、僕はこのメールを読みました。

2007年6月


■2007年5月

この冬、東京は一度も雪解けの寒さを体感しないまま春を迎え、地球の公転の軌跡が見えにくくなった。フラットになった季節感は地球自体の損傷を意味するのだろう。急成長中の発展途上国から吐き出される、濾過されていない黒煙の映像とともに僕のなかにやってくるのは、東京デザイン専門学校の学校案内に掲載された学生作品、<地球温暖化のなかで、北極に残された最後の小さな氷片の上で、とり残され、もはやどこにもいけない白クマ>の象徴性である。
この作品のメッセージは僕のなかで徐徐に広がり、日常生活で不要な電気はすぐ消すようになった。報道される世界の事件の大半は、人間の過度の「欲」が引き起こしたもののようにみえるが、そんな表層的な出来事とは無関係に、この星の内部では次元の違う深刻な事態が進んでいるのではないかと思う時がある。
日本では憲法改正議論が浮上しているが、現状では現在の政治家に、このレベルの問題を扱えるだけの見識があるとは到底思えない。プロの政治家には、単なる選挙のプロから脱却して、少なくとも5月3日の朝日新聞に掲載された社説の、多角的で現実的、かつ妥当な提言を上回るような、魅力的な政策立案能力や創造性を期待したいと思う。その上で、もう少し現実的な政策検討・実施のプライオリティがあるのではないか?

映画館を出た後、世界がほんの少し違う色調にみえることがある。5月にみた作品では「フランドル」と「バベル」が記憶に残った。ともに銃社会の野蛮さから出発し、やがて違う質感の場所に着地する作品である。「フランドル」は組織的、合法的な殺人が容認される「戦争」の実像と、それに参加した個人のなかを通り過ぎていくものを、「温度」や「気配」をキーワードに描いていく。序章では、あたかもテオ・アンゲロプロスの映画のように、農村の耕耘機が大地を切り開く映像に何かを仮託する形をとるが、中盤以降は、戦場の極限状態であばかれる人間の生々しい、根源的なものにも容赦なく踏み込む。
ドイツ映画とかフランス映画という、映画の<産地表記>は出資関係で決まることが多いが、本質的にそれを規定するのは監督の生い立ちだと思わせるのが、文化も経済も違う世界の同時刻の出来事を重ねていく「バベル」だ。作品に参加した日本人女優のアカデミーノミネートの話題が先行したが、この作品の本意は、計らずしも罪を犯すことになった人間の罪の意識や、ある原罪が辿る時間の推移と、とりあえずの帰着点を描くことにあると思う。
例えば、モロッコでライフルの飛距離を確かめるために、観光バスを標的にした少年。自分の息子の結婚式への出席を優先して、家政婦としての責任を放り出した女性。そして、東京の高層マンションのベランダで自殺した母親の死因にも深く関わるらしい聾唖の女子高生が扱われる。
地球の時差を意識しながら、場合によっては物語の帰結を先取りして進められる作品の編集センスは素晴らしい。群衆劇としてみれば、モロッコのバスツアーで「このバスを早く出すべきだ」と主張するエリツィンに似た俳優や、菊池凛子のマンションに棲む猫など脇役の強い存在感が記憶に残る。
作中人物の設定や人物の造形が類型的だという批判もあるが、僕は自分の固有の視点で、汎地球的だと思う人物を、地域に応じて振り分けたメキシコ出身の監督の力量を評価する。それは、逃走中に自分の兄が撃たれ、思わず手元の銃で警官隊に反撃する少年や、息子の結婚式の後、家政婦がみることになる、文字どおりクルマ1台通らない、とりつくものがない荒涼としたアメリカの原野の光景。そして、覚醒剤を服用した女子高生が揺れるブランコの上でみる、陶然とした、めくるめくような映像に、この地球の実像の一部が挟み込まれているような気がするからである。

2007年5月


■ロッキー・バルボア

スヴェン・ニクビストやレナート・ベルタが撮影を担当したヨーロッパ系の映画が好きだが、いわゆるハリウッド映画もみる。
1977年、僕が高校生になった頃、アメリカ映画はかなりの活況を呈していた。「タクシードライバー」「ミスターグッドバーを探して」「結婚しない女」といった作品がすぐに思い浮かぶが、そういう中で現れたのがシルベスター・スタローン脚本・主演による「ロッキー」である。
その後シリーズ化されたが、作品としていいのは第2作目までで、それ以降のものには疑問符がつく。最も印象が薄い「ロッキー5」からすでに17年が経過したということにも驚くが、2007年、「ロッキー・バルボア」という新作が公開された。「ロッキー6」ではなく「ロッキー・バルボア」という原題が示すとおり、これは第1作の30年後を描く番外の作品ともいえるが、基本的には、どこまでもアメリカ映画である。
ひとのことは言えないが、第一印象は「いつもと一緒。」ということになるだろう。デジタル・リマスターされたビル・コンティの音楽に乗って、試合に向けて主人公が身体を仕上げていくシーンは「水戸黄門」以外の何ものでもないし、脚本家スタローンが、劇中の記者会見で記者に言わせている「過去の人と未熟な選手のカネ目当ての茶番では?」というセリフがすべてを言い表しているような企画である。
だが、ボクシングの試合シーンは、これまでの蓄積がものをいい、緊迫感があるし、ラスベガスのリングサイドで試合を彩る女性たちも、40代に結婚と離婚を繰り返したスタローンの半生を反映しているようで興味深い。
シルベスター・スタローンは脚本家としてまず頭角を現した人である。息子への助言の形で出てくるアメリカ的な思想は、いまどき、こんな単純な精神論で、例えばイラク戦を継続されたら世界は困惑するに違いない内容だが、これはスタローンが敢えて狙ったものなのか?
作品の最後に出てくるクレジットタイトルの映像が印象に残った。フィラデルフィア美術館の階段を駆け上る、いろいろな国の、いろいろな年代の人々。これが、ともかくも世界中で愛されてきたこの作品の評価なのだろう。

2007年4月


■中沢啓治の漫画

小学校5年生の頃、中沢啓治の漫画が好きになった。
かれの代表作「はだしのゲン」は、現在でもいろいろな国の言葉に翻訳されて読み継がれているが、僕はその連載が始まる少し前に、「別冊少年ジャンプ」という分厚い月刊誌に掲載された「悪太郎」という読切りの短編を読んだ。格別、漫画の熱心な読者でもない僕がどうしてこの作品に出会えたのかは覚えていないが、当時の僕は足の複雑骨折で病院のベッドの上で全く動けなかった。
うだつの上がらない若い男が、脅されて、かなり理不尽な形でラーメンづくりの修行をさせられる話である。その裏に隠された真意は物語の最後になって明らかにされる。陰惨な状況のあとにある、人と人を結ぶあたたかい起伏のようなものを巧みに浮き上がらせる中沢の作風が好きになり、「少年ジャンプ」系の雑誌にときおり掲載されるこの漫画家の作品を僕はさがすようになった。
当時、「別冊少年ジャンプ」には漫画家の自伝シリーズという企画が続いていて、掲載順は忘れたが、例えば実兄のアシスタントとして出発して野球漫画で独自の作風を築いた、ちばあきおや、飯場を舞台にした作品でデビューした黒咲一人のものを読んだ記憶がある。新鋭の漫画家では星野之宣の「四次元の爆撃機」という挿話が印象に残っている。そういう時代状況のなかで、僕は中沢啓治の「おれは見た」に出会った。
個人史を普遍的なものに高めた秀作だと思った。何が本物なのかを見抜く小学生の間では、この作品の1コマ1コマが描く真意は、かなり高いレベルで共有されていたと思う。自分が生まれてくる前に、この星であった出来事を知る上で、10歳の頃、この分野から最も影響を受けたのは、この作品と、旭丘光志の「ある惑星の悲劇」だと思う。
この自伝を拡張した「はだしのゲン」は、広島の小学校の図書館にあり、8月6日には加害/被害の立場を越えて、全員が校庭で黙祷する。「東京に来るまで、東京でもそうだと思っていました」と語る因島出身の東京デザイン専門学校の学生からきいた話を、僕はときどき思い出す。

2007年4月


■諏訪敦彦の映画

諏訪敦彦の作品を初めて観たのは10年位前だ。
「2/DUO」は俳優の即興演技をモノクロで延々と撮るような作品で、観客にある種の忍耐を強いるような映画だった。しかし、作品の後段、画面を貨物列車が通過した後、何かが変わる。やわらかくひらかれた時間の感触のような、不思議な読後感を抱えて新宿の地下にある映画館の階段を上がったような記憶がある。
次に観た「H story」は、デュラスの「ヒロシマ・モナムール」をリメイクする映画制作の現場を追った作品で、さりげないものを凝視し続ける視角が印象的だった。例えば、撮影現場から主演女優が失踪する。彼女が立ち去った後の県道の白いガードレールと、その先にみえる雑草をカメラは映し続ける。こういうカメラワークからはある種の惜別が生じる。かけがえのない何かがその時点で消失したという思いが、観客のなかに、いくつもの透明な強固な壁を築き、それが作品を支える。

諏訪への興味から現在公開中の「パリ・ジュテーム」を観る。
パリを舞台に18人の監督が撮った短編をつないだオムニバスである。パリで愛をテーマに、5分間の短編を撮るという企画に新味はないが、参加した映画監督や俳優たちの多様性は実に魅力的である。どこかでみたような人が全然違う立ち位置で現れる。クレジットタイトルをみるまで、僕はこの映画にマリアンヌ・フェイスフル、ウイレム・デフォー、ナタリー・ポートマン、リュディヴィーヌ・サニエが出ていたことに気がつかなかった。
短編映画としていいのは、オーソドックスな構成だが、路上で刺された黒人の5分間の回想を描くオリヴァー・シュミッツの「お祭り広場」であり、作家性の刻印という点では「ラン・ローラ・ラン」とほぼ同じテイストで仕上げたトム・テイクヴァの「フォブール・サン・ドニ」だと思う。パリという都市での生活の断章。移民からの視点。夜の顔。同一のモチーフに対して、無限のアプローチがあり得る映画制作の楽しさをあらためて提示するような作品だ。
その中で諏訪はどういう作品を作ったか?5分という枠組みのなかで、かれは従来とは違う手法でこの作品を組み立てたらしい。象徴性が高く、ヨーロッパの伝統にも言及する意欲作だと思うが、短編映画の時間の制約が、従来、諏訪の作品を支えてきた<何かを凝視し続ける眼>の存在を許さなかったような気がした。

諏訪敦彦「ヴィクトワール広場」/「パリ・ジュテーム」に収録

2007年3月


■シューマン第2交響曲

ロベルト・シューマンの創作では第2交響曲やヴァイオリン協奏曲が好きだ。ともに精神的な病を抱えていた時期の作品だと伝えられるが、80年代にシュ二トケの作品を受容した者としては、その他の平板な作品にはあまり興味が持てない。
第2交響曲では、80年代前半のシノポリの演奏や、最近ではマーラー改訂版によるシャイーの演奏が記憶に残るが、この改訂版をマーラーの交響曲の全曲録音を達成した指揮者がとりあげるのは初めてのことだろう。
シューマンがホルンやトロンボーンにも割り当てた旋律をトランペットに一本化した冒頭からマーラーらしい。第2楽章の、ある意味で見通しのよくなった演奏をきくと、この編曲者が音楽の実質を構成する上で最も影響を受けたのが、ベートーヴェンの作品135の四重奏曲のようにきこえてきて興味がつきない。
最近、久しぶりにバーンスタインが1990年に札幌のPMFでやったこの曲の記録映像をみた。スケルツオのコーダでヴァイオリン・セクションが立ち上がって演奏するのをみて、マーラー第1交響曲の終楽章に出てくる作曲家による指示が、ひじょうに創造的な形で伝播しているようで、感動した。

2007年3月


■「埴生の宿」

「埴生の宿」という歌を久しぶりにきいた。昨年急逝した岩城宏之が東京混成合唱団を指揮したCDで、録音は1963年。格調の高い歌声である。
僕にとって「埴生の宿」は、竹山道雄原作の「ビルマの竪琴」の主題歌のようにきこえる。市川崑監督によって2度映画化されているが、僕のイメージにあるのは、中学生の頃、1970年代の半ば、帝劇でみた菊田一夫演出で、市川染五郎(現在の松本幸四郎)主演の舞台だ。
第二次大戦末期のビルマ。至近距離で敵との遭遇を察知した日本軍のある部隊は、資材や弾薬を隠す時間をかせぐため、カムフラージュの合唱を始める。すると、やがて同じ旋律が、英語の歌詞で、木々の向こうからきこえてくる。その曲が「埴生の宿」だ。
物語の終盤、戦死した者たちを弔うために僧としてビルマに残る決意を固めた主人公は、寝釈迦のなかで竪琴を弾き、戦友たちに別れの合図を送る。全員が去った後も、しばらく一人佇み、やがて何かを決意したように去っていく部隊長を演じた芦田伸介がみせた見事な「間」や、舞台に響く靴音が、この曲をきくと鮮やかに蘇ってくる。
1915年のアメリカの流行歌、現在の「全米トップ40」のような資料を辿ると、この曲が記録されている。第一次大戦に対する、当時の反戦の思いが込められているという。

岩城宏之/東京混成合唱団メモリアル・コーラス・アルバム

2007年2月


■2006年の本、音楽、美術

本:
ダニエル・リベスキンド「ブレイキング・グラウンド」
鈴木圭介訳/筑摩書房
ベルリンのユダヤ博物館や、NYの9.11.跡地の再開発計画で知られるポーランド出身の建築家による手記。社会主義国から移民としてNYに上陸した者がみる摩天楼の風景には、ある種の希望が宿るのかもしれない。光の角度に非常に鋭敏な建築家が語る世界の諸相は興味がつきない。

その他、地味だが良質な音楽書を刊行している春秋社が出したルネ・フレミングの手記や、久しぶりに復刊されたNHKで比類のないドラマを作っていた佐々木昭一郎の「創るということ」(宝島社)が記憶に残る。佐々木のヨーロッパでのロケハンの過程と、自分の眼前にある風景から、A子がやってくる瞬間。そして、それが読む者のなかで、中尾幸世の声に自然に置き換わる瞬間。僕は10代の頃、ヴィスコンティの「ベニスに死す」をみた直後、佐々木の「四季ユートピアノ」に出会ったが、マーラーの4番をモチーフに、こういう映像をとり、透明な物語を紡ぎだす作家がすでに日本にいることに衝撃を受けたことを生涯忘れない。

音楽:
クラウディオ・アバド指揮/ルツェルン祝祭管弦楽団
マーラー第6交響曲 10月13日 サントリーホール
みるみる岸から引き離され、荒れ狂う沖に出たような音楽のうねりの中で、最初に感じたのは、この指揮者の執念だろうか。1972年夏のザルツブルク音楽祭で演奏して以来、この作品に対する格段のこだわりと、癌との闘病後、新たに見いだした地平がせめぎ合い、そこには80年代前半のアバドの表現主義的な指向も合流してくる。
第2楽章は予想どおり、アンダンテ・モデラート。現在のアバドは中間2楽章の順序を完全に入れ替え、曲全体の稜線の設計を変えたようだが、それに続く第3楽章、スケルツォの並外れた演奏は、この楽章配置の正当性を主張するのに十分である。大音量の、精緻で豊穣な音。最高水準をいく音楽家たちで編成されたオーケストラが技術的に全く破綻がないのは当然とはいえ、作品の演奏コンセプトや深い陰影が高い次元で共有されているのは、この演奏団体ならではのものだろう。
終楽章が扱うのは、ある個人が生きる時間の総量であり、それは最後に大きな弧を描いて回帰してくる。
人生の絶頂期の輝きと、冷徹な終末の質感。アバドはそれをこれ以上は考えられない適切さで描き分け、普遍的な凄みのある、美しい音楽に到達した。最後の音が消えた後、演奏会場は静まりかえり、しばらく誰も拍手ができなかった。

美術:
川俣 正「コールマイン田川1996−2006」
炭坑の記憶が残る町で、その年ごとに、その時できることを継続してきた川俣正のプロジェクトの最終章。3月にプロジェクト・サイトを再訪すると、すべての構築物が撤去され、更地に戻っていた。炭坑町は、人が集まり、学校や病院など必要なものが築かれていく、それ自体が大きなインスタレーションのようなものだと語る美術家は、最後には、閉山になり、すべてのものが消えていくことをここで再提示しているのかと思いながら、僕は、隣接する野球場で行われている練習試合と、その向こうにみえる田川の山の稜線をずっと見続けた。最初の年、自分が最も尊敬する美術家とトラックに乗り、一緒に「山賊鍋」の店を探したり、板に2Bの鉛筆で切断する寸法をかきつけた田川の作業現場の時間が逆流してくる。この場所での10年は、僕にとっては、生涯に何度もないような、素晴らしい10年間だった。

2007年1月


■東京デザイン専門学校

20代の頃、山の手線に乗ると、原宿の少し手前でレコード針の 「ナガオカ」や「ティナラッツ」という看板とともに、 「東京デザイン専門学校」という銀色の切り文字がみえた。 それから20年後、僕はこの学校で週に1度くらい、「CI」の 授業を担当することになり、かつて車窓からみえたあの建物が 「2号館」であり、「本部」からその建物に向って原宿/千駄ヶ谷の 住宅地の細い路地を歩くと、正面に、NYの摩天楼を臆面もなく 模したようなNTTドコモ本社ビルが映画的な構図で立ち現れることも わかった。 学校とは基本的に平和な場所である。張りつめた緊張感と、 プレゼン直前の戦場のような現場から学校に戻ってくると、 つくづく学校は平和だと思う。 僕は学生向けに噛み砕いたような課題ではなく、少し前に 自分自身が向き合った<実戦の課題>を基に、かれらと、別の 登攀路をさがすような時間が好きだ。それは言い換えれば <CIツリーをつくる>などという80年代的な方法論から脱却して、 いま実際に起こり得る<ブランディングの課題>に対しての対応力や、 即応力をそれぞれの個性をベースにして身につけてもらうということである。 最短距離で、正しい情報やイメージを効果的、効率的に 伝えるというデザインの本質とともに、現時点では例えば、 Macでつくったデザインデータを、多くのクライアントが共有する ウインドウズ系のパソコン環境に応じて、負担なく正確に届けることや、 多国籍の、言葉や文化が違うクリエーターが同じテーブルを囲み、 お互いを尊重しながら共同作業を楽しく継続すること。 そして、とりあえずの共通語、英語で自分の作品意図を説明できることが 重要だと思う。 学生たちは極めて優秀だ。昨年担当した学生のなかには、在学中の インターンシップで参加した外資系の広告代理店のデザイン部門で、 あるタバコの限定パッケージが採用され、それを機に同社の契約社員になり、 半年後、実力でそのブランドの実質的なディレクターになった素敵な、 美しい女性がいる。(彼女はこの学校に入る直前、新宿のホテルで電話の オペレーターをしていた) また、ハードロック系のギタリスト志望で、デザインも好きだが、 音楽活動も継続したいという学生もいて、彼は現在、デザインと音楽を 両立させる方法論を模索中のようだが、この8月、彼がデザインした 大阪の住宅メーカーの大型サインボードがJR山の手線、渋谷駅に 不意に立ち現れたのには驚いた。客観的にみて、センスのいい広告作品だった。 僕は、自分の目の前のハードルを自力で乗り越え、自分の考え方に 極めて近いものを現出させていく、かれらをいつも誇りに思っている。

2006年10月


■川俣 正/ワークインプログレス豊田

夏の高校野球の地区予選の結果が新聞に小さく載る時期、 僕は自分の出身とは関係のない福岡県の欄をみる。 筑豊エリアの学校名を上段に見いだすとなぜか少し嬉しい。 ときどき掲載される海外の炭坑関係の記事や、旧産炭地の訴訟問題にも 自然に目が向く。美術家・川俣正が福岡県田川市で継続している プロジェクトに参加して10年。「コールマイン田川」から派生した 支流は僕のなかで無数の水路をつくっている。 田川や、ドイツのレックリングハウゼン、アルザス国境に近い メッスなどは川俣のプロジェクトがなければ、一生訪れることもなかった 場所かもしれないが、豊田だけは少し違う。1999年に豊田市美術館で 開始されたプロジェクトに僕が強い関心を持つのは、国内で体感できる 最新の川俣作品という以上に、豊田が唯一、それ以前に自分が知っていた 町であることが関係している。 1984年に僕は京橋の画廊で初めて川俣の作品をみている。 その時期、僕はトヨタ自動車の海外宣伝の仕事を担当していて、 銀座にある日本デザインセンターと豊田市のスタジオを頻繁に往復して いたが、当時の豊田市は現代美術とはおよそ無縁の町で、 あの美術家のプロジェクトが豊田で実現するなどということは 到底考えられなかった。 撮影のない休日は、先輩のカメラマンが好きなゴルフ練習場に 半ば強制的に連れていかれたが、この分野に興味のない僕は みるものもなく、近くを流れる夏の矢作川をみていたことを覚えている。 20年前にみた、あの水面の色が僕の豊田の原風景なのかもしれない。

「ワークインプログレス豊田」は2000年と2004年の実作業の後、 しばらく放置された形になっているが、これは主催する美術館側の 継続的な予算確保などの問題よりも、美術家がとりあえず毎年作業を 行い、サイトを構築物でつないでいくという従来のワークインプログレス型の 方法論とは別のものを、この場所では選択した結果のようにみえる。 当初、このプロジェクトは自動車産業の拠点である豊田市の沿革を どこかで照射するような作品が想像されたが、2006年の現在、 そうした一般的な予想からプロジェクトは大きく逸れているし、 結果的に設置された作品も即物的なものである。  川俣は以前、広島で作品制作を行った際、誰もが思いつくモチーフや 問題意識とはおよそ無縁の、郊外の新興住宅地にプレハブの物置を 点在させたが、あの突き放し方に似ているのかもしれない。 「プレハブリケーション広島」は10年後の現在、記録写真を辿ると、 被爆直後の都市の陰画のようにも、従来とは異質なものを礎にした、 例えばアメリカ文化を接合した敗戦国の再生の物語のようにもみえ、 この美術家の力量をあらためて感じさせる仕事である。  現代美術やそれに関連するワークショップが普及し、大学が主催する 美術プロジェクトが類型化したり、特定のアート関係者が企画する プロジェクトの方法論が、あまりにも標準的なパッケージ商品と 化して鮮度を失うなかで、この豊田の試みは、予定調和的なものを嫌う 川俣らしい、別の方向性の模索なのかもしれない。 「ワークインプログレス豊田」が一言では説明しにくいプロジェクトに なりつつあるところに、新しい価値の萌芽を感じる。 そして、新聞の求人欄に、定期的に大きく掲載されるトヨタ自動車の 期間従業員募集の広告をみると、僕はいつもあの夏のことや、 それ以降、自分が出会った豊田のひとのことを思い出す。

2006年9月


■「審判」

久しぶりに芝居を、舞台をみようと思った。 僕は映画は映画館でみる主義で、よく足を運ぶが、 舞台をみることは稀で、近年では「早春スケッチブック」を TVでみた後、山崎努さんをパルコ劇場に観に行った位しか記憶にない。 大滝秀治さんを一度みたいと思った。劇団民芸による「審判」。 僕が京都で行きつけの居酒屋の壁には、<もう駄目だと思ったり、 まだ出来ると思ったり。大滝秀治>という素敵な色紙がある。 高校生の時にみた「八甲田山」の参謀の現在をみたかったこともある。 初めて訪れた新宿の劇場で1週間前に電話予約しておいた チケットを受け取り、席についた。開演前のオーケストラ・ピットの ような弱いオレンジの灯が消えて、一瞬、闇になり、開演。 東京裁判をモチーフにした厳粛な作品が始まる。作品冒頭の 重要な設定を把握しようと僕は舞台に集中した。 と、舞台では俳優がセリフをしゃべっているのに、開演後も 観客が何人も入ってくる。劇場係の懐中電灯に照らされて。 後列にいる僕の奥の席に着席したいのか、その度に僕は席を立たねば ならない。 クラシックのコンサートでこんなことはありえない。 開演に遅れた客は、次の楽章の切れ目までロビーで待つのが常識だし、 入れたとしても自分の席にはたどりつけず、入口のドアの横の壁の前で 立ったまま聴くことが普通だ。 3組目の客が僕の前を横切った直後、さすがに切れた。 開演から5分後、僕は敢然と席を立った。懐中電灯を持っている 女性の案内係について外に出た。「責任者の方はいますか? なぜ開演した後も客を入れるのか?」あまりの怒りで自分の声が 震えているのがわかった。 (舞台の俳優に失礼という以上に、自分のスケジュールを管理し、 ちゃんと開演前に席についている客に対して失礼だ! いつもこんな緊張感のない公演をしているのか、三流劇場!) 言いたいことは山ほどあったが、その全てを飲み込んで、 僕は責任者をみた。 事務的に「申し訳ありません」という責任者には、作品上演の質とか 環境などよりも、ただ、より多くの客が入りさえすればいいという 態度が透けてみえて、僕は心底、腹が立った。 僕はそいつの前で、いま6300円で買ったばかりのチケットを破り捨て、 劇場から出た。金をドブに捨てたとはこのことだろう。 僕は12年振りに怒ったような気がした。

新宿・紀伊國屋サザンシアター


■2006/5/15 佐藤秀峰「特攻の島」

小学校高学年の頃、第二次世界大戦の戦記を集中して読んだ 時期がある。当時、熱中していたプラモデル製作のサブ・テキスト という側面もあったが、ともかく、この時期に戦争についての文献を かなりの量、読み込んだことが、現在の首相の靖国参拝や憲法の改正に 簡単には賛成できない自分につながっているような気がする。    僕は日常的に漫画を読む習慣はないが、時には、偶然目にした 作品の異様な凄みに引きつけられることがある。 この作者による「ブラック・ジャックによろしく」の第1回の 緊迫感は記憶に新しいが、佐藤秀峰が最新作で扱うのは、大戦末期の 人間魚雷「回天」である。  僕が小学校時代に得た、「回天」についての知識。 <93式酸素魚雷を改造した、1人乗りの特攻兵器であること> <2人の青年将校により発案され、一人は訓練中の事故で殉職。 もう一人はパラオで散ったこと><瀬戸内海、大津島に基地があり、 その遺構は戦跡として戦後も残っていたこと>。 人間爆弾「桜花」とともに、「回天」は一度発進したら二度と 生還できないという非情な事実が放つ、鉛色のような記憶が 自分の記憶の底にまだ残っていることを再確認しながら、 僕はこの作品を読んだ。  「漫画界騒然!」という単行本帯のコピーは嘘ではない。 衝撃的な内容の作品であり、作家の資質と物語のモチーフが 見事に結びついた希有な例だと思う。例えば、訓練中に事故を 起こし、後に引き揚げられた「回天」の内壁に、酸素がなくなるまで 書き続けられたという搭乗員の遺書が、異様な凄みで立ち現れる。 「回天」に懐疑的な人物や、般若のような形相の指揮官など 脇を固める人物設定にも抜かりがない。また自らの名前を表紙に クレジットした編集者の強い意欲が垣間みられる作品でもある。  作品の構想は、おそらく大津島からパラオまでの出来事を連ねて いくことだと推察されるが、作品が発信するメッセージの多義性は すでに明瞭である。狂気の沙汰なのか?否応なく強制された行為なのか、 あるいはそれ以外か?  けたたましい轟音がする、暗闇のパイプの中のような場所に 閉じ込められ、確実に死に向う時間のなかで、複雑に入り組み、 揺れ動く人間の生々しい深層に、われわれは、おそらく初めて 踏み込むことになる。

佐藤秀峰「特攻の島 1」  芳文社


■2006/4/11 「ナレーション」

先日、僕はあるTVCMのナレーションを担当した。 加藤淳の日本語の発音が悪いのには定評があり、産んで育てた 実の母でさえ、よくわからないことが多々あるという。 そういう人にナレーションを頼む方も頼む方だが、受けた方としては、 いままでに参加した数本のラジオCMの経験を前面に集中して、 真剣にやるしかない。  CMのナレーションというのは、ほぼ出来上がった映像の動きに 合わせて、指定された言葉を入れていく作業で、目の前のスクリーンに 映るラッシュをみながら、オーケストラが映画音楽をつけていく作業に 似ている。簡単にいうと、絵が出ているうちに、その内容をしゃべり切る 紙芝居のようなものだ。  1時間半ほどかけて、30秒と15秒のCMのナレーションを入れた。 プレイバックを録音ブースでききながら、同席しているスポンサー企業の 意見も集約して、的確な指示を出すディレクターに従って、客観的に 言葉を補正していく。謙虚さと意欲が常に必要だ。  この日、収録はどうにか無事終わり、写メールで記念撮影までして、 スポンサー企業の担当者はよろこんで大阪へ帰っていった。 仕事が終った後、僕は必ず、「編集してみて何か足りないものがあれば、 いつでも来ます」と言うが、これは作品に参加した者として最低限の 責任だと思う。  しかし、その翌朝、ホントにプロデューサーから電話があろうとは! 試写をみた社長から「雰囲気はいいが、台本を知らない人には 何を言っているのかわからない」という至極もっともな意見が出たらしい。 スポンサーの担当者は24時間内に東京と大阪を2往復することになった。  僕は最近読み始めたルネ・フレミングの手記に出てくる言葉を 思い出しながら、再びナレーションのブースに入った。 <最も厳しい批評は、本気で扱われることになったことの証拠。>    技術スタッフの高度な技術に助けられて、収録は何とかなった。 2日目になると、さすがにいま吹き込んだ自分の声やセリフを 客観的にみる視点が生まれてくる。素人とはいえ、こういう仕事に 参加する以上、最低限の技術力を整えること。そして、いつもの謙虚さと 意欲を越えて、ときにはある種の「野心」が必要なことを 僕はこの経験を通じて思い知った。

2006年4月10日 電通関西支社+サン・アド制作のあるCM


■2006/3/6 「時効警察」

「音大の教授の役で、1カットだけTVドラマに出演を」という 話がきた。1年3ヶ月以上、TVのない生活なので、実際のところ、 テレビ朝日の「時効警察」がどんなテイストの作品なのかは よくわからないが、ネットの書き込みを辿ると、ひじょうに凝った キャスティングをする、なかなか面白いドラマらしい。  音楽大学の教授のイメージも、トーマス・マンの後期の長編小説 「ファウスト博士」に出てくる、主人公にベートーヴェンのピアノ ソナタop.111の解釈を、たどたどしい口調だが、本質を突く形で 伝える作中人物位しか思いつかない。とにかく、物語では現代の ピアノ曲がキーになるというので、たった一言のセリフのために、 <世界的に著名な日本の作曲家>というドラマの設定に沿って、 武満徹の「雨の樹 素描」のスコアを買ってきて、収録の直前まで 眺めた。  初めて参加したドラマをつくる現場はおもしろかった。 凝った学芸会のようだった、などと言っては失礼かもしれないが、 楽しそうに、背景に写るガラス窓のくもりをふき続けたり、 ほこりだらけの黒幕を床に広げてライティングの調整をする 若いスタッフをみていると、僕はある時代の白井美穂のペインティング のことを思い出した。  ドラマの場合、脚本自体がひとつの作品であり、ともかくこの 起伏を忠実になぞることで物語が実像を結ぶ、という考えは多分、 正しいのだろう。そう思って僕は最初のテイクでは与えられたセリフを そのまま口にしたが、なにせ素人なので、ベタな田舎芝居そのものである。 お恥ずかしい限りとしかいいようがない。カメラと多数のスタッフに 囲まれたこういう場で平然と演じきる、俳優とはあらためて 凄い商売だと思う。  次のテイクでは、いつもの加藤淳で、例えば学生のデザイン作品を みる時の感じでやろうと思っていたら、さっきのが意外にも 一発OKになってしまった。大丈夫か?相手役は細面の日本的な 雰囲気の女優の方だった。なんだか自民党の幹事長と、三保の松原の 天女が会話しているような珍妙なものになったのではないか? OAをみるのが、少し怖い。

テレビ朝日「時効警察」最終回 3月10日OA


■2006/2/21 アバドのマーラー第6交響曲

1970年代、クラウディオ・アバドは将来を最も嘱望される指揮者だった。 DGに録音されたベルディの歌劇、「シモン・ボッカネグラ」の 海のにおいのする序曲や、マーラー第3交響曲、終楽章の最後の音が 消えた後の残響が思い浮かぶが、個人的には1972年の夏、 ザルツブルク音楽祭で演奏されたウィーンフィルとのマーラー第6交響曲 こそ、かれの最上の成果だと思っている。  ベルリンフィルの音楽監督に就任した後、1990年代の、 おそらくは多忙からくる低迷。そして癌との闘病。それでも70歳を越えた 現在のアバドによる、最新のマーラー第6交響曲のライブ録音への 期待は膨らむ。  薄い雲の向こうにある太陽の位置を推し量るような音楽。 予想に反して、ライトで若々しい響きがする。作品の基調である 何かを突き崩す、暗黒の推進力よりも、例えば終楽章のハンマーの打刻の 直前に出てくる何気ないパッセージが、陽春の街路樹の新緑を 見上げた時のような、すきとおった一瞬として、記憶に残る。  晩年のアバドは初めて第2楽章にアンダンテ・モデラート、 第3楽章はスケルッオという通常の版とは逆の楽章配置を採用していて、 これは奇しくも現ベルリンフィルの音楽監督と同じ選択だが、 マーラーについては比較的オーソドックスなアプローチを堅持してきた かれが、いまになって作品の構造を変えるような試みに取り組むことが、 ひじょうに興味深い。  悲劇の前の、現世の暮らしの最後の音としてきいてきた アンダンテ・モデラートが2楽章に押し上げられることで、時折、 通りすぎる雲が影を落とすが、まずは平穏な日常を描く1、2楽章と、 それ以降、急速に現世から下降していく第3、第4楽章との対比が あらわになり、この演奏自体もその転回点で頂点を築いている。
Claudio Abbado/BPO MAHLER sym.6 ユニバーサル/DG /span>


■2006/2/13 「ブラック・ジャック マガジン」/秋田書店

手塚治虫の「ブラック・ジャック」を初めて読んだのは、 高校時代で、1977年頃だった。薄いブルーだったかオレンジの ざら紙に印刷された「勘当息子」というエピソードを 床屋の待合室で読んだことを覚えている。  当時はこの作品の真意を見抜けなかったが、自分が40代になって 判ったこと。「勘当息子」でブラック・ジャックは何故タダで手術を したのか?それは実家を勘当され、(「勘当」という日本語はまだ 存続しているだろうか?)医者になったばかりの若者が、 <僕は母の病気を直そうと思って、医者になった>と語ったからだ。 この作品の主人公、間黒男が医者を目指したのも、潜在的には 共通の動機からだろう。自ら手をかすことを決めた瞬間の ブラック・ジャックの表情の奥行き。深い部分で、常にあたたかい温度を 持つこの輪郭は手塚にしか描けない。個人的に好きな「肩書き」という 挿話の、映画的な最後のひとコマを時々読み返して、そう思ってきた。  そのブラック・ジャックのコンピレーションというのか トリビュート?が出たので読んでみた。現在、第一線で活躍中の 漫画家がそれぞれの作風で「ブラック・ジャック」を描くという企画である。  こういう試みが成立するのも作中のキャラクターの造形が きわめてはっきりしているからで、余談だが1970年代には 「ブラック・ジャック」と「ゴルゴ13」というそれぞれの分野で 成功率99パーセント。作品の成否を決めるのは、そこに至までの 状況設定次第という2作品が存在したことは、時代様式として 興味深いと思う。  「ブラック・ジャック」のオムニバスには、手塚の原作を絵だけ 変えて忠実になぞるものや、現代の問題意識、例えば自衛隊のイラク派遣を 巧みに絡めるものなどがあって興味がつきないが、個人的に 最も心を動かされたのは大舞キリコによる「闇の中の目撃者」である。  この作品は、新幹線ホームの爆発事件で失明した唯一の目撃者を ブラック・ジャックの手術で10分間だけ視力を蘇らせ、その間に 犯人を特定するという物語だが、大舞キリコは映画的な視点で 豊かな肉付けを行い、作品により強い説得力を与えている。  手塚の原作がいちばん描きたかった部分、一度失明した人間が 警察の捜査に協力して束の間の視力を得るが、彼女が本当にみたかったものは 何なのか?という部分に肉薄する作品だと思う。


■2006/1/15 「男たちの大和」

反町、中村という2人の主演俳優の役者魂が作品を牽引し、
2時間以上の映像を一気にみせる。緊迫した戦闘シーンのリアリティは
「プライベート・ライアン」以降、映画が歴史的事実を直視し、
現代の観客にありのまま突きつける手法の延長上にある。
開戦当初、航空機の攻撃に対して戦艦がいかに無力であるかを
実証してみせた国が、最後には同じ末路を辿ることになるアイロニーと、
それでも出港せざるを得なかった当時の状況を作品は比較的丁寧に描く。
防護壁がない特設機銃座での対空戦闘の現場の悲惨。
負傷兵が運びこまれた手術室が次の瞬間には吹き飛ばされるような、
戦闘艦の内部では容赦ない出来事が連続する。
文字で書かれた記憶を、生存者の証言をもとに肉付し、
誰もが初めて眼にするが、おそらくそうであったに違いない光景を
現出させた映画芸術の凄みに対する賞賛は、昨年公開された
「ヒトラー最後の12日間」と共通するものだろう。
 ただ、こうした優れた状況描写に対して、物語進行の語り部となる、
生き残った者の現在を扱うパートはありきたりで、ことに終盤、
冗長で通俗的な「角川映画」に墜ちていくのが惜しい。

■2006/1/8 AEON 2005

久しぶりにAEONのCMに参加した。最終編集では多分1秒位の場面への
特別出演?である。蒲田の近くにある大地主の家が「加藤淳の家」の
ロケ地だった。土地など買う趣味はもともとないが、僕が生涯かかっても
到達できそうにない和風のお屋敷で、埼玉や茨城の郊外にでもありそうな
スケール感。
 その家の松の木に、脚立に上ってイルミネーションをつける作業をする
加藤淳、というのが今回の役どころ。まるで冬の花さかジジイのような
役であるが、あの映画的な深みのある、美しい映像を撮る監督からの
指名を僕は誇りに思う。
 高いところはあまり得意ではないが、これだけの機材と経費を投入した
大規模なロケ。しかも、脚立の上には撮影機材を調整する間、
加藤淳の代役の方がすでに1時間以上も座っていてくださる。
 おそるおそる脚立を上り、足場を確保した。小学校の運動会の球入れの
ような竹のかごから雪が振りまかれる。「あ、雪だ」と言ってくださいと
言われるが、例によって「あ、雪ですねえ」みたいな字余りで、
しまりのない言葉になってしまう。視線を降ってくる雪の方に向ける、
というのがこのカットの重要なポイントらしい。
 最初のテイクでは初雪に出会ったよろこびを実に恥ずかしい演技で、
2回目は、イルミネーション取り付け作業中、降ってきた雪に対して、
やや疎ましい感じで空を見上げたが、最終編集ではどちらが採用された
だろうか?
 まったくの余談だが、2回目の時、僕は「スターウォーズ/帝国の逆襲」
で、ランド・カルリシアンが、宇宙の自分の別荘にやってくる、
ルーク・スカイウォーカーとはいったいどいつだ?という表情で、
煙ごしに眼をこらすシーンを思い浮かべていた。
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